刺さったままの刺の数。
夢見る頃を過ぎても −第二章−
0.序章
自分が自分でなかったならば。
こんなにも傷つけずにすんだだろうか。
でも。
それでも、死ぬほど愛しいその名前。
その名前を呼んで、愛しい一時の夢を紡ぐことができるのなら、もうこの先、何も望まないから。
永遠に、一人で構わないから────。
* *
そっと指を伸ばして、楊ゼンは癖のない黒髪に触れた。すると、少しだけ呂望は身じろぎする。
呼吸は既に落ち着いていたが、気だるそうに彼は枕に顔を埋めていた。
───何もかも忘れて目覚めてから、まだ十日足らず。
なのに、どうして奔流に流されるように、こんなにも彼に惹かれたのか、自分でも分からない。
自分が記憶を失う以前も、呂望に惹かれていたのは間違いないと思う。
その感情がどこかに残っていたのか、それとも、太乙真人が言ったように、何度出会っても必ず惹かれる相手だということなのか。
自分のことなのに、自分の感情の出所が分からない。
そして。
彼が何を考えているのかも。
「………呂望」
考えながら、楊ゼンは名を呼ぶ。
「僕があなたを抱いたのは、これが初めてじゃありませんね?」
その言葉に、ぴくりと呂望の華奢な肩が反応した。
そして。
ゆっくりと気だるげに、頭を動かして楊ゼンを見上げる。
非難する視線ではない。
むしろ、気付かれたくなかったことに気付かれたと言いたげな哀しさが、その大きな瞳には浮かんでいた。
そんな呂望に、楊ゼンはすまなさげに微笑する。
───相手の経験の有無は、抱けば大概分かるものだ。
そして。
呂望は明らかに経験があり、しかも……自分の癖を知っていた。
よほどの好き者か、その手の商売に身を落としていない限り、普通、初めて接する相手には誰でも戸惑いを見せる。人それぞれに癖があるのは当たり前のことで、繰り返し肌を合わせるうちに互いの癖を覚えていくのだ。
だが、呂望は愛戯に戸惑い、ひどくためらいを見せたものの、それは楊ゼンの手順や癖に対してのものではなかった。おそらく、心の裡にある何かと、長期間、肌の触れ合いがなかったことが、彼を戸惑わせたのだろう。
経験はあっても、近い過去には肌の触れ合いがなかったことも、最初のうちのまるで処女のような緊張の仕方と、途中から愛撫にひどく過敏に反応し始めた躰のアンバランス加減から感じ取れた。
そして、分かったのは。
かなり以前に、自分が呂望と関係を持っていたということ。
それも、かなり深く。
彼が自分の癖を覚えこむくらいに。
……でも。
「別に、昔のことはどうでもいいんです。覚えてないことですから」
まったく気にならないと言えば、嘘になる。
それでも、本気を込めて告げる。
過去を失くした自分には、今しかないから。
今の自分の中にある、わずかな真実を紡ぐしかない。
だから。
「あなたは今、僕を好きですか?」
そう尋ねると。
呂望は軽く目をみはり、そして切なげな表情になって。
細い手を伸ばし、流れ落ちている長い髪にそっと触れてくる。
そして、泣きたいような色の瞳で、楊ゼンの目を見つめてから。
「………おぬしを嫌ったことなど、一度もないよ…」
小さくささやいた。
「呂望」
これまでに何度か聞いた、その言葉の本当の意味。
それを知って、ひどく胸が切なくなる。
愛しさにまかせて華奢な躰を強く抱きしめれば。
細い腕が、背を抱き返してくれる。
まるで、すがりつくように。
声にならない想いを伝えようとするかのように。
───その温もりに嘘などなかったから。
だから。
聞けなかった。
かつて想い合っていたのなら……そして、今でも想っていてくれるのなら、どうして自分たちは離れなければならなかったのかと。
触れ合った肌から伝わってくるあなたの心は、何故そんなにも慟哭しているのかと。
どれほど訊きたいと思っても。
涙を見せずに哭いている想い人には。
心ごと小さな躰を強く抱きしめてやる以外。
何をすることも、言うことも、できなかった────。
....To be continued
お久しぶりの『夢見る頃を過ぎても』です。
何だかこのところ更新予定が狂いまくりで、この第2章・序章もアップが大幅に遅れてしまいました。待っていてくださった方々には本当に申し訳ありません。
第2章に入って、ストーリーはどんどんシリアス度を増してしていきますが、良かったら皆様、ついてきてやって下さいね〜m(_ _)m
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