刺さったままの刺の数。
夢見る頃を過ぎても −第二章−
1.春雷
今日は風があった。
桃花の花片が、春風に吹かれて一面に舞い散っている。
既に花が半分以上散った梢には、早くも新芽が葉を広げつつあり、桃花林は半ば萌黄色に染まりかけていた。
そして足元を見れば、薄雪のように降る花片が、渓流のいたるところに薄紅のしがらみを造っている。
そんな美しい光景を、太公望は一人で見つめていた。
今、傍に楊ゼンはいない。
読書中だった彼に散歩に行くと声をかけた時、当然、一緒に行くと彼は言ったのだが、太公望が止めたのだ。
だから、おそらく今も、楊ゼンは庵の庭の連翹の花影で書物を読んでいることだろう。
書庫の奥から彼が探し出してきたその書物は、夏王朝時代の政治思想に関するもので、博学な彼にとっても面白い内容であるらしく、朝からずっと集中していた。
───その書物がかつて、太公望が彼に頼んで捜してきてもらったものだということには気付きもせずに。
立てた片膝に軽く頬杖をついて、彼は生真面目な表情で一心に文字を追っていた。
その横顔を見ているうちに。
何故か、ひどくたまらない気分になったのだ。
たとえば。
彼が、昔とまったく変わらぬ様子で書物を読んでいることや。
その書物が、かつて彼の手を経て自分にもたらされたものであることが。
そして、何よりも。
彼が、あの頃のように傍らに存在することが。
不意に耐え切れなくなった。
胸が、どうしようもないほどにざわめいて。
何もかもが、ひどく辛くて。
それ以上、そこに居られなかった。
間違いなく、それは自分が望んだことだというのに。
込み上げた息苦しさに耐え切れなくなり、散歩に行くと称してその場を離れ、ここへ来たのだ。
「───…」
それから既に小一時間が過ぎようというのに、まだ治まらない、やりきれない胸の痛みに太公望は唇を噛みしめ、風にさらわれた花片が雪のように舞い散るのを見つめる。
───ひたすらにはかない、美しい風景。
はらはらと散る薄紅の雪を見ながら、一体何度、春を越えたのか。
初めてこの美しい風景を見つけたのは、もう二十年以上も昔のこと。
今でも昨日のように思い出せるあの日。
自分の霊獣だった四不象の背中に載って飛んでいる最中、この桃花林を見つけた。
上空から見た桃花林は、うっすらと萌黄色に染まった落葉樹林の中、まるで薄紅の花束のように見えて。
その華やかさに誘われて、地上に降りて改めて見れば、そこには声を失うほど美しい光景が在った。
渓流の両岸を一面に染める、満開の桃花。
薄碧の水晶のように輝く清流。
萌黄色の若葉を伸ばしつつある雑木林。
梢をせわしなく飛び交い、にぎやかにさえずる小鳥たち。
すべてが鮮やかに優しく、完璧な調和を成していて。
こんな美しい景色が、世界にはあったのだと。
人の世に何が在ろうと、この大地は豊かに美しいのだと。
思わず、見つめていた瞳から涙が零れ落ちた。
傍らに居た四不象は、そのことに気付いていただろうが、見て見ぬふりをしてくれた。
忠実な霊獣は、最も昔から、最も近くで自分の歩みを見ていたから、おそらく、その涙がどういう意味のものだったのか、分かってくれていたのだろう。
それから数年が過ぎて。
すべてが終わり、永遠にも等しい時をただ生き続けるしかない己の宿命を悟った時。
この土地を思い出したのだ。
ここしかない、と。
これまで自分とは何の関わりもなかった、この美しい土地だけが、永遠という業を背負った自分を受け止めてくれるだろうと。
おそらくそれは、ただの思い込みでしかなかっただろう。
けれど、行くべき場所も帰るべき場所も失った自分にとって、呼吸することが許されるような処は他になかった。
自分という存在を──この身に負った業を許されたかったわけではない。
ただ、生き続けなければならなかったから。
この土地を選んだ。
そして、何もかもを捨てて抜け殻となり、身一つでここに庵を結んで二十年。
その間に、ここを訪ねて来た者は片手でも余る。
人との関わりを避けたくて隠遁したのだから、かつての知人友人もあえて来訪しようとはしなかった。
例外は、たった二人だけ。
時々、思い出したように仙桃を届けてくれて、他愛ない笑い話や、少しだけ耳に痛い話を聞かせてくれる、十二仙の生き残りと。
春になるたびに──桃花が満開になるたびに尋ねてくる、かつての右腕であり、それ以上の存在でもあった青年と。
その二人だけが、自分の客だった。
彼らが訪れる時以外は、いつでも一人でゆっくりと月日を過ごした。
寂しさを感じなかったわけではない。
それ以前の二十年近い戦いの日々は常に身近に誰かがいたし、完全な孤独というのは、家族を失くしてから仙界入りするまでの短い月日ぐらいしか経験がなかった。
それでも、この
杣人さえも足を踏み入れない霊山での侘び暮らしは、寂しさ以上に安らぎをもたらしてくれた。
だから、本音を言えば、客人の
訪いも少しだけわずらわしかった。もし、彼らがうるさく干渉してくるような性質だったら、決して来訪を許さなかっただろう。
だから、幸か不幸か、二人とも自分の気質をよく知っている相手で、いつでもほどほどにしか会話せず、ごく短い時間で辞してくれたから、黙って来訪を受け入れてきたのだ。
客人──十二仙の生き残りは、気が向くと訪れるという感じで、時期はまちまちだったが、もう一方の青年の訪れは年に一度、決まってうららかな春の日だった。
なぜ春なのかは、その理由を聞いたことがないから知らない。
彼が、春の花を好きなのかどうかも。
でも、せっかくだからと口実をつけて、いつでもこの桃花林への散策に誘った。
屋内で彼と二人きりで会話するのは、正直なところ避けたかったし、花が一面に咲いている中でならば、罪悪感に苛まれるこの心を多少は平静に保てるだろうと思ったから。
互いに平静を装っていても、自分が何もかもを捨てて隠遁したことが、彼をひどく傷つけ、苦しめていることは分かっていたから。
せめて、明るい陽射しの下で、美しい風景の中で向き合いたかった。
そんなことも本当は、何の慰めにもならないと分かっていたけれど。
───そう、分かっている。
かつて、自分が何をしたのか。
そして、今、何をしているのか。
分かっているから。
───こんなにも苦しい。
美しい風景の中、自分だけがこんなにも醜い。
せりあがる胸の痛みをこらえるために、太公望は唇を噛んで目を閉じる。
……視覚を閉ざした途端、聴覚が冴え始める。
耳に届くのは、流れゆく水の音。
鳥のさえずり。
梢を吹き抜ける風の音。
さまざまな音が豊かに響き合う、果てることのない大地の歌声を聞いているうちに、ざわめいた心が少しだけ落ち着くような気がして、太公望はゆっくりと目を開いた。
見渡す限り一面に、花片が薄紅の雪のように舞い散っている。
この光景は、毎年毎年変わらない。
開く花は毎年違うのに、咲き始めの清楚さも、満開のなまめかしさも、散り際のはかなさも。
毎年、同じに美しい。
そして。
散りゆく花を見つめながら、太公望は彼の面影を脳裏に思い浮かべる。
落ち着いた優しい、端整な笑顔。
自分を見つめる、狂おしいほどに甘やかな瞳。
彼もまた、いつまでたっても変わらない。
何十年の時間を経ても。
───気に入りましたよ、師叔。
記憶を失ってさえ、彼は同じ言葉を口にする。
───あなたを気に入りましたよ。
四十年近い歳月を隔てて告げられたのに、同じ響きの声。
───好きです。
同じ口調、同じ声で。
彼は繰り返す。
二度と聞くことはないと思っていた言葉を。
これは罰なのだろうか?
彼を傷つけたことへの。
そして、更に積み重ねようとしている新しい罪への。
───あなたが好きです。
繰り返される優しい言葉。
それはまるで心臓を貫くような、甘やかな断罪の
刃。
ささやかれるたびに、胸をえぐられるような、切り刻まれるような痛みが自分を苦しめる。
───だけど。
それは。
自分が、望んだこと。
過去を失くした彼に最初に偽りを口にしたのは、間違いなく自分。
どんなに辛い思いをしてもいいから、淡い一時の夢を見たいと願ったのは、他の誰でもないから。
……そう。
今は、現実の縦糸と虚構の横糸を紡いで織り成した、夢の時間。
これは春の夜に見ている、はかない夢。
目覚めれば消える、優しいうたかたの夢だから。
どんな願い事でも叶う。
叶ってしまう。
───ほら。
こんな風に……。
「呂望」
背後からかけられた優しい声に。
太公望は一瞬きつく目を閉じ、そしてゆっくりと振り返る。
小さな笑みを口元に浮かべて。
「雲行きが怪しくなってきたのに、なかなか帰ってこないから、迎えに来ましたよ」
「楊ゼン」
名前を呼べば、夢の化身は優しく微笑した。
その微笑みに、ひどく胸が痛む。
切なくて苦しくて、どうにかなってしまいそうな心を、それでも押さえつけて。
笑みを崩さぬまま、彼を見上げる。
そんな太公望の心に気付く様子もなく、傍らに立った彼は、吹きつける風に乱される髪をかきやりながら、舞い散る花の雪を見つめた。
「すごいですね」
感嘆したように言い、やっぱり僕も一緒に来れば良かった、と呟く。
そんな楊ゼンに、太公望は小首をかしげて見せた。
「だが、おぬしは書物を読んでおったではないか。邪魔をしては悪いと……」
「まぁ、おかげで日が暮れる前に全部読めましたけどね。でも惜しかったな。今夜は天気が崩れますから、きっと全部散ってしまいますよ」
確かに言われてみれば、上空の雲の動きがかなり速い。見る見るうちに、農灰色の雲が風に吹き散らされて、空一面に広がってゆくようだった。
「そうだのう……。確かに気を使ったのが仇になったかのう」
少し申し訳なさそうに言えば、楊ゼンは苦笑し、
「別にいいですよ。一応、こうして見られたし、また来年もありますしね」
そう言って、また渓流の上を吹き流されてゆく薄紅の花吹雪を見つめた。
その横顔に、太公望はまなざしを奪われる。
整いすぎるほどに整った、端麗な顔立ち。
矜持に満ちて貴公子然としているが、軟弱さはかけらもない。
仙界随一の美形とたたえられる、その容貌。
この姿が変化の術によるものだということは分かっているが、そんなことは微塵も気にならない。
妖怪仙人の人型の美醜は、その能力に比例しており、強大なものほど美しい人間に変じることができる。
彼もまた、その桁違いの能力に相応しい容姿に変じているだけなのだから、これもまた、彼の本当の姿なのだ。
もっとも、彼の半妖態をも太公望は醜いとは思わない。
二十五年以上も昔、初めて彼の本性を目にした時も、気高く猛々しい、圧倒的な力に溢れた姿を純粋に綺麗だと感じた。
彼が妖怪であろうと何であろうと、蔑んだことも嫌ったことも一度もない。
それだけは本当だった。
「呂望」
とりとめもなくそんなことを思いながら横顔を見上げていた太公望を、楊ゼンが優しい目で振り返る。
「この景色を見ながら何を考えていたんです?」
太公望が散歩に出てから、既に一刻以上が過ぎている。その間、花片の降る中で何を思っていたのかと、楊ゼンは優しい声で問いかけた。
その甘やかな瞳の色に、太公望は見惚れる。
「……おぬしのことを……」
そう答えれば、見つめる瞳の色が更に甘やかさを増した。
「本当に?」
優しい指が、そっと頬に触れてくる。
そのぬくもりを感じながら、
「こんなことで嘘はつかぬよ」
太公望は答える。
その言葉に偽りはなかった。
確かにずっと、彼のことを考えていた。
内容はともかくも。
「……嬉しいですよ」
ささやきと共に、優しい口接けが降ってくる。
目を閉じてその温かさを受け止めながら、太公望は楊ゼンの服の袖をそっと掴んだ。
胸がひどく痛むことなど、気付かないふりをして。
そっと甘えるように。
「……帰りましょうか」
ゆっくりと唇を離し、楊ゼンは低く告げる。
太公望は、その瞳を見上げながら小さくうなずいた。
歩き出しながら空を見れば、いつのまにか上空を農灰色の雲が覆い尽くしている。強い気流に煽られて、雲が激しく形を変えてゆく様が異様だった。
風も鋭く梢を打ち鳴らしながら、山々を吹き抜けてゆく。
「これでは本当に全部花が散ってしまうのう」
「春の嵐では仕方がありませんけれど、惜しいですね」
雑木林の踏み分け道を歩きながら、そんな会話を交わしていると。
ぽつりと、顔に雨粒が当たった。
「降ってきた」
上を見上げると、まだ若葉が伸びきっていない木々の枝の間から薄暗い空が見える。その間にも、見る見るうちに大粒の雨粒は数を増やしていった。
「いけない、ずぶ濡れになりますよ。急ぎましょう」
そう言った楊ゼンが何をしようとしているのか察して、太公望は手を伸ばし、彼の左手の袖を引いた。
「呂望?」
「良いよ」
不思議そうな顔でこちらを見下ろした楊ゼンに、太公望は微笑して首を横に振る。
「少しくらい濡れたところで、どうということはない。わざわざ哮天犬を出さずとも良いよ」
「でも……」
「たいした距離ではないし、たまには雨の道行というのも良いと思わぬか?」
濡れて行こうと太公望が提案する間にも、雨粒は増え続けて二人の上に落ちてくる。
夏ならば豊かに茂った雑木林の枝葉が多少の雨はさえぎってくれるが、萌黄色の若葉が開き始めたばかりの今はまだ、到底そんな恩恵は望めない。
少し困惑した表情になった楊ゼンだが、悪びれない太公望の笑顔に結局、自分も苦笑する。
そして、白い肩布を外し、ふわりと太公望の両肩を包み込むように掛けた。
「楊ゼン」
「何もないよりはましですから。行きましょう」
そう言って、手を差し出す。
太公望は楊ゼンの顔を見上げ、もう一度その手を見つめて、そっと自分の手を伸ばした。
大きな楊ゼンの手が、太公望の細い小さな手を優しく握りしめる。
「走れますか?」
「大丈夫だよ」
うなずいて笑いかければ、楊ゼンも微笑を返した。
そして、そのまま二人は次第に強くなってくる雨の中を駆け出す。
雑木林の中の踏み分け道は、雨にぬれて滑りやすくなり始めており、太公望は何度か体のバランスを崩しかけたが、そのたびに楊ゼンの腕が支えてくれた。
庵までは、ゆっくり歩いても小半時もかからない。走れば半分以下の時間で辿り着ける。
その距離を、二人は一気に走りぬけた。
そして。
激しくなる風雨に追い立てられるように、庵の玄関に飛び込んで。
一息ついた二人は、どちらともなく顔を見合わせて笑い出した。
まるで幼い子供のように、雨に濡れながら走ったことが妙におかしくて、なかなか笑いが止まらない。
「ずぶ濡れになっちゃいましたね」
「うむ。でも良い運動になったよ」
そう言って笑う太公望の雫が伝い落ちる前髪を、楊ゼンの手がそっとかき上げた。
「着替えてきて下さい。いくら丈夫でも、このままでは身体を冷やしてしまいますから」
「分かっておるよ」
言われなくても頭の天辺からつま先までびしょ濡れで、全身から雫がしたたっている。
もちろん、楊ゼンが貸してくれた肩布からも。
うなずいて素直に自室に向かった太公望は、室内に入り、楊ゼンの視界から外れた途端。
顔から笑みを消した。
仮面が剥がれ落ちたかのように、唐突に沈んだ表情に変わり、肩を落としてうなだれる。
「───…」
上半身を覆う白い布からは、雨の匂いとともに、かすかな楊ゼンの移り香が香る。
気障っぽく隙がないのに、清々しくて優しい、思わずほっとするような香り。
それがひどく切なくて、太公望は唇を噛みしめる。
───どこか遠くの空で、春雷が響き始めている。
獣の唸り声のような、猛々しい天鼓が低く轟く。
本格的に降り出した大粒の雨が、庵の屋根を激しく叩いている。
激しい風が、泣き叫ぶように山々を吹き抜けてゆく。
天と地がざわめき立っている、その中で。
濡れそぼった髪から零れた滴が太公望の頬を伝い、小さな音を立てながら床にしたたり落ちてゆく。
声を立てることも。
身動きすることもできないまま。
太公望はしばらくの間、薄暗い部屋の中で立ちつくしていた───。
....To be continued
おひさしぶりの「夢見る頃を過ぎても」です。
7月はとにかく忙しくて、結局一度も続きをUPすることができないままに終わってしまいました。が、これからは再び、最低でも月に一度のUPを目指して頑張りたいと思ってますので、皆様、どうか見捨てずにお付き合い下さいね。m(_ _)m
で、相変わらず何を考えているんだか分からない太公望ですが。
この状況はまだしばらく続きます。なんだか焦らしに焦らす、いやらしい展開ですみません。
二人がこの先どうなるのか、続きは今しばらくお待ち下さいませm(_ _)m
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