君が見ていた夢の、色。
夢見る頃を過ぎても −第一章−
4.夕霞
結局、太乙真人はその後、茶を一杯飲んだだけで帰っていった。
近いうちにもう一度来るよ、という言葉を残して。
結局、自分が茶をいれると称して奥に引っ込んでいた十五分ほどの間に、呂望と太乙真人が何を話し合ったのかは知らない。茶を運んでいった時には、二人は最初と変わらない態度で談笑していたのだ。
何を話したのかなど、おくびにも出さずに。
そして、彼が帰った後も、呂望の様子は何一つ変わらない。
いつものように、ごく自然な態度で花を眺め、太乙真人が持ってきてくれた仙桃を美味しそうにかじっている。
「呂望」
昼間と同じく桃の木の下に座り込んだ彼に静かに歩み寄り、名前を呼べば、大きな瞳でこちらを振り返った。
「仙桃がお好きなようですね」
「うむ。あやつもそのことを知っておるから、こうして時々持ってきてくれるのだ」
「そうですか」
うなずいて呂望は、ほれ、と黄昏の空を示した。
見れば、やや目線を上げた高さに大きな月が昇っている。
「美味い仙桃と散りゆく桃の花と、春の満月。もう言うことはないよ。極楽というのはこんな感じかのう」
そう言う呂望は上機嫌に見えた。おそらく、既に十個近く食べている仙桃のせいでほろ酔い状態なのだろう。
いまにも、春宵一刻値千金とでも詠い始めそうだった。
「──呂望」
「ん?」
「太乙真人様のことを聞いてもいいですか?」
「構わぬよ」
あっさり即答すると、呂望はひとまず座れと手振りで示した。
素直に従って、楊ゼンは彼の隣りに腰を下ろす。それを待って、呂望は口を開いた。
「あやつには何か聞いたか?」
「あなた方が兄弟弟子に当たるということだけは……」
「そうか」
ふむとうなずいて、呂望は桃の木に背中を預け、稜線の上の大きな朧月を見上げた。
「わしとあやつが知り合ったのは、百年程前になるかのう。兄弟弟子とはいっても千年以上世代が違うから、あやつは既に仙人となって久しかったが、頑なな子供だったわしを初対面の時から妙に気に入ったらしくてな。色々と構っては、大事なことやどうでもいいことをたくさん教えてくれたよ」
「自分はあなたの味方のつもりだとおっしゃってましたよ」
先刻聞いたばかりの言葉を伝えれば、呂望は少し困ったような顔になる。
「うむ……。まぁ、ありがたいとは思っておるよ。あやつはお節介なようで、実は余計な干渉は一切してこぬし……。いろいろ、助かってはおるがのう」
そう答える横顔には、困惑や感謝や、微妙な感情がかすかにちらついている。
が、その様子は楊ゼンに妬心よりも、どちらかといえば穏やかな切なさを覚えさせた。
どこまでが真実かはともかくも、呂望がすぐ隣りにいて、彼自身のことを語ってくれている。そんなささやかな事実が、ほんのりと心を温めてくれるような感じだった。
そんな風に感じるのは、やはり太乙真人との会話が影響しているのだろう。
今朝までは、もう少し冷めた視線で彼を観察していて、呂望という存在の手がかりがないかと言葉のひとつひとつを検証していたのだ。
けれど、もう。
そんな冷ややかなスタンスで呂望の言葉を聞くことは、きっとできない。
「そうだのう……。思い返してみれば、いつもあやつには助けてもらうばかりだよ。……いつでもそうだ。わしは人に支えられているばかりで……」
後半は独り言のように小さく呟いて、呂望はひらひらと舞い落ちてゆく花片の行方を視線で追う。
そのまなざしが一瞬、ひどく遠くなって、楊ゼンはどう声をかけたらいいのか分からなくなる。
「呂望」
だが、自分には見えないものを彼の瞳が追っているのは、胸の奥を鋭い針で引っ掻かれたように妙に苛立だしくて、何と言えばいいのか分からないまま、楊ゼンは彼の名を呼んだ。
すると、その声に反応して、呂望の瞳の色がふっと戻る。
「あの方は……どういう方なんですか?」
思いつくままに尋ねると、呂望はこちらを向いて静かに微笑した。
いつもと、同じように。
「おぬしの目にはどう見えた?」
「どうと言われても……」
ずるい、と楊ゼンは思う。
呂望は、決して自分の方から何かを打ち明けることはしない。いつもこんな風に、まず問い返してくる。
「かなりの実力の持ち主だという印象を受けましたが……」
そう答えれば、やはり彼はやわらかな笑みを見せた。
「それで合っておるよ」
「──では…」
軽くかわすような、最低限の答えしか与えてくれない彼が少し腹立だしくなって、言うべきかどうか考えていた問いを楊ゼンは口にする。
「そういう方と対等以上に接している、あなたは?」
「───…」
訊いた途端、呂望の表情から微笑が消えた。
とはいえ、怒った様子も気分を損ねた様子もない。
ただ、こちらを見上げた大きな瞳をまばたかせながら、どう言えば退いてくれるだろうか、と考えているのが楊ゼンにも薄々伝わってきて。
──ずるい、と。
彼の姑息さを責めたくなってくる。
だから、無言で彼を見つめ返すと。
やがて、少しだけ困ったように呂望は楊ゼンを見上げたまま問うた。
「……侘住まいの世捨て道士では納得できぬというのなら、おぬしにわしはどう見える?」
今度は楊ゼンが沈黙する番だった。
彼が何者なのか。
分からないから聞いているというのに、ずるい相手はやはり逆に問いかけてくる。
卑怯な人だと思いながらも、改めて彼を見つめ直せば。
春の月に照らし出されて、ほのかに艶をはじいているやわらかな黒髪。
大きな深い色の瞳。
凛とした印象の整った顔立ちは、せいぜい十代半ば。
小柄で華奢な少年の姿をしているのに、身にまとう雰囲気は、はるかに齢(よわい)を重ねた仙道のもの。わずか百年かそこらしか生きていないとは、とても思えない。
それなのに。
何一つ、真実を語ろうとはしないのに。
彼の気配は、なぜか優しく澄んでいて。
そして、深い寂しさがどうしても隠しきれない。
「……よく、分からないですね」
そう答えると、呂望は何も言わずに、楊ゼンを見上げたまま静かにまばたきした。
そんな彼からついと視線を外しながら、楊ゼンは、これもまた、太乙真人が示唆した、近すぎて理解できないということなのだろうかと考える。
ただあるがままに受け止めればいいものを、あえて知りたいと思うから、かえって本来の姿が見えなくなるのかもしれない。
と、呂望が小さく名を呼んだ。
「……怒ったか?」
「いいえ」
呂望は何も答えてはくれない。
理解されることを望んでいない。
だが、自分を遠ざけようとしているわけでもない。
語りたくないだけなのだ。
そのことはもう、分かっている。
「あなたが話したくないのなら、それはそれで……。今の僕があなたの素性を知ったところで、何が変わるわけでもありませんしね」
「………」
横顔を見上げていた呂望は、言葉を返さないまま、朧月に照らし出された散りゆく花にまなざしを向けた。
ひらひら、ひらひらと、薄紅の花片が白く光りながら一枚、また一枚、舞い落ちてゆく。
音もなく、静かに静かに。
地に落ちてゆく花片を見つめ、そして、目の前に落ちてきた一枚を。
呂望は、そっと手のひらで受け止める。
「もう、桃の花も終わりですね」
「うむ……」
受け止めた花片を見つめながら、呂望はうなずいた。
少しだけ、寂しげに翳った瞳で。
そんな彼の横顔を見つめて、楊ゼンは優しい言葉を捜す。
「でも、連翹(れんぎょう)や花蘇芳(はなずおう)や花海堂(はなかいどう)の蕾も開きかけてますしね。そのうち、山吹も咲くでしょう。そうして季節は巡って、来年になれば、また桃は咲きますよ。春が来るたびに、花は何度でも……」
「そうだのう」
言いながら、楊ゼンはふと気付いた。
自分が春になるたびにここを訪れていたのは、おそらく彼がこの季節を好きだと知っていたからなのだろう。
多分、自分は、春の花を眺めている彼を見たかったのだ。
いつも寂しげなこの人が、嬉しそうに微笑んでいるところを。
「──来年の春も、また僕はあなたを訪ねてここに来るのかな……」
そう言うと、呂望は小さく笑った。
「また、記憶を失くしに?」
「まさか。思い出したら、もう二度と忘れませんよ」
「そうかのう……」
くすくすと笑って、呂望は丸い大きな月を見上げた。
霞んだ春の月は、やわらかな優しい色で夜空に輝いている。
「記憶を取り戻したら、おぬしは多分、二度とここには来ぬよ」
「……何故、そう思うんです?」
思いがけない言葉に、楊ゼンは呂望の横顔を見つめ直した。
が、彼は月を見上げて、静かに微笑んだまま言葉を紡ぐ。
「わしはおぬしに、こんな意地の悪いことをしておるからのう。おそらく記憶が戻ったら、おぬしは相当怒るよ」
「怒りませんよ」
「そんなことはない。きっと怒る。今のおぬしより、わしの方が本来のおぬしを分かっておるよ。……だから、記憶が戻ったら、もうここに来ずとも良いよ」
「嫌です」
自分勝手な呂望の言い草に、楊ゼンは少々むっとして言い返す。
「楊ゼン」
「僕はここに来ますよ。最初に言ったでしょう、僕はあなたを気に入ったと。記憶を失くす以前の僕が、あなたをどう思っていたとしても……」
そう言った途端。
呂望の顔から微笑が消えた。
大きな瞳が一瞬、表現しがたい色に揺れる。
「──呂望?」
名を呼べば、はっとしたように彼は再び微笑した。
「記憶を失くしても、強情なところは変わらぬのう……」
そして、何でもないように、花片を載せたままだった手のひらにまなざしを落とす。
だが。
揺れた瞳が。
小さな微笑が。
一瞬、泣き出したいように見えたのは。
「呂望」
錯覚だったのだろうか。
だが、自分の発した言葉が、どう彼の感情を刺激したのか分からず、楊ゼンは少し戸惑った。
「何か……気に障ることを言ってしまいましたか?」
「……いや」
呂望は小さく首を横に振る。
「そうではないよ。ただ……記憶がなくても言うことは変わらぬものだと……、そう思っただけだ」
そう言って、楊ゼンを見上げて微笑んだ。
が、楊ゼンはごまかされない。
彼が本当は笑っていないことなど、見れば分かる。
けれど。
「そんなに……僕は変わりませんか?」
「変わっておらぬよ」
それほどまでに、何も言いたくないというのなら。
「そうですか」
ごまかされてあげてもいい。
何も気付かないふりをしてあげても。
それくらいは、何でもない。
「じゃあ、あなたは違和感とか感じませんか? 姿かたちや性格は変わらないのに、今の僕はあなたの知っていた僕ではないことに」
「どうかのう……」
そう尋ねると、呂望は少し考えるように首をかしげた。
「まったく感じないとは言わぬが……特に性格が違っておるわけではないし……。もともと思い出話などほとんどせぬし……。むしろ気楽かも知れぬのう」
「気楽、ですか」
「うむ」
呂望はうなずく。
そして、それ以上は何も答えずに微笑して、再びまるい月を見上げた。
「───…」
その横顔を楊ゼンは無言のまま見つめる。
なぜ気楽なのか、尋ねればそれなりの答えは返ってくるのだろう。
だが、その中に真実は、ほんの少しでも含まれているのかどうか。
そもそも、気楽という言葉自体さえ本物かどうか怪しい。
──本当に、あなたは嘘つきですね。
こんな嘘ばかりを連ねて、彼は一体何を望んでいるのか。
嘘やごまかしに気付いた最初の頃は、自分を挑発して怒らせたいのかとさえ思った。
それくらい、呂望の言葉には真実が感じられなかった。
何もかも、はぐらかしてばかりで。
でも、すぐに。
彼が本当に、何も語りたがっていないことに気付いた。
それこそ必死に、何かを守ろうとしているかのように。
そのことに気付いて、改めて見てみれば、彼の態度に他意などなかった。
彼はただ、自分の殻に閉じこもっているだけなのだ。
けれど、その発見は、またすぐに次の疑問へと繋がった。
なぜ、それほど語ることを厭っているのに、自分を傍に置いておくのか。
なぜ、それほど閉じこもった彼が、あんなにも優しい、温かな笑顔を浮かべることができるのか。
有効な情報がないから、疑問の連鎖には果てがない。
でも。
彼は、訊かれることを望んでいないから。
尋ねることは、おそらく彼の心を傷つけるから。
何一つ、思い出して欲しくないと。
何一つ、知って欲しくないと。
彼が、そう望むのなら。
──僕は、このままでも……。
見つめる楊ゼンの視線に気付く素振りもなく。
そんな想いにも気付いているのかいないのか、呂望は無心な横顔で月を見ている。
大きな瞳は、夜の湖のように静かに澄んでいて。
やわらかな月明かりに照らされた彼の周囲を。
ひらひらと。
花片が舞い落ちる。
その様子は、まるで、はかない春の夜の幻のようで。
思わず楊ゼンが見惚れた時、呂望が振り返った。
大きな瞳が、不思議そうに楊ゼンを見上げる。
「──何だ?」
「いえ、」
見惚れていたとは言えずに言葉を探した時、舞い落ちてきた花片がふわりと呂望の髪に止まった。
「花片が……」
「え?」
取ってやろうと手を伸ばして。
指先が癖のない髪に触れた瞬間。
びくりと、呂望が小さく震える。
「あ、すみま──…」
驚かせたかと視線を下ろすと。
大きな瞳をみはって、呂望は楊ゼンを見上げていた。
───え?
そのまなざしに楊ゼンは動けなくなる。
確かに、驚きも混じっていた。
けれど、もっと深いその色は。
涙を零さないまま泣いているのかと思うほど、切なげで。
「呂、望……」
かすれかけた声に、大きな瞳が揺れる。
鼓動が、跳ねる。
──いけない。
そう思った時には。
もう、遅かった。
切ない色の大きな瞳に、誘い込まれるように口接けていた。
かすかに仙桃の甘い香のするやわらかな口唇は、かすかに震えていて。
互いの体温を感じ合った途端。
細い躰がびくりと慄え、反射的に楊ゼンはその背中に腕を回して抱き寄せる。
が、呂望は抗い、楊ゼンの胸を突っぱねて口接けから逃れた。
けれど。
おそらく抵抗の言葉を口にしようと顔を上げた呂望は。
楊ゼンのまなざしに出会って。
「──あ…」
そのまま、言葉を失って肩を震わせる。
戸惑い、混乱した表情で楊ゼンを見つめ、その瞳は相変わらず泣きたいような、何かを哀願するような光を浮かべていたけれど。
もう一度、唇を寄せても呂望は逃げなかった。
そっと瞳を閉ざし。
震えながらも、口接けを受け止めて。
それが深くなり、楊ゼンの舌が甘い口腔を荒らしても、今度は抗わなかった。
「──っ…ん……」
深く絡み合う口接けに、こわばっていた呂望の躰から力が抜ける。
もう完全に楊ゼンの腕に躰を預け、与えられるものを受け入れてゆく。
そして、長い口接けの果てにようやく楊ゼンが解放すると、躰中の力が萎えたように、頼りなく胸に寄りかかってきた。
華奢な肩が、まるですすり泣いているかのように震えながら小さく上下していて。
楊ゼンは抱きしめる腕の力を強くする。
彼が、何か重いものを抱えていることを思わなかったわけではない。
けれど。
腕の中にいるこの人が、どうしようもなく愛しく感じられて。
想いが止められなくなる。
止まらなく、なる。
───この人が、好きだ。
華奢な躰を両腕に抱き上げる時。
もう。
楊ゼンはためらわなかった。
───いけない!
長い指が髪に触れて。
ぞくりと、背筋に何かが走った。
瞳と瞳が合って。
躰が震えるのを感じた。
唇が触れた瞬間。
全身を甘い痺れが駆け抜けて。
───いけない!!
そう思い。
そう言おうとしたけれど。
綺麗な色の瞳が、痛いほど真摯にこちらを見つめていたから。
「──あ…」
もう。
遅かった。
抗えないまま、もう一度口接けられて。
胸の鼓動が跳ね上がり、呼吸を奪われて、何も考えられなくなってゆく。
そして。
深い口接けからようやく解放されて、必死に乱れた呼吸を整えていたら。
不意に、横抱きに抱き上げられた。
「楊ぜ…っ──」
驚いて名前を呼びかけた声は、再び深い口接けでさえぎられる。
さっきと同じ…、否。
それ以上に深く、甘い甘い酩酊に、もう抗う術などなくて。
なすがままになり、いつ自分の躰がやわらかな褥に下ろされたのかも、分からなかった。
「──っ…あ……」
長い長い口接けからようやく解放されて、太公望は大きく喘いだ。
そのまま荒い呼吸が収まりきらない彼に、楊ゼンはキスの雨を降らせる。
額に、瞼に、目元に、頬に。
そして。
薄いやわらかな耳朶の、すぐ下に。
「──や…っ」
口接けられて、太公望はびくりと躰を震わせ、力の入らぬ両手で楊ゼンの肩を突っぱねた。
けれど、楊ゼンの手は止まらない。
宥めるように優しく太公望の肩に衣服の上から触れ、そっと指先でうなじをくすぐる。
「──やめよ! 楊ゼン!!」
過敏な肌に触れる手指の感覚に、思わず声を上げれば。
ぴたりと、楊ゼンは動きを止めた。
「──…」
まだ呼吸が乱れたまま、太公望はそっと目を開ける。
ようやくまともに見上げることが出来た楊ゼンは、痛いほど真摯な表情でこちらを見下ろしていた。
その甘やかで深い瞳の色に、思わず震えそうになる躰を懸命に抑えながら、太公望はここが庵の中──自分の私室の寝台の上だということを理解する。
やわらかな褥が、馴染んだ感覚で自分の体重を受け止めている。
そして。
青年の重みも。
「──楊ゼン…」
この体勢の意味が。
彼が何を求めているのか。
分からないわけがない。
だから。
止めろと。
嫌だ、と。
そう言おうとした瞬間。
「嫌ですか……?」
低く甘い声が、ささやくように問いかけた。
その声に、ぞくりと、今度こそ隠しようもなく躰が震える。
それをどうとったのか。
彼はひどく切なげなまなざしになり、右手を上げて、そっと太公望の髪に触れる。
───いけない。
優しい指が髪を梳き。
そのまま頬を撫で。
首筋へと降りる。
そして、唇が太公望の額にそっと触れた。
その温かくやわらかな感触に、思わず太公望は目を閉じる。
「呂望……」
耳元で遠い名をささやく、甘やかな声。
───お願いだから。
「あなたが好きです」
───言わないで。
「あなたが何者なのか……自分が何者なのか思い出せなくても、この想いは嘘じゃない」
───口にしないで。
けれど。
心とは裏腹に、躰が震える。
体温が、上がる。
鼓動が、走り出す。
そして。
───いけない!
堅く閉ざしていたはずの瞼がゆっくりと開いて。
真摯に見つめてくる甘く切なげな色の瞳を、まなざしをそらすことも出来ずに見つめ返しながら。
褥に投げ出していたはずの両手が。
───いけない!!
知らないうちに上がり、流れ落ちる長い髪に触れて。
彼の首筋を、自分の方に抱き寄せてしまう。
「楊ゼン」
口唇が。
かすれた小さな声が。
彼の名を呼んでしまう。
───もう…。
そして。
激しい口接けが。
衣服の合わせ目から胸元に滑り込んだ、温かな指の感触が。
───戻れない。
「愛してます…」
耳元で甘くささやく低い声が。
理性を粉々に砕いてゆく。
───もう、後戻りできない。
「楊ゼン」
その名前を口にするたびに。
胸がえぐられるように痛んで。
ひどく苦しい。
「楊ゼン……」
広い背中に両手を伸ばしてすがりつきながら。
いっそのこと。
泣けるものなら、声を上げて泣きたかった───。
....To be continued
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