君が見ていた夢の、色。





夢見る頃を過ぎても   −第一章−

1.清流







 深山の春は遅い。
 それでも雪の下で静か植物は芽吹きはじめており、冷たい風が少しゆるんでくると、次々に背伸びを開始する。
 紅、白、薄紅の梅、黄色の蝋梅(ろうばい)、山茱萸(さんしゅゆ)などの花木が、白く閉ざされた風景の中で色鮮やかに花開き、そして、日当たりのいい南側の斜面の雪がまだらに溶け消えた後には、気の早い早春の花が、他の草木が新芽を伸ばす前にと一斉に咲き乱れる。
 その中でもとりわけ可憐な片栗の花は、雑木林の陽だまりを一面の薄紅に染め、やがて忘れ雪が降る頃、雑木林の地表は、まだ新芽が堅いままの梢の間から豊かに降りそそぐ陽光を求めて若葉を広げた下草で彩られ、鳥たちもにぎやかにさえずり出す。
 そして、いよいよ陽射しが明るく春めいてくると、冬枯れていた山の風景は萌黄色に一変するのだ。
 そして、桃花が満開になる頃。
 深山の懐に抱かれた小さな庵に、一人の客が訪れる。








「毎年毎年、飽きずに良く来るのう」
 一年ぶりに姿を見せた知己を、太公望は静かな笑みで迎えた。
「僕も、年に一度くらいは師叔の顔が見たいですから」
 穏やかに笑顔で答える楊ゼンから、さりげなく視線を逸らしながら、差し出した土産を微苦笑と共に受け取る。
 両手で抱えなければならないほどの包みの中身は、街でしか手に入らぬ菓子や書物、かつての仲間たちからの心尽くしの品々や手紙。
 それらを渡した者と受け取った者と。
 指先が触れそうで触れなかった一瞬、どちらも息が詰まるような色を笑顔の隙間に滲ませたことなど、まるでなかったかのように、
「いつもすまぬな」
 短く礼を言って、太公望は土産を丁寧な手つきで卓に置いた。
「皆は元気かのう?」
「ええ。元気ですよ、皆。何もかも全て上手くいっています。──案外、僕の存在なんて、あそこにはもう要らないのかもしれませんね」
「何を言っておるのだ、教主様が。蓬莱島の運営が上手くいっておるのは、おぬしの手腕があってこそだろうに」
「最初の頃は確かに必要でしたけどね。今は名目だけの教主ですよ。ただの飾り物だけど、そこに無いと寂しいという程度のものです」
「そんな捨てたものでもなかろう」
 謙遜するような楊ゼンの言葉に、太公望は小さく笑う。

 既に封神計画が終了してから二十五年。
 生き残った仙道たちに変わりはないが、只人の仲間たちにはもう、この世の者ではない者さえいる。
 ふと一瞬、気を逸らしただけで通り過ぎていってしまう時間は、まるで零れ落ちてゆく砂のようで、さらさらと捕まえることも適わない。
 永い永い寿命を持つ者の目から見れば、人の生命はあまりにもはかなくて。

「────」
 一瞬、太公望の瞳が遠くなったが、それも短い間だけのことで、
「今日は陽気も良い。桃の花も綺麗に咲いておるし、せっかくだから外で話を聞かせてくれ」
 笑顔でそう言い、太公望は楊ゼンを表に誘い出した。








 春の陽射しは浮き立つように明るい。
 枯葉が長年積もってできた土の湿った匂いや、若草や新芽の青々とした匂い、ほのかに甘い春の花の香りが溶け込んだ山の空気は、大自然の息吹という表現に相応しく、呼吸しているだけで心身が浄化されてゆくような気がする。
 新芽が萌え出たばかりの梢の間をぬって振りそそぐ木漏れ日の中、言葉を交わしながら太公望と楊ゼンは、雑木林の踏み分け道をのんびりと歩んだ。
 楊ゼンがこの一年に見聞きしたあれやこれやの出来事や、仲間の消息を落ち着いた声音で語り、太公望が相槌を打ち、時折言葉を挟む。
 その様子は穏やかで、二人は至極楽しげに談笑しているように見えた。
 時間にすれば四半時ほども歩いただろうか。やがて、二人の会話の伴奏に、山の鳥や動物の啼声や風の音だけではなく、水の流れる音が混じり始める。
 最初はかすかに遠かったせせらぎの音が、雑木林の中を進むにつれて段々大きくなってゆき、そして様々な自然の音の中で、水音がくっきりと二人の耳に響き始めた頃。
 桃紅色の花をいっぱいに咲かせた花木が、ちらほらと目に付き始めて、みるみるうちにその数を増してゆく。
 そして、春の彩りに華やかに飾られた踏み分け道を更に先に進んでいくと、いよいよ流れゆく水の楽がはっきりと聞こえ始め、周囲の雑木林が桃紅色に装った木々ばかりとなり──…。

 不意に、前方の視界が開けた。

 踏み分け道がたどり着いた先は、白っぽい花崗岩の巨石の上。
 そして、目の前に広がるのは、まさに桃源郷としかいえぬ絶景だった。
 雪解け水を集めた渓流は、ごろごろと転がる白灰色の花崗岩の間をうねり、流れ落ち、薄碧色の水晶のようにきらめいている。とりわけ、岩の配置加減によって水盤のようになっている箇所の流れの碧青色は、たとえようもないほどに美しい。
 そして、幅五十メートルほどの渓流の両岸には、数えきれぬほどの満開の花木。
 新芽を伸ばし始めた落葉樹の萌黄色や若葉色がちらほらと混じっているのが、桃紅一色よりもかえって鮮やかでなまめかしかった。
 どんな美辞麗句を連ねて褒め称えても薄っぺらに聞こえてしまいそうな風景に、楊ゼンも小さく感嘆の息をつく。
「──相変わらず見事な風景ですね」
「そうであろう?」
 この景色が気に入って、この山を隠遁地として選んだ太公望は、自分が手をかけたわけでもないのに自慢げに胸を張る。
 その笑みは、過去には見せたことがないほど屈託がなくて。
 あまりにも鮮やかな、心からの笑みだったことが、青年の内にある何かを刺激したのかもしれない。
「あなたが、ここを離れたがらないのも分かりますよ」
 そんな言葉が、楊ゼンの口からついて出た。
 他意などなさそうな、なにげない口調であり言葉だった。
 けれど、その声には微妙な何かが含まれているようでもあって。
「離れようとも思わぬよ」
 しかし太公望は、浮かべた微笑を崩さないまま傍らに立つ青年を見上げ、さらりと言葉を返した。
「そうでしょうね」
 そんな彼に、楊ゼンも淡い微笑を浮かべてうなずく。
 当然だろうとでも言いたげに。
 あなたにとって、こんな素晴らしい土地はないでしょう、と。
「うむ」
 勿論、と太公望もうなずいた。
 やはり、やわらかな笑みのままで。
 ……それきり会話は途切れ、二人は目の前の美しい春の風景にまなざしを向ける。
 太公望が楊ゼンを見上げた時、かち合った視線が一瞬、互いにひどく気まずかったことには気付かなかったふりをして。
 自分たちの会話など忘れたように、無数の岩石の間を流れながら低く高く、ひそやかに口ずさむように、あるいは高らかに詠ずるように響く水の歌声に、二人は耳を傾ける。
 そうして、どれほどの時を過ぎた頃だろうか。
 ふと、高く細い口笛のような声で鳴きながら、一羽の小鳥が背後の桃花林から対岸の桃花林へと、滑るように飛び移っていった。
「鷽(うそ)だのう。あの鳥はこの時期、梅や桃の蕾を好んでついばむ……」
 眩しげに目を細めて鳥の姿を追った太公望が、小さく呟く。
 その横顔を、楊ゼンはなんともいえぬ複雑な表情で見つめた。
「ん? なんだ?」
 青年の視線に気付いて、太公望は楊ゼンを見上げる。
「いえ……。相変わらず、あなたは鳥や花がお好きだと思って……」
「似合わぬかのう」
「そんなことはないですよ。師叔らしいと思います」
 楊ゼンの言葉に、太公望は微苦笑した。
 まるで、自分でも似合わないと思っているのと言いたげに。
「本当ですよ。この二十年、僕が毎年尋ねるたびに、師叔はここに案内して下さって、話すことも花鳥風月に関することばかりで……。──あなたは……」
 語尾を水音に紛らわせて、楊ゼンはそれ以上を口にはしない。
 だが、太公望には分かるのか、静かな笑みを浮かべて眼前に広がる桃紅色を見つめた。
 けれど、深い色の瞳だけは、微笑に染まらないままで。
 穏やかな春の色彩を映そうとはしなかった。
「──花や鳥や、空や水を眺めて、せせらぎの音や鳥の声を聞いていると……」
 呟くような声が、清流の音に掻き消されてしまいそうなほどひっそりと紡がれる。
「……時々すべてが遠くなって、その一時だけは、あの頃の想い出も……少しだけ、遠くなる」
 何か、ここにはないものを探すようなまなざしで、太公望は言った。
「──そんなにも……」
 楊ゼンもまた、似たまなざしで太公望を見つめ、口を開く。
 ──そんなにも、あなたは生き続けていることに疲れているのですか?
 だが、やはりその言葉は声にならない。
 台詞を途切れさせたまま、楊ゼンは再び口を閉ざして、ただ太公望を見つめた。
 今の彼ではない、遠い日の彼の面影を探すようなまなざしで。
「────…」
 その視線を感じているだろうに、太公望は静かな瞳を揺らがせもしなかった。
「太公望師叔」
 ややあって、改めて楊ゼンが名を呼んだ時も。
「……下に降りぬか、楊ゼン」
 まるで聞こえなかったかのように、太公望はそう言った。
 二人が立っている花崗岩の巨石の高さは五、六メートルほど。
 下方には、同じく渓流が永い時をかけて山から削り出した花崗岩の大きな塊が無数に転がっているから、足場は悪いものの、飛び降りて危険という高さでもない。
 渓流に下りて、無数の岩を飛び石代わりに、薄碧に輝く水晶のような冷たい水に触れるのは、毎年の常のことだった。
 けれど。
 今は。
「師叔」
「────」
 いつもの余裕が感じられない、真剣みを帯びた楊ゼンの声にも耳を貸さず、太公望は飛び降りるべき石を探すかのように渓流を見下ろす。
 その横顔は、何も聞きたくないと言わんばかりで。
「師叔、僕の言葉を聞いて下さい!」
 楊ゼンの声が強くなる。
 だが、それでも太公望は、頑なに楊ゼンを見ようとはしなかった。
「太公望師叔!」
 厳しい口調で、楊ゼンは彼の名前を繰り返す。
 こちらを見てくれと、懇願するようなまなざしで一心に太公望を見つめて。
「もう二十年、封神計画が終了してからは二十五年経ったんです。なのに、あなたはまだ、僕とは話したくないとおっしゃるんですか!?」
「───…」
 その鋭い声と言葉に、ふと太公望の顔から表情が消えた。
 静かな微笑がふっと色を変えて、まるで無色透明だった水晶が突然白濁したかのように感情が見えなくなり、深く澄んだ瞳にも、何の色も映し出されなくなる。
 その変化に気付いているのかいないのか、楊ゼンは鋭く言葉を続けた。
「あの日以来、あなたは僕に当たり障りのない世間話しかさせて下さらない。そして、あなたはいつでもそれを笑って聞いているだけだ。
 この二十年、僕は一度もあなたの本当の声を聞いてない!!」
「────」
「師叔!」
「……本当の声など、ありはせぬよ」
 感情の消えた横顔で、太公望は短く言葉を紡いだ。
「おぬしは何か勘違いをしておる。わしの中は空っぽだ。おぬしが期待するようなものは何もない」
「嘘ですよ」
 だが、楊ゼンはにべもなく否定する。
「あなたは空っぽなんかじゃありません。そんなふりをしているだけです」
「……………」
 その言葉に、太公望はもう答えようとはせず、
「──下に降りるぞ」
 それだけを短くいい、巨石から飛び降りようとした。が、それよりも早く楊ゼンが動く。
「師叔!」
 大きく一歩踏み出し、太公望の腕を掴んで引き止める。
 ──しかし、一瞬タイミングが遅かった。
 巨石の淵に立って飛び降りかけていた太公望は、いきなり腕をつかまれて身体のバランスを崩す。
 そのままぐらりと小柄な体が傾いて、斜めに渓流へと落ちてゆく。
「危ない…っ!!」
 太公望の腕を掴んだ楊ゼンもまた、不安定な体勢だったために、彼を支えることも適わず諸共にバランスを崩した。
 ───間に合わない!
 巨石の高さは、ほんの五、六メートル。
 崩れた体勢で、しかも太公望ともつれ合ったこの状態では、受身を取ることはできない。
 左手の袖に仕込んである哮天犬を出しても、間に合わない。彼がクッションになってくれる前に、無数に転がる花崗岩の岩塊に叩きつけられるだろう。
 平坦な大地に落ちるわけではない上、太公望を胸の中に抱え直すだけの時間も充分ではなかった。
 ───仕方がない…!
 一瞬の判断で、落ちながら楊ゼンは腕の力だけで太公望を上方に突き飛ばし、左袖を降って哮天犬を出す。
 次の瞬間。
 楊ゼンの身体は、受身を取る間もなく渓流に転がる大小の岩塊に叩き付けられていた。








「──!?」
 ごろごろと転がる無数の岩塊に叩きつけられる、と思って目を閉じた瞬間、太公望の身体は、ぼふっと何かに受け止められていた。
 咄嗟に何が起きたのか分からず、太公望は一瞬の空白の後、はっと目を開いた。
 途端に視界に入ったのは、真っ白なふかふかの毛皮。
 ───え?
 思わぬ光景に思考が停止したのは、ほんのわずかな間だけで、すぐに太公望は自分が哮天犬の背上にいることに気付く。
 だが、やわらかな毛皮の上にいるのは自分ひとり。この生物型宝貝の所有者の姿はない。
 慌てて視線をめぐらせれば、探す相手は渓流の岩の上に降り立った哮天犬の傍らに、仰向けに倒れていた。
「楊ゼン!」
 血の気が引く思いで太公望は、哮天犬の所有者であり、自分の身をかばってくれた青年の名を呼び、慌てて犬の背から下りる。
「楊ゼン!!」
 岩の上に叩きつけられれば当然だろうが、彼は完全に意識を失っているようだった。
 ともすれば震えそうになる自分を懸命に抑えて、太公望は傷の有無を確認する。
 ざっと全身に触れたが、落下した高さが五、六メートルであり、また渓流の石はどれも角が削られて丸みを帯びていることが幸いしたらしく、骨折した箇所は特に見つからない。
 しかし、
「──!!」
 そっと後頭部に触れた手のひらが、べったりと血に濡れて、一瞬、太公望の息が止まる。
 が、すぐに気を取り直し、頭部を抱えて傷口を診た。
「…………」
 とりあえず、傷口は小さく出血も多くはない。
 もう一度そっと触れても、腫れてはいるが頭蓋骨を骨折している様子はない。
 おそらく受身など取る余裕はなかっただろうが、それでも彼のことだから、とっさに頭部への衝撃を緩和するように背を丸めて落ちたのだろうと太公望は推測した。
 しかし、脳震盪程度だとしても、頭部の怪我は動かさない方がいいに決まっている。彼が妖怪仙人であってもだ。
 どうしようか、と思った時。
 肩越しに、哮天件が心配げに小さく鼻を鳴らした。
「そうか、おぬしがいたな」
 一瞬存在を忘れていた生物形宝貝のことを思い出して、太公望はほっと表情を明るくする。
「命には別状ないと思うが、とりあえずこやつをわしの庵まで運びたい。手伝ってくれるか」
 澄んだ深い色の瞳を見つめてそう言うと、哮天犬は一言短く吠えて、ぺたりとその場に伏せた。
 一応仙道ではある以上、太公望も外見より腕力はあるものの、到底力自慢というわけではなく、自分より二十センチも身長が高く、また均整の取れた体つきをしている楊ゼンを、苦労しながら哮天犬の背中に乗せ上げる。
「よし……。哮天犬、できるだけ揺らさぬよう静かに運んでくれ」
 その言葉に従い、哮天犬は一メートルほどの高さまで浮き上がって、太公望の歩む速度に合わせて飛び始めた。









....To be continued












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