君が見ていた夢の、色。





夢見る頃を過ぎても   −第一章−

2.朧月







 楊ゼンが人事不省に陥ってから、丸一日。
 ようやく目覚めた彼を目の前にして、太公望は困惑の局地にあった。
 そんな太公望を、楊ゼンはやや不思議そうな表情で見上げる。
「あなたは……」
 そう言いかけ、楊ゼンはふと不審げに軽く眉をしかめた。
そのまま考え込む風情になった彼を、太公望もまた、どうしたものかと考えながら見つめる。
 だが、脳細胞が完全にパニックを起こしているのか、どうしよう、どうすれば、という益体(やくたい)もない言葉ばかりが脳裏をぐるぐると回るばかりで、現状の解決法など思いつきそうにもなかった。
 頭部を強打したのは分かっていたが、まさか、記憶を失うとは。
 思いもよらないも何も、話には聞いていても実例を見るのは初めてだから、どうすればいいのか判断がつかない。
 とりあえず、一体どこまでの記憶を無くしたのかを確かめようと太公望が思った時。
 考え込んでいた楊ゼンが視線を上げ、太公望を見た。
「楊ゼン、とあなたは僕を呼びましたね?」
「え…、」
 まっすぐに自分を見上げた綺麗な瞳の色に見惚れて、一瞬、太公望の反応が遅れる。
「それが僕の名前ですか」
「あ、うむ」
 慌ててうなずくと、楊ゼンは納得したような表情になった。
「つまり、あなたは行き倒れていた僕を拾った赤の他人ではなくて、僕個人のことを多少なりとも知っているわけだ。──では、教えてくれませんか? 僕が何者で、何故こういう状況にあるのかを」
 自分に記憶がないことは理解したらしいが、楊ゼンは全くパニックを起こす様子もなく、落ち着き払っている。
 あまりにも平然とした彼らしい態度に、太公望はまだ自失から今一つ立ち直れないまま、まばたきした。
「──どれだけ覚えておるのだ…?」
「何も」
 戸惑いつつ発した問いかけに、楊ゼンはあっさり答えた。
「何も?」
「ええ。自分の素性や過去に関することは思い出せません。本能というか、遺伝子レベルの記憶は残っているようですが」
「それは……?」
 背筋に走った軽い緊張を意識しながら、太公望は問う。
それに対し、またもや楊ゼンは簡潔に答えた。
「あなたと僕は本来、相容れない存在だということは分かりますよ」
「────」
 小さく目をみはった太公望に、楊ゼンは微笑いかける。
「あなたは純粋な意味で人間ではなく、僕もまた人間ではない。そして僕の本能は、あなたは天敵だと訴えかけている。──でも、僕の理性は、あなたを敵だとは認識してません」
「何故……?」
「まず、あなたの態度が敵に対するものではないこと。それから多分、僕とあなたの間にはある程度の親交があったんでしょう。記憶はありませんが、あなたを害したいとは思いません」
 淡々と語る落ち着いた声音に、太公望はどういう表情を作ればいいのかも分からないまま、楊ゼンを見つめた。
 そんな彼に、楊ゼンがふと表情を動かす。
「──もしかしたら、あなたは僕が人ではないことを知らずに接していましたか?」
 その問いかけに、太公望は大きな瞳をまばたかせた。
「……いや、知っておったよ」
「そうですか。それなら良いんです。あなたの表情を見ていたら、もしかしたら僕は、自分の正体を偽っていたのかと思ったので……」
「───…」
「……その様子だと、あなたと知り合った当初、僕は正体を偽ってましたか」
 他人事のように微苦笑して楊ゼンは言った。
 記憶を失っていても相変わらず鋭い、と思いながら太公望はうなずく。
 感づかれてしまったら、隠しても仕方ない。
 ポーカーフェースは得意なはずなのに、予想外の状況に本音がちらついてしまっているらしい。
 気をつけねば、と太公望は思った。
 が、次の瞬間、疑問を覚える。
 ──何に気をつけるというのだ?
 目の前の彼は、楊ゼンでありながら楊ゼンの記憶を持たないのに。
 記憶が無ければ、それにまつわって起こる感情の起伏も在り得ない。
 ここにいるのは、初対面も同然の妖怪仙人。
 自分に向けられているのは、他意のない、信用と不信の境界線上にある視線。
 太公望が楊ゼンの過去を知っている、ということ以外に、今の二人の間には何のつながりもない。
 ──記憶が、無い……。
 ようやく、その事実を半ば呆然としながら太公望は飲み下す。
 そんな彼の表情に気付いて、声をかけようとした楊ゼンが、ふと気付いたような顔になった。
「そういえば、まだあなたの名前を聞いてませんでしたね」
 そう言われて、太公望も楊ゼンを見直す。
「あなたの名前は? 僕はあなたを何と呼んでいましたか?」
 それさえも忘れてしまったから教えてくれと。
 穏やかに響く声が問いかける。

「──望…」
「望?」
「………呂望…」

 太公望、と名乗るつもりだった。
 なのに口をついて出たのは、とうの昔に捨てたはずの名前。
 否、それどころか、もともと自分のものでさえなかった、遥か昔に死んだ赤ん坊の名前。
「呂望」
 その音を確かめるように繰り返した青年の声を、太公望は内心、愕然としながら受け止める。
「そう呼んでいたんですか?」
 違う。
 この唇から発せられたのは。
 この声が呼んでいたのは、いつでも───。
「うむ」
 違うのに。
 それなのに、何故肯定する?
 決して自分の名前ではない、その音を。
「では、これからも僕はあなたをそう呼びます。いいですか?」
 何故。
 微笑してうなずくのか。
 太公望は自分が分からなかった。








 夜更け。
 私室を昨日から楊ゼンに明け渡したままの太公望は、一つだけある客室の寝台の上に座り込み、朧月に照らし出された庵の庭をぼんやりと見ていた。
 庭といっても、簡単なこしらえの透垣(すいがい)で囲ってあるだけの、本当に猫の額という表現がぴったりな狭い庭だった。
 そして、植えてあるのは花の咲く木ばかり。
 梅に桃、連翹(れんぎょう)、木蘭、花(はな)海棠(かいどう)、山吹、花蘇芳(はなずおう)、沈丁花、満天星(どうだんつつじ)、長春花、金木犀……。
 それらの木々の足元には、春蘭、玉簪花(はなかんざし)、竜胆、秋牡丹(しゅうめいぎく)など、山野に生える様々な草花がうるさくない程度に伸びている。
 とはいえ、まだ春の初めの時分。
 梅はもう終わりだが、桃や木蘭、沈丁花は今が盛り、他の春の花木は蕾が大きく膨らみ始めたところで、下草は新芽を伸ばしている最中。
 夏の庭の勢いある葉の茂り方に比べるれば、まだまだ優しい風情だった。
 ましてや朧な月光に照らされていると、なおさら夢幻的に見える。
 まるで、この世の風景ではないように。
 何もかも、優しい幻のように。
「──…」
 ふと、人の気配を感じて太公望は我に返る。
 振り返れば、均整の取れた長身の人影が、扉のない部屋の入り口に立っていた。
「──起きて大丈夫なのか?」
「ええ。少し喉が渇いて目が覚めたんですが……。眠れないんですか?」
「……まぁのう」
 ごまかしても無意味だろうと、太公望はうなずいた。
「入ってもいいですか?」
「うむ……」
 ゆっくりと、月明かりの差し込む小さな室内を窓際まで歩んでくる。その様子があまりにも以前の彼と変わりがなくて、太公望は奇妙な違和感を覚えた。
 この庵に隠遁してから毎年、春になるたびに訪ねて来る楊ゼンと話をするのはいつも屋外で、必ず日帰りする彼が、この客室に足を踏み入れたことは一度もないというのに。
 まるで二十年の間、彼はずっと傍に居たような気さえする。
 あの頃のように……。
「眠れないのは、僕のせいですね」
 少しすまなさそうに楊ゼンは言った。
 その通りだったから、太公望もほのかに微苦笑を浮かべただけで、何も言わない。
「色々考えていたんですが、やっぱり思い出せないんです。あなたが知人だというのなら、少しくらい何か引っかかるものがあっても良さそうなんですが……」
「仕方がないよ。ゆっくりと思い出せばいいし、もし思い出せなくても……それはそれで、わしは……」
 自分でも何が言いたいのか分からなくなり、太公望は語尾を濁す。
 ──このまま彼が過去を思い出さなかったら。
 一体、どうなるのだろう。
「呂望」
 不意にその名を呼ばれて、太公望は思わず楊ゼンを見上げる。
「まだ眠れそうにないというのなら、もし良ければ少し聞かせてもらえませんか、僕のことを」
「───…」
「あなたの目には僕はどんな風に見えていたのか……。語れる範囲でいいですから」
 そう言う楊ゼンの表情は落ち着いていた。
 少なくとも、記憶をなくして不安がったり、早く思い出そうと焦っている様子も感じられない。ただ、とりあえず参考として聞いておこう、という雰囲気だった。
「そうだのう……」
 楊ゼンから視線を外して瞳を伏せながら、太公望はどうしようかと考える。
 迷う、といった方が正しいかもしれない。
 先程、一つだけ分かったことがあるのだ。
 夕方、目覚めた楊ゼンに何故、呂望という古い名前を名乗ったのか、その理由をあれからずっと考えていた。
 どうして太公望とも伏羲とも言わなかったのか。
 考えているうちに、自分の奥深くに眠っていた願望に気付いた。
 ──現在の自分ではない自分になりたい。
 多分それは、本当はずっと昔から心の奥底で願っていたこと。
 遠い幻のような願望として、この先も永遠に、深層意識の中でたゆたうはずだった夢。
 でも、いま現実に、楊ゼンが記憶を失くして、かつて見知っていた楊ゼンではなくなってしまったから。
 自分も、何もかも忘れてしまいたくなったのだ。
 かつて起きたことを、片端から。
 太公望という名も、伏羲という名も、辛い記憶も。
 一片たりとも残さずに、全てなかったことにしてしまったら。
 そうしたら。
 自分は。
「だが、それほど話せることはないよ。それに聞いたところで、おぬしには所詮、他人事としてしか聞こえぬだろう?」
「多分、そうでしょうね」
 静かな太公望の言葉に、楊ゼンは苦笑してうなずいた。
「こうして話していても、既視感も感じられませんから。あなたを知人として認識しているのも、客観的な観察の結果であって、今の僕の主観ではありませんしね。 でも、記憶を戻さないとあなたが困るでしょう? 僕は自分の洞府の場所も覚えてないんですから」
 その言葉に、太公望も苦笑する。
「確かに、立派な仙人様が迷子では格好がつかぬな」
 もっとも、太公望は彼の洞府がどこにあるのか知っているし、哮天犬も場所を覚えているはずだった。だから、帰ろうと思えば楊ゼンは帰れる。
 ──だが、それはこの地上にはない場所なのだ。
 西海の果てにある、ワープゾーン。
 その先の虚空に浮かぶ、最後の楽園──蓬莱島。
 それをどう説明すればいいというのだろう。
 既に、この星の上にあった仙界は滅し、そこでは仙道も妖怪も共に暮らしていて、しかも彼はその頂点に立つ人物なのだと。
 そうなるよう仕向けた最大の元凶が、自分なのだと。
 ……とても、語れなかった。
 長い長い物語を、語る言葉を持たなかった。
 ましてや、『呂望』と名乗った身では。
 何をどう説明すればいいというのか。
 ──だから、とりあえずはこの庵で療養すればいい、と太公望は言ったのだ。
 しばらく様子を見て記憶が戻るようなら良し、戻る様子がなければ、その時はその時で考えよう、と。
「まぁ、わしはおぬしがここに居っても、特に困りはせぬが……。所詮、侘住まいの世捨て道士だからのう」
「そう言ってもらえるなら、僕も気が楽ですが……」
「とりあえず、座らぬか」
 楊ゼンがずっと立っていることに気付いて、太公望は寝台を指で示す。彼は素直に従い、縁に腰を下ろした。
 太公望は寝台の反対側で、窓際の壁に背を預けているから、二人の間隔は約一メートル二十センチ。
 個人空間理論でいう固体距離──親しい関係における会話の距離の限界だと、太公望は内心笑う。
 知人とも赤の他人ともつかない今の二人を表すのに、ちょうど似合っている。
 ──あとほんの少し離れれば、礼儀を必要とする他人の距離。
 ──三分の一まで近付けば、密接な関係の距離。
 どちらの距離も、目の前の青年とは覚えがある…と、不意に太公望は苦いものを感じたが、面には出さない。
 つまらない知識を思い出したことを忘れてしまおうと、何でもない顔で問いかける。
「で、何から聞きたい? 先に言っておくが、わしはおぬしが期待するほどおぬしのことを知らんぞ? それに、わし自身に関することはあまり話したくない。というより、過ぎたことは忘れる性質だから、話しようがないのだ」
「……なんか、まるで僕に何も教えたくないみたいですね」
「本音を言えばそうだ」
 あっさりと太公望は認め、肩をすくめた。
「おぬしがどういう奴だったかを説明するということは、結局、わしの評価をおぬし自身に教えるということであろう? となると、おぬしの記憶が戻った時、本音をばらしたわしの分が悪くなる」
「──それはそうですね」
「それに、知り合ってから時間だけは結構経っておるから、わしにとって都合の悪いことも、おぬしには色々知られておる。それをせっかくおぬしが全て忘れてくれたのだから、今の間くらいは格好をつけてみたいのだよ」
「なるほど……。確かに、僕もあなたの立場だったら、そう考えたかもしれませんね」
 まるで只の少年のような悪戯っぽい光を瞳に浮かべて説明する太公望に、楊ゼンは少し呆れを交えたような顔で苦笑する。
「いいですよ。じゃあ当たり障りのないことだけ、教えて下さい。あとは自力で思い出しますから」
「うむ」
 それでよいと太公望が満足げにうなずくと、不意に楊ゼンの笑みが苦笑から楽しげなものに変わった。
 ──朧月の光に照らし出される、鮮やかな笑顔。
「ねえ呂望」
「ん?」
 その笑顔に、太公望は内心、息を飲む。
「僕は結構、あなたを気に入りましたよ。何故こんな山奥まであなたを訪ねて来ていたのか、少しだけ分かった気がします」
「……そうか」
 ずっと長い間見ていなかった、彼の本当の笑顔。
 そう…。
 彼は、こんな風に笑うのだ。
「では条件が折り合ったところで、質問を始めても良いですか?」
「うむ」
 誰もが思わず見惚れてしまうほど、綺麗に。
 鮮やかに。
 時には、少年めいて悪戯っぽく。
 時には、呼吸をするのを忘れるほどに甘く。
「じゃあ……まず、僕たちが出会ったのはいつですか?」
「出会い? そうだのう……」
 そんなことも忘れていた。
 否。
 自分が、彼からこの笑顔を奪ったのだ。
「かれこれ四十年近く前になるかのう……」
「なんだ。そんなに昔じゃないんですね」
「おぬしはそうかもしれんが、わしにとっては違うぞ。わしはまだ、百年ちょっとしか生きとらんからな」
けれど。
 本当はずっと、この笑顔に会いたかった。
 この笑顔が見たかった。
 どんなに自分勝手だと言われようとも。
「そうなんですか。見た目だけじゃなくて、本当に若いんですね」
「余計なお世話だ。そもそもおぬし、自分の年を覚えておるのか?」
「………覚えてません。知ってたら教えて下さい」
「たわけ。──わしも正確なところは知らぬが……二百三十、四十くらいではなかったかのう。まだ二百五十にはなっておらぬと思うが」
 だから。
 今だけは、何もかもを忘れたふりをして。
 太公望でさえない、呂望という名の道士のように。
「そうですか。……で、僕と初めて会った時の印象は?」
「〜〜〜〜〜それはノーコメントだ!」
「えー」
「おぬしにとっても聞かぬが花だぞ。はっきり言って、最悪の出会い方だったのだからな。それもこれも全部、おぬしのせいだ」
「……一体、何をしたんです? 僕は……」
「知らぬ! 自力で思い出せ」
 胸をえぐる痛みには気付かぬふりをして。
 さあ。
 目覚めれば忘れてしまう、はかない夢物語を紡ぎ出そう。









....To be continued












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