SACRIFICE  -ultimate plumage-

6. hardest night








 与えられた休暇は二ヶ月。
 どこでも良かった。
 彼との思い出のない──彼の気配が残っていない場所なら。
 どこでも。







 大きな湖の傍にある宿泊施設は、古いながらも綺麗に整えられていて、こんな御時世でも逞しく生きる人々の姿を暗示しているかのようだった。
 もっとも、百年以上も戦争が続いていれば、戦争がない方が非日常にも思えるだろうし、人間は日々の糧を得なければ生きてゆけないのが現実である。
 だから、大陸のどこの都市にもバザールはあるし、そこには品物も人間も集まってくる。
 そのなかでもとりわけ、この古い歴史を持つ観光都市は活気に満ちていた。
 風光明媚が売り物のこの地方は、中立地帯に含まれており、大陸のどこかで、毎日のように殺戮が繰り返されているにもかかわらず、西からも東からも攻撃を受けたことがない。
 だからこそ平和で──ひどく異質だった。
 己にとっては、この街が。
 この街にとっては、己が。
 時折、街の平穏やバザールの賑わいを、眉をひそめて眺めている自分に気付き、自分が芯から血と硝煙の臭いに染まっていることに気付いて、ひどく苦いものを噛み締める。
 それの繰り返しだった。

 けれど。

 それでも、まだマシだったのだ。
 基地にいるくらいなら。
 軍服姿の人間を見るくらいなら。
 平穏に身をひたす苦痛の方が、まだ余程楽だった。






        *        *






 西方軍の戦闘機投入から始まった、中央戦線における一連の戦いは、東方軍の全面勝利という形で終決した。
 だが、勝ったはずの東方軍が喪ったものは、たとえようがないほどに大きかった。

 無敵の守護天使。

 戦場で兵士を守るためだけに生み出された、美しい翼を持つ者。
 その最後の一人が、1万5千人余の兵士の生命と引き換えに、消えた。

 軍の上層部の本音としては、1万5千人余の兵士の命より、守護天使の命の方が遥かに重かっただろう。
 ただの人間など、放っておいても幾らでも生まれてくる。
 そして、戦場でこの先、守護天使が救えただろう兵士の生命の延べ数は、試算によれば1万5千どころではない。
 だが、守護天使の最優先使命を、兵士の生命の保護に置いたのは、間違いなくかつての軍の上層部だった。
 それを従順に守って、これまでに既に4人の守護天使が消えた。
 最初から不可避の運命だったのだ。
 いつか、守護天使がいなくなることは。






        *        *






 初めて抱き上げた身体は、思っていたよりもずっと軽かった。
 温もりもやわらかさも失われ始めてはいたが、それでも、まるでただの子供のように、ひどく軽くて。
 そして、またたく間に、腕の中で冷たくこわばっていった。
 心臓に無数の刃をつきたてられるようなその感覚に、何をも思い浮かばず、ただ、何故、と繰り返していた。



 何故。
 何故。
 何故。

 何故、あなたが。



 そこからどうやって、誰に命じられてカシュローンの基地まで戻ったのかは覚えていない。
 気付いた時には、目の前に彼の保護者を称していた科学者がいて。
 ありがとう、と言ったのだ。
 連れて帰ってきてくれて。
 最期に傍にいてくれて、と。
 青ざめた沈鬱な顔で、それでもわずかに微笑し、かすかに震える手をこちらの肩に置いて。
 それから。

 それから──…。

 健康的な色をしていた肌は、くすんだ灰色みの色に変わり、端の方から鉱物が風化するようにひびが入って、左手はもう手首まで崩壊し始めていた。
 瞳を閉じた顔は穏やかで。
 ただ、眠っているだけに見えた。
 数十年ぶりに得た、敵襲を警戒する必要のない安らかな眠りに。
 すべてから解放された安息の時間に。
 心から安堵しているように見えた。











「───どう…して……っ!」

 手の中で、小さなかけらが薄暗い部屋の窓から零れるわずかな街の灯りに、きらりと輝きを放つ。
 貝殻のような、ガラスの破片のような、美しいもの。
 鋭利に見えるのに、どんなにきつく握りしめても手のひらが傷つくことはない。
 優しい優しい、虹のかけら。

「どうして、あなたが……!!」

 悲鳴のような声を、楊ゼンは喉から絞り出す。






 誰よりも優しかったひと。
 誰よりも孤独だったひと。
 誰よりも哀しかったひと。

 すべてをむしり取られて、運命を歪められて。
 その挙句。

 あとほんの少しで手が届いた。
 あと数センチ手を伸ばせば、すべてを諦めた哀しい背中を抱きしめることができた。
 なのに。

 あの時、会いに行かなければ良かったのだろうか?
 あんなことを自分が口にしなければ、もっと早く戦闘機を発見でき、基地に被害の及ばない空域で撃墜できたのだろうか?
 自分が何もしなければ、彼を───…。


 だが。
 どうしても嫌だったのだ。
 彼を傷つけたまま、通り過ぎてしまうことが。
 彼の傍らを通り過ぎた多くの人々と同じように、仕方がないことと許されて、忘れられてしまうことが。
 ……あの時しかなかった。
 あのわずかな時間を逃したら、広い戦場でもう二度と会えなくなることが分かっていたから。
 確かに、最前線の戦闘地区はある程度限られているから、闘い続けていれば、またどこかで出会うことがあったかもしれない。
 だが、彼にはあと百年の時間があっても、ただの稀人の自分には、あと十年の時間が残されているかどうか。
 そうでなくとも。
 軍人なのだ、自分たちは。
 いくら己の運命を自分で選ぼうとしても、その端は死神に握られている。
 だから。
 あの時、屋上へと行かないわけにはいかなかった。

 けれど。

 それが、彼を───だとしたら。






「───…っ」
 声にならない悲嘆に、楊ゼンは手のひらの中のものをきつくきつく握りしめる。
 けれど、鋭利なはずのその切り口は、何故か肌を傷つけてはくれない。
 血を流させるのを拒否するかのように、やんわりと圧力を受け止める。
 それは、どこまでも優しく、ほのかに温かくて。








 所詮、エゴイズムだった。
 彼が言った通り、生きる時間軸が違うことは、彼を苦しめることにしかならない。
 あと十年とあと百年では、あまりにも違いすぎる。
 結局、姿さえ変わらない彼を時間の中に置き去りにするしかない。
 けれど。
 それでも。

 それでも、あの深い深い孤独を。
 あの果てのない哀しさを。
 抱きしめてやれたらと。

 それさえもエゴイズムだろうか。
 彼を苦しめるだけだっただろうか。
 あんなにも、彼の表情は安らかだった。
 ようやく訪れた戦いからの解放に、心から安堵していた。




 ならば。
 願うこと自体が、罪だったのか。




 けれど、もし、罪だったのだとしても。

「返してくれ……っ!!」

 彼という存在を。
 彼が奪われ、喪った全てのものを。

 軍の研究対象とならなければ、きっと幸せになれたはずだった。
 こんな御時世なら、稀人でもそれなりに生きてゆける道はある。
 普通に笑って、怒って、悲しんで、喜んで。
 短い生を精一杯に生きることができただろう。
 守護天使にさえ、されなければ。
 人であることさえ、やめさせられなければ。

 否。

 守護天使でもいい。
 守護天使でも構わない。
 この世で最強の力を持つ恐ろしい兵器であったとしても。
 確かに、自分は彼に惹かれた。
 遠い地平線を見つめていた瞳を。
 孤独に押しつぶされそうだった細い肩を。
 兵士を守るためだけに広げられた、優しい翼を。
 傷付き、すべてを諦めた哀しい心を。
 愛しいと。
 抱きしめたいと思ったのだ。
 たとえ、その想いが彼を傷つけ、苦しめることになったとしても。
 彼を。

 この腕に抱きしめたかった。







「だから…っ、」

 手の中で、虹のかけらが優しくきらめく。
 まるで、ささやくように。
 微笑むように。
 大丈夫だと。
 傷つかなくてもいい、何も怖がらなくていいと。
 限りのない温かさで。

「もう二度と傷つけない……、二度と手を離さないと誓うから……!!」

 天地がひっくり返ってもいい、と慟哭する声が叫ぶ。








「あのひとを返してくれ───…!!」






to be continued...










……………ごめんなさい。
その一言です。
でも、まだ物語は続きます。次回、ネタばらし。

余談ですが、この世界の宗教は既に失われています。だから、神も悪魔も天国も地獄もない。祈りの言葉もない。
良くも悪くも、生きている人間だけの世界です。

なお、今回の章タイトルはBON JOVIの古いナンバーから借りました。




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