SACRIFICE  -ultimate plumage-

5. last crime








 乾いた風が吹き抜けてゆく。
 だが、そこに大地を渇えさせる炎熱は既にない。
 内陸の短い夏は早くも終わり、空はいつもにも増して高く、手の届かない青さで地上を見下ろしていた。





「フォスクにおける活躍は見事だった。貴官を我が基地に転属させた甲斐があったな」
「恐れ入ります」
 上官の賞賛に、軍服をまとった青年士官は無感動に返す。
 最前線の軍事基地というのはすみずみまで素っ気なく、機能的にできていて、それは師団長の執務室でも例外ではない。ただ広いばかりで、白灰色の壁には装飾らしい装飾は何も無かった。
「今回の戦功によって、貴官を第四十一師団第八重装歩兵大隊長に任ずる。階級は中佐だ。本来なら、北のティルデン要塞を陥とした時点で昇進するはずを保留されていたのだから、少々遅くはなったが正当な評価だと思って受け止めてくれ。いくら戦功を立てていても、早すぎる昇進は風当たりが強くなる。貴官にとっては愉快なことではないだろうが……」
「いえ、自分は階級にこだわっているわけではありませんから。少将殿のお心遣いはありがたく思います」
「そう言ってもらえると、こちらも気が楽だがな」
硬骨漢らしい食えない笑みを浮かべると、第四十一師団長は次の書類を手にした。
「今日の午後、正式に命令が下るが、ついでだから貴官には先に言っておく。フォスクを陥落させて帰還した早々ではあるが、任務だ。第四十一師団まるごとで、シュクリスの第二十五師団、第二十八師団の支援に向かう」
 重々しい口調で、執務卓の向こう側に立つ青年仕官に告げる。
「今のところ、我が軍は善戦していて、ミリムを陥落させるのも時間の問題と思われる。が、一刻でも早く、というのが上層部の意向でな。このところ、敵方は中央戦線での作戦を支援するために、南部戦線の方で動きを見せ始めている。二方面作戦を強いられて人員数での優位が失われるのを、上層部は懸念しとるんだろう」
 わずかに上層部への反感と不満をにじませた声で綴られる戦況と、それに伴う上層部の思惑の解説を、青年士官は黙ったまま受け止める。
 その整いすぎていると言ってもいい端整な顔立ちからは、内面の感情はうかがえなかった。
「というわけで、十日後には、1600(ヒトロクマルマル)時までに現地に赴くことになる。それまでに隊を掌握しておいてくれ。休暇なしで悪いが、上がせっついているんでな」
「既に作戦開始から八ヶ月以上になります。そろそろ決着を着けなければいけない時期ですから、出動命令が下るのは当然でしょう。ただちに装備の点検に取り掛かります」
「うむ」
 そして、師団長に隙のない敬礼をすると、青年士官は味気のない執務室を足早に退出していった。





 西方軍の常識を無視した戦闘飛行機の実戦投入により、本格化した中央戦線の戦況は、現時点では東方軍が優勢のうちに進んでいた。
 空からの攻撃にも萎縮することなく、ある程度の損害を覚悟した上で軍を二つに分け、敵の本隊を釘付けにする一方で戦闘飛行機基地を叩くという積極策に出たことが功を奏したのである。
 また、これより先に北部戦線を制圧し、補給路を確保できていたことも東方軍に有利に働いた。
 戦闘が本格化してから八ヶ月、西方軍の中央前線の足がかり的な拠点の一つであったフォスク基地が陥落し、発着基地・ミリムでも、実戦配備された戦闘飛行機12機のうち、既に8機が失われている。
 友軍を助けるべく南部前線の西方軍が動きを見せ始めているが、それも既に時期を逸した感があり、東方軍が中央前線の中核部を制圧するのは時間の問題と思われた。





        *          *





 シュクリスは、荒野の中にぽつりとある前衛基地だった。
 わずかな起伏のある丘陵の上に建物群が建造され、その周囲に分厚い防御壁をめぐらせてある、それほど大きくはないが重厚なつくりの要塞だった。
 そして、戦闘体制に入っている現在は、更にその前面に堡塁(ほうるい)と、いくつもの塹壕(ざんごう)が築かれ、敵の襲撃に備えている。
 後方のカシュローン基地との連絡も確保されており、武器や弾薬、食料の補給、また傷病兵の送還なども滞りはない。
 副官に大隊の指揮を任せて基地内を一巡りした楊ゼンは、正直なところ、最前線の要塞としては異例ともいえる整った戦闘体制に驚嘆した。
 これまで十年近くを戦場で、しかもそのほとんどを激戦地で過ごしてきたが、敵の攻撃をかいくぐっての後方との連絡の確保には常に悩まされてきた。
 なのに、シュクリスは空からの襲撃にさらされているにもかかわらず、無傷といってもいいような姿を保っているのである。
 今のところ、敵機の襲来で被害を受け、使用不能になった基地の建物は、左翼の端にある倉庫だけだった。人間の兵士の被害もそれなりの数に上ってはいるが、敵の機動力を考えれば、まだ少な過ぎるほどだと言えた。
 戦闘飛行機などという化け物を相手にしているとは信じられないような損害の軽さを目の当たりにして、楊ゼンは口元に微かな苦い表情を浮かべる。

 ───当然といえば当然なのだ。

 この基地には『彼』がいるのだから。
 前線の兵士を守るために創り出された“ガーディアン”は、戦闘飛行機でさえも一撃で墜とすことのできる能力を持つ。
 ガーディアンがいるからこそ、本来なら圧倒的なアドバンテージを持つはずの戦闘飛行機に、東方軍は陸軍のみで対抗できているのだ。
「西も馬鹿な兵器を造ったものだな……」
 西方軍が戦闘飛行機を投入した狙いは、東方軍を支えるガーディアンの抹殺、もしくは無力化と、カシュローン基地の攻略である。
 しかし、もっと数があれば状況は変わってくるかもしれないが、たった12機ではガーディアンを抑え切ることはできない。既に8機を失った戦闘飛行機は、このシュクリスを無視してカシュローン基地へ空爆に行くこともできなくなっている。
 結局、西方軍のガーディアンに対する認識が甘かったのだろう。
 この大陸における、人々の空に対する本能的な畏怖は根強い。
 莫大な開発費を必要とし、兵士を薬漬けにしなければ使用できない戦闘飛行機では、12機でもギリギリの数字だったのだろうが、せめて倍の数字がなければガーディアンには対抗するのは不可能なのだ。
「あんなものを造らなければ、もう数年の間は、ずるずると睨み合いが続いていただろうに……」
 均衡化していた戦局を、強引な手段で有利に運ぼうとしたばかりに、西方軍はカシュローン基地攻略の足がかりであったはずの前衛基地・フォスクに続きミリムまで失おうとしている。
 東方軍が長大な中央戦線全体を圧倒するまでには、まだかなりの時間がかかるだろうが、これで、少なくとも戦線の中央部分における優勢を占めることができるだろう。
「────」
 窓の向こうに広がる風景は、カシュローン基地から見るものとよく似た乾いた土と、ひたすらに青いばかりの空である。
 しばしの間、その不毛な色を見つめ、楊ゼンは再び無機質な基地の廊下を歩き出した。




        *        *




「厳しいな」
 一帯の地理と兵士の配備を詳しく書き込んだ軍用地図を見つめながら、楊ゼンは淡々とした声で呟いた。
「そうですね。とにかく遮蔽物がありませんから、塹壕を掘るしかないですよ、これじゃ」
 答える副官は、童顔のため若く見えるが、既に5年以上楊ゼンと戦場を共にしてきた歴戦の兵士である。
 稀人である楊ゼンにも臆することなく任務に忠実で、勘が鋭く、細かく気が回るところを買われており、今回も楊ゼンと共に昇進して副官の任を解かれることはなかった。
「たとえ、その場その場の戦闘に勝っても、一気に兵を前進させるのは無理だな」
「敵の掘った塹壕を利用するわけにはいきませんしね」
 撤退する時、それまで自分たちがいた所に爆薬を仕掛けるのは戦場の常識である。戦況が悪化してくると、回収しきれない僚友の遺体に爆弾を仕掛け、動かそうとしたら爆発するようにすることも珍しくない。
 どんな大義名分があったところで、戦場で行われるのは、道義を忘れた人殺しに過ぎなかった。
「ガーディアンがいる分、うちの方が有利は有利でしょうけど、損害ゼロって訳にはいかないでしょう」
「ガーディアンも、決して万能じゃないからな。戦闘飛行機が出てきたら、地上戦の支援は期待できなくなる。目の前の敵は、自分で何とかするしかないな」
 自分の隊から損害は出したくないが、と呟いて楊ゼンは、作戦卓に置いてあったベレー帽を手に取り、テントの出入り口に向かった。
「少し辺りを見てくる。何かあったら連絡をしてくれ」
「はい」


 約6500人からなる第四十一師団が増強されたことで、シュクリスの兵員数は一気に膨れ上がった。
 この兵力を利用して一気に攻勢に出ることが決められたのは、新たな部隊が着任した翌々日の作戦会議上のことである。
 まだ敵に戦闘飛行機が残っている今、戦線を前に進めるのは大きなリスクが伴う。
 だが、既に戦闘開始から八ヶ月が過ぎ、いくら補給が確保されていても兵士たちの疲労は蓄積されている。
 度重なる撃墜に用心深くなり、なかなか深くは進撃してこない戦闘飛行機を潰すには、もう発進基地そのものを叩き、あるいは叩こうとする様子を見せて戦闘飛行機を誘い出すしかない、というのが司令部の見方だった。
 その方針に従い、東方軍が前進を始めてから既に5日。
 工兵隊により突貫工事で新たな堡塁と塹壕が建設され、兵士がそこに配備されている。
 この間、敵機の妨害は頻繁にあったが、単独ではガーディアンの射程距離内には入ってこようとせず、嫌がらせ程度の遠隔射撃に終始していた。


 堡塁の内側は、今日明日にも始まるだろう新たな戦闘の準備にざわめいている。
 弾薬や食料が次々に後方から運び込まれ、分配されてゆく。
 その間を足早に抜けてゆくのは、どこかの隊の伝令か。
 慌しい光景に何とはなし足を止め、楊ゼンは周囲を見渡した。
 そして、再び歩き出そうとした瞬間。
 視界の片隅にあるものを捉えて、びくりと動きを止める。


 ───コンクリートで固められた頑丈な堡塁の上。
 喧騒に背を向けた格好で腰を下ろしている、小さな後ろ姿。


「────」
 少し遠いその姿を見つめて、楊ゼンは小さく唇を噛んだ。




 再会は、この作戦が発動される前の作戦会議でのことだった。
 八ヶ月前と寸分違わぬ姿で、ただ、初めて見る濃紺の戦闘服に身を包んだ彼は、新しく着任した士官たちを無感動にちらりと見やり、視線を止めることも表情を変えることもなかった。
 まるで感情の色の見えないその様子は、ヒト型をした兵器に相応しくて。
 何か言いたい…、と軍議中でもあるに関わらず、灼けつくように強く思った。
 けれど、あの時振り返れなかった自分が、今更何をどう言えばいいのか。
 到底、言葉を思いつけず、また呼びかける隙もなく、会議を終えて立ち去っていく後ろ姿をちらりと見送るしかなかった。
 そして、この数日、作戦を共にして。
 ガーディアンというものがいかなる存在であるのか、ようやくその一端を知ったのだ。
 戦闘の要として、どれほど重い任務を課されているのか。
 どれほど兵士たちに必要とされているのか。
 戦場に置いては常に一番危険な箇所に身を置き、その持てる能力の全てを駆使して味方の援護をし、兵士を守り、敵を叩き潰すことが、ガーディアンの唯一絶対の存在意義。
 高性能レーダーと同等、否、攪乱される可能性がないことを考慮すればそれ以上の策的能力を持つ五感で、いち早く敵の動きを察知し、兵士がどう動くべきか、自分が何をなすべきかをを判断する。
 稀人に通じる部分はあるものの、世界でただ一体しか存在しないガーディアンはあらゆる面に置いて、その重要性は稀人とは比較にもならない。
 もちろん、その戦場における絶対的な強さは、軍全体に依存心を抱かせかねない。が、ガーディアンにも死があるということ、そして既に最後の一体しか残っていないことが、甘えの感情を食い止めている。
 ガーディアンは一人しかいない、だから目の前の敵は自分で何とかする。万が一、本当に絶体絶命、部隊全滅の危険にさらされるような時には、必ずガーディアンが援護に来てくれる、という信仰にも似た信頼を、兵士たちは抱いているのだ。
 依存心は戦場にあってはならないものだが、しかし確実な援護と正確な情報が得られるという安堵感は、銃弾に身をさらしている兵士に何よりも冷静さを与える。
 ガーディアンが戦場において不敗なのは、その能力もあるが、それ以上に兵士が怖気づき、浮き足立つことがないからだ。

 ───片膝を抱えた、小さな後ろ姿。

 堡塁の上に腰を下ろした彼は、ただ風景を見ているのではない。
 その彼方にあるものを……敵影を捉えるために、彼の視覚は青く光る空と遥かな地平線に据えられている。
 カシュローン基地で彼が毎日屋上にいたのは、あそこが好きだったからでも暇つぶしでもなかった。
 敵が接近するより先に発見すること。それが彼の使命の一つだから、彼はいつでも乾いた大地を見つめていたのだ。
 後から聞いたところによれば、決してそれは義務付けられた行為ではないらしい。しかし、兵士を守るという至上命令のために、彼は毎日、屋上へと白灰色の階段を上っていたのだろう。
 そんな彼があの時、戦闘飛行機の来襲を察知できなかったのは、常識外れの攻撃だったということもあるが、他のことに気を取られ、動揺していたからに違いない。
 だが、それでも、彼はその淡い虹色にきらめく翼を広げて、重傷を負った楊ゼンを守り、一撃で戦闘飛行機を破壊したのだ。
「────」
 正直なところ、あの光景を思い出すと、楊ゼンは今でも背筋にかすかな戦慄が走る。
 ガーディアンの非現実的な外見が──その桁違いの能力が、本能的な畏れを呼びさますのだ。
 その人間にあらざる力を持っていることを、誰よりも彼自身が哀しんでいるのだと分かっていても、畏怖を感じる心を抑えることができない。
「──守護天使、か……」
 戦場でなら、その恐るべき能力を頼もしいと……優しくきらめく翼を美しいと思えるのだろうか、と楊ゼンは小さな背中を見つめたまま考える。
 と、まさかその呟きが聞こえたのか、単に視線を感じたのか、堡塁の上に腰を下ろしたまま、彼が肩越しに振り返る。
「!」
 数十メートルの距離を越えて、深い色の瞳がまっすぐに楊ゼンを見つめる。
 内心かすかな狼狽をしつつも、楊ゼンはまなざしを逸らしはしなかった。
 そのまま、音もなく短い時間が過ぎて。
 特に感情を浮かべない、静かな表情でしばらくの間、楊ゼンを見つめていた視線がゆっくりと外され、元通りに地平線の彼方に向けられた時。
 ああ、と楊ゼンは思った。
 おそらく誰をも恨むことなく、すべてを諦め続けてきた彼は、あの時振り返ってやれなかった自分に傷ついてはいても、恨んだり憎んだりすることはしないのだろう。
 自分は人間ではないのだから、と通り過ぎる人々を、彼は諦めと共に許してきたのだ。
 けれど。
 それが分かったからといって、彼になんと言えばいいのか。
 否、それ以前に言葉をかける資格さえ自分にはない。
 こんな畏れを抱いたまま、彼の前に立つことなどできるはずがない。
「────」
 苦い思いを噛みしめて、楊ゼンは行き交う兵士の間を再び歩き出した。





        *        *





 再開された戦闘は、すぐに難しい展開となった。
 西方軍の攻撃は、基本的にまず戦闘飛行機による空からの攻撃で東方軍を混乱させ、そこに戦車部隊及び歩兵を送り込むという形をとっており、それに対して東方軍は、ガーディアンによって戦闘飛行機を抑え、数では勝る地上兵で敵軍を切り崩そうとする方針をとった。
 が、4機残っている戦闘飛行機は編列を組み、連携して攻撃してきたために、いくらガーディアンといえども彼らを抑えこむことは難しかしく、また兵士のいる地点から引き離そうとしても、戦闘飛行機は挑発に乗らず、その隙に地上を攻撃するため、兵士の損害も少なくなかった。
 しかし、そんな状況でも、この十日ほどの戦闘でガーディアンは2機の戦闘飛行機を撃墜し、地上兵も数度に渡って堡塁の陰から出て突撃を繰り返し、敵の部隊に自分たちがこうむった以上の損害を与えている。
 苦しい戦いではあったが、とりあえず、現時点は東側が善戦しているといえた。




「隊長、戦死した連中の遺体の回収は終了しました。あと重傷者は応急処置がすんだので、これから他の隊の連中と一緒に後方送りです。出発は1800時だと言ってました」
「分かった」
 副官の報告にうなずいて、楊ゼンは作戦卓上の戦死者名簿をちらりと見やる。
「結構死んだな……」
「まぁ仕方ないですよ。ガーディアンも頑張ってくれてますけど、敵の戦闘飛行機は一機がガーディアンを攻めてる隙に、もう一機が俺たちを狙ってくるんですから。二十ミリ砲は弾が側をかすめただけでも、衝撃波で肉が裂かれますからね、どうしようもないです。おまけにミサイルも降ってくるし」
「弾が当たるか当たらないかは、本人の運次第か」
「ええ」
「その点、君はしぶといな」
「こんな所で死ぬ気はないですから。ヘロヘロ弾になんか当たらないと信じてると、案外、本当に当たらないもんですよ」
 副官の答えに苦笑して、楊ゼンは立ち上がった。
 日に日に戦死者数も重傷者も増えているが、楊ゼン自身は完全に無傷である。
 流れ弾に当たるほど鈍くはないし、白兵戦になっても、只人の兵士には髪一筋をかすめることさえできない。
 唯一、楊ゼンを傷つけ、あるいは殺せる方法があるとしたら、不意打ちで半径百メートルほどをミサイルで吹き飛ばすか、楊ゼン以上の能力を持つ身体型の稀人が敵として現れるかのどちらかしかないと思われた。
「明日の打ち合わせに行ってくるから、後は頼む」
「了解です」
 うなずいた副官に見送られて、楊ゼンは天幕を後にした。




 作戦本部の天幕の入り口付近に、楊ゼンは顔見知りの相手を見つけて歩み寄る。
「よう」
 その相手──第三大隊長も、近付く楊ゼンに気付き、くわえ煙草のまま片手を上げた。
「そっちはどうだ?」
「いいとは言えないな」
「うちもだ。まだ悲鳴をあげるほどじゃないが、今日で戦死が40人を越えちまった。小隊2個分の損失だぜ」
「うちも明日あたりには、それくらいになるよ」
 楊ゼンの答えに肩をすくめて、第三大隊長は新たな煙草に火をつける。
 彼は楊ゼンと同じ身体型の稀人で、年齢は五歳ほど上だった。気取りのない、といえば聞こえがいいが、要はざっくばらんな性格で頭ごなしの命令を嫌う、上には煙たがられるが下には慕われる士官の典型タイプである。
 同一部隊に配属されたことはないが、楊ゼンと同様に北部戦線以来、転戦を重ねており、親しいというほどではなかったが、それなりによく言葉は交わす相手だった。
「──けど、楽といえば楽だな。あんな空飛ぶ化け物がいたんじゃ、こっちは一日で全滅してもおかしくねぇのに、むしろ優勢なんだからな。ガーディアン様々ってとこだ」
「ああ。正直、こんなに楽だとは思わなかったよ」
 ヘッドフォンの無線から、常に正確かつ詳細な敵の動きのデータが入ってくるだけでも、指揮官の負担は全然違う。
 今日も、敵の側面攻撃を事前に教えられたおかげで、敵を誘い込み、逆撃を加えることができたのだ。
 戦闘飛行機2機を相手にするだけでも負担は目一杯だろうに、どうやって戦場全体に目配りをしているのか、その余りある能力に感服するしかない。
「実際にここに来るまでは、ガーディアンなんざいらねぇやと思ってたんだが……。前言撤回だな」
「同感だ」
 それから、敵の歩兵部隊と戦車部隊の連携攻撃について、意見を取り交わしているうちに、辺りは急速に夕闇が押し迫ってくる。
「お、来たぜ」
 そろそろ中に入るかと時計を確かめた時、第三大隊長が小さくささやいた。
 見ると、薄闇の中を小さな人影が足早に近付いて来る。
 その姿に背を向けるような非礼はせず、二人の大隊長は敬礼して彼を迎えた。
 彼もまた表情を変えることなく、軽く答礼して二人の前を通り過ぎ、天幕の中へと消える。
「行こうぜ」
 煙草を捨ててつま先で火を踏み消した第3大隊長に促されて、楊ゼンもまた作戦本部へと足を踏み入れた。




 ガーディアンに階級はないが、待遇は将官クラスである。またどんな軍事機密でも内容を知ることができる権限を与えられており、事実上、ガーディアンは東方軍最高の存在として遇されていた。
 そんな、あらゆる意味で別格な彼は、作戦会議に置いては作戦卓の中央となる位置を常に指定席とされている。
 しかし彼が話すことは少なく、敵の動きや、そこから予想される展開を一通り述べた後は、静かに他の士官たちの発言を聞くばかりで、意見を求められた時以外は何も言わなかった。
 今後数日の戦闘の見通しを立てながら、楊ゼンは時折、さりげない視線で彼の様子を観察していた。
 彼自身は無傷のようだが、連日の激しい戦闘に、驚くべき耐久力を誇る濃紺の戦闘服も、わずかながらほころびが見える。
 身体が有機金属で構成されている以上、顔色はいつもと何も変わらなかったが、それでも心なしか憔悴しているような雰囲気があり、彼もまた疲労が蓄積していることをうかがわせた。
 その十代半ばの子供にしか見えない姿に、楊ゼンは内心溜息をつく。
 戦車部隊も、敵の戦車部隊を相手にするのが手一杯で、ガーディアンの援護までは手が廻らない。
 現状で戦闘飛行機に対抗できるのは彼しかいないとはいえ、ただ一人に多大な負担を押し付ける戦い方は、正直、楊ゼンには歯がゆかった。
 自分もまた、稀人として常に戦闘の要として責任を背負ってきた分、他者を一番危険な持ち場に向かわせるのには、どうしても抵抗を感じてしまうのである。
 かといって、自分が戦闘飛行機に対して何かをできるわけではない。
「───…」
 いつもと同じ、苦い思いを噛みしめて、楊ゼンは明日以降の作戦について説明する司令官の声に聞き入った。




「お疲れなのではありませんか」
 声をかけたのは、ふとしたはずみだった。
 作戦本部の天幕を出た時、たまたま前に居た彼が小さく息をつくのが見えたから。
 その戦闘服に包まれた肩が、あまりにも細く、小さかったから。
 思わず声をかけていた。
 自分の立場も忘れて。
「そうでもないよ」
 だが、何でもないように高くも低くもない声は答えた。
「これくらいなら、何ということはない。もっと厳しい戦いを経験したこともある」
 ゆっくりと振り返った小さな顔の中で、子供じみた大きな瞳が深い色にきらめいていて。
 その静かな色に、楊ゼンは答えるべき言葉を奪われる。
「むしろ、おぬしの方が疲れているのではないのか? ……今日、わしは戦闘飛行機を抑え切ることができずに、おぬしの配下の中隊への機銃掃射を許してしまった。七人が即死だったな……」
 感情のあまり浮かばない顔に、それでも確かに自責と悲しみの色がにじむ。
「あれは仕方のない状況でした。むしろ、あなたの妨害のおかげで7人で済んだのだと言っていい。それよりも、その前に敵の側面攻撃を知らせて下さった事の方が重要です。あの時、もし気付くのが遅れていたら、第八大隊は壊滅に追い込まれていたかもしれません」
「わしは、わしの役目を果たしただけだよ」
 敬語を使った楊ゼンの言葉を静かに受け止めて、淡々と彼は答えた。
 そして、西の地平線近くに細く光る月を見つめながら、続ける。
「西側の戦闘飛行機の連係プレーは日に日に巧妙になっているが、残りは2機だ。できることには限りがある。数日中には必ず撃墜するから、もうしばらくの間、苦しいとは思うが頑張ってくれ」
「はい」
 うなずきつつも、細い刃のような月を見つめる横顔に、楊ゼンはかすかな胸騒ぎのようなものを感じる。
「戦闘飛行機の相手はあなたにしかできませんが、だからといって、あまり無理はなさいませんように……」
「わしが機能停止したら、代わりはおらぬからのう」
 くすりと小さく笑って、彼は楊ゼンを振り返った。
「気にかけてくれずとも大丈夫だよ。余程のことがない限り、わしが力を使い果たすことはない。生脳の寿命も、まだ百年以上残っておるしな」
 おぬしは自分の隊のことを気にかけよ、と言うと、宵闇の空に浮かぶ細い月にどことなく似た淡い笑みを最後に、彼は楊ゼンに背を向けて立ち去った。
 その小さな後ろ姿を、楊ゼンはただ見送ることしかできず。
 あの時と同じ──あるいは、それ以上にもどかしい何かがこみあげてくるのを、きつく拳を握り締めることで耐えるしかなかった。





        *        *





 この日、西方軍の戦闘飛行機の1機が、長い空中戦の末、撃墜された。
 最後の1機となった戦闘飛行機は全弾を撃ち尽くした後、西の空へと帰還してゆき、それを潮に地上でも西方軍が後退する形で一日の戦闘が終結した。
 深追いすることはないと追撃を控えた東方軍は、あと1機、と既に勝ったような雰囲気に包まれ、司令官たちの訓戒も行き届かない有様になった。
 夕食として配給された軍用レーションと少量のアルコールを、一日の戦闘で空っぽになった胃に送り込みながら、兵士たちは口々に女のことや故郷のこと、戦いのことなどを語り合っていた。
 それらの雑多な会話の話題が、この戦いの最大の功労者のことになったのは、何のはずみだったか。
 すぐ近くから聞こえてきた声高な言葉に、ふと楊ゼンは耳をそばだてた。


「けど、やっぱりガーディアンってのはすげぇな」
「あんなでかい金属の塊を一撃で撃ち落すんだもんなぁ」
「しかも、地上の俺たちまで目配りしてな。見かけは、あんな子供なのに……」
「でも、本当の歳は、ここにいるより誰よりも年寄りなんだろ?」
「ああ、だって俺の祖父さんも、ガーディアンと一緒に戦ったって言ってたからな。もう口癖だったぜ。背中の羽根が奇跡みたいに綺麗だったってさ。ガキの頃、散々聞かされた」
「あー、でもそれ分かるぜ。俺もきっと将来、ガキができたら言うよ。俺はガーディアンと一緒に戦ったんだって……」
「何か、女を口説く時にも言ってそうだよな」
「そんな手に引っかかるなんて、どんな女だよ」
「いや、それが案外……」
 ひとしきり笑い声が続いた後、誰かがしみじみとした口調で言う。
「きっと俺たち、運がいいんだよな。ガーディアンと一緒に作戦やれるなんて」
「伝説と一緒に居るんだもんな」
「俺、前に一度すぐ側でガーディアンを見たことあるけど、感動もんだったぜ。翼が空に透けて、まるで本当の虹みたいでさ。銃撃戦の最中だったんだけど思わず見とれちまった」
「そうだよなー。遠くから戦ってるのを見ても、綺麗だもんな。きらきらしてて、ああ、あそこに居るんだって安心するんだよ」
「そうそう」
 うなずいたあと、一人の兵士が少し口調を変えて口を開いた。
「俺さ、昔、まだぺーぺーだった頃に、ガーディアンに助けられたことあるんだよ」
 その言葉に引き寄せられたように、居合わせた兵士たちは、ふと会話を止めて続きを待つ。
「キオールで作戦中だった時、俺の居た小隊が側面攻撃受けて壊走したんだ。敵の戦車が機銃掃射してきやがって、もう駄目だと思った時、ガーディアンが助けてくれてさ。翼で俺のこと庇ってくれて、自分が時間を稼ぐからその間に逃げろって……」
 しんと鎮まった中に、低い声が静かに響いた。
「で、逃げようとして、ふっと何気なく見たらガーディアンの左手がなかったんだ。吹き飛ばされたみたいに、肘から先がちぎれてて……」
「──でも…ガーディアンって、腕や脚が無くなっても再生できるんだろ?」
「その暇がなかったんじゃねぇかな。最終的に俺たちが勝ったけど、ひでぇ戦いだったから」
「で、どうしたんだ?」
「どうしようもねぇよ。驚いて顔を見たら、すごく苦しそうな顔してたのにちょっと笑ってさ、早く行けって言って、すぐに敵の戦車の方に行っちまったんだから」
「────」
「おかげで俺は命拾いしたんだけど……何ていうか、それまでとガーディアンに対する考え方が変わってさ。ほら、ガーディアンって痛みとか感じないような気がするだろ? 身体そのものが俺たちとは違うんだし……。でも、やっぱり痛いもんは痛いんだなってさ」
「そうだよな……」
「でも、それってすごく辛くねぇか? 身体はもう人間じゃないのに、痛みは感じるなんて……。そりゃ滅多に怪我することなんかねぇだろうけど」
「なのに優しいんだよな。確かにそれがガーディアンの仕事なんだろうけど、身体張って俺たちのこと守ってくれてさ。俺、時々感動するんだよ。おまえの経験じゃないけど、ギリギリのところで兵隊を助けてるの見たりすると。何であんなことできるんだろうって」
「絶対、見捨てたり諦めたりしないもんな」
「そうだよ。たとえ敵に囲まれてて絶体絶命でも、俺たちが逃げられるよう突破口を開いてくれるし」
「すごいよな、ガーディアンは……」




「彼らは怖くないのかな……」
 しんみりと呟かれた言葉を聞き終えて、楊ゼンは顔を兵士たちに向けたまま、側にいた副官に問いかけた。
「ガーディアンがですか?」
「ああ」
「──まぁ、怖くないと言ったら嘘になるでしょうけどね」
 淡く湯気の立ち上るコーヒーの紙コップを手の中でもてあそぶようにしながら、副官は答える。
「一緒に戦っていると、それ以上に、すごい、という気分が先に来るんですよ。敬意というか、一種の信仰心というか……」
「そんなものかな」
「中佐殿は、怖いとお感じになりますか」
 ことによっては上官に対する不敬ともとれる質問に、楊ゼンは少し考えてからうなずいた。
「自分が稀人のせいか、あんなことができるはずがないと思うとな。理屈も何もなく怖くなる。君たちが稀人の私に感じているのも、こんな感覚か?」
 ちらりと副官を見ると、彼は口元に小さく笑みを浮かべた。
「似てるかもしれません。ただ、それは平時のことで、戦闘中はそんなこと言ってられませんからね。ガーディアンと同じ、と言っては失礼ですが、頼もしいとかそういう感覚に変わりますよ。指揮官が稀人で良かった、という」
「──君は、私が上官で良かったと思うのか?」
「ラッキーだったと思ってますよ。あなたの側に居れば、戦死の確率は限りなく低くなりますから」
「……そんなものかな」
「そんなものですよ。確かに自分たち只の人間から見れば、稀人もガーディアンも畏怖の対象です。でも、自分たちを守ってくれていることも知ってますから」
 副官の言葉を聞いて、楊ゼンはもう一度兵士たちの一群に目を向ける。
 既に話題は他に移ったのか、互いをこづきあい、笑い転げながら彼らはしゃべっている。
 その様子を見つめながら、楊ゼンは、この戦場のどこか一角で、今頃たった一人でいるはずの人のことを思った。





        *        *





 幕切れはあっけなかった。
 勝利を目前にして勢いづいた東方軍の猛攻に、西方軍は後方の補給基地へと退却を始め、ただ一機残った戦闘飛行機もガーディアンの攻撃を受けて、すべての攻撃のすべを失い、黒煙を上げながらかろうじて西に飛び去っていった。
 そしてその翌朝、ミリムから西方軍が完全に退却したことと、戦闘飛行機も数十ガル離れた地点で不時着したことの報告を受け、この作戦が完全勝利に終わった ことを全軍が知った。




 お祭り騒ぎのシュクリス基地の中を、楊ゼンは副官も連れずに一人で歩いていた。
 食堂やレクリエーション用ホール、ロビーなどは言うに及ばず、至る所で兵士たちが長かった戦いの勝利に歓喜を爆発させている。
 楊ゼンはそれらを器用に避けながら、あちこちに酔っ払いが座り込み、あるいは寝転がっている階段を上った。
 エレベーターを使わなかったのは、単にエレベーターの扉に寄りかかるようにして寝ている酔っ払いを目にしたからである。
 そうでなくとも、基地中がでたらめに動いているようなこの状況では、自分の肉体と感覚を最大限に活用するのが正解だっただろう。仮にも中佐の階級にある者がエレベーターの中に閉じ込められるなどというのは、兵士たちを楽しませるささやかな醜聞としてもあまりにもみっともなかった。
 淡々とした歩調で白灰色の階段を昇りつめ、屋上へと続くドアを開く。と、さあっと新鮮な乾いた空気が流れ込んできて、楊ゼンは一瞬、目を細めた。
 いつもなら一つに束ねている髪を解いて流したまま、ゆっくりと風の中へ足を踏み出す。
 そして辺りを見回せば、すぐに求めていた人影は見つけることができた。




「何が見えますか?」
 いつかのようだ、と思いながら、屋上の端に腰を下ろした人に問いかける。
 あの時は、まだ何も知らなかった。
 何にも気付かないまま声をかけ、言葉を交わした自分は、この人にとってどんなに残酷な存在だったのだろうと楊ゼンが考えていると、短く返事が返ってくる。
「何も」
「何も?」
「空と大地と風だけ。今日は静かだよ。何も動かない」
 そう言って、彼は振り返った。
「こんな所に来ておっていいのか?」
「お祭り騒ぎは性に合いませんから。部下たちはみんな楽しんでるようですから、放っておいても大丈夫ですよ」
「困った隊長殿だのう」
 淡い微笑をひらめかせて、彼は青い空にまなざしを向ける。
 陽光に艶をはじく、蛋白質で構成されたものと何ら変わらぬように見える黒髪が、風になびいて揺れるのを楊ゼンは見つめた。
「───それで…」
 しばらくの沈黙の後、彼が静かに問いかけた。
「おぬしが部下を放って、こんな所まできた理由は何だ?」
「何だと言われても困るのですが……」
 ゆっくりと楊ゼンは答える。
「ただ、あなたと話をしたいと……僕の話を聞いて欲しいと思ったんです。迷惑なことでしょうが……」
「───…」
 空を見つめたまま、彼はまばたきする。
「これから話すのは、僕の勝手な一人語りです。聞きたくなかったら、耳を塞いで、忘れて下さい」
 空の青さを映した呂望の深い瞳の色を見つめながら、楊ゼンは静かに続けた。
「──おそらく、あなたは僕の心情を分かっていらっしゃるでしょう。尋常にあらざる力を恐れる人間の卑小さを、あなたはよく知っていらっしゃるはずだ。そうでなければ、あの時の僕を許せたはずがありません」
 そう言い、少し待ったが、言葉がさえぎられることも否定されることもなかった。
 人形のように動かない横顔に、楊ゼンは語りかける。
「言い訳をするつもりはありません。僕はあの時……あなたが声をかけて下さった時に振り返れなかった。それは事実です。……でも、この1ヵ月余りの間、同じ戦場で戦っているうちに、少しずつ見えてきたことがあるんです」
 一見、戦闘値に圧倒的な差がありそうな戦闘飛行機を、一機、また一機と撃墜していきながら、その最中でも兵士を庇い続けた彼。
 いつでも一人、堡塁の上で敵の動きを観測し続けていた彼。
 小さな背中に見えていたのは、過酷な任務を果たそうとする精神と、たとえようもない孤独。
「僕は結局、何も分かってなかった。自分が稀人であることや、あなたがガーディアンであることがどういう意味を持っているのか……。部下たちの会話を聞き、話をしてようやく分かったんです。
 人にあらざる力は恐れられるものですが、決してそれだけではない。僕の部下には、僕やあなたを恐れる気持ちも確かにあるようでしたが、それ以上に稀人として、ガーディアンとしての能力を信頼してくれているのだと……。
 それに気付いて、ようやく自分の心に整理をつけることができました」

 そして、楊ゼンはゆっくりと告げる。


「あなたが好きです」


 彼──伏羲は、青い空へと向けたまなざしを逸らしはしなかった。
 だが、細い肩が……深い色の瞳が、かすかに揺れて。

「正直に言えば、まだ僕はあなたが少し怖い。あなたの力を……姿を見て、感動するよりも畏怖を感じる心の方が強いんです。それでも、たった一人で戦い続けるあなたを見て、あなたのために何かしたいと……、あなたを失いたくないと思ったのは本当です」
 乾いた大地を吹き抜ける風を受けながら、楊ゼンは静かに言った。
「自分にこんなことを言う資格がないのは承知してますし、あなたの心を惑わせるつもりもありません。ただ、あなたに言っておきたかった」
 軍人である以上……稀人である以上、死はいつ訪れるとも知れない。
 今回は同じ作戦に従事したが、一週間後にはそれぞれ異なる土地へ配属されるかもしれない。
 そんな明日の存在さえ曖昧な自分たちだから。
 まだこの口が言葉を発することができる今のうちに、告げておきたかった。
 身勝手だとは承知しているけれど。
「僕の話はこれだけです。お一人のところをお邪魔して申し訳ありませんでした」
 謝罪して、下に戻ると言おうとした時。
「───…」
 彼が小さく何かを言った。
 遥かな地平線へと向けられたままの瞳に、何とも言い難い光がにじんでいるのに気付いて、楊ゼンはその凛としたものの消えることのない横顔を見直す。
 と、もう一度、彼の唇が動いた。
「………おぬしが、」
 高くも低くもなく、冴えて透る静かな声が風にさらわれる。
「いつかおぬしが死んでも、わしはこの先も生き続ける。わしとおぬしが生きる時間軸は違う。それだけではなくて、何もかもが……」
 ゆっくりと彼が振り返る。
 大きな瞳が、もどかしげな……やりきれない色をにじませて楊ゼンを見つめる。
「この身体は生身ではないし、思考は全てガーディアンとしての任務に直結していて、それを忘れることはない。おぬしはわしを怖いと言うが、当然なのだ。自分でも自分が怖いと思うことがあるのだから……」
 静か過ぎるその声に、からからに渇き切った絶望を楊ゼンは聞き取った。
 持っていたもの全てを奪われ、何一つ望むことを許されなくなった魂は、こうして一つ一つ色々なものを諦めながら、六十年余の年月を刻んできたのだ。
 それがひどく痛くて。

 ───愛しい。

「だから、おぬしは何も気にするな。わしのことなど気にかける必要はない。全部忘れて……」
 どこか泣き出しそうにも見える淡い微笑を浮かべてそう言いかけた、彼の細い肩を。



 両手を伸ばして、抱きしめようとした、その時。





 低い爆音が耳に届いた。





「な……!」
 見上げた青空にたなびく黒煙。
 それはまぎれもなく、昨日かろうじて撃墜をまぬがれ、不時着したはずの西方軍の戦闘飛行機。
「まだ動けたのか……!?」
 パイロットの戦闘薬の効果は、おそらくもう切れているはずなのに。
 友軍の元へ帰還することでなく、空を飛ぶという発狂しそうな恐怖を感受してまで玉砕することを望んだのか。
 ……否、既に発狂しているのかもしれない。
 戦闘飛行機のパイロットに使用されていた薬物は、使い続ければ精神を破壊してしまうほどに強いものだった。
「楊ゼン、すぐに司令官に報告せよ!」
 凄まじい勢いで戦闘飛行機はシュクリス基地へと接近してくる。
 戦勝に浮かれていた基地は、緊急事態に対処するだけの能力があるかどうか。
 背筋が冷えるのを感じながら、楊ゼンはガーディアンの命に従って駆け出す。
 最後、屋上からドアへ入る瞬間、淡くきらめく翼が広がるのが視界の端に見えた。








 戦闘飛行機のスピードは尋常ではなかった。
 満身創痍で黒煙を上げながら、これまでに対戦したどの時より機敏に、致命傷となるはずのこちらの攻撃を避ける。
 近距離で見てみれば、すでに銃座さえもぎとられているというのに。
 身一つで、基地に突っ込もうとしているのだ。
 ───この距離では……!
 動力炉に被弾して機体が爆発したら、基地にまで被害が及びかねない。
 だが、手加減できる状況でもない。
 基地の酔っ払いたちは既に事態に気づき、避難を始めているだろうか、と思いつつ、伏羲は変形させた左手から迫撃砲を撃ち込む。
 が、それさえもわずかに機体をひねり、戦闘飛行機は致命傷となることを避けた。
 その動きに目をみはり、もしかしたら、と考える。
 戦闘薬の常用が、パイロットが潜在的に持っていた尋常ならざる力を引き出したのだろうか。
 まるで、身体型の稀人のような機敏さ、勘の鋭さは、そうとでも考えなければ理解できない。
 ───おぬし自身に何の罪があったわけでもないのにな……。
 それでも、味方に危害を加えるものは、決して許すわけにはいかない。
 狙い定めて、機銃掃射すると尾翼の一部が折れ、音を立てて機体が炎に包まれる。
 だが。
 次の瞬間、目を疑う。
「な……!?」
 それでも墜落することもなく。
 まるで奇跡のように、燃え上がる機体は基地へと突っ込んでゆく。
 まるで、パイロットの魂を糧としているかのように。
 何の迷いもなく。
 シュクリスに、墜ちる。
 ───間に合わない……!
 あらゆる機械の動力として使用されている核石は、ほんの小指の先ほどのひとかけらでも、すさまじいエネルギーを持つ。
 戦闘飛行機に使用されている核石が爆発したら、この基地ひとつくらいは吹き飛んでしまう。
「駄目だ……!!」
 死なせてはいけないと。
 ガーディアンの本能が悲鳴を上げる。





 その瞬間。






「え……」
 ガーディアンの攻撃を受けて火だるまになった戦闘飛行機が、それでもなお墜落することも空中爆発することもなく突っ込んでくるのを見て、一気に酔いの覚めた兵士たちが恐慌状態で、我先にとやみくもに基地の中を走り出した瞬間。
 ふいに、接近していた戦闘飛行機の発する爆音が遠くなった。
「あ……?」
 窓を振り返り、立ち止まった兵士につられて、一人、また一人と連鎖的に立ち止まる。
 その誰もが一様に、ぽかんと口を開けて窓の外を見つめたまま、動けなくなる。
「あれは……」
 呟きは、どこかひどく遠くから聞こえた爆発音にまぎれて、誰の耳にも届かない。
 そのまま奇妙な静寂が満ちて。

 兵士たちを我に返らせたのは、かすかな優しい響きの音だった。

 基地の窓の外一面に広がり、視界をさえぎっていた透明に近い半透明の、ごくごく淡い青を主体とした優しい虹色にきらめくものに、ひびがはいってゆく。
 ぴしり、ぴしりと小さな音を立てながら。
 しゃらしゃらとひそやかな音を立てながら、薄い貝殻のような美しいものが壊れ、崩れててゆく。
「ガーディアン……」
 呆然と呟いた誰かの言葉に、ざわめきがさざなみのように広がる。
 そして、誰からともなく兵士たちは基地の表へと歩き出した。




 基地の前面は無残な状態だった。
 戦闘飛行機の機体が爆発四散し、黒焦げになった破片が一面に散らばっており、防御壁も一部が崩れている。
 だが、基地の建物そのものは完全に無傷で、その壁際には、淡くきらめく硝子のような破片がいっぱいに積もっていた。
 何が起きたのか、誰も口に出さずとも理解しており、誰もが基地を……自分たちの生命を守ってくれた存在を探していた。
 どこかまだ夢を見ているかのように遠く感じる不安を胸に抱いて、彼らは沈黙したまま周辺を見渡す。
 やがて。
 一人の士官が防御壁の向こうに広がる荒野へ踏み出したのを見て、兵士たちはその後へと続く。
 非常時である以上、基地の外へ出るのは許可が要るのだが、誰ひとりそんな規則を思い出しはしなかった。





        *        *





 彼に命じられて司令官の元へ行った後、冷凍肉のように転がる部下たちを蹴り起こしながらシェルターへ逃げるように呼びかけつつ、窓の外で繰り広げられる光景を見つめていた。
 だから、自分は分かっていたのかもしれない、と思う。
 戦闘飛行機のパイロットの意思──それは絶望だったのか怒りだったのか、哀しみだったのか、そんなことは分かりはしないが、それを食い止めるために、彼が身体を呈することを予想してはいなかったか。

 渇いた大地に横たわった小さな身体は、まるで人形のようだった。

 限界までその能力を使い切った有機金属は、既に端の方から薄黄色を帯びた灰色に変色し始めており、石膏でできた像のようにひびの入った細い手は、指先が欠けていた。
 大地に膝をつき、汚れた頬に散っている黒髪にそっと指を触れると、まだやわらかさを残した髪は、つい先ほどまで風になびいていたのと同じようにさらさらと流れた。
 けれど、指先に触れた肌は、ひやりと冷たくこわばっていて。
 既に温もりを失っていた。
 血がにじむほどに唇を噛みしめて、やわらかさを失いつつある身体を地面から抱き上げる。
 小さな身体は、思っていたよりもずっと軽かった。


「───呂望……っ」


 兵士たちが遠巻きに見守る中、その身体を強く強く抱きしめて。


 あの日以来、呼べなかった名前を、楊ゼンは血を吐くような声で呼んだ。






to be continued...










というわけで、長らくお待たせいたしました。『SACRIFICE』第5回です。
待たせた挙句、これかい!!と皆様のお怒りの声が聞こえてきそうですが・・・UPが遅れたのは、皆様の反応が怖かったからではなく、こういう内容なので、まとまった時間が取れるまで取りかかれなかったからです。
今回の展開は、春にこの作品を思いつき、プロットを切った段階から決まっていました。(USAのテロ事件に似てるのは、だから偶然です。10日前にUPしていれば予言になったんですが・・・)
物語はまだ続きます。ようやく半分を過ぎたところですので、この先の展開をお待ち下さいませ。m(_ _)m




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