SACRIFICE  -ultimate plumage-

7. sacred prayer








 面変わりしているという自覚はあった。




 執務室に入室し、敬礼を下ろした途端、上官が一瞬ではあるが、ほんのわずかに眉をひそめた理由は言われずとも分かっていた。
 何しろ、与えられた二ヶ月の休暇の間、まともに睡眠を取った記憶も食事をした記憶もない。
 それどころか、呼吸することさえ苦痛でしかなかった。
 そんな生活状態は、最前線に戻ることが分かっている軍人にとって許されるべきものではない。本来ならば、休暇を消化する前に自分は退役願いを出すべきだったのだろう。
 だが、それを思いつくよりも先に、上官に釘を刺されたのだ。
 貴官は我が軍に必要な人材なのだと。
 そして、稀人にとって最も生き易い場所は軍隊なのだと。
 現実を受け止めきれず、自失状態に陥りかけていた時、おそらくわざとであろう叱責にも似た厳しい言葉で説かれ、長期休暇を言い渡された。
 ───だが、戦場を離れたところで、染み付いた血の臭いは消えるものではなく。
 中立地帯の美しい観光都市にいても、ただ苦しいばかりだった。
 そうして無為のまま二ヶ月を経ても、何より大切なものを目の前で喪った衝撃は、生々しく胸の裡に息衝いたままで。



「元気そうだとは言わんが……前線復帰に問題はないな?」
「はい」
 問いかけに短く答える。
 長い休暇の間中、何のトレーニングもしなかったが、身体型の稀人は、生まれながらにして超人的な身体能力を持つ戦士だ。どれほど神経が張り詰め、ボロボロになっていても、ひとたび戦場に立てば条件反射で身体は動く。
 否、精神面の余裕がない分、むしろ手加減ができず、不必要なまでに容赦なく敵を打ち倒してしまうに違いなかった。
「それなら、新しい任務だ。今回の部隊再編成に伴って、貴官を第四十一師団第十七大隊長に命ずる。階級は大佐だ。最初の任務は、来月より半年間、イシュハ基地勤務となる」
 普段と何ら変わらない口調で上官が告げた命令を、他人事のように無感動に聞き。
 楊ゼンは承諾の意を伝えた。





 カシュローン基地は、相変わらず無機質な白灰色をしていた。
 愛想のない通路を歩き、宿舎へと戻ってきた楊ゼンが、メッセージの着信を示すパイロットランプに気付いたのは、一つに束ねていた髪をほどいた時だった。
 机上の端末に点っている小さな赤い光に気付き、何気なく送られてきた通信文を開いた途端。
 楊ゼンは眉をひそめて、そもそも機嫌が良いとは言いがたかった表情を更に曇らせる。
 端末の画面を見つめたまま、しばしの間、思案の淵に沈んで。
 唇を噛み、一瞬目を伏せた後、楊ゼンは元通りに長い髪を首筋で束ね直し、戻ってきたばかりの私室を出た。





 直線も白灰色も、時として人をひどく疲れさせる。
 そのことを、楊ゼンは改めて砂を噛むような思いで確認していた。
 たとえば、激烈な戦闘から生還した時、同僚や部下が戦死した時。
 白っぽく、まっすぐ続く基地の廊下を歩くのは、ただでさえ積もり積もった疲労を倍増させるようで、とにかく官舎の自分の部屋へ早く戻ろうと、重い足で黙々と歩いたものだ。
 死線を乗り越えて疲れきった日には、その自然ではありえない無機質さに、獣のように叫びだしたくなったこともある。
 そういう意味では、確かに自分は強い人間ではないことを楊ゼンは良く分かっていた。
 だから、本当は軍人にも向いていないのかもしれない、とまっすぐな廊下を歩きながら考える。
 親代わりの人物が軍人であり、また稀人としての能力も職業選択の幅を極端に狭めていたから、当たり前のように入隊したのだが、もしかしたら、それは間違っていたのかもしれない。
 だが、かといって何がしたいのか、戦う以外に何ができるのかと自問しても、答えは出てこない。
 ただ、自分は決して他人から思われているほど図太くはないこと、稀人が受け入れられる場所は、この世界に決して多くはないことが分かっているだけで。
 自分が何をどうすべきなのかも分からないまま、義務的に足を動かして白灰色の廊下を進む。
 三つの建物を通り抜け、どこもかしこも同じに見える直線を歩き続けて。
 ようやく目的地のドアが見えてきた所で、しかし楊ゼンは歩む速度を鈍らせた。
 一歩ごとに足を踏み出す動作が鈍くなり、とうとうドアまであと少しの距離で立ち止まる。
「────」
 わずかに眉をひそめ、こわばったまなざしで、しばしの間、廊下と同じ色のドアを見つめて。
 誰かに見咎められる前に引き返そうかと一瞬逡巡した心を、拳をきつく握り締めることで引き止め、ぐっと歯を噛み締めて重い足を前に踏み出す。
 ゆっくり、ゆっくり、たった十歩の距離を詰めてゆき、ドアの前で握り締めていた指をほどいて、インターホンを押す。
 そして、ほんの数秒の後。
 あまりにもあっさりと、白灰色のドアはスライドした。





「休暇も取らないよりは良かったんだろうけど……」
 でも、せっかくの二ヶ月の休みも、君の役には立たなかったみたいだね、と部屋の主は、いたむような瞳で微苦笑した。
「でも、君の顔が見られて嬉しいよ。もしかしたら、もうここには戻ってこないかもしれないと思ってたから」
「……他に行く場所もありませんから」
「そうだね。ここ以外帰る場所なんて、私にもない」
 感傷も憐れみもにじませることなく、あっさりと彼は言った。
 その達観したような表情を正視することができず、楊ゼンは礼を失さない程度に目線を逸らす。
「──僕をお呼びになった御用は何でしょうか」
「ああ、そうだったね」
 私が呼びつけたんだった、と思い出したように言い、彼は羽織った白衣のポケットに両手を突っ込む。
 その仕草はどこか学生じみていて、大陸で最高の頭脳を持つ科学者とは到底思えなかった。
「帰ってきたばかりの君を、わざわざここに呼んだのは、君に見てもらいたいものがあるからなんだ」
「僕に?」
「そう。君に」
 問い返したまなざしの先で、青年科学者は微笑う。
「どうしても見て欲しいんだよ。たとえ君が嫌だと思っても」
「────」
 楊ゼンは微かに眉をひそめ、曇った表情で彼を見つめた。

 太乙が何を見せたがっているのかは知らない。
 だが、それが何に関するものであるのかは予想がつく。
 そもそも呼び出しを受けた時点で、そんなことは分かっていた。
 太乙と自分を繋ぐものは、故人となった養父と『彼』の存在しかないのだから。
 そう。
 分かっていて、あえてここまで出向いてきたのは自分だ。
 白灰色の長い廊下で、何度も足を止めたくなった。
 引き返したかった。
 けれど、目を背けたくなかったから。
 どれほど苦しくとも辛くとも、もう胸をえぐられる痛みでしか『彼』を感じることはできないのだから、すべての苦痛を受け止めたくて、ここまで歩いてきた。
 もう何一つ残されてない今、『彼』が確かに存在していた事実からだけは、せめて目を逸らすまいと。
 そう決めて、書きかけた除隊願いを破り捨て、ここに戻った。
 ならば。

「分かりました」
「───うん」
 静かに応じた楊ゼンに、太乙は痛みを思いやるような表情でわずかに微笑する。
 そして、寄りかかっていたデスクから離れた。
「じゃ、こっちに来てくれるかい」
 すたすたと白で統一された室内を横切ってゆく白衣を、楊ゼンは追って。
 ───え…?
 視界に入った研究室の一番奥にあるドアに、瞳をまばたかせる。
 ───こんなドアがあったか……?
 既にこの研究室には、十回近く足を踏み入れている。
 どんな場所であれ、自分が今いる場所にすばやく目を配り、周囲にあるものの配置を意識に叩き込んで、いざという時の戦い方、あるいは脱出法をシュミレーションしてしまうのが軍人の性だ。
 なのに、このドアには見覚えがない。
 研究室の一番奥はただの壁だったはず、と楊ゼンが己の記憶を探った時。
 戸惑いを見透かすように、ドアに手をかけ肩越しに振り返った太乙が、ふっと微笑った。
「このドアは、昔から在ったよ。──ずっと前からね」
 その言い方に引っかかるものを覚えた楊ゼンが向けた視線に答えないまま、太乙はドア横にある電子ロックに暗証番号を打ち込む。
 十二桁のコードを入力し終えると同時に、ロック解除を告げる小さな音がし、ドアが横にスライドする。
 その向こうに現れたのは、ほんの小さな空間だった。
「エレベーター……?」
「そう」
 一足先に中に入った太乙に手招きされ、楊ゼンもエレベーター内に足を踏み入れる。
 と、太乙が操作盤の開閉スイッチを押し、ドアが閉まった。
 降下し始めたエレベーターの作り出す重力を感じながら、楊ゼンが操作盤に目をやると、階層の表示はどこにもない。
 つまり、エレベーターの行き先は一つということだ。
「──私が、このエレベーターの存在を知ったのは、ガーディアンの保守管理者として赴任してから、半年くらいが過ぎた頃だった」
 白衣のポケットに両手を突っ込み、壁に背を預けた格好で太乙が語りだす。
「理由なんか知らない。多分、あの子が私を信用する気になってくれたんだろうと思うけど……。据付けだと思っていた棚の後ろに、これが隠されていることをあの子が教えてくれた」
「ですが───」
 少なくとも自分が研究室を訪れた時には、『壁』は隠されていなかった、と楊ゼンが言おうとした時、またふっと太乙が微笑し、視線を流して楊ゼンを見やった。
「いつでもドアはあそこにあったよ。いちいち棚を動かすのは面倒だからね」
 薄い唇がゆっくりと動く。
「君も、いつもここに来るたびにドアを見ていたはずだよ。ただ、君の記憶に残らなかっただけだ」
「な……」
「それが私のもう1つの能力なんだ。対象物を意識のシールドで覆い、あらゆる物理的精神的な影響を遮断することができる。障壁能力と言えばいいかな」
 淡々と太乙は告げた。
「この能力は公表してない。どんな攻撃でも防げる、どんな隠密行動でもできるなんてバレたら、面倒なことになるからね。複数の能力を持つ稀人はただでさえ寿命が短いのに、これ以上行動を制約されたくない。
 知っているのはあの子と君だけだ。玉鼎はいい奴だったけど、根っからの軍人だったから、打ち明けるわけにはいかなかった」
「────…」
 驚きに言葉を失った楊ゼンの脳裏を、ふと何かがかすめる。
「では……、あの実験場も……」
 初めて太乙の研究室を訪れた折。
 光剣の実技テストをした部屋のことを思い出して問いかける。
 と、太乙は微笑した。
「そう。あの操作盤はただの張りぼてだよ。内部の配線は何もない。君の技が放った衝撃を防いだのは、私の作った意識の壁だ」
「それは……」
 確かにとてつもない能力だった。
 そんな能力を持っていることを軍が知ったらどうなるか。火を見るよりも明らかだ。
 ただでさえ電脳並の演算能力を持つということで、軍から生涯解放されない立場にあるのに、更なる異能力など公表できるわけがない。
 軍は確かに、特異能力を持つ稀人に居場所を与えてくれる。
 だが、それは同時に、特異能力を都合のいいように利用されるということでもあるのだ。
「────」
 それを明かしてくれたということは、自分が軍に服従している模範的な軍人ではないということを太乙が見越しているからだろう、と楊ゼンは理解する。
 もしかしたら他に生きる術もあるのかもしれないが、軍隊という世界で己の能力を利用し、利用される生き方を選んでいることに、諦めと苛立ちを同時に感じている。
 更には『彼』を利用するだけ利用した軍の上層部に怒りを持っている、そんな人間が、他者が隠している異能力を他に漏らすはずがないと。
 それは一種の信頼でもあり、冷徹な判断でもあって。
 そうか、と理解が、あっけないほどにすとんと楊ゼン胸の内に落ちてくる。

 同じ匂いを持っているのだ。
 自分も、太乙も。
 ───望んで稀人と生まれたわけではない。
 望んで軍人となったわけではない。
 だが、この世界では他に生きる術がなかったことに。
 他の生き方を選べなかった己に、諦めと苛立ちと怒りとが入り混じり、心の奥底に渦を巻いている。
 そのことに、太乙はおそらく最初から気付いていたのだ。
 ───そう。
 稀人には、稀人同士にしか分かり合えないものがある。
 世界と己に苛立ちを持っている者同士にしか、感じられないものが。

 エレベーターは旧式のものらしく、かなりゆっくりと降りてゆく。
 それでも随分と長い時間降下し続け、ようやく小さな衝撃とともに静止し、自動的にドアが開いた。
 薄暗い、と目の前に現れた空間に、反射的に楊ゼンは感じる。
 照明は点灯していないようで、ただ広い空間の中心にあるものから放たれている淡い光だけが、ぼんやりと周囲を照らしている。
「研究室……?」
 淡く浮かび上がっているのは、実験器具らしい道具類、機械類と、幾つもの棚。
 日常使われているものではないのか、まるで何かの廃墟のような気配があたりを押し包んでいた。
「そう。ここは研究室だよ。ここでガーディアンは生まれた。生み出された、と言うべきかな」
「え……」
 薄闇の中に足を踏み出しながら告げた太乙の言葉に、楊ゼンは目をみはる。
「非道な人体実験は、いつだって自国の領内ではなく占領地で行われるものだよ。ガーディアン計画が立案された当時、カシュローン基地は建設の真っ最中で、極秘の研究室を作るのには都合が良かったんだ。記録は当時から既に抹消されていたから、もう誰も、この事を知らないけどね」
 よほどここに慣れているのか、太乙は迷いのない足取りで研究室内部へと歩いてゆく。
 楊ゼンも慌てて後を追った。
「ここは本当に極秘の施設で、ガーディアンを作り出した初代の研究者が死んだ後、この部屋のことを知る者は、ガーディアンたち以外には誰もいなかった。私があの子に教えてもらうまで、六十年間足を踏み入れた者はいないそうだよ。……そして、君が二人目の六十年ぶりの来訪者だ」
 部屋の中央まで来て太乙は足をとめ、楊ゼンを振り返る。
「私があの子を人間扱いしたから、ガーディアンの真実を教えてもらえたのだとしたら……私がしてきたこと、しようとしていることは、あの子の意思に背くことかもしれない。あの子の望みは、人間に戻れず、機械にもなりきれないのなら、あとはせめて生き物として死ぬことだったから」
 その微笑を淡い青さで照らし出しているのは。
 直径が1メートル、高さは2メートル近い大きな円柱型の水槽のような形をしたもの。
 内部に満たされた液体がぼんやりと発光している、その幻想的な美しさに楊ゼンは目を吸い寄せられた。
「ドクター……」
 水槽のようなものに目を向けたまま、楊ゼンは低く問いかける。
「これは……何ですか?」


「これはね、呂望だよ」


 目をみはる楊ゼンに構わず、太乙は円柱の外部に取り付けられている操作盤に手を触れる。
 と、どんな仕組みになっているのか透明な外壁の一部が変化した。
「な…に……」
 モニター画面のような印象を受けるそこに見えるのは。
 小さな、半透明の球体。
 ただ丸い、ごく小さなものに楊ゼンは瞬きもせず見入る。
「───君が呂望を連れて戻って来た時、あの子の生脳は機械脳の補助を得て、わずかに生命活動を保っていた。でも間違いなく瀕死の状態で、それから完全に脳死に到って機械脳も停止するまでのわずかな時間、取り出せるだけのデータを記録したけれど、完璧には程遠かった」
 水槽に寄りかかるようにして腕を組み、太乙は静かに言葉を紡ぐ。
「でも幸い、私にはこの部屋があった。楊ゼン、見てごらん。あっちの棚だ」
 言われるままに、彼が指し示した方角を振り返る。
 と、薄明かりに慣れた瞳にキャビネットにずらりと並んだものが見て取れた。
「記録ディスク……?」
「そう。全部で1000枚以上ある。あれは呂望そのものだ」
「それは、どういう……」
「元は初代の研究者が残したものだよ。ガーディアンのあらゆる身体データと、起動後、定期的にバックアップ目的で記録した記憶層のデータ。そのことをあの子から教えられた後、私も好奇心半分で、定期的にあの子のデータを保存させてもらっていた。あの子も、まさかこんな目的に使われるとは思っても見なかっただろうけど……」
「ドクター」
 微苦笑した太乙に、楊ゼンは険しい声を向ける。
「それはどういう意味です。あなたは何をなさろうとしているんですか?」
「────」
 問いかけに即答はせず、太乙は微笑したまま傍らの水槽にそっと手のひらを当てた。
「──人間は所詮、28種類のアミノ酸から構成されているだけの存在でしかない。現行の電脳の240倍以上の演算能力があれば、その塩基配列を実際に造るのは不可能ではないんだ。昼夜を忘れて没頭しても、成功するまで二ヶ月かかったけどね」
「ドクター!」
「呂望のDNA情報は完全なものが残されていた。だから、私は造ってみたんだよ。ガーディアンではない、あの子を」

 その言葉に。
 楊ゼンは声を失う。

「もっとも、まだあの子は生まれてない。平たく言えば受精した直後の状態で止まっている。このスイッチを押して、ほんの小さな刺激を与えればたった一つの細胞は分裂を始めて、促成培養液の中で急速に成長を始める」
 操作盤上の小さなスイッチに指先を触れ、太乙は既に微笑のかけらもない表情で楊ゼンを見つめた。
「楊ゼン。私が君をここに連れてきたのはね、決めて欲しかったからだよ。このスイッチを押すべきかどうか」
 淡い光に照らし出された、漆黒の瞳がまっすぐに楊ゼンを見据える。
 すべてを射抜くようなそのまなざしに、楊ゼンは息苦しささえ覚えた。
「私は絶対者じゃない。確かに、私はあの子をガーディアンとしての役目から解き放って、人間にしてやりたかった。けれど、不自然な生を強要されたあの子は、ただの生物のように死にたがっていた。
 君も見ただろう? あの子の死に顔は安らかだった。ようやく死ねたことに、心底安堵していたんだ。その遺志を裏切ってまで、あの子をもう一度、世界に生み出してもいいと思うかい?」
「───…」
「たとえ生まれても、同じDNAを持っているというだけで、あの子と同じ存在にはならない。すべての記憶データを流し込んでも、あの子になるとは限らない。それでも君は、あの子を取り戻したいかい?」
「───でも…」
 低く紡ぎだされた楊ゼンの声が震えた。
「それでも……それは、『呂望』なんでしょう?」
 淡い光の中で、半透明の小さな球体が静かに浮かんでいる。
 楊ゼンの目は、ただそれだけを見つめていた。
「たとえまだ生命活動をしていなくても……それが彼なら」
 殺さないで下さい、と楊ゼンは拳を握り締めて声を絞り出す。


「彼が彼でなくとも……僕はもう、二度と呂望が死ぬところなど見たくない……!」


 苦しげに顔をゆがめた楊ゼンを、太乙もまた苦痛を押し隠した表情で見やった。
「本当に、それでいいのかい?」
 そして、念を押すように、繰り返し問いかける。
「最後の記憶のバックアップは、シュクリスに向かう前だ。そして、瀕死の脳から取り出せた情報は完璧には程遠い。だから、たとえ上手く目覚めたとしても呂望は、自分の最期も、君と最後に交わした会話も知らない可能性が高い。
 そもそも、記憶そのものが完全な形では戻らないかもしれない。つまり、君の事は何一つ思い出せない可能性もあるということだ」
 理論上は不可能ではない。
 だが、所詮は無茶な試みなのだと太乙は告げる。
「それに、DNAを完全複製した以上、呂望が稀人であることは変わらない。相当に強力な能力を持っていたようだから、おそらく長くても三十歳、急速培養の影響が出たら二十歳程度までしか生きられないかもしれない。それでも……いいかい?」
「はい」
 楊ゼンは、うなずいた。
「怖くないといえば、嘘になります。そんなことをしていいはずがないと……。ですが、ドクター。罪だからといって、あなたはその細胞を殺せますか? その培養層から取り出して、捨てることができますか?」
「───…」
「選択肢などないでしょう? あなたの心は最初から決まっている。ただ迷いを断ち切れないから、僕に最後の一押しをしてもらいたがっているだけです」
 断定する楊ゼンの言葉を、太乙は否定しなかった。
 ただ、無言で青年の言葉を受け止める。
「それに……」
 ぐっと楊ゼンは拳を握り締めた。
「僕だって、もう一度彼に会えるのなら会いたい……!」


 天地がひっくり返ってもいいから。
 もう一度会いたいと。
 二度と傷付けることなく、あの孤独な魂を抱きしめたいと。
 死んでもいいと思うくらいの強さで願った。

 彼のいない世界は、死んだ世界も同じ。
 ならば。
 どんな罪であっても、彼にもう一度会えるのなら、その重さは甘美でさえないか。


「僕にあなたと同じ能力があれば、僕が『彼』を造ったでしょう。だから……」
「───いいんだね?」
「はい」
 うなずいた楊ゼンに、最後の覚悟を決めるように太乙は目を伏せて。
 そして。

 操作盤のスイッチを、長い指先で押した。

 かすかに……ほんのかすかに、映し出された小さな小さな球体が震えて。
 言葉もなく二人が見守るうちに、ゆっくりと中央に薄く亀裂が浮かび上がってゆく。
 そして、どれほどの時間が過ぎたのか。
 やがて、たった一つだった細胞が分裂して二つになった。

「これでいい。順調にいけば、二年くらいで私たちが覚えている呂望と同じ年齢まで育つよ。ある程度まで育ったら、同時に記憶も流し込んでいって……3年程度で、普通に生活できる程度には安定すると思う」
 太乙の言葉を聞きながら、楊ゼンは食い入るように生命活動を始めた細胞を──呂望を見つめる。





 『呂望』は本当に戻るのか。
 たとえ自分たちの知っている『呂望』になったとしても、その時、はたして自分たちのしたことは許されるのか。
 答えはまだ誰にも分からないまま、二人は背負った罪の重さを噛み締めた───。






to be continued...










というわけで、4ヶ月ぶりのSACRIFICEです。
内容的にさほど書きにくいものでもなかったはずなのに、冒頭の部分を書い ただけで、その後は随分と長い間、放りっぱなしになっていました。
一昨日、続きを書き始めたら、ほんの2日でできあがってしまったんですけど・・・。
結局、これもタイミングの問題だったかな、と思います。1つの作品でも、まったく書けない時とするする書ける時があるんですよ。

とはいえ、長くお待たせしてしまったことを深くお詫びいたします。
次こそは1ヶ月くらいのブランクでupしたいな〜と思ってるのですが・・・。
まぁとりあえず、頑張るだけ頑張ってみますので、続きはまた少しの間だけお待ち下さい。m(_ _)m



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