SACRIFICE  -ultimate plumage-

4. farewell song








 ガーディアン───それは有機金属の守護天使。




 コンコン、とノックされる音に、楊ゼンは端末をいじる手を止めた。
 白色で塗装された扉の向こうに感じるのは、覚えのある気配。
 一瞬、どうしようかと迷う。
 けれど。
「どうぞ」
 そう答えれば、一瞬の間をおいて扉がスライドした。
「やあ、元気そうだね」
 穏やかな声で挨拶しながら入室してきたのは。
 白衣をまとった東方軍一の科学者だった。



「経過は良好なのかい?」
「ええ。週末には退院できます」
「それは良かった」
 笑みを浮かべたまま応じる太乙に、楊ゼンは何とも言えない感情を覚える。
「──今日は何の御用でこちらまでいらっしゃったのですか?」
 その居心地の悪さに、あえて自分の方から楊ゼンは切り込んだ。
 滅多に研究室から出ないという彼がわざわざ病室を訪れた理由くらい、最初から見当がついているし、正直なところ、それに関しては話をしたくない。
 けれど、表面だけの会話をずるずる続けて、結局避けられ得ない本題を先延ばしにするのは、もっと苦痛だった。
 だから、真っ直ぐに相手の瞳を見据えると。
「敵襲で重傷を負った君の見舞い、って言っても信じないね、君は」
 そのまなざしを受けて、病室の出入り口付近に立ったまま、太乙は溜息のような笑みを浮かべた。
「───言い訳、しておこうかなと思ってね」
 そう告げる視線が、わずかに伏せられる。
「あの子は絶対に言い訳しないから。誤解…というか、理解されないまま逃げられるのだけはね、保護者としてちょっと見過ごすわけにいかない」
「────」
「だから、聞きたくなくても聞いてもらうよ」
 傲慢な台詞ではあったが、口調はひどく淡々としていて、さほどの反感は呼び起こさなかった。
 苦い溜息を飲み込んで、楊ゼンはラップトップ式の端末を閉じて脇に避け、寝台脇の簡易椅子を示す。
「お座りになられませんか。長い話になるのなら」
「いや。短い話ではないけどね、ここでいいよ」
 間に横たわるこの距離を詰めたくはないだろう、という配慮を感じ取り、楊ゼンはうなずいた。
「どうぞ、お話下さい」
 その一言は、白い病室にひどく重く響いた。




 かつて、この大陸は、西方を起源とする一つの王朝によって統一されていた。
 その支配は千年の長きにわたり、王朝は疲弊した挙句、虐げられ続けた稀人たちを中心とする反乱勢力により斃れ、二十年ほどの混乱を経て、大陸は共和制へと移った。
 が、混乱を収め、新たな政治体制を指導した元首の死後、再び大陸は乱れたのだ。
 諸勢力が離合集散を繰り返し、群雄割拠の時代が数十年続いた後、最終的に大陸は二大勢力へとまとまった。

 尚武の気風が強く、部族制に基づく専制体制を旨とする西方国家群。
 穏和で共和主義的な、地域ごとのゆるやかな自治体制を求める東方国家群。

 その二つの巨大勢力のもとに、大陸戦争と呼ばれる長い戦争が始まったのが、今から百年近くも前。
 だが、それ以前の戦いから引き続き、宣戦布告もないような状態で開戦した戦争は、すぐさま膠着状態に陥った。
 おそらく、西と東で主義主張が合わないのであれば、大陸を二分した状態でそれぞれの政治体制を維持すればよかったのだろう。少なくとも、東方国家群はそれを望んでいた。
 だが、西方国家群は、かつての千年王国のように統一された大陸を望み、部族間に明確な格差──稀人の迫害も含む──を持った専制政治を、当方国家軍にも要求したのである。
 もちろん、東方国家群も無欲な平和主義の権化だったわけではなく、混乱に乗じて自国の権利を広げたい、漁夫の利を得たいと考える野心的な者たちはいくらでもいた。
 結果、戦争は泥沼化せざるを得なかったのだ。
 資源は徹底的にリサイクルされるシステムが完成していたし、武器弾薬の製造速度も充分に需要を満たしていた。世界全体の出生率は低下しているが、大陸が広大さが兵士の需要を賄い、また高度な医療技術が脳と心臓さえ無事であれば──つまり即死でない限りは、傷ついた肉体を再生させた。
 時折の停戦を挟みながらであれば、何十年でもだらだらと戦争が続けられる環境は整っていたのである。
 そして、それはある意味、指導者たちにとっても好都合だっただろう。
 国家の自由と誇りを口実に、いくらでも権力や利権をもてあそべるのだから。
 けれど、だからといってそれを善しとしない者もいる。
 どんな手を使ってでも、勝利を望む者たちが。



「──消耗戦を避け、勝利を得るにはどうしたらいいか。答えは簡単だ。敵をなぎ倒し、圧倒する強力な兵器があればいい」
 過酷な戦闘の中で兵士を援護し、勝利へと導く兵器。
 宣戦布告のない開戦から十年、膠着した戦況をくつがえすために、極秘の兵器開発が東方軍の研究所で開始された。
 そして、ありとあらゆる実験を繰り返した後。
 生み出されたもの。
 それが、生脳と人工知能が融合した頭脳と有機金属の肉体を持った、生体兵器──ガーディアン。
「人工知能は、単なる数字の演算なら、速度・精度共に人間の能力をはるかに上回る。
 たとえば弾道計算を人間がする場合、それは計算ではなく経験と勘であって、結果、計算精度は個体によって非常にばらつきが出るのは当然だ。でも人工知能なら、データを入力してやれば常に正確な数値が返ってくる。
 けれど、肉体の操作──何か物を持ち上げる、それだけの動作を人工知能にさせるためには膨大な量の演算が必要になる。全身の骨、筋肉、神経、それらのパーツを一つ一つ動かすか動かさないか、動かすにしてもその運動量をどの程度に加減するか、すさまじい量の取捨選択を人間の脳はコンマ以下の時間で行うんだ。
 そんな人間の脳が持つ能力を、人工知能で実現するにはどうしたらいいか。当時の研究者たちは、あれこれ考えた挙句、いちばん簡単で困難な結論にたどりついた」
 つまりそれは。
 その異なる物質を融合させること。
「特殊型に分類される稀人の中には、電脳と同調できる能力を持つものがいることを君も知っているだろう?」
「まさか……」
「そう。彼らの脳なら機械脳との融合が可能なのではないかと、研究者たちは考えた」
 端末に触れることで思考を電脳と同調させ、もう一つの脳のように……自分の脳の一部のように電脳を操る。
 その能力を生かして、そのタイプの特殊型稀人は情報機関の職員や非合法の情報屋として活動していることが多く、この基地の通信課や情報課にもそのタイプの稀人はいた。
「人体実験を……」
 低い声で呟いた楊ゼンに、太乙はうなずく。
「記録は廃棄されているから正確なところは分からない。けれど、あの子によれば完成体が出来るまでの犠牲者は、少なくとも三桁にのぼるらしい。特殊型の数の少なさから言ったら、とんでもない数だよ」
 淡々とした声で、太乙は己が所属する研究所の過去の罪を語った。
「実用化の時点で問題となったのは、脳の融合だけじゃない。稀人は寿命が極端に短いし、いくら電脳の演算能力を備えたからといって、生身の人間の体ではそれを十分に生かせない。
 だから、蛋白質と水分からなる肉体の代わりに、研究者たちは特殊な有機金属の身体を用意した。
 この物質は一種の形状記憶合金で、読み込んだDNAの通りに形を作り、決して崩れない。たとえ一部が傷ついたり失われたりしてもすぐに再生するし、更に脳の命令に従って即座に形を変えることも可能。──この有機金属製の身体を手に入れて、ガーディアンは万能の兵器になったんだ」
 太乙の言葉に、楊ゼンは一週間前、目の当たりにした光景を思い返す。

 陽光に淡くきらめく翼を背に負い、瞬時に左手を変形させ、鮮やかに敵機を屠った『彼』。

 ──思い出した途端、ぞくりとしたものが背筋を這い上がり、楊ゼンは思わず自分の腕を掴む。
「結局、実験が成功したのは五体だけだった。すべて十代の子供で、完成品は伏羲、女禍、燧人、神農、軒袁のコードネームをつけられ、戦場に投入された。それが、今から六十年前の事だ。──このコードネームはね」
 高くも低くもなく、淡々と言葉を紡いできた太乙の声がふと苦くなる。
「月人の王の名前なんだよ」
「月人?」
「そう。大陸から神話や伝承の類いがすたれて長いから、私も教えられるまで知らなかったんだけどね。君も稀人なら、その存在についてちらりとは聞いたことがあるだろう?」
「……はい」
 かつて月から降りてきて地上の人々と同化し、異能力を持つ人々──稀人の祖となった存在。
 詳しい伝承など知らずとも、事実かどうか定かでないその迷信めいた言い伝えは、稀人なら誰でも知っていることだった。
「彼らは非常に穏和な種族だったそうだ。争いを嫌い、草食動物のように静かに生き、原始時代の先住民に神と崇められながら、長い時間をかけて地上に同化していったと伝承では語られている。その歴代の王の名を兵器につけるなんて、大したロマンティストぶりだと思わないかい?」
「────」
「月人のように美しい翼を持たせ、月人のように凄まじいまでの能力を持たせて。できあがったのは、戦う術しか知らない生体兵器だ。戦場でしか生きていけない、ね」
 そこまで言って、気を鎮めるように太乙は一つ息をつく。
 やや間を置き、また穏やかな口調に戻って言葉を紡ぎ出した。
「……でも、ガーディアンとて不死ではなくてね。要の脳を損傷したり、ボディの限界を超える能力を行使すれば、活動停止──つまり、死ぬんだ。
 燧人は二年目で早くも活動停止した。その後も一人ずつ減っていって、四人目の女禍が活動停止したのは三十年前。どれも皆、圧倒的に不利な戦場で兵士を守ろうとして能力を酷使しすぎた結果だ。そして、現在残っているのは、伏羲一人。
 最初の管理者──ガーディアンを造った研究者が死んだ後、やはり非人道的すぎるということで新しいガーディアンの開発はされてないから、彼が最後のガーディアンということになる」
 それでね、と太乙はまなざしを上げて楊ゼンを見つめる。
「あの子の名前だけどね、別に嘘を名乗ったわけじゃないんだよ」
 溜息をつくような口調で、彼はそう告げた。
「呂望というのがあの子の……伏羲の本名なんだ」
「本…名……?」
「そう。正真正銘、あの子が親からもらった名前」
 太乙は病室の白い壁に背を預け、軽く腕を組んだ姿勢で静かに続けた。
「戦闘時以外、一見しただけで、あの子がガーディアンだと気付くものは少ない。当然だよ。軍内部で公開されている資料を見ただけじゃ、まるでただの無機質な機械のような印象を受ける。誰もあんな表情豊かな存在だとは思わない。
 ──だから皆、驚くんだ。それがあの子には辛かったみたいで、八年前に私が管理者になって本名で呼ぶようになったら、素性を知らない相手には呂望と名乗るようになった。どうせ皆すぐに気付くんだから、意味がない気がするけれど、自分から名乗って畏怖と嫌悪の表情を目の当たりにするよりはマシなんだろうね」
「────」
「あの子の身体の大部分は、生身じゃない。私たちと同じ物質で構成されているのは……つまり、最初からあの子の肉体であるものは脳の半分と脊髄だけだ。
 でも、感情は……心はそのまま残されてるんだ。ガーディアンの至上命令は破壊することではなく、戦場で兵士を守ることだから。『守る』という行為には、機械脳に命令を組み込むより、人間の感情を利用する方が効率がいいからね」
 そうして、太乙はゆっくりと楊ゼンに視線を向ける。
「──身体を作り変えられ、あらゆる実験を施されたあの子は、既に稀人でさえない。だから……あの子は、私に感情を取り除いてくれと頼んだこともある。これ以上、人としての感覚を持ち続けるのは辛いから、と……。もちろん、私は拒否したけどね」
「───何故です?」
「だって、あの子は人間だから」
 迷いもなく、彼は言い切った。
 至極当然のことのように。
「あの子の身体の中で、人間のままなのは脳の半分と脊髄だけだ。
 君は、そんな生き物を人間とは思えないかい?」
「─────」
 すべての感情を包み隠し、静かに見つめる瞳に、返す言葉が出てこない。
 そんな楊ゼンをしばらく見つめた後。
「──フォスクに行くそうだね」
「……はい」
 ここカシュローンより更に南西に位置するフォスクへの出撃命令が出たのは、つい昨日のことである。
 フォスクには小規模ながら西方軍の前衛基地があり、そこに戦闘飛行機と呼応する形で南から西方軍が集結しつつあるという偵察情報を受けての出撃だった。
 大規模な部隊移動であり、その内の一士官に対する辞令を技術少将の地位を持つ太乙が知ることは難しくも何ともないことであるが、しかし全く離れた部署の話である。耳が早いというよりは、太乙が何らかの手段で情報を得たのだろうと思われた。
「あれは──戦闘飛行機は実用化されると厄介な兵器だからね。私も理論だけは持っていたけど、まさか、実用化する度胸のある奴が大陸にいるとは思わなかったな。操縦者の死体──といってもほんの肉片だけど、薬物反応があったことは聞いただろう?」
「はい。……確かに正気とは言いがたいかもしれません」
「まともじゃないよ。大陸人の空に対する畏怖は半端なものじゃない。戦闘薬を使わずに乗れる兵士がいるとは思えないね」
「おそらく。稀人であっても無理でしょう。僕も乗れと言われたら、狂わない自信はありません」
「そうだろうね。けれど、戦闘飛行機が凄まじい破壊力を有するのは事実だ。だから、あの子も駆り出されることになったよ。君とほぼ同時にシュクリスへね」
 その地名に、楊ゼンは意外さは感じなかった。
 シュクリスはカシュローンのほぼ真西にある東方軍の前衛基地である。
 問題の敵方の戦闘飛行機の発進基地・ミリムに最も近く、おそらくガーディアンが出向かなければ、戦闘飛行機の格好の獲物としてまたたくまに破壊し尽くされるだろう。そうなれば、シュクリスの位置からいって、カシュローンは喉元に歯を突きつけられる形になる。
 シュクリスを守り、戦闘機及び発進基地を潰すこと。
 それが彼に課せられた使命に違いなかった。
「そういうことだから、もしかしたらもう二度と、君があの子に顔を合わせる機会はないかもしれない。──もし、何か伝言があるのなら聞いておくよ」
「─────」
きり、と楊ゼンは唇を噛みしめる。
「───何も……ありません。武運を祈るとだけ……」
「……うん。伝えるよ」
 うなずき、太乙は組んでいた腕をほどいた。
「君もね、稀人の命は短いんだから、無駄にしないようにするんだよ。……父親みたいな最期には……ならないように」
「───はい」
「じゃ、武運を祈ってるよ」
 その言葉を残して身体の向きを変え、太乙は病室を出て行く。
 白衣の背中がスライドしたドアの向こうに消える前に、楊ゼンは視線を逸らした。
 シュン、と軽い音とともに白いドアが閉まり、狭い病室に再び静寂が襲ってくる。
 その中に一人取り残されて。
 楊ゼンはゆっくりと膝にかかった毛布の上で、拳をかたく握り締めた。
「───呂望……」






          *          *






 退院の報告に行き、正式に辞令を受けて官舎へ戻る途中。
 人気のない廊下で、後ろから追ってきた気配に。
 思わず足が止まった。
「─────」
 振り返ることもできないまま、硬直したように立ち尽くして、その気配が三メートルほど離れた所で立ち止まるのを、ただ感じ取る。
「……振り返らなくて、いいから」
 高くも低くもない、凛とした声が、かすかに震えるように静かな廊下に響く。
「もう、顔も見たくないと思うから、そのままで聞いてくれぬか。嫌なら、立ち去ってくれても構わぬから」
「─────」
「太乙がおぬしの病室へ行ったことは、あやつから聞いた。だが、どうしてもわしの口からきちんと言っておきたくて……」
 これまでに、聞いたことのない口調。
 彼の声でありながら、彼が使ったことのない言葉。
 それを聞きながら、楊ゼンは思考が停止したような脳裏に、ぼんやりとあの日の彼の顔を思い出す。
 想いを打ち明けた自分に、何かを告げようとしていた彼の、必死な表情を。
「──騙そうと、思っていたわけではないのだ。呂望の名を名乗るのは、わしが『伏羲』だと気付かぬ相手にはいつもしていたことで……。おぬしもすぐに気付くと思っていたのだ」
 確かに、と楊ゼンは思う。
 気付かなかった自分がうかつだったのだ。
 十代半ばの少年、ドクター太乙の研究所、とキーワードは揃っていたのに。
 けれど、ガーディアンに縁の薄い、つまりその存在に頼ることなどできない北部戦線で、何年もの間、稀人として戦闘の要となっていた自分は、何年も前に見た資料のことなど意識に残していなかった。
 それに、何より太乙が言った通り、資料に記載されたわずかなデータから想像されるガーディアン像と、実際の彼とはあまりにも印象が異なっていて、彼の言動に不審は感じても、両者を繋げることなど思いもよらなかった。
 あまりにも、彼は『人間』らしかったから。
「だが………知られたくないと……気付かれたくないと思っていたのも事実だ。おぬしと話しているのが楽しくて……。……だから結局、騙していたのと同じことだな」
 懸命に感情をこらえるような、苦い声を聞きながら、楊ゼンは拳を握り締める。
「───すまなかった」
 彼なのだ、と思う。
 いくら口調が違おうとも、今、語りかけている彼は間違いなく『呂望』なのだと。
 けれど。


 傾きかけた陽光を受けて、淡い青にきらめいていた一対の翼。
 風に揺れていた、黒い髪。
 そして。
 振り返って自分を見つめた、すべてを諦めたような瞳の色。
 哀しい、色。


 騙す気がなかったことは分かる。
 人間として──同じ稀人として接していた自分に対し、彼が本当に正体を知られたくないと思っていたことも。
 信じられる。

 けれど。

 彼は稀人でさえなく。
 あの驚異的な破壊力を持つ戦闘機でさえも、一撃で屠ることが出来る、異形の存在。
 自分が稀人であるからこそ──異能力者であるからこそ、その強大な能力に畏怖を感じずにはいられないのだ。
 理屈も何もなく。
 相手が害意を持っていないことが分かっていても、傍に在るだけで緊張を覚えずにはいられない。
 そんな──本能的な、畏怖。
 只人が稀人を恐れる心理が、今、ようやく理解できる。
 ひたすらに、自分と異なる存在が怖いのだ。
 人間は。


「──フォスクに行くのだと聞いた」
「───…」
「あそこで西方軍を抑えられれば、ミリムの戦闘機は孤立せざるを得ない。それは向こうも分かっているから、きっと……」
 激戦になるだろう、という言葉は音にはならなかったが、はっきりと伝わった。
「こんなことを言える立場ではないのかもしれない。──だが」
 すべての感情を押し隠した、凛とした声が告げる。
「武運を祈る。楊ゼン少佐」
 そして。
 気配が遠ざかる。
「────」
 離れていく気配に。
 このままでいいのかと。
 このまま別れてもいいのかと、感情が波立つ。
 こんな、何一つ言えないまま。
 彼は、間違いなく『呂望』であるのに。
「────」
 ぐっと握った拳に力を込めて、振り返る。
「あ……」
 視界の端を、黒い髪がかすめたような気がした。
 けれど、それは一瞬の幻のように廊下の角に消える。
 足は、動かなかった。
 既に感じ取れないほど遠ざかった気配を追いながらも、その場から動くことはできなかった。
「───…」
 唇を噛みしめて、楊ゼンは通路の壁を拳で叩く。
 彼がどんな表情をしていたのか。
 確かめる術はもうなかった。







          *          *






「……私を、恨んでいるかい?」
「おぬしを? 何故?」
「だって、君に本当の名前を思い出させたのは私だから。忘れたままなら、こんなことにもならなかっただろう?」
「そんなこと……」
 呂望は微苦笑する。
「おぬしのせいではないよ」
 そう答える彼は、濃紺の軍服を身につけている。
 一見、下級士官の軍服とよく似たデザインだが、耐久性や耐熱性は比べ物にもならない。ガーディアンの厳しい任務に耐えうる、科学技術の粋を集めた特注の戦闘服だった。
「感謝しておるよ。おぬしが名前で呼んでくれたから、あやつも人間として──仲間として接してくれた。束の間のことだとは分かっていたが……嬉しかったよ」
「───ごめん」
「太乙」
「人間であることをやめさせてあげられなくて、ごめん」
 その言葉に顔を上げ、呂望は笑みを見せた。
 伝承に語られる月人のように、限りなく優しい微笑を。
「感謝しておるよ、太乙」








───初めまして。私が君の新しい管理者だよ。
───私は太乙。君の名前は?
───名…前……?
───そう。伏羲はコードネームだろう? 君の本名は?
───本名……。
───もう覚えてないかな。
───いや……。
───じゃあ教えてくれるかい? それとも名前で呼ばれるのは嫌かな。
───嫌ではないよ。ただ……ここでは一度も呼ばれたことがなかったから……。
───ああ、それは知ってるよ。でも君は人間なんだから。私は名前で呼びたいんだけど、おかしいかな。
───呂望。
───え?
───呂望。それがわしの本当の名だよ。
───呂望、か。いい名前だね。
───そうかのう?
───うん。じゃあ、これからよろしく、呂望。
───こちらこそ、ドクター太乙。






to be continued...










というわけで、やっと第4回目です。
何だか楊ゼンが呂望の正体に気付いて、それでハッピーエンドと思われていた方もいるようなのですが、残念ながら私はそんなに優しくありません(笑) まだこの作品は折り返し地点に至ってもないので、気長にお付き合いいただけたらなぁと思います。
念のため書いておきますが、月人の性格は封神における始祖の性格とは正反対です。これは元の世界設定によるものなので、一応、名前だけは始祖=五帝のものを借りましたが、ストーリー的な関連性はまったくありません。

次回は、ストーリー上の時間が半年ほど過ぎた頃になりますので、UP自体もちょこっとインターバルを取って6月下旬くらいを予定してます。
離れてしまった二人がどうなるのか、今しばらくの間、楽しみに(?)お待ち下さいませ。m(_ _)m




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