Replica Master (4)














「木……花……風……、ああ、光の綴りはこっちが正解ですよ。そう、あなたは本当に物覚えがいいですね」

穏やかな口調で褒めてやると、少女型レプリカは小さく首を傾けるようにして、見えない瞳でこちらを見上げる。
それが、心を閉ざしてしまった彼女の微笑み代わりの仕草なのだということを、楊ゼンはもう理解していた。
だから、彼女を驚かせないようにそっと手を上げて、艶やかな髪を撫でてやる。
少女型レプリカの人形のような表情は変わらないが、それでもこの館に引き取ったばかりの頃のような警戒の色は、もう見えない。
そのことに楊ゼンは小さく微笑んだ。
と、望の細い指先が、また楊ゼンの手のひらに文字を綴る。

「風……強い……、今日……暖かい……、ああ、風は強いけど、今日は暖かい、ということですか?」

少女型レプリカの言いたいことを察して、楊ゼンはうなずく。

「何々だけれど、の『けれど』は、こう書くんですよ。『だから』は、こう」

少女の手を取って、一文字一文字を指先でゆっくりと綴らせる。
三回ほど繰り返すと、望はかすかにうなずく。
それを見て楊ゼンが手を離すと、今度は介添え無しに一人で教えられたばかりの単語を綴った。

「そう。じゃあもう一度綴って見ますか? 風は強いけれど、今日は暖かい」

ゆっくりと発音する楊ゼンに合わせて、少女型レプリカは差し出された手のひらに文章を綴ってゆく。
一文字も間違うことなく書かれた見えない文字に、楊ゼンは内心、ひどく感心していた。

当初の約束通りに文字を教え始めたのは、つい先日のことだが、簡単な単語なら数度教えれば完璧に望は覚えてしまうのである。
しかも、知らなかったことを覚えるのが楽しいのか、一日に何時間勉強を続けても飽きる様子を見せることがなく、楊ゼンが苦笑して、今日はこれくらいにしましょうというまで、見えない瞳で楊ゼンを見上げては、新しい言葉を教えてくれるよう無言で請うのだ。
その介もあってか、少女は、もう身の回りの単語の大半は表現することができる。更に、今日は文章にすることも覚え始めた。
あと少し経てば、楊ゼンに意志を伝えることには何の支障もなくなるに違いない。

「天気がいいから……鳥が沢山、鳴いている。ええ、今日はよく鳥の声が聞こえますね。……え? 呼んでる? ああ、本当だ。李夫人が、お茶を持ってきてくれたようですよ」

楊ゼンは広い庭園の向こうから近付いてくる人影を認めて、目を細めた。
と、ほどなく軽やかな足音と共に、盆を携えた中年の女性が二人の前で立ち止まる。

「お邪魔致します、旦那様、お嬢様。ずっと御勉強なさっていたのではお疲れでしょう? どうぞ休憩なさいませ」

明るい声で告げたのは、三十代半ばの女性だった。
この館の家事を一手に引き受けてくれている家政婦の李夫人である。
夫と死に別れて働きに出たということだったが、主婦としては非情に有能で、この館にとってはなくてはならない存在となっていた。
今も、手際良くクロスを芝生の上に広げて、茶を器に注ぎ、手作りの菓子を並べる。
そして、優しく少女の手を取って、彼女用のカップを持たせた。

「熱いですから、気をつけて下さいね」

やわらかく注意を促されて、少女は小さくうなずく。
その控えめではあるが愛らしい仕草に、李夫人は目を細めた。

───楊ゼンは、望のことを養い親にひどい虐待を受けているのを見兼ねて引き取った、身寄りのない少女だとだけ李夫人に説明した。
詳しい説明を求められれば、適当に矛盾の起きない返答を用意してあったのだが、しかし生来気の優しい李夫人は疑いもせずに楊ゼンの言葉を受け入れ、ものやわらかな態度で、視覚も言葉も失った少女に接し始めた。
少女があまりにも華奢なことに眉をひそめ、滋養のある美味しい食事や、甘い菓子を次々に作り、そして、艶やかな髪を可愛らしく結い上げてやったのである。
まるで優しい母親のような李夫人の心遣いに、最近は望も無意識の警戒を見せることはほとんどなくなった。
微笑みこそ見せないが、温かな手に安心していることは、傍にいる人間には十分に伝わる。
それゆえに、李夫人の少女に対する態度も、いっそう深い慈愛に満ちたものとなっていた。

夫人の入れてくれた茶を飲み、手作りの焼き菓子を一つ食べ終えた少女型レプリカが、ふともの言いたげに傍らの夫人の方にまなざしを向ける。
彼女が何を思っているのか、すぐに気付いた楊ゼンは微笑みながら声をかけた。

「望、あなたが思っている通りのことをしていいんですよ。自分の気持ちを人に伝えるのは大切なことですから」
「旦那様?」
「李夫人、突然で申し訳ないんですが、あなたの手を望の手に預けてやってくれませんか?」
「手を?」
「ええ。ほら、望」

不思議そうな顔をしながらも、李夫人がそっと少女の手に自分の手を重ねる。
と、望は戸惑うように楊ゼンを振り返り、けれど心を決めたように、見えない目で李夫人を見上げて。
そして、優しい手のひらに指先で、ゆっくりと文字を綴った。

「え……、とても……美味しい。ありがとう……まあ、お嬢様!」

驚きと喜びに、李夫人は声を上げる。

「もう字が書けるようにおなりですの? 素晴らしいですわ!」

手放しの賛辞に、望ははにかむようにまばたきした。
そんな少女を、李夫人は笑顔で見つめる。

「嬉しいですわ、お嬢様。食べたい物があったら、これからはどんどんおっしゃって下さいませね。何でもお好きな物をお作りしますから」
「おやおや、望、夫人はあなたに好きな物ばかり食べさせて、うんと太らせてしまいたいようですよ。どうしますか?」
「あら、少しくらいお太りになった方がいいんですわ。こんなに細いお身体じゃ病気になってしまいますもの」
「確かにね。じゃあ望、今夜は何が食べたいか、リクエストをするといいですよ」
「ええ! 今夜は何がよろしいですか、お嬢様?」

勢い込んで問いかけられ、少女は深い藍色の瞳をまばたかせる。
そして、再び夫人の手のひらに文字を綴った。

「まあ、お嬢様」
「? 望は何と言ったんです?」
「全部美味しいから、全部好きですって。まあ、どうしましょう」

あまりの嬉しさに戸惑っているらしい夫人に、楊ゼンは苦笑する。
だが、望の返答も当然だとは内心思った。
夫人の料理の腕前は大したもので、家庭料理の域を遥かに越えた美味を、毎日提供してくれているのである。

「望の言うことは正しいですね。僕も何か一つを選べと言われたら、困りますよ。とにかく僕たちはこんな有り様ですから、いつもと同じように、李夫人が今日の市場で一番美味しそうだと思った食材を料理して下さい」
「仕方がありませんわね」

夫人も笑って、目の前の少女に声をかけた。

「今夜はうんと美味しい御馳走を作ってさしあげますから、楽しみにしていて下さいね。デザートも、美味しい桜桃が売っていたのを買ってきましたから、それをタルトにしましょう」

その魅力的な言葉に、望は小さくうなずく。
表情はない、だが、はにかんでいるのだと見る者が見れば分かる仕草に、二人の大人は目を細めた。

「それじゃ、私は厨房に戻りますわ。お嬢様が字を書けるようになったお祝いですもの、うんと腕を振るわなければ」
「僕からもよろしくお願いしますよ、李夫人」
「ええ、任せて下さいな」

朗らかな笑みを見せて、もう一杯ずつ茶を注ぎ、夫人は館の中へと戻ってゆく。
その後ろ姿を見送ってから、楊ゼンはそっと手をのばして少女型レプリカの髪を撫でた。

「良かったですね、望。李夫人はとても喜んでくれたようですよ」

見上げてくる深い色の瞳を見つめながら、やわらかく語りかける。

「自分の意志を伝えることは、本当は悪いことでも何でもないんです。少なくとも、僕や李夫人は、あなたが何を思っているのか教えてもらえると嬉しい。だから、これからは嫌なこと、嬉しいこと、何でも我慢せずに言って下さいね」

木漏れ日を受けてきらめく瞳は、静かにまばたきをするだけで動かない。
しかし、少女が強い戸惑いを感じていることは、楊ゼンには十分すぎるほどに分かっていた。

「ここは、これまであなたがいた屋敷とは違いますから。僕は、あなたが僕の大切な家族になったと思っているんです。一緒に暮らしている以上、あなたにはこの館での暮らしが幸せだと感じて欲しい。だから、あなたが嬉しいことや悲しいことを教えて欲しいんですよ」

主人の愉しみとなる以外の感情、あるいは意志をあらわにすることを禁じられてきたレプリカにとって、自分の想いを表現することがどれほど難しいか。
改めて、レプリカの置かれている理不尽な境遇に憤りを覚えながら、ゆっくりと楊ゼンは言葉を紡いだ。

「さっき、李夫人は喜んでくれたでしょう? あなたは、どうでしたか? 李夫人が喜んでくれて……」

問いかけると、先程の感情を思い返すように望のまなざしが深くなる。
その表情を見つめて、楊ゼンは言葉を重ねた。

「僕や李夫人も、あなたと同じ気持ちなんですよ。あなたが嬉しいと言ってくれたら嬉しい。悲しいと言った時は僕たちも悲しくなりますけど、でもその気持ちを一人で我慢しないで教えてくれたことを嬉しいと思うんです。
だから、急がなくてもいい、少しずつでいいから、あなたの気持ちを僕たちに教えてくれますか?」

穏やかな声に。
小さく少女型レプリカがうなずく。

「無理はしなくていいですからね。これは義務……絶対にしなければいけないことではないんですから」

絶対服従を強いられているレプリカに、どれほど意味が伝わるだろうかと思いながらも、それでもその枷から解き放ってやりたいと思う。
これもまた、ある種のエゴであり、傲慢なのだろうと考えながらも、自分の言葉が少女型レプリカにとって『人間の命令』と聞こえないよう、極力注意しながら、楊ゼンは言った。

「楽しい時や嬉しい時には笑って、辛い時や悲しい時には泣いて、嫌なことをされたら怒って。そんな風に、あなたが毎日を過ごしてくれたら嬉しい。
でも、それは僕の勝手な願いですから。一つずつ・・・・毎日、風や光を感じて、李夫人の作ってくれる美味しいお菓子を食べながら、色んなことを覚えていきましょう?」

どこまで楊ゼンの心を理解したのかは分からない。
だが、かすかに戸惑いの色を見せながらも小さく望はうなずく。
それだけで、今の楊ゼンには十分だった。








             *                 *








楊ゼンが望を引き取ってから、一ヶ月が過ぎた。
相変わらず視覚も言葉も失ったままで、表情もほとんどないが、それでも館での生活に馴染んだことは見ていれば分かる。
そして、館にいる人間──楊ゼンと李夫人とのやりとりにも、指文字でまったく不自由のないレベルにまでなり、自発的に楊ゼンの手に触れることは、やはり滅多にないが、何かを伝えたいような、物言いたげな瞳をする回数も増えた。

望が光や言葉を取り戻し、笑えるようになるまでには、おそらくまだ長い長い時間がかかる。
だが、それでも一日毎に安らぎを取り戻しているような少女型レプリカの姿が、楊ゼンを愛しい気分にさせた。








優しいメロディーが小さな音で奏でられていた。
その音がゆっくりと速度を落としてゆき、やがて静かに止まる。

「もう一度?」

穏やかな声でそっと問いかけると、既にベッドの中で毛布にくるまった望は深い色の瞳をまばたかせ、ごく小さくうなずく。
その仕草に微笑んで、楊ゼンはベッドサイドに置いたオルゴールを取り上げ、底蓋のネジを巻いた。
そして、オルゴールを元の位置に戻し、再び蓋を開ける。
と、また澄んだ音が優しいメロディーを歌いだした。

自分が贈ったその音を聞きながら、ベッドの縁に腰を下ろした楊ゼンは、そっと望の艶やかな黒髪を撫でる。
そのゆったりとした優しい手の動きに、望は安心したように目を閉じる。

──望が眠りにつくまでの一時、こうして楊ゼンが側に居てやるようになったのは、館に来てから間もなくのことだった。

毎晩のように悪夢にうなされる望に、何とかしてやれないものかと考えていた楊ゼンが気付いたのは、自分が最初の夜に贈ったオルゴールの存在だった。
悪夢にうなされているのを起こしてやった後、オルゴールをかけてやりながら、毛布にくるんで優しく抱きしめていると、そのうち望は落ち着き、また眠りに落ちてゆく。そしてその後は、もう朝まで悪夢を見る様子はない。
それを応用できないかと思ったのだ。
それで試しに、これできっと怖い夢は見なくなるから、と言葉による軽い暗示とともにオルゴールをかけ、望が眠るまで側について髪を撫でていてやったら、本当に夜中に目覚めることも、寝苦しそうな様子を見せることもなかったのである。

以来、オルゴールの子守歌は楊ゼンと望の日課になった。

表情を失くし、人間の存在に怯えきっていた少女型レプリカが、自分の傍らで安らぎ、幼い子供のように眠るのは楊ゼンにとっても嬉しいことだった。
自分が人間である以上、そして世界中のレプリカを救うことができるわけではない以上、これらのことは全て偽善かもしれないとは思う。
それでも、偶然出会ってしまった小さな存在を見殺しにすることはできなかったのだ。
そして、手元に引き取ったからには大切に慈しんで、幸せにしてやりたい、そう思う気持ちは真実だった。

「望」

優しいメロディーに耳を傾けながら、楊ゼンはそっと少女型レプリカの名前を呼ぶ。

「今すぐじゃなくて良いんです。いつになってもいいですから・・・・・いつか、僕の名前を呼んでくれますか? いつかまた、あなたが声を出せるようになったら・・・・・」

静かに告げると、望の大きな瞳が静かにまばたく。
その深い色を見つめて、楊ゼンは微笑んだ。

「これは命令じゃありません。あなたが僕の名前を呼びたくなったら、で良いんです。だから、いつか・・・・・」

穏やかに言葉を紡ぐ楊ゼンを、望は見えない瞳でじっと見上げた。







──何故、と少女型レプリカは考える。

声を出せるようになって欲しい、というのなら分かる。
『人間』はレプリカの声──泣き声や怯えた声を聞きたがるものだと知っているから。
けれど。

名前。

楊ゼンという、名前。
それを何故、呼んで欲しいというのか。

本当の主人は、名前など決して呼ばせなかった。
いつでも『御主人様』とだけ。
自分だけでなく、他の人間の使用人たちも『旦那様』と呼んでいたし、客人たちも『侯爵』と呼んでいた。
主人の名前は、レプリカとして知っていたけれど、それを口にすることなどありえなかった。

でも、楊ゼンは名前を呼んで欲しいと言う。
このレプリカの自分に。

名前。

主人に名前を呼ばれることは怖かった。
それは良くないこと、恐ろしいことが始まる合図だったから。
呼ばれるたびに、体がすくんだ。

けれど。

───けれど。
楊ゼンが呼ぶ、『望』という名前、は。

「望?」

優しい声が呼ぶ。
どうしたのかと、問うように。

その優しい響きを耳にした途端。
熱いものが、瞳から零れて溢れた。

「望、どうしたんです?」

少し驚き慌てた声に、かぶりを振る。
痛いわけでも苦しいわけでもないのだと、言いたくて。
けれど、そっと髪を撫で、涙を拭ってくれる指が温かい。

───温かくて。

その温もりに、自分の手を触れる。
大きくて硬い手。
『人間』なのに、優しい・・・・優しい手。

その手のひらに。

「望?」



“楊ゼンの名前、呼びたい”



綴った文字を分かってくれただろうか。
伝わった、だろうか。
自分が。
レプリカの自分が、初めて思ったこと。
初めて分かった・・・・名前を呼ばれることの、本当の意味。

「望」

いつもと同じ優しい声が、少し震えている、と思った途端、温かな感触が目元に触れた。
何度も何度も、零れ落ちる涙をぬぐうように触れてくる温もり。
優しさだけで作られた、小さなキスに目を閉じる。
その耳元に、震えるような楊ゼンの声が届いた。

「ありがとう。その言葉だけで・・・・僕は救われます」

意味は分からなかった。
分からなかったけれど。

出なくなってしまった声の代わりに、何度も温かな手のひらに文字を綴る。
優しい人の名前を。
少しでも伝えたくて。
楊ゼンに、優しい声で名前を呼ばれる嬉しさを返したくて。

と、名前を綴った左の手を、そっと優しい手に包み込まれる。
その手の甲に、やわらかなキスを感じた。

「ありがとう、望」

楊ゼンの深みを帯びた声が、耳に届く。

「あなたに出会えて・・・・良かった。あなたに出会えなかったら、僕は・・・・」

そのまま、暖かな腕にそっと抱きしめられて、目を閉じる。
触れられることも、抱きしめられることも、もう楊ゼンなら何も怖くなかった。
ただ。

───嬉しい。

優しいものばかりで包まれていることが、嬉しい。

だから。

声を出して名前を呼びたいと、心から思った。


















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