Replica Master (5)
「やあ、元気そうだね」
そう言って笑いかけた人形師に、少女型レプリカはいつもと同じ無表情のまま、しかし、こくりとうなずいた。
「バイタルも安定してるね。うん、どこも異常なし」
端末の画面に目を向けたまま、一人納得するようにうなずくと、太乙は少女型レプリカに向き直った。
そして、
「お疲れ様。電極を外すから、もう服を着てもいいよ」
声をかけてから、手早く複数の電極を白い肌から剥がし、器用な手つきでコードをまとめてデスクの片隅に追いやる。
少女型レプリカの方は言われたままに、繊細なレース装飾を施された白いブラウスの貝ボタンを、ほっそりとした指で留め始める。その動作を穏やかな瞳で見守りながら、太乙はまた少女型レプリカに声をかけた。
「定期メンテナンスはこれで終わりだけど、あと何か聞きたいこととかはあるかい?」
ゆったりとした独特の響きのあるやわらかなテノールに問われて、少女型レプリカは喉元の一番上のボタンを留めながら、うつむきがちの瞳をわずかにまばたかせる。
が、太乙は、そのささやかな仕草を見落としはしなかった。
「楊ゼンとの暮らしはどうだい? 彼が乱暴するようなことは、まずないだろうけれど、何かあったらすぐに私に言うんだよ。彼は君のマスターというわけじゃないんだから、無理に我慢することはないんだ」
「───…」
彼がそう言った途端、少女型レプリカは驚いたように顔を上げた。
そして光はないものの、稀有な宝石のように美しい深い藍色の瞳で目の前の人形師を見つめ、小さく、だがはっきりと首を横に振る。
「我慢なんかしてない?」
今度は、こくりとうなずいて。
それから、おずおずと右手の人差し指で自分の左の手のひらを指した。
その仕草の意味を、今日この地下室を彼女たちが訪れた最初に聞いていた太乙は、ためらいなく自分の手のひらを少女型レプリカに触れさせる。
すると、ゆっくりと少女型レプリカは、人形師の手のひらに文字をつづり始めた。
「声? 戻るよ。機能的には何の障害もないんだから。必ず、また前みたいに話せるようになるよ」
「いつ、というのは難しいね。君はおしゃべりをしたいんだ、望?」
望、と名を呼ばれて。
少女型レプリカは顔を上げ、またうなずく。
表情のほとんど表れない、まるで本物の人形のような繊細な容貌の中、光を失った瞳はそれでも必死の切望を浮かべているようにも見えて。
「どうして、と聞いてもいいかい?」
太乙はわずかに表情を改め、だが声の調子は変えないまま問いを重ねる。
それに答えて、少女型レプリカは再び手のひらに文字をつづった。
「楊ゼンの……名前?」
拙いながらも伝えられた文章を読み取り、問い返した声に、さすがに意外さを隠せない響きがにじんだ。
少女型レプリカはうなずき、そして、数秒の間考え込んでから、またはっきりとした指の動きで自分の意思を伝えようとする。
「……そう。名前を呼ばれて嬉しかったから、君も呼びたくなったんだ」
太乙のまなざしは、自身の手のひらの上で動く、桜貝のような爪先の軌跡を追いかけ、
「そうだね。きっと喜んでくれるだろうね」
その最後の一文字まで見取って告げた言葉は、不思議に静かだった。
「望」
すべてをつづり終え、意思を伝えるという慣れない行為に緊張を覚ええているのか、どこか不安げに指を引っ込めて見えない目で人形師を見上げた少女型レプリカに、彼はゆっくりと名前を口にした。
「君の声は、君の心が塞いでしまった。前に教えたね? あんまりに辛い事ばかりだったから、君の心が君を守ろうとしたんだ。でも、もう辛い事や怖い事は遠くなってしまった。もう大丈夫なんだ。
だから、君がうんと強い気持ちで、声を出したいと思えば、声を塞いでいる鍵は解ける」
「───…」
「分かるね? 鍵は君のここにある。君にしか解けないんだよ」
言いながら、医師としての手つきで少女の胸に触れ、言い聞かせるように艶やかな髪を撫でる。
「さあ、今日はこれくらいにしようか。楊ゼンも待ちくたびれているだろうし」
そして、少女型レプリカを立たせ、隣りの部屋へと導いてゆく。
お待たせ、と声をかけてドアを開けると、行儀よくお座りした犬型レプリカを撫でていた青年が、古ぼけたソファーから立ち上がった。
「どこも悪いとこは無し。健康状態は良好だよ」
「そうですか。お疲れ様、望」
青年に優しく頭を撫でられて、少女型レプリカは、仄かにはにかんだようにまばたきする。
しばし、その様子を見守っていた人形師は、青年に向かって声をかけた。
「楊ゼン、ちょっと君の家のことで話があるんだけど」
「──何です?」
家、と言われて、不意に青年の雰囲気が尖る。
過敏にそれを察したのか、青年にブラウスのレース襟を直してもらっていた少女型レプリカは、びくりと驚いたような不安に駆られたような瞳を青年に向ける。
楊ゼンの方も、すぐにそれに気づき、少女の不安を宥めるように、もう一度頭を撫でた。
「すみません、大丈夫ですから。少しだけ、哮天犬と待っていてくれますか?」
「───」
まだかすかに不安げな、気遣うような色を見せたまま、それでも少女型レプリカはこくりとうなずく。
それを見届けて、太乙は研究室の方へと楊ゼンを促した。
「──それで?」
ぱたん、と音を立ててドアが閉ざされた直後、響かせた楊ゼンの声は少女型レプリカの前では決して聞かせない冷ややかな響きを帯びていた。
「今更、何ですか。あの家との縁は、とっくに切れてますよ」
「ごめん、家のことを言ったのは口実」
「──え?」
一瞬、意味をつかみ損ねて反応が遅れる。
そんな楊ゼンに対し、太乙は降参、と両手を挙げて見せた。
「ただ話があると言っただけじゃ、あの子が勘付きそうだったからさ。ごまかすのに一番いい単語を選んだんだ。悪かったよ」
「───…」
人形師の言い訳に、楊ゼンの眉が軽くしかめられる。
が、それ以上を問い詰めはしなかった。
「……じゃあ何なんですか。話があるのなら、さっさとして下さい。さっきの状況で長く一人にしておくと、望の不安が大きくなる」
「それは重々承知してるけどね」
ふう、と疲れたような溜息をついて。
太乙はデスクに寄りかかる。
「君、人の言葉を聞かなくなったね。私は今、あの子が勘付きそうだから、と言っただろう? 話は望のことだ」
「望の?」
楊ゼンの眉が、更に訝しげにひそめられる。
「そう」
「彼女が何か……?」
「うん。──単刀直入に聞くけど、楊ゼン、君は彼女のマスターになる気はないのかい」
「……また、その話ですか」
今度は楊ゼンの方が溜息をつく番だった。
「それは最初に言ったでしょう。僕はあの子の保護者なり家族なりになる気はありますが、所有者になる気は毛頭ありません。彼女は人形でも奴隷でもない」
「君がマスターにならなければ、あの子が壊れると言っても?」
「え……?」
太乙は、埃っぽい床にまなざしを投げ出したまま、淡々と感情を載せない声で続ける。
「主人の存在は未だに、あの子の心を雁字搦めに縛っている。たとえ一見、過去のこととして忘れたように見えても、所有者の姿を目にすることなく声を聞くこともない状況で二年以上の時間が経過しない限り、彼女のチップに刻まれたマスター登録は消えない。
なのに、あの子は君という存在を知ってしまった。その意味が分かるかい?」
「……二律背反……?」
「そう。生脳にとっても最も重大なストレスとなるし、ましてや融通の利かないチップにとっては致命傷になる。あの子の表情が乏しい理由を考えたことがあるかい? 心を閉ざしているからじゃない。主人以外の人間に、笑顔を見せてはいけないと命じられてるからだよ」
「そ…んな……」
初めて知る事実に、楊ゼンは愕然となる。
だが、太乙は容赦をしなかった。
「あの子は君を慕い始めている。だが、主人以外の人間に働きかけることは、あの子にとって重大な禁忌だ。チップに登録されたマスターに対して心を閉ざしたくらいだから、もともとレプリカとしては破格に強い心を持っている子だけど、この状態が長く続いたら危険であることには変わりない。
分かるだろう? あの子を本当に守りたいのなら、君が主人になるしかないんだ」
「……ですが……」
反駁を試みようとする楊ゼンの声が低くかすれる。
「それでも僕は、人型レプリカのマスターには……」
「君の信条を聞いているわけじゃないんだよ、楊ゼン」
太乙の声は、溜息をつくようだった。
「君が今していることは、ちゃんと飼い主のいる猫を撫でているのと同じだ。いくら、その猫が虐待されているからといって、所有権は飼い主にある。その猫を救いたいと思ったら、自分が飼い主となって引き取るしかない」
常にない口調は、冷厳とさえ響いて。
「いいかい、レプリカは人間じゃない。人の姿をしていても、人間と同じに扱うことは、かえってレプリカを苦しめる。このまま、もし無事に二年の猶予期間が過ぎたとしても、正式にマスターの情報を失ったチップは、その時点で新たな所有者を求める。適切な所有者を得られて、初めてレプリカの精神は安定するんだ」
「────」
「幸い、潤沢に、とは言わないけれど、まだ猶予はある。望の精神が安定している間に決めることだね。彼女を主人の元へ帰すか、君が主人になるか、それとも第三者に引き渡すか……廃棄するか」
選びようのない選択肢を突きつけられて。
楊ゼンは唇を噛み締める。
「さあ、私の話はこれで終わりだ。不安がっているだろうから、戻る前に気分だけは切り替えておくんだよ」
「……そ…んな」
「うん?」
「そんな事をおっしゃるのなら……、それほど彼女のことを大切に思われるのなら、何故あなたが彼女の所有者にならなかったんです!? その方がよほど早かったでしょう!?」
「私が?」
しかし、青年の激昂に、太乙は冷ややかとさえ言える笑みで応じた。
「こんな日の射さない地下室で? そこに籠もってる厭世まみれの人形師が、傷つけられて怯え切ったレプリカのマスターに?」
「──あ…」
「あいにく、レプリカを作ることは出来ても、レプリカを幸せにすることが出来ると自惚れるほど愚かではないつもりだよ」
「……ドクター」
「謝罪はいらないから、あの子を幸せにすることだけ考えてやってくれないかい。そう思って、君もあの子を引き取ったんだろう?」
静かに問われて、はい、と答えるしかなく。
楊ゼンは拳を握り締める。
「さ、行ってやるといい。あの子が君を待ってる」
「はい……」
うなずき、出て行きかけて。
楊ゼンは、ふと足を止めた。
「ドクター」
「何だい?」
「あの子は……望は何と言ったんです? メンテナンスの間に……」
それが、この話のきっかけのはずだった。
間違いなく、自分が席を外している間に、少女型レプリカは何事かを人形師に告げたはずなのだ。
普段なら彼女が、たとえば李夫人に何を告げようと楊ゼンは気にしないし、わざわざ聞こうと思ったこともない。
だが、今だけは、ひどくそれが気になった。
「──君の名前を呼びたい、と」
「え……?」
楊ゼンは思わず肩越しに振り返る。
その視線の先で、太乙は静かに、どこか切なげにも見える表情で微笑んでいた。
「楊ゼンに名前を呼ばれて嬉しかったから、自分も呼びたい。だから、声を出したい、とね。一生懸命、書いてくれたよ」
「───…」
「オルゴールをくれて、文字も教えてくれた。すごく嬉しいから、楊ゼンにも嬉しいをあげたい。──あの子は主人持ちで、主人に虐待されつくしたレプリカだ。そんな子がそう言った。その意味が分かるかい?」
声に出して返事をすることは出来なかった。
ただ唇をかみ締めて、かすかにうなずくのが精一杯で。
楊ゼンはしばらくその場に立ち尽くし、目を閉じる。
「──ありがとう、ございました」
「うん」
太乙はうなずき、手を伸ばして壁に張ったカレンダーをめくる。
「そうだね、次は二ヵ月後くらいに連れて来てくれるかい。哮天犬も一緒に定期メンテやるから」
「分かりました」
承諾して、楊ゼンは一礼した。
「それでは失礼します」
「うん、またね」
簡単な挨拶に送られて、楊ゼンは研究室を出る。
そして、先ほどまで自分が座っていた古いソファーに行儀よく座り、同じように行儀よく手足をそろえている犬型レプリカと寄り添っている少女型レプリカに、いつもと同じ優しい声をかけた。
「長引いてしまってすみません。李夫人も待ってくれているでしょうから、帰りましょう」
少女型レプリカはこくりとうなずいて立ち上がり、そして、物言いたげな気遣わしげな瞳で、おずおずと青年を見上げる。
光を映さない、けれど深い藍に澄んだ瞳を見つめて、楊ゼンは微笑んだ。
「大丈夫ですよ。あなたが心配をすることは何もありませんから」
そう言い、そっと少女の細い手を取る。
と、わずかにためらったあと、ほんのり冷えた華奢な手がごく弱い力で手を握り返してきて。
楊ゼンは不意に、望を抱きしめたい衝動に駆られた。
──独りでは決して生きられない、ただ美しいだけの弱い弱い生き物。
けれど、この華奢な手は。
無垢なまでに人を慕い、いじらしいほどに透き通って純粋な魂は、まるで真珠のようなやわらかな至上の輝きを放っているようにも思われて。
「帰りましょうか」
手を繋いだまま、ゆっくりと少女の歩調に合わせて歩き、地上へと続く階段を上りながら、改めて楊ゼンは、この小さな存在を何があろうと守り通すことを心に強く誓い直した。
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