Replica Master (2)
楊ゼンと哮天犬の住む家は、古い、大きな館だった。
「着きましたよ」
自分が運転してきた車を降り、楊ゼンは助手席に回って、行儀よくシートに収まっている少女をそっと抱き上げる。
華奢な躰は頼りないほどに軽く、子供を抱く時のように少女の大腿を腕で支え、細い腕を肩に掴まらせて、ゆっくりと門を通り過ぎた。
「この家は2年程前に買って、それまで住んでいた家から移ったんです。古いばかりで何もないんですが、庭が綺麗なんですよ」
楊ゼンの落ち着いた声が、高い天井に反響する。
その響きに耳を澄ませるように、少女はわずかに見えないまなざしを上げた。
「食事の用意や掃除をしてくれる家政婦が一人、昼間に通ってくる他は、僕たち以外、誰もいません。使ってない部屋も多いですから、あなたの目が見えるようになったら、お化け屋敷と間違えるかもしれませんね」
優しく言いながら、楊ゼンは彼女の体重を片手で支えたまま、エントランスホールの正面にある階段を上り、2階の廊下の突き当たりにある部屋のドアを開ける。
「ここは、玄関からまっすぐ入ったところにある階段を上って、2階の廊下をを左に歩いてきた一番奥の部屋です。僕の部屋ですが、続き部屋がゲストルームになっていますから、そこをとりあえずはあなたの部屋にしましょうね」
屋敷の造りに慣れたら、好きな部屋を使って構わないから、と言いながら、そっと少女を床の上に下ろす。
すると、周囲の雰囲気を掴もうとするかのように、少女は見えない目をじっと宙に向けた。
そんな彼女の様子に微笑み、楊ゼンはそっと細い手を繋ぐ。
「あなたの部屋はこちらですよ」
ゆっくりと、目の見えない少女が不安にならない速度で、奥にあるドアまで導く。
そして、もう少女の空いている方の手を取って、ドアノブに触れさせた。
「開け方は分かりますか?」
優しく問いかけると、少女は少し考えた後、探るように小さく指を動かし、カチャリと音を立ててドアを開ける。
「大丈夫ですね。──じゃあ、ここが今日からあなたの部屋です」
続き部屋は、表の部屋より少し小さいだけで、あとはほぼ同じ造りだった。
ベッドにソファー、ドレッサーなど一通りのものがきちんと整えられている。
「いいですか? 今立っているのが、入り口のドアです。このまま、壁伝いに右側に行くとベッドがあって、左側に行くとソファーがあります。そして、部屋の向こう側にバスルームと化粧室。ここから見て、右のベッド側に窓があります」
ゆっくり言い聞かせると、少し考える素振りをした後、少女はほんのかすかにうなずいた。
その仕草に、楊ゼンは微笑する。
「じゃあ、まずバスルームに行きましょうか。今日は疲れているでしょう? 嫌でなければシャワーを浴びて、それから眠りましょう。明日、目が覚めたら、この屋敷について、もっと色々なことを教えてあげますから」
そう言うと、もう一度小さく少女はうなずいた。
そして、楊ゼンは繋いだままの華奢な手をそっと引いて、うながす。
「あなたはかなり賢いようだから、僕が言う必要もないかもしれませんが・・・・この部屋に慣れるまでは、歩数を数えて距離を掴んで下さいね。そんな危ないものは室内に置いてませんけれど、転んだりぶつかったりしないに越したことはありませんから」
ゆっくりと室内を歩き、向こう側の壁に到達する。
そこで立ち止まり、繋いでいた少女の手を、バスルームへと続くドアのノブに触れさせた。
「これがバスルームのドアです。ここまで何歩だったか、覚えてますか?」
問い掛ければ、やはり少女はうなずく。
何も映していない、感情のうかがえない人形のような瞳をしていても、確かに生きているのだと感じさせてくれるその小さな仕草が、楊ゼンを優しい気持ちにさせた。
「じゃあ、開けて見て下さい。ノブはさっきと同じ形ですよ」
ゆっくりと少女はドアを押し開ける。
古いが、きちんと油の注してあるドアは、きしみ音を立てることもなく、なめらかに開いた。
「ここは、あなた専用のバスルームです。僕のは僕の部屋にちゃんとついていますから、気にせずに使って下さいね。一応、タオル類は全部揃っているはずですが・・・・・ちょっと待ってて下さい」
じっと人形のように立っている少女から離れて、楊ゼンは手早く壁に作り付けの棚の扉をいくつか開き、中を確認する。
そして、少女の傍に戻った。
「じゃあ、この中の造りを覚えて下さいね。ここが入り口で、右側がバスルーム、左側が化粧室です。正面の壁に鏡と収納棚があって、タオルやバスローブの新しいものがしまってあります」
そう教えてから、また少女の右手を取って壁に触れさせる。
「そんなに広くないから、壁伝いに移動した方が分かりやすいでしょう。足元には何もありませんから、一人でゆっくり1周してみて下さい。僕はここから動きませんから、僕の声で位置を確認して」
うながすと、素直にゆっくりと少女は歩き出した。
いつから物を見なくなったのかは聞き忘れたが、盲目状態での動きには、ある程度慣れているらしく、確かめるような足取りはおそるおそるというほどのものでもない。
細い手で壁の感触を確かめながら、ゆっくりと進んでゆく。
「今、ガラスに触れているのが分かりますね? それがバスルームのドアです。・・・・・・それから、それが収納棚。縦に3つ、扉があります。力はいりませんから、順番に開けて、中を確かめて下さい。一番上はあなたの顔の高さだから、ぶつけないように気をつけてね。上から、タオル・・・・バスローブ・・・・石鹸やシャンプー。そうですよ。
それから、そのガラスが鏡。その次も収納棚です。そこは空いてますから、好きなものを入れていいですよ。・・・・そして、それが化粧室のドア」
少女が触れるものを一つずつ説明しながら、1周してくるのを待つ。
「はい、ここが終点です。お疲れ様でした」
戻ってきた少女の肩にそっと手を触れて、声をかける。
と、少女が見えない目で楊ゼンを見上げた。
その表情が何か物言いたげに見えて、だが、彼女は言葉を話すこともやめてしまったのだと思い出し、楊ゼンは少しだけ戸惑う。
見上げてくる少女型のレプリカは、身長も楊ゼンの胸の高さまでしかなく、本当に華奢ではかない。
ドクターが、徹底的に自分を閉ざしていると言った通り、繊細な顔に表情は無かったが、今、どこか物言いたげに見える少女の心を読み取ってやれたらいいのに、と楊ゼンは思った。
「──字は書けますか?」
不意に問いかけると、少女は意図を読み取れなかったのか、まばたきする。
「あなたが僕に何かを言いたくなった時、伝える方法がないと困るでしょう? 字が書けるのなら、僕の手のひらに書いて下されば、僕はあなたが何をして欲しいか知ることができますから」
そう言うと、少女は本当に小さく首を横に振った。
「字を教えてもらったことはありませんか?」
かすかに、うなずく。
───だが、それも当然といえば当然だった。
レプリカなど、良くて愛玩動物の扱いである。一体誰が、愛玩動物に文字を教えようと思うだろう。
人語を解せない、話せないでは面白くないから、言葉を話すことはできるように生産段階で教えられるが、せいぜいそれだけだ。大抵の主人は、人型レプリカが人間に意思を伝えようとすることさえ認めないのである。
ましてや、自ら目も口も閉ざしてしまうほど虐待された、この少女が文字を知っているはずがなかった。
「では、僕が教えてあげますよ。あなたが言いたいことを僕に伝えられるように」
胸の奥でくすぶりかけた感情を押さえつけて、楊ゼンは優しい声を出す。
すると、少女は大きな瞳をまばたかせた。
何も映さない硝子玉のような、けれど美しいきらめきを持つその瞳には、確かに淡い驚愕の色が滲んでいて。
楊ゼンは、その深い煌めきを見つめながら、静かに言い聞かせる。
「僕は、あなたの主人ではなくて保護者なんです。実際、マスター登録はしなかったでしょう? だから、僕はあなたに酷い事をしない代わりに、もっと色々なことを教えてあげます。文字や花の名前や、綺麗なもの、優しいものを沢山、あなたに」
少女は、ひたすらに楊ゼンを見上げる。
見えない瞳で、けれども懸命に見ようとするかのように。
「辛い目に遭ってきたあなたに、今すぐに僕を信用しろとは言いません。でも、あなたが嫌がることは絶対にしません。これは約束です」
今日、何度も繰り返した言葉を、もう一度繰り返して。
楊ゼンは、少女の髪をそっと、ごく軽く撫でる。
艶やかな髪は、さらさらと指から逃げてゆき、少女はその間も、まばたきをしながら楊ゼンを見上げていた。
しばらく、その美しい瞳を見つめてから、楊ゼンはゆっくりと少女の髪から手を引く。
「・・・・・じゃあ、シャワーを浴びましょうか。あなたがここの造りに慣れるまでは、僕が手伝いますが、きっとあなたなら、すぐに全部自分でできるようになりますよ」
そして、服は自分で脱げますか、と尋ねると。
少女はかすかにうなずき、ゆっくりと手探りで首の後ろのホックを外した。
着ることは難しくても、脱ぐことはそれほどでもないのだろう。極上の生地に極上のレースをあしらった、少々クラシカルなドレスを目が見えないながらも器用に脱ぎ落としてゆく。
更に、繊細な仕立ての下着までも脱ぎ落とし、あらわになった少女の肌に、楊ゼンは息を呑んだ。
───透き通るように白い肌に浮かんだ、幾つもの傷跡。
どれもこれも、一生残るほどのものではない。おそらく、数ヶ月もあれば消える程度の痣(あざ)や傷跡ばかりだ。
だが。
美しいすべやかな肌に、赤い傷跡はあまりにも醜く映えている。
一糸纏わぬ姿になった少女は、14、5歳くらいだろうか。
隠そうともしない胸や腰にやさしいふくらみは帯びているものの、やはり抱きしめたら折れそうなほどに華奢で。
夢のように美しく儚い姿は、レプリカといえど、こんな少女にむごいことを強いた相手に対する怒りと、また虐待をそそられる気持ちを理解できてしまうような相反した思いが、楊ゼンの胸の裡に湧き上がった。
だが、そんな思いは抑えて、そっと少女の肩に先程出しておいた大判のバスタオルを羽織らせる。
そして、極力素肌には触れないようにして、少女をバスルームに導いた。
「バスルームのドアは、ここを押すと開きますよ。──そう」
まず、ドアの縁に手を触れさせ、そこからゆっくりと中央まで硝子をたどらせて、ノブの場所を教える。
言う通りに少女がドアを開くのを見て、楊ゼンはかすかに微笑んだ。
「じゃあ、バスルームは濡れていて滑りますから足元に気をつけて・・・・。壁から手を離さないようにして、右の方に・・・・・この位置で止まって。分かりますね? 壁の角からこれだけの距離のところに、バスタブがあります。足をぶつけたりしないように気をつけて下さい。
バスタブで滑らないように気をつけて・・・・・今、触っているのが、シャワーのコックです。右が水で、左がお湯。シャワーのヘッドは、ちょうどあなたの頭の上ですよ」
温度調節に気をつけて、と言うと、少女はゆっくりと水と湯のコックを、それぞれ少しだけひねる。
ほんのわずかなタイムラグがあって、ちょぼちょぼと少量の湯が少女の頭に落ちかかった。
すると、少女は顔を上げ、一歩下がってシャワーの湯を避けるようにしながら、羽織っていたバスタオルをするりと肩から落とし、両腕に抱える。
これをどうしよう、とかすかに戸惑った様子を見せた少女に、楊ゼンは微笑しながら声をかけた。
「貸して下さい。僕が預かっていてあげますから」
少女の腕からバスタオルを受け取り、代わりに少女の手を取って、石鹸やシャンプーの位置を教える。
「髪は・・・・見えないと洗いにくいかもしれませんね。それだけは、僕がしてあげますよ」
そう言うと、少女は手探りでシャワーのコックを見つけ出し、もっと大きくひねった。
一気に湯量が増えて、バスルームはふわりと淡い蒸気に満たされる。
そして、楊ゼンは自分のシャツの袖を肘までまくった。
「じゃあ、先に髪だけ洗ってあげますから」
声をかけて手にシャンプーを取り、軽く泡立ててから、濡れた少女の髪にそっと触れる。
優しく泡で包み込むように髪と地肌を洗い、それからシャワーを壁から外して、十分に湯ですすぐと、天井の照明に、濡れた髪は眩しいほどの艶を放った。
「はい、おしまい。あとは、あなたの良いようにして下さい」
シャワーヘッドを壁のフックにかけなおし、そう告げると、少女は自分でスポンジを手に取り、ソープを泡立てて体を洗い始める。
そして、綺麗に全身の泡を流し終えたところで、湯を止めた。
「この辺りは、もう教えることはなさそうですね」
振り返った少女に微笑しながら、もう一度、大判のバスタオルを羽織らせて。
楊ゼンは、入ってきた時と同様に、少女に壁を手で伝わせながらバスルームを出る。
それから、少し待っているように言って、髪用のオイルを少量手に取り、手のひらで伸ばしてから、少女の髪になじませた。
おそらく、髪や肌の手入れだけは十分にされていたのだろう。少女は楊ゼンがしていることを訝しがる様子もなく、その間じっと大人しくしていた。
それから、少女が全身を拭き、バスローブを身にまとう様子を、楊ゼンは傍で見守った後、居間兼寝室へと戻り、今度はドレッサーの前に導く。
「今夜は僕が髪を乾かしてあげますが、もし自分でできると思ったら、自分でしていいですよ」
言いながら、ドライヤーをセットして少女の髪を乾かしてやる。
その間も、少女はドレッサーの椅子に膝をそろえて、ほとんど身動きしなかった。
もしかしたら、主人が何かをしている時に勝手に動いたりしたら、酷い目に遭わされたのかもしれないと、その人形のような大人しさに痛々しさを感じつつも、楊ゼンは少女の髪を丁寧に乾かし、8割方、渇いたところでドライヤーを止めた。
「さて・・・・さすがに女の子用の寝巻きはないから、今夜は僕ので我慢して下さいね。明日、服や他にも要るものを買いに行きましょう」
そして、男物を嫌がる素振りを見せることもなく素直にバスローブを脱ぎ、楊ゼンのパジャマの上だけを着た少女は、よりいっそう華奢に見え、クラシカルなドレスを着ていた時とはまた別の可憐さで、楊ゼンは思わず微苦笑をこぼす。
「やっぱり大きすぎますね。でも、一晩寝るだけですし・・・・我慢してくれますか?」
尋ねると、少女はかすかにうなずく。
従順なのはレプリカの特性だが、しかし、確かに彼女が嫌がっているわけではないことを感じて、楊ゼンは少女の髪をそっと撫でた。
「いい子ですね、あなたは・・・・・」
その言葉に。
少女型レプリカは、不思議そうな表情でまばたきをする。
だが、それ以上は何も言わないまま、楊ゼンは、また室内の造りを詳しく教えながら、少女をベッドまで導いた。
「僕は隣りの部屋にいますから。夜中に目が覚めたり、何かあったらすぐにこのベルを鳴らして下さい。遠慮なんかしたら駄目ですよ」
小さなアンティークのハンドベルの形を確かめさせてから、サイドテーブルに置いて。
大きな天蓋つきのベッドに、少女が素直に横になるのを見届けて、楊ゼンは、そっと額に羽根のように優しいキスを落とす。
「もう怖いことも悲しいことも、何も起きませんから。安心して眠って下さい」
その言葉に、少女は二、三度、大きな瞳をまばたかせ、それからゆっくりと瞼を閉じた。
印象的な瞳を閉じていても十分に美しい、繊細な容貌を少しの間見つめてから、楊ゼンはそっと物音を立てないようにしてベッドの傍を離れる。
そして、優しい闇に少女の部屋は包まれた。
光一つない闇の中で、少女はそっと寝返りを打つ。
極上の寝具のやわらかさは、これまでに慣れ親しんできた感覚と同じもので、だから眠れないということはない。
だが、こんな風に寝具のやわらかさや温かさを感じたことはなくて。
違和感がぬぐえない。
───嫌がることは何もしない、と何度も繰り返した人。
今日、初めて聞いた声は、優しくて気持ちのいい声だった。
本来の自分の持ち主も、美しい声の持ち主だったけれど、その言葉はいつでも冷ややかで残酷に微笑していて。
何を言われるのか、いつも怖かった。
でも、その優しい声の人は、何もできない代わりに、嫌がることは何もしないから、自分の家に来ないか、と言ったのだ。
これまでにも、自分を欲しがった人は沢山いた。
どの人も、主人によく似た、甘くて冷たい調子の声で、うんと可愛がってあげるから私のところにおいで、と。
そのたびに、主人は、これは私のものだからと笑っていて。
欲しいと言った人に、勝手に何か答えたり微笑んだりしたら、後で恐ろしい目に遭わされた。
けれど、今日、おいでと言ってくれた人の声は、ほんの少しも笑っていなくて。
そして。
この手を取って、犬型レプリカのふかふかした毛皮と、自分の顔に。
触らせてくれた。
あんな風に人間の顔に触ったのは、初めてだった。
レプリカの自分は、勝手に何かをしたらいけなくて、主人や他の人間に命令もされていないのに触れようと思ったことさえない。
だから、温かな感触にとても驚いて。
───思わず、うなずいていた。
おいでと言った人間に勝手にうなずいたりしたら、自分が直って戻ってくるのを待っている主人に、どんな目に遭わされるか。
すぐに気付いて、とても怖くなったけれど、その人はドクターと短い相談をして、大丈夫なように話をまとめてしまったのだ。
そして、本当にこの館に連れてこられて。
何もかも、驚くことばかりだった。
これまでに新しい主人のところへ行って、教えられたことは、沢山の『してはいけないこと』と『しなければいけないこと』だけだった。
レプリカ相手に、嫌がることは何もしないなどと約束する人間も、文字を教えてくれるなどと言う人間も、聞いたことなどない。
ましてや、肌に触れようともしない人間など。
──シャワーを浴びるために、服を脱ぐよう言われた時。
本当は一瞬、疑ったのだ。
この人間も、本当は主人と同じことをしようとするのではないかと。
けれど、自分はレプリカだから。
人間には決して逆らってはいけないモノだから、言われるままに服を脱いだ。
なのに。
あの人は、本当に何もしなかった。
肌にほとんど触れることもなく、ただ優しく髪を洗ってくれて、乾かしてくれて。
もう怖いことも悲しいことも起きないから、安心して眠れと。
生きて呼吸をしていても、レプリカはモノでしかない。
人間の玩具でしかないのに。
「────」
ころんと、広いベッドの上で少女は寝返りを打つ。
そして、細い手をそっと握り締めた。
───わずかな時間の間に一体何度、手を繋いでくれただろう。
温かな大きい手で、ゆっくりとこの手を引きながら、目の見えなくなってしまった自分にも分かるように、部屋の中のことを丁寧に教えてくれた。
本当に軽く、そっと髪に触れてくる手は、怖がらなくてもいいと伝えているようで。
間違いなく人間の手なのに、どうしてそんなに優しいのか。
自分が知っている『人間』とはあまりにも違いすぎていて、何一つ分からない。
寝付けないまま、また寝返りをうった時。
──ほんのかすかな音がして、部屋のドアが開いた。
目が見えなくても、反射的にそちらに顔を向けると、
「──眠れないんですか?」
優しい声が、ゆっくりと近づいてくる。
そして、ベッドの傍で立ち止まる気配がして。
「初めての場所だから緊張してしまっているんでしょうね。どうかと思って様子を見に来たんですが・・・・」
そっと優しい手が髪を撫でる。
「何か・・・・ああ、そうだ。ちょっと待っていて下さいね。いいものを持ってきてあげますから」
そう言うと、足早に足音と気配が遠ざかっていく。
部屋を出てゆき、更に向こうの部屋をも出てゆく音がして。
何を取りに行ったのだろうと、不思議に思うまま、少女はベッドに起き上がった。
そして、そのまま待っていると、やがて足音が戻ってきて。
「はい、お待たせしました」
その声と共に、温かな手がそっと手を取り上げて、何かに触れさせる。
───両手で持てる大きさの、軽い木製の箱。
なめらかな木の手触りが、指先に気持ちよくて、ゆっくりと形をなぞる。
と、温かな手が重ねられて、箱の上蓋が開くことを教えてくれた。
途端に、流れ出した、綺麗な音。
「これはオルゴールです。知っていますか?」
小さく首を横に振ると、すぐ傍で微笑む気配がする。
「この箱の中に仕掛けがあって、蓋を開けると音楽が鳴るんです。ほら、底にぜんまいがあるでしょう? 音が止まってしまったら、これを巻くとまた動くんですよ」
優しい声が、分かりやすく説明をしてくれる。
「この音楽はね、子守唄というんです。赤ん坊や小さな子供を寝かしつける時に、歌う歌。あなたはもう小さな子供じゃありませんけど、優しい曲でしょう?」
その人が言う通り、澄んだ音は優しいメロディーを繰り返し、奏で続けて。
そして、大きな手が、そっと髪を撫でてくれた。
「このオルゴールは、元々この館にあったものなんです。僕は、家財道具を含めて丸ごと、この館を買ったものですから・・・・。
古いものですけど、上等の品ですから、あなたにあげますよ。眠れない夜にも、これがあればきっと寂しくないでしょう」
ゆっくりと髪を撫でる手が、だからもう安心しておやすみ、と言っているような気がして。
少し考えた後、手探りで枕もとにもらったばかりのオルゴールを置き、もう一度やわらかな寝具にもぐり込む。
と、また、やわらかくて温かな感触が軽く額に触れた。
「おやすみなさい、望」
そっと見えない目を閉じても、優しく澄んだメロディーと、ゆっくりと髪を撫でてくれる手の動きは止まらなくて。
ようやく安堵したように静かに深い息をついて、少女型のレプリカは、ゆらゆらと眠りの中へと落ちていった。
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