紅 楼 夢 (3)

















色が違う、と思った。
目と目が合った、その刹那。








初会と何一つ変わらなかった、淡雪の精の如き美貌がゆっくりと上座を立ち、座敷のうちを己の方へと近寄ってきて。
優雅に傍らに侍(はべ)る。
間近に見て、やはり随分華奢に見える、と思ったその時。

これまで凛とした表情を一度も崩さなかった氷の華が、ふわりと笑んだ。

「よう裏を返しに来てくんなんした」
薄氷が一吹きした春風に溶け、裡に閉じ込められていた花が開いたような、そんな風情に思わず息を呑んだ客に構わず、細い手が徳利を取り上げる。
「どうぞ、おあがりなんし」
声だけは変わらず、凛と響く。
言われるまま、盃に酒を受け、それを楊ゼンは干した。

そして、すぐ傍にある美貌を見つめる。

最上級の花魁らしく、肌には何の紅粉も施してはいない。
だが、すべやかな肌は透き通るように美しく、形のいい小さな唇も、薄紅の花片のようで。
冬の夜空のような深い色をたたえた瞳は、まっすぐに楊ゼンの視線を受け止める。
だが、それらのどこにも女郎らしく媚びる色はない。

「──よく僕の呼出しに応じてくれましたね」
楊ゼンの言葉に、花魁はわずかに微笑む。
「お花に呼んでもらいんしたら、勿体つけずに行きいすのがわっちの流儀にありんす。お客人こそ、どうしてわっちを呼ばれなんした」
「あなたが一番綺麗だと思ったからですよ」

あっさりと口にした言葉に、美しい瞳がわずかに見開かれた。
その凛とした深い色を見つめながら、楊ゼンは続ける。

「八朔の日に、仲之町で騒ぎが起きかけたのを覚えておいでですか」
「・・・・・・そういうこともありんした」
あの宵のことを思い出したかのように、ふと愉しげに目が細められる、
「お客人は、仲之町においでになりんしたか」
「ええ。友人たちと一部始終を」
「──それで、わっちを」
「あなたの口上が見事でしたから。是非一度、会ってみたいと」

口上、と花魁が微笑む。

「八朔の雪に目が眩んだ愚かな客に、あなたがどんな口上を聞かせてくれるのか気になって、夜も眠れないんです」
続けた戯言に、花魁は花が開くように笑んだ。
「わっちが口にしいすのは、他愛ない空言ばかりにありんす。お客人こそ、わっちの口上を聞きなんして、お逃げにならぬ覚悟がありなんすか」
「雪の精に逃げたと責められて、氷漬けにされるのは嫌ですから」
いくらでもどうぞ、と楊ゼンは誘いかける。
が、花魁は、そういうことを言いながら逃げなんすのが殿方にありんしょう、と悪戯に微笑んだ。



花魁や新造が差し出す酒肴を受けながら、楊ゼンはつくづくと薄雪を見つめた。
(一体、どう言えばいいのかな・・・・・・)

決して、派手な顔立ちではない。
が、凛とした雰囲気と、深い色をした大きな瞳が印象的な可憐といってもいい美貌があいまって、一度見たら忘れられない何かがある。
あでやかでありながら、この上なく澄んだ、なんとも表しがたい艶は、まるで底に紅を秘めた純白の大輪の牡丹が、気高く咲き誇っているようだった。

そして、あたりを払うような存在感があるのにもかかわらず、ふっと消えてしまいそうな儚さも見え隠れしていて、それこそ人ではないと・・・・・・雪か花の精のようにさえ思えるほどだった。

実に得がたい、並みの娼妓とは比べ物にもならない花魁の佳麗さに、楊ゼンは満足を覚える。
初会の時以上に、彼女相手であれば芯から楽しめそうな予感を覚えて、口元に微笑を浮かべながら、盃を重ねた。







一刻ほどが過ぎた後、茶屋での酒宴はお開きとなり、楊ゼンは明月楼へと案内された。

中見世の上の部類に入る明月楼は、大見世ほどではなくとも粋を凝らした籬(まがき)を持つ、立派な店構えを見せている。
全体的に品がよく、かといって大見世のような権高さもなくて、客の応対をしている主人や遣り手も、色里にありがちな世知辛さを感じさせない、薄雪花魁を抱えているのがすんなり納得できる見世だった。

二階の奥にある薄雪の座敷は二間続きで、あでやかながらもすっきりと片付けられ、品のいい調度が使い勝手の良いように置いてある。
窓の向こうには、桜の枝が張り出しており、春になれば部屋にいながらにして、見事な花が楽しめそうな風情である。

「桜がいい枝振りですね」
「春になるたび、ほんに綺麗に咲きんす。お客人も一目見れば、うつつのことなど忘れなんしてしまいんしょう」
「へえ。それは是非見てみたいものだ」
「どうぞ、おいでなんして下しゃんせ」

傍らで微笑む薄雪こそが花にも勝るほどに美しくて、楊ゼンは目を細める。

「何か、おあがりなんすか」
「いや。これ以上盃を重ねて、醜態をさらしたくありませんからね。ようやくここまでたどり着いたのに、あなたに愛想をつかされてしまっては元も子もない」
「愛想をつかすなんて、そんなことはありんせんよ」

戯言めいた楊ゼンの言葉にくすりと微笑って、薄雪は、控えていた禿の少女を呼んだ。
「鈴音、初花、茶の用意をおし」
「あい」
花簪の愛らしい少女二人が立ち上がり、一人は床の間の違い棚の下段にあった茶道具を花魁の前に運び、もう一人は湯を取りに行くのか、座敷を出てゆく。
花魁の正面に見事な茶道具が並べられ、湯気の上がる鉄瓶を持った若い衆を連れて、禿が戻ってくる。

すべての用意が整ったところで、薄雪は姿勢を正し、一部の隙もない優雅さで茶を立てた。

「少々苦うありんすが、酔い覚ましにはちょうど良くておざんしょう」
「ありがとう」
微笑みながら、細い手がそっと自分の前に置いてくれた信楽焼の茶碗を、楊ゼンもまた、気負いのなく取り上げた。

大ぶりの茶碗に立てられた薄茶は、苦さの奥にほのかな甘味もあって、酔いを心地よく押し流してくれる。
ゆっくりと茶を飲み干して、楊ゼンはひとつ息をついた。

「これほど美味い茶は久しぶりに飲みました」
「久しぶりと言いなんすと・・・・・・以前はどちらでおあがりになりんしたか」
悪戯っぽい光を深い色の瞳に浮かべて問いかける薄雪に、楊ゼンも微笑み返す。
「残念ながら、相当な歳の食えない老人ですよ。色々と風流を教えてくれた恩師ではあるんですが」
「そう言いながら、どこぞにお綺麗な方を隠していなんすのが、殿方にありんしょう」
憎らしい、とわずかに拗ねた口ぶりで言いながら、薄雪は空になった茶碗を自分の手元に引き寄せる。

中見世とはいえ、御職の花魁の持ち物であれば、当然極上のものばかりが取り揃えてある。
だが、その土と炎の色を映した信楽焼の茶碗は、なんの装飾もないからこそ、かえって気品があって、どれほど見ても見飽きない見事なものだった。
こんな茶碗を手にして似合う若い女は、彼女以外、まずいないだろうと楊ゼンは心の中で思う。

そして、改めて見れば、極上の調度ばかりを集めたあでやかな座敷の中で、彼女の存在は完璧なまでに調和を保っていて。
その見事さに、思わず小さな嘆息が零れた。







他愛のない、戯れのような会話を小半時ほども続けた頃。

控えていた若い衆が、「そろそろ」と花魁に声をかけた。
彼女はそれにうなずき、傍らの楊ゼンに向かって微笑し、立ち上がる。
そのまま、禿を引き連れて座敷を出てゆくのを、楊ゼンもまた物言わずに見送った。

「彼女が、吉原一と称えられるのも分かるね」
そして、共に取り残された振袖新造たちに話し掛ける。
「見かけばかりでなくて、心栄えも素晴らしい人だということが、話していてよく分かる」
「あい」
楊ゼンの言葉に、若い二人の新造はそれぞれ大きくうなずいた。
「花魁は言葉数の多い方ではありんせんが、わっちどもに大切なことをたくさん教えてくれなんす」
「誰よりもお綺麗で、誰よりもお優しい。ほんに、素晴らしきお方にありんす」
初回の時と同じように、少女たちは実に嬉しげに言葉を継いだ。

新造や禿たちが、自分の使える花魁を褒め称えるのは色里の常套である。
世話をしてくれる先輩をけなすようでは、決して客はいい顔をしないからだ。陰で悪口を言われているかもしれないと想像して、気分がよくなるような者はいない。
あの新造は陰口を叩く、などという評判が立ってしまったら、一人立ちした後に客がついてくれなくなってしまう。
だから、たとえ花魁の意地が悪くとも、褒め称えて客との仲を取り持つのが、新造や禿の勤めであり、彼女たち自身の将来のためでもある。
だが、どれほど注意深く聞いても、彼女たちの言葉には一分の嘘も作り事も感じ取ることが出来なかった。
そのことに楊ゼンは満足と共に、不思議さをも感じた。

たとえ心がけの良い女であっても、運が悪ければ悪所に身を落とす羽目になる。
そんなことは当たり前だから、薄雪が吉原にいることは別に不思議でも何でもないが、何故、客の身請け話には断固としてうなずかないのか。
それほど美しく、心根の優しい女ならば、たとえ堅気の商売人だとて、是非とも女房にしたいという者は幾らでもいるはずである。
なのに、彼女は明月楼に居座り続けている。
確かにここに居れば贅沢な生活はできるが、それはあくまでも数多の客を取ることと引き換えだ。
馴染みが少なければ見世での扱いは悪くなるし、ましてや体も酷使するから、年齢よりも早く老けてしまう。よほどの好き者でもない限り、女郎は誰しも、こんな暮らしからは一日でも早く抜け出したいと願っているはずなのである。

だが、花魁を慕っている少女たちに、彼女は好き者なのか、それとも何か堅気の女房になれない訳でもあるのかと尋ねるような常識知らずをするわけにもいかず、楊ゼンは他愛なく続く花魁自慢に穏やかな笑みを浮かべて耳を傾ける。



そうして、幾分かの時間が過ぎた頃。



静かに襖が開き、六本の鼈甲のかんざしを外し、裲襠(うちかけ)も脱いで夜の支度を整えた花魁が姿を現した。



艶やかな紅の長襦袢の上に薄縹の単(ひとえ)を重ね、細帯を軽く引いたらすぐに解ける独特の結び方で前結びにしている。
その姿で、ほとんど音も立てずに薄雪は楊ゼンに歩み寄り、傍らに寄り添うように座った。
わずかな微笑を浮かべた深い色の瞳を楊ゼンが見つめ返すうちに、新造や禿たちも丁寧に手をついて座敷を出てゆく。
そして、二人だけが取り残された。




しばらくの間、手も触れずに楊ゼンは見上げてくる瞳を見つめる。
行灯の灯りと窓から差し込む月の光を映した瞳は、あまりにも深遠にきらめいていて、どれほど見ていても飽きない。
けれど、このまま言葉もないのは野暮なことだと、楊ゼンは微笑した。

「先程までの姿も綺麗でしたけど、あなたは身に纏う色を少し控えた時が一番綺麗に見えますね」
「それは、わっちがみずぼらしいということにありんすか」
「まさか」
悪戯に微笑しながらの花魁の言葉に、楊ゼンも笑う。
「八朔の折のあなたがあまりにも綺麗でしたから。刷り込みで、白綾に身を包んだあなたが一番だと、つい思ってしまうんですよ。何を着ようと、あなたはあなたなのにね」
楊ゼンの言葉に、薄雪はくすりと笑みを浮かべた。

「着物一枚でごまかされるのが、人にありんす。錦の打掛を重ねていれば姫君に、襤褸(ぼろ)をまとっていれば、お乞食に見えるもの」
歌うように言って、そっと細い指で楊ゼンの手に触れる。
添えるというほどではない、ほんのかすかな触れ合いに、楊ゼンは意図を問うて薄雪を見やる。

「お客人は、襤褸をまとったわっちでも綺麗と言ってくれなんすか」

「ええ」
ためらいもせずに楊ゼンはうなずく。
「着物一枚というのは本当ですが、それも只の人であればです。あなたの美しさは、たとえ襤褸をまとっていようと決して隠せない。少なくとも僕は、必ずあなたに気付きます」
その言葉に、ふふ、と薄雪は淡く笑んだ。
「お客人は面白き方にありんす」
「僕は人に色々な言われ方をしますが、面白いと言われたのは初めてですね」
「お気に障りんしたか」
「いえ。愉快な気分ですよ」

笑って楊ゼンは、座敷の内にに視線を巡らせる。
どこの見世でも同じだが、花魁の座敷の床の間には、楽器や茶道具などが美しく飾られている。
もっとも今時の女郎は大して風流のたしなみもなく、大抵の場合、それらはただの置物に過ぎない。
だが、ここの楽器類は、ただ飾ってあるだけのものとはどうしても見えなかった。

「その月琴は・・・・・」
琴に三味線に笛にと、幾つも並べてある中で、一際美しい細工の月琴に先程から目を惹かれていた楊ゼンが、さりげなく水を向けると、薄雪はふっと微笑する。
「月琴に興味がおありなんすか」
「興味というか・・・・・、珍しいと思いましてね。ただ飾ってあるならともかくも、よく使い込まれているようなので」
そう言うと、更に薄雪は笑みを深くした。
「あれは、わっちが使い込んだものではありんせん。わっちはただ、あれを受け継いだだけのこと」
「受け継いだというと、前の持ち主は・・・・?」
「もう亡くなりんした」

淡く微笑んで、薄雪は立ち上がる。

「わっちは手遊び(てすさび)に弾く程度のことしかできいせんが・・・・」
言いながら、床の間からそっと月琴を取り上げ、見栄えを損なわない程度に緩めてあった二本の弦を締めなおす。
二、三、爪弾いて音を確かめ、撥を取って弾き始めた。

どこか物悲しい、唐渡り(からわたり)のような旋律が、月光に照らし出されて静かに流れてゆく。
手遊びと言いながら、心に染み入る音色に楊ゼンは目をみはり、そしてそのまま聞き惚れた。


晧々と世界を照らす月の光の中で、異国情緒に満ちた楽器を奏でる薄雪は、この世のものではないような美しさだった。
わずかに伏せた瞳に、長いまつげが翳(かげ)を作り、物悲しい切ない旋律に彩られた冴えた美貌は、月光に透き通るようで。
とてもではないが、身を売って生きているような女には見えない。

美しいと評判の女は、これまでに何人も楊ゼンは見てきた。
だが、このうら若い遊女は、他の誰とも違う。
何にたとえれば良いのか分からない、それこそ降ったばかりの真っ白な雪のような、冒しがたい清冽な美しさを彼女は持っている。
その奥底に秘められているものは──この美しさを作り出してるものは、一体何なのか、と楊ゼンは心を揺り動かされるような強さで興味を抱いた。



長く澄んだ余韻を響かせて、1曲弾き終えた薄雪が、ゆっくりと伏せていたまなざしを上げる。
斜め背後から差し込む月光を映した、その瞳の美しさに、楊ゼンは一瞬、言葉さえも見失った。

「いかがおざんしたか」
「───・・・」

出来を問いかけてくる澄んだ声にも答えず、突き動かされるように口を開く。

「あなたの薄雪という名は、どなたが?」
「──旦那さんにありんす」
唐突な質問に、わずかに表情を動かしたものの、薄雪は微笑んで答えた。
「わっちがこの見世に引取られた時に、おかみさんと一緒に考えておくれなんした」
そして、わっちの名がどうか、と小さく首を傾けて見せる薄雪に、楊ゼンは、まだ酔いから冷めないような気分で言葉を紡ぐ。

「あまりにも似合っているので・・・・・。一瞬、あなたが月光に溶けて消えてしまうような気がして」

その言葉に。
ふっと薄雪は微笑した。

月琴を桟に立てかけて立ち上がり、ゆっくりと楊ゼンの方に近づいてきて、傍らに座る。
そして。
楊ゼンの手を細い両手で持ち上げ、自分の頬に触れさせた。
「わっちは人の子にありんすよ」
だが、そう言いながらきらめく瞳が、人のものではないと思えるほどに美しくて。
けれど、初めて触れた彼女の肌は、確かに温かく。
楊ゼンは、戸惑いにも似た気分を覚える。

格の高い花魁は、初回や裏を返したくらいでは、決して帯を解かない。
一つ布団に同衾したとしても、ろくに手さえ触れさせてもらえないのが当たり前だ。
だが、たとえこの薄雪が並の格付けをされた梅茶女郎だったとしても、自分は今夜、彼女の肌に手を伸ばすことができただろうか。
そんな世迷い事のようなことを考えて。

唐突に楊ゼンは理解する。

彼女が客を振らなくとも、客が馴染みになることを遠慮する、その理由。
あまりにも美しすぎるのだ。
姿かたちだけではない。
美しいもの儚いものを汚したくなる男の本能さえ、簡単に凌駕してしまうほど、この娘を形作っているものすべてが、凄絶なまでに透き通って美しいために、並の男たちは指を触れることさえためらってしまう。

だからこそ。

薄雪は、吉原一の呼び名をほしいままにしているのだ。

「お客人・・・・?」
身動きせず、言葉も発しない楊ゼンに、少しばかり不思議そうに薄雪が問いかける。
桜の花片のような唇がゆっくりと動くのに、楊ゼンは目を奪われて。
「今夜は・・・・」
間近に見る彼女の美貌から目を離せないまま、口が勝手に言葉を紡ぎだす。
「今夜はこのまま、あなたを見ていても良いですか・・・・?」
その言葉に。
薄雪は、くすりと微笑した。
「どうぞ、お好きなだけ御覧なんし。その代わり・・・・」

わっちも、お客人を見ていてもようありんすか、と問いかける花魁に。
もちろん、と楊ゼンがうなずくと。
薄雪は花が開くように微笑んで、すいと楊ゼンの傍を離れ、窓際に戻って月琴を取り上げた。

「今夜は一晩、これを弾きんしょう。お客人は好きなだけ聞きなんして、眠くなったら眠ってくんなんし」

そう言い、再び薄雪は美しい螺鈿細工の月琴を構えて、静かに奏で始める。




そのまま、夜が白々と明け染めるまでまんじりともせず、楊ゼンは物悲しくも美しい旋律に耳を傾けていた。













「次は、いつ来なんすか」
「そうですね。・・・・あまり足繁く来て、あなたにうるさがれるのも嫌ですから、五日後に」

明け方、身支度を整えるのを手伝ってくれながら、薄雪が口にしたのは、女郎の常套句だった。
だが、同じように決まり文句を返し、振り返った楊ゼンの目に映ったのは。
「五日後」
楊ゼンの言葉を繰り返し、まるで少女のように微笑む薄雪の清楚な美貌だった。
「約束におざんすよ。きっとおいでなんし」
まるで本物の恋人と逢瀬を約束するように嬉しげに微笑んで、楊ゼンを見上げる。

朝早い光の中で、その微笑みは、昨夜の清冽さとはまた異なる、無垢なまでの可憐さで。
これもまた、一度馴染みになったら離れられないという彼女の魅力なのかと、楊ゼンは内心、驚きつつも納得する。

「約束します」
驚愕を微笑の下に隠してうなずき、楊ゼンはそっと彼女の頬に手を触れる。
薄雪は、その手を厭う素振りを見せることはなく。
やはり、すべやかな彼女の肌は、昨夜と同じく、優しい温もりを楊ゼンの指に伝えた。









五日後の夜。
おそらく初めて、薄雪の着物の下に隠された肌に触れることになるその夜が、どんな夜になるのか。
楊ゼンには予測がつかなかった。




















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* 用語解説 *

この解説は、江戸後期=1800年頃の吉原についてのものです。
これ以前、以降は、また違いますので御了承下さい。
籬(まがき)見世と、店の入り口にある落ち間と呼ばれる小部屋の間にある格子戸のこと。格の高い見世ほど立派であり、大見世のことを通常、大籬(おおまがき)と呼ぶ。
月琴(げっきん)胴が円形で、短い竿に張った弦を撥(ばち)ではじいて弾く、琵琶と同系統の中国伝来の楽器。
梅茶女郎
(うめちゃじょろう)
江戸時代後期に置いて、昼三(前回参照)と呼ばれる上級女郎の、格下に位置する中級女郎。座敷持ち、部屋持ちと称される、自分専用の部屋をもっている女郎の場合が多い。