紅 楼 夢 (4)
静かに音もなく襖(ふすま)が開いて、閉ざされる。
やわらかな衣擦れの音と共に近付いてきて、するりと傍らに落ち着いた相手を、楊ゼンはまじまじと見詰めた。
氷の華のような、人離れした凛として冒しがたい美貌を目の当たりにした。
咲き初めの花のように淡く微笑んだ、可憐な表情も見た。
月光の下で異国の楽器を弾く、清冽なまでに透き通った清雅な横顔も知った。
だが。
目の前にいる女は。
「────」
こちらを見つめる瞳に誘われるように手を伸ばし、すべやかな頬に触れる。
と、大輪の牡丹花が、風もないのに花片を一つ二つ崩すようなあでやかさで、彼女は微笑んだ。
白粉をつけぬ肌は透き通るように白く、紅をつけぬ唇は、それでもほの赤く染まり、艶めいている。
淡い笑みを含んだ瞳は、濡れたような輝きで男を見上げて。
作り物のような細い美しい手が、頬に触れている男の手にゆっくりと伸ばされ、手の甲を包み込むように重ねられる。
そして、その手のひらをいとおしむように、目を細めて小首をかしげ、そっと頬を押し当てた。
「──好きにしておくんなんし」
宝玉で作った楽器があれば、こんな音を立てるだろうかと思われるような、美しい声がささやく。
「この世など、夢幻のようなもの。わっちも主(ぬし)様も、夢幻の波間を漂うあぶくの一つに過ぎんせん。浮世のことは全部、忘れておしまいなんし」
歌うようなささやきと共に、美しい唇を手のひらにそっと押し当てられて。
ぞくりとしたものが楊ゼンの背中を駆け昇る。
──目の前にいるのは、吉原一の娼妓。
誰よりも美しく、扇情的で。
そのまなざし、その声だけで男を蕩かせ、夢幻の境地へといざなう。
逆らえる者など、いるはずがない。
思わず十代の少年のように下半身が熱を帯びるのを感じながら、楊ゼンはゆっくりと、細いくびすじに指を滑らせる。
温かな肌に指先が触れると、薄雪は誘うとも拒むとも取れる曖昧さで、かすかな反応を見せた。
まるで、極上の練り絹か白磁か。これまで触れたこともないなめらかな肌の感触に、たまらず唇を寄せる。
途端、ふわりと鼻をくすぐるほのかに甘い香の香りと共に、しなやかな手が楊ゼンの背へと回される。そのままゆっくりと、二人は三つ重ねの豪奢な褥へと絡み合った体を沈ませた。
「・・・っ・・・あ・・・・、そこ・・・は・・・・っ」
灯を小さくした行灯のぼんやりした明かりの中、白真珠のような輝きを見せる首筋から肩先へと唇を這わせると、細くあえぐような甘い声が絶えず上がる。
触れるごとに過敏におののくやわらかな肢体が、ただ振りをつけているだけなのかそうでないのか、遊び慣れているはずの自分でも判別がつかないことに、楊ゼンは内心かすかな驚きを覚える。
薄雪ほど格の高い娼妓なら、一晩に複数の客を回されることはまずないだろうが、並みの女郎はそうもいかない。何人もの相手をするのに一々反応していては身が持たないし、何よりも相手を満足させなければ商売にならないのだから、自分は快楽を感じないようにしつつ、相手のみを追い込む手管を誰もが会得している。
その手段の一つが、己も快楽に溺れているように見せかける、いわゆる、振りをつける、というものだ。
遊郭に上がる客の目的は、結局のところ一つだから、娼妓も客をいかに満足させられるかどうかで、人気も店での扱いも変わる。
だから当然、御職はその店一番の商売道具としての美貌と肢体、手管を供えていて当然なのではあるが、しかし、ある程度、色町での遊びに慣れれば、男の方も手管か真情かくらいは見分けられるようになる。
楊ゼンがこれまで色町での遊びに耽溺したことがないのは、そんな娼妓の手練手管に気付くたび、一旦浮かされかけた熱が冷めるからだった。
だが、今回ばかりは何故か、女の反応の見分けがつかない。
「あ、ああ・・・っ、ん・・・っ・・そ・・んな風に、されたら・・・・っ・・・」
格別に豊かではないものの、形よくちょうど手のひらに収まる乳房を優しく包み込み、やわやわと揉みしだきながら指の腹を使って、つんとしこった桜の花蕾のような頂を転がすと、組み敷いた華奢な躰が慄える。
悦楽に耐えかねるように口元に当てた指に歯を立て、けれど、一方の繊手は楊ゼンの首筋に回り、うなじの辺りを艶めいた優しさでまさぐっている。が、時折、指先の動きがぴくりと震えるように止まるのは、快楽を覚えている振りなのか、そうでないのか。
判別がつかないまま、楊ゼンはすべやかな肌に誘い込まれるように、更に華奢な躰にまとわり着いている絹をはだけてゆく。
またたく間に前結びにした細帯だけは解かないまま、胸元も脚も完全にあらわになった肢体は、これまでに見たどんな女よりもほっそりと優美で、楊ゼンは思わず息を呑んで見つめた。
灯りをはじいているのではなく、内側からほの輝いているような、なめらかに白い肌。
花蕾のように可憐に頂を色付かせた、やわらかな胸のふくらみ。
細帯と絹衣に隠れて細腰のくびれは想像するしかないが、その下の輪郭はまろやかに描かれ、すらりと細い脚へと続いている。
肉付きの豊かな女が好みの男なら、物足りないかもしれない。そんな華奢さではあるが、しかし、腕に抱きしめたらどれほど心地いいだろうと思わず想像をかきたてるような、そんなしなやかさを持つ肢体に、楊ゼンは常にない昂ぶりを覚えて、ゆっくりと細い脚を手のひら全体で撫で上げる。
それだけのことで薄雪は伏せた長い睫を震わせ、切なげなあえぎを零した。
「主様・・・・っ、あ・・・もう・・・・っ!」
切なげに潤んだ瞳がのしかかる男を見上げ、躰の奥に灯った情欲を持て余すかのように、楊ゼンの着物の前から滑り込んだ細い手が、明らかに誘う仕草で広い肩や背を撫でる。
当代の吉原一とたたえられる花魁が、まさか本気で感じているはずはないだろうと思ってはいても、美しい娼妓に煽られれば肉体は、反応しないわけにはいかない。
花蕾のような胸の先端を口に含みながら、すべやかな肌に手のひらを這わせ、そして細越を撫で下ろした指先を、ほっそりとした脚の間に滑り込ませる。
途端、薄雪は甘い声を上げた。
「っあ・・っ・・・や、・・ぁ・・・もっと・・・・っ」
指先を動かすたびに、くちゅりと響くのは、おそらく花芯に仕込んであった布糊(ふのり)だろう。
潤滑油代わりのそれは、感触は愛蜜に良く似ているから判別することは難しい。
だが、濡れた指先で探り当てた真珠はつんとしこっていて、優しく摘みあげるたびに、華奢なつま先がおののくように褥の表絹を掻き、すすり泣くような甘やかな嬌声が零れる。
まさか、と思いつつ、指先を滑らせると、真珠の下方でひくついていた花芯は難なく楊ゼンの指を呑み込み、直後に離すまいとするかのようにきゅうっと締め付けてきた。
(まさか・・・・本当に感じているのか?)
楊ゼン自身は遊び慣れている方であるし、相手が素人の女なら、それなりに快楽に狂わせられる程度の経験は積んでいる。
だが、身を売ることを商売にしている女たちにとって、本当に快楽を得てよがってしまうことは恥とされている。あくまで商売に徹することこそが、娼妓の心意気なのだ。
ゆえに、楊ゼンも娼妓相手に無理に快楽を引き出そうとは思わないし、また期待もしない。溺れるほどの快楽は得られない代わりに、与えられる娼妓の手管を楽しめば、欲望はそれなりに解消されるのである。
それが常だったから、今夜、薄雪が敵娼(あいかた)となっても、吉原一とされる美しさや心意気以外の期待はしていなかったのだ。
なのに。
(こんな程度なのか?)
これでは姿かたちが美しいだけで、中身はその辺りに掃いて捨てるほどいる、快楽に身を持ち崩した下等の女郎と変わらないではないか。
まさか本当に、男に抱かれることが好きで身請け話にうなずかないだけなのであるのなら、そんな興醒めな話はない。
だが、そう思う間にも自分が与える愛戯に、薄雪は甘やかにすすり泣き、耐えかねるように細腰をおののかせて、深く咥え込んだ二本の指を、更に誘うかのように締め付けてくる。
溢れ出した蜜とも布糊ともつかない粘液は、しとどに楊ゼンの手指を濡らし、褥にまで伝い落ちていた。
手管に長けた娼妓ならば、花芯のひくつきまで己の意のままにする術を心得ているはずだが、と思いながらも、楊ゼンは熱い柔襞からゆっくりと指を抜く。
美しい花魁の媚態に、脳裏は冷めても肉体の方は十分に昂ぶって、熱く包み込まれる快楽を欲している。
「薄雪・・・・」
響きすらも清雅な彼女の呼び名を口にしながら、熱を帯びた肌に手をかけ、ほっそりとした脚を更に大きく開かせる。
と、男の意図を察したのだろう。
閉じていた目を開いた薄雪は、濡れた瞳で楊ゼンを見上げ、細くあえぎながらしなやかな腕を伸ばして広い背を抱き、やわらかく肌を撫でた。
「主様・・・・」
甘い声でささやきながら、薄雪が目を閉じる。
清楚でありながら艶めき、甘く蜜を含んだ華のような美しさに、それでもやはり見惚れながら、楊ゼンはゆっくりと己の欲望を花芯に押し当て、力を込める。
十分過ぎるほどに潤ってはいても、そこはひどくきつく、まるで処女かと錯覚しそうなほどだった。
「あ・・ふ・・・・っぁ、もっと・・・・あ・・ぁ・・・!」
慎重に、ゆっくりと押し開いてゆく感覚にすら反応するのか、薄雪は首をのけぞらせて上ずった嬌声をあげる。
やがてすべてを収めた楊ゼンが動きを止め、詰めていた息を吐くと、薄雪もおののきながらも躰の力を抜こうとし、浅くあえいだ。
だが、そうする間にも欲望を深く呑み込んだ花芯は、ひくひくと蠕動しながらも楊ゼン自身を甘く締め付ける。
欲望を包み込む熱い柔襞が更なる快楽をねだるようにざわめく感触は、まるで薄くやわらかな千もの舌に舐めしゃぶられているかのようで、早い男ならそれだけでもう達してしまうだろうと思われるほどに強烈だった。
「・・・・動きますよ」
このままでは自分も無残なことになりかねない、と楊ゼンは耳朶の薄い耳元でささやき、軽く腰を揺らす。
途端に、更にきつく先端から根元までを締め付けられて、思わず息を詰めた。
(これを手管でやっているのなら、むしろ賞賛ものだな・・・・)
吉原一とたたえられる花魁が、初めての客相手にたやすく反応を示すのは興醒めだが、しかし、もし並外れて過敏な躰を持っているのであれば、それも仕方がないのかもしれない。思わずそんな風に考えを改めてしまうほど、薄雪の肢体は楊ゼンのささやかな動きの一つ一つにまで反応し、更に深く甘い感覚を与え返してくる。
それはまるで、名工の手による楽器が、軽く奏でただけで驚くほど深みのある響きを返してくるのにも似ており、その言葉にできないほどの甘美さに、今はとやかく考えるのはよそう、と楊ゼンは思う。
相手は心を通わせた女ではなく、金で買った娼妓なのだ。彼女が本気で感じていようといまいと、組み敷いたこの華奢な躰から常では感じられない快楽を得て、こちらが満足すれば金による取引は十分に成立するのである。
逆に、薄雪が本気で快楽に溺れているのだとしても、吉原一の花魁さえ自分の手管でよがらせたのだと思えば、決して気分の悪い話ではなかった。
「あっ・・あぁ・・・っ、そこ・・は・・・もう・・・・っ!」
すんなりと細い脚を肩にかけるようにして、一番奥まで深く激しく突き上げると、身も世もなく薄雪はすすり泣く。
いつの間にか結んだままだったはずの細帯が解け、快楽に淡く色づいた輝くような雪肌が余すところなく、楊ゼンの眼前にさらされていた。
一体いつ以来のことだろう。あらわになった女性の体の美しさに純粋な感動を覚えながら、貴いものに触れるかのように、すべやかな肌に手を伸ばす。
肩にかけていた脚を下ろし、少し楽な体位に移行して、優美な線を描く首筋に唇を埋め、やわらかな乳房を手のひらに収める。と、ゆるやかな動きが物足りないのか、細くやわらかな脚が楊ゼンの腰に絡みついてきた。
「・・・っ・・あ・・・・主様・・・・」
肩やうなじを撫でる細い指先ばかりでなく、楊ゼン自身を呑み込んでいる柔襞も切ないまでに狂おしく熱を帯び、最奥まで誘いこもうとひくついている。
その感触を楽しみながら、やわらかく胸を愛撫し、先端に口付けて舌先で転がすと、薄雪はびくりと背筋をのけぞらせ、そのまま甘く全身をおののかせながらすすり泣くように喘いだ。
与えられる快楽のままによがり泣いてはいても、人ではないと思わせるような美しさも品格も、決して損なわれてはいない。そのことを確認して楊ゼンは微笑し、もう一度、上体を少し起こす。
「ああああぁっ!」
溜めた腰を激しく突きこむと、甘やかな嬌声が迸った。
そのまま今度は途中で焦らすことなく、華奢な躰を責めてゆく。
楊ゼンの動きに合わせて細越が揺れ、繋がり合った箇所から、ちゅぷ・・ぐちゅ・・ちゅ・・・とせわしない音が溢れて
広いとは言いがたい室内に響く。
「っ・・ああっ・・・あ、もう・・・っ・・!」
息も突かせぬような激しい突き上げに、のけぞった細い頤(おとがい)が、おののき震える。
もうこれ以上は耐えられないと、甘くひきつった嬌声を絶え間なく上げる薄雪の、切なげにきつく閉じられたまなじりから零れてゆく涙を唇で受け止めて、楊ゼンは熱を帯びた華奢な体をきつく抱きこみ。
限界まで昂ぶった己で、花芯の最奥まで深く貫いた。
「っあああああぁ・・・・っ!!」
叩き付けた欲望に薄雪は高く透き通った悲鳴を上げ、ぴんと張りつめた肢体が狂おしいほどに楊ゼン自身を締め付ける。
そして、そのまま大輪の花が崩れるように華奢な躰は力を失い、深い快楽の余韻を十分に味わった楊ゼンが我に返った時には、薄雪は腕の中で完全に意識を失っていた。
ふと、身じろぐような気配を感じて、楝子(れんじ)の出窓に軽く寄りかかるようにして月を見ていた楊ゼンは、続き間の内を振り返る。
月の光が届かない行灯のぼんやりとした薄明かりの中、小さく肩が動いたかと思うと、ゆっくりと閉ざされていた瞳が開く。
そして目覚めはしたものの、いまだ焦点の定まらない視線をさまよわせるように数度まばたきし、こちらへと向けられた瞳が、はっと見開かれた。
「私・・・・!?」
それは、楊ゼンが初めて耳にした、彼女の本当の肉声だった。
状況に気付いた薄雪は慌てたように、楊ゼンが簡単に直しておいた着物の前を手で押さえながら起き上がり、それから結い上げた髪がひどく崩れていることに気付いて、一瞬迷う表情をした後、思い切ったように櫛を抜く。
途端、頭頂で前髪を束ねて後ろに流した髻(もとどり)だけを残し、解けた長い黒髪が鮮やかに華奢な肩を覆った。
「申し訳ありんせん。こんな・・・・」
「いいですよ」
客の前で意識を失ってしまった醜態を詫びて、褥から降り、畳に指を突く姿に楊ゼンは穏やかな声を返す。
「それよりも、もし良ければ月琴を聞かせてもらえませんか。先日聞かせてもらった音が、どうしても忘れられなくて」
「・・・・あい。少しばかり、お待ちなんし」
かすかに戸惑った顔をしながらも楊ゼンの求めにうなずくと、薄雪は立ち上がり、手早く着物の乱れを直して、楊ゼンがいる表に面した座敷の方へとやってくる。
そして、床の間に立てかけてあった月琴を取り上げ、優雅な仕草で窓際にいる楊ゼンの傍らに侍(はべ)った。
二度三度、音を確かめるように爪弾いてから、嫋々と咽ぶような音色がひそやかに流れ出す。
ぴんと張られた弦に触れた途端、彼女は落ち着きを取り戻したようだった。
客が傍らにいることさえ忘れたかのように無心に冴えた横顔は、まるで彼女自身が哀切に満ちた音色の化身であるかのようにも見える。
淡い月の光に溶け合うようなその美しさを眺め、楊ゼンは小さく口元に笑みを刻んだ。
───ほんの一瞬、薄雪の美しい面をかすめた影。
先程、意識を取り戻して起き上がろうとした薄雪のうつむいた顔に浮かんでいたのは、強い悔しさの色だった。
乱れた髪にやや隠れてはいたものの、見間違えようもない。一瞬きつく噛み締めた唇を、楊ゼンの目は見逃しはしなかった。
仮にも吉原一の呼び声が高い花魁である。やはり、本気で快楽に乱れたことはこれまでなかったのだろう。
それが、初めて褥を共にした客を相手に、意識を失うまで追い込まれたのだ。屈辱以外の何物でもないに違いない。
そして、屈辱と感じるだけの心意気を薄雪が持っていることが、楊ゼンは嬉しかった。
姿かたちだけが美しい女ならいくらでもいる。
だが、気性まで優れている女は、決して多くはない。
その数少ない中でも、薄雪は間違いなく、至高の宝玉のような存在といってよかった。
月光が凝ったような、花仙か雪精とも見まごう臈たけた清冽な美しさ。
その容貌を裏切らない、冬の月光のように凛と張りつめた気性。
裏腹に、溢れんばかりの蜜をたたえた花のような甘い肢体。
愛でるのに何の不足もない。
「・・・・どうかしなんしたか」
見つめる楊ゼンのまなざしに気付いたのだろう。
ふと、月琴を爪弾く手を止めて薄雪が問いかける。
髪を解き、いつもにも増して清雅な、夜露に濡れた露草を思わせる美貌に楊ゼンは微笑む。
「本当に美しい人だと・・・・。もうしばらく弾いていてくれませんか。いま少し、貴女を見ていたい」
「────」
睦言のような楊ゼンの言葉に、まばたきした薄雪は、かすかな風に花が揺れるように淡く笑んで。
そして再び月琴を奏で始めた。
「花魁、起きておいでかえ」
聞き慣れた遣り手の声に、文机に向かっていた薄雪は振り返る。
既に日は高く上っている。一応、建前としては昼間も客を受け入れるが、客足は少ないため、実質、朝に泊り客が帰ってから夕方、大木戸が開くまでのこの時間帯が、遊女たちの短い安息時間だった。
「何かありんしたか」
「昨夜のお客が置いていった総花、見世中の者に受け取らせ終わったから、その知らせだよ。何でも、本所辺りでたいそう羽振りのいいお医者の御子息だそうだから、せいぜい大事にしておくれね」
「・・・・分かりんした」
うなずいた薄雪に、もはや繰言と化している客に対する注意をあれこれと述べ立て、ようやく遣り手は部屋を出てゆく。
年は四十そこそこのはずだが、既に五十を超えているようにも見える彼女もまた、かつてはこの見世で働く娼妓の一人だったという。
一時の美しさをどれほど誉めそやされようと、色町を一歩外に出れば、所詮、世間に眉をひそめられる身であることには変わりはなく、また、過酷な日々を強いられる籠の鳥であるがゆえに、容色が衰えるのが並より早いのはどうしようもない。
彼女のように遣り手として、現役を退いた後も見世で働くことができるのはまだ幸運な方であり、おしなべて、娼妓の行く末というものは決して明るいものではなかった。
「・・・・・・・・」
明け方に大木戸まで送っていった客の名は、何と言っただろうか。
客の顔や癖は一度目にすれば忘れないが、名前に関しては、馴染みになるまで意図的に覚えないようにしているせいで、一夜を過ごした後の今でさえ、すぐには思い浮かばない。
引手茶屋で紹介されたはずだけれど、と薄雪は、開け放した窓の外へとまなざしを向けて記憶を辿る。
が、名前よりも先に昨夜のことが思い出されて、思わず唇を噛み締めた。
───泣かずにいられないような狂おしいほどの疼きと、脳髄まで痺れるような灼熱の感覚。
あんな感覚は初めてだった。
十五で独り立ちしてから男に抱かれるのにはとうに慣れたが、しかし、これまで一度も姉女郎や朋輩たちが言うような悦楽を得たことはない。せいぜいがくすぐったさの延長線上にある程度の感覚で、だからこそ、男の反応を見ながら手管を駆使することはたやすかった。
なのに、昨夜の感覚は。
「何故・・・・」
他の客と何が違うというわけでもなかったと思う。
遊び慣れている風ではあったが、初回、裏と格別に何かを感じた記憶はない。
それなのに昨夜は、あの指に軽く触れられただけでぞくりとするような痺れが背筋を走り、これまで覚えのない感覚に内心、驚き戸惑っているうちに灼熱の奔流に押し流されてしまったのだ。
おそらくは、あの感覚こそが性の悦楽というものなのだろう。
散々教え込まれてきたから、それは判る。だが、初めてのそれを馴染みでもない三回目の客に味合わされたことは、屈辱でしかなかった。
快楽を売っても、心までは売らない。
何一つ持たない色町の女が唯一つ、拠り所にするのは己の心だ。
美しさを誇り、衣装や調度の贅を競っても、年季が明けるまで大木戸から一歩も出ることは叶わず、たとえ出られたところで世間から後ろ指を指される身であるには変わりない。
そんな境遇にあって、どうやっても支えることができないような心に、無理やりに芯を通すのが、意地にも似た心意気なのだ。
この顔と身体に大金が払われるというのであれば、誰の手も届かない高嶺の花になりきって、美しく微笑んで見せよう。男を虜にする手練手管も駆使してみせよう。
だが、それらは、あくまでも自分の意思ですることだ。
なのに、昨夜は手管を駆使するどころか、自分の方が翻弄され、挙句に意識まで失ってしまった。
馴染み金を払ったということは、客の方はそれで満足したのかもしれない。しかし、客の相手をしている最中にそんな醜態をさらしてしまったという事実は、耐えがたい口惜しさとして一夜明けた今も、心に苦く焼き付いている。
「────」
馴染み金を払った以上、今後もあの青年は自分の元へ訪れるつもりなのだろう。
遣り手のあの機嫌のよさから見るに、馴染み金とは別に祝儀もはずんだに違いない。しきたり通りに自分の煙草本盆の引き出しにひそませていった床花も、確かに十分すぎるほどの金額だった。
耳を済ませるまでもなく見世全体が明るくざわめいているのも、もしかしなくても彼が置いていった総花のせいか。
「・・・・嫌な男」
ぽつりと低く呟いた声は、誰に聞かれるともなく、窓の外に満ちた真昼の光に溶け消えた。
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* 用語解説 *
この解説は、江戸後期=1800年頃の吉原についてのものです。 これ以前、以降は、また違いますので御了承下さい。 |
馴染み金 | 客が特定の遊女の馴染み客になるために支払う金。見世の使用人全員に渡す総花(そうばな)と、二階にいる遊女や遣り手、禿たちだけに払う二階花(にかいばな)のどちらかだが、いずれにせよ大金が必要。
これを払わないと、何度通っても馴染み扱いはされず、名前も「主様(ぬしさま)」「お客人」としか呼んでもらえない。また一旦、馴染みになると、その後、他の見世に登楼することも、同じ見世の他の妓を買うことも許されなくなる。 |
床花 (とこばな) | 三回目に遊女に渡す祝儀。こっそりと煙草盆の引き出しに忍ばせてゆくのが粋とされた。金額は定まっていないが、大体一晩の揚げ代くらい。 |
帯 | 馴染みになるまで、遊女は決して帯を解かず、また客にも解かせない。夜着では細帯を、すぐに解けるよう前結びにした。 |
振り (ふり) | 快楽を感じている演技。これをすることを「振りを付ける」といい、逆に振りを付けているうちに、本当に快楽を感じて達してしまうことを「落ちる」と呼び、遊女にとって「落ちる」ことは恥とされた。 |