紅 楼 夢 (2)

















「薄雪の評判の理由の一つはな、間夫(まぶ)を絶対に作らねぇことなんだ」

間夫というのは、いわゆる情人、本命のことである。
遊女は誰しも、馴染みの中から間夫を作るのが普通だった。中には、複数の間夫を作り、心の中で一番二番と区別する剛の者もいるらしい。

「何故?」
「さあ。そればかりか、身請け話も全部断っちまうんだと。普通、色里の女は皆、誰か落籍(ひか)してくれねぇかとむきになるもんなんだがな」
「何か理由があるのかな」
「かもしれねぇ。ま、とにかくあれこれ珍しいから、評判なんだ。朝になったら溶けて消えちまう淡い雪みたいで、掴み所のない綺麗な女だってな」
「普通なら、かえって冷たい女と評判を落としそうなものだけど・・・・・・」
「そこが違うんだ。一度馴染みになっちまったら、それこそ朝な夕なに通い詰めずにはいられねぇらしいぜ」















「ようこそおいでになりました。敵娼(あいかた)はお決まりでございましょうか?」

茶屋の座敷に腰を落ち着けて一息ついたところで、遣り手が愛想笑いをしながら問い掛ける。

「明月楼の御職は、今夜、空いているかな?」
「薄雪花魁を御希望にございますか」
「ああ。八朔の時に見かけてね。是非とも会ってみたくなった」
「それはそうでしょうとも。一度見たら忘れられない美しさというのは、ああいう妓のことを申すのですよ」
何分、売れっ妓ですから明月楼に尋ねてみないことには分かりませんが、という遣り手に、さりげなく小粒金を渡す。
遣り手もまた、それをさりげなく収め、
「若い者を走らせますので、しばらくお待ちを」
丁寧に手をついて出ていった。

明月楼抱えの妓がよく呼ばれるという茶屋は、仲之町の両脇に並ぶ見世の中でも上の部類だった。
調度品も上等のものばかりで整えられており、襖(ふすま)には色鮮やかな花鳥の絵が描かれている。

廓芸者と呼ばれる、茶屋の抱えの芸者に酒を注いでもらいながら、楊ゼンはさりげなく尋ねた。
「明月楼の御職に通ってくる客は多いんだろうね」
「ええ」

廓言葉を使わない芸者は、はきはきとうなずく。

「ただ、あれほどの妓(ひと)ですから、ある程度お客さんは限られてますよ。大見世の呼出しや昼三と変わりません」
「それはそうだろう」
「お客人は、八朔で御職をご覧になったとか」
「ああ」
「だったら用心なすった方がいいですよ。御職に一対一で会うと、上がっちまって口も利けなくなるお客さんは多いんです」
「へえ・・・」
芸者の言葉に、楊ゼンは面白そうに笑みをにじませる。
「でも、お客人は大丈夫そうな気もしますけどね。お客人ほど男ぶりの良い殿方は、滅多にいるもんじゃありませんから」
その言葉に、今度こそ楊ゼンは小さく笑った。
「褒めてもらえるのはありがたいけどね、御職は顔で男を選ぶわけじゃないだろう? なら、振られるのも覚悟をしておかないと」
「それは心配要りませんよ」
だが、青年の戯言めいた台詞に、芸者は笑みをひらめかせる。
「御職は、自分から振ることは滅多にありませんから。お客の方が、自分はとてもではないけど・・・って、馴染みになるのを諦めちまうんです」
「それは・・・すごいな」

正直に楊ゼンは感嘆する。
と同時に、更なる好奇心が湧き上がってくるのも感じた。
仲間の話によれば、まだ十九の小娘であるはずなのに、それほどの威を、色里慣れした男たちに感じさせるとは、一体どんな妓なのか。



あの八朔の夜。
騒ぎを、静かなまなざしと言葉だけで鎮めてしまったのは、確かに大したものだった。
にこりともせず、凛とした美貌を、ただ月光のように冴え渡らせて。

あの時の彼女は、本当に、人の身ならざるものかと見まごうほどに美しかった。



盃を傾けつつ、十日前のことを思い返していた時。
襖が開いて、遣り手が顔を出した。
「明月楼の御職は、承ったとのお返事がございました。半刻の後、こちらへ参りますとの伝言にございます」
「それは良かった。世話をかけたね」
「いえいえ。御職がおいでになるまでの間、どうぞごゆっくりとお過ごし下さいまし」

遣り手がにこにこしながら応じるのは、単に客の希望を叶えられたのが嬉しいからではない。
呼び出される妓の格が高ければ高いほど、仲介をする茶屋の実入りも良くなるからだ。
それは分かっていたが、相手も商売のことである。
楊ゼンは微笑して、酒肴の追加を頼んだ。







上級の花魁が、呼出しからそれに応じるまで時間がかかるのは、呼び出されてから支度に取り掛かるからだ。
化粧はほとんどしないから良いとしても、髪を結い上げ、着物を調えて、供を引き連れて仲之町を歩いてくるには、それなりの支度が必要になる。

その勿体ぶり方が、楊ゼンは嫌いではなかった。
世の中には、待つ楽しみというものもあるのだ。
気の短い男は、粋を解さない野暮として嫌われる。それが吉原という場所だった。

廓芸者の上手い三味線の音に耳を傾けながら、ゆったりと盃を重ね、遣り手と他愛ない世間話をしているうちに時間は過ぎる。

そして。
半刻を少し過ぎた頃。

「失礼いたしんす」
可愛らしい少女の声と共に、襖が開かれる。
姿を現したのは、花簪を挿した愛らしい禿だった。

「明月楼抱え、薄雪花魁が参りんした」

丁寧に手をついてから、座敷のうちへ入り、空けてあった上座の座布団を整え、大事に抱えていた金蒔絵の煙草盆を決められた位置に置く。
そして、座敷の入り口に戻って行儀よく控えた。

ざわめきと共に衣擦れの音が近付いて。

まず入ってきた先触れの若い衆が頭を下げ、後ろに道を譲る。
「お待たせ致しました。薄雪花魁にございます」


華やかな振袖をまとった新造に手を引かれて、花魁が座敷の入り口に姿を現す。


その瞬間、座敷のうちにいた誰もが息を飲んだ。
彼女を見慣れているはずの遣り手や廓芸者までもが、吸い寄せられたように彼女から視線を逸らせない。

その中をゆっくりと進み、花魁は上座にしつらえられた自分の席についた。
俗に傾城座りと呼ばれる横座りで落ち着いた花魁に、二人の禿が、さりげなく打掛の裾を広げ、形を整えてから、脇に控えた。


合計四人の新造と禿の中心で、花魁はにこりともしないまま、まっすぐに正面を見つめる。

その視線を、楊ゼンは穏やかに受け止めた。


「ようこそおいでになりました。今か今かとお待ちしておりましたのですよ」
遣り手が手を叩くのと同時に、待ち構えていた若い衆が、新たな酒と盃を載せた台を持ってくる。
そして、遣り手がまず楊ゼンに塗りの盃を持たせて、酒を注いだ。

楊ゼンは何も言わずにそれを干し、盃を返す。
そして、遣り手は、今度はその盃を花魁に持たせて酒を注ぐ。
それを花魁もまた、無言のまま優雅な仕草で干した。

いわゆる引付の盃である。
客と遊女ではあっても、男と女の関係を結ぶということで略式の三々九度が交わされるのだ。
格の高い遊女と初めて会う時には必ず行われる儀式だった。


それから改めて酒肴が運ばれ、廓芸者が再び三味線をかき鳴らし始める。
上座を動かぬ花魁に代わり、振袖新造の一人が楊ゼンの隣に来て徳利を手にした。
「まずは御一献」
勧められた盃を受けて、そして新造にも返す。
それから、楊ゼンはさりげなく彼女に話し掛けた。

「先日の八朔の日に、花魁を見かけて是非にと思ったんだが・・・・・・。何の伝(つて)もない僕に会うのを、花魁はよく承知してくれたね」
「花魁は優しき方におざいんす」

徳利と片手にしたまま、まだ若い新造は花が咲くように微笑む。
その笑顔は単なる世辞ではなく、本心からのもののように見えた。

「わっちどもは、旦那方に愛でられてのもの。会いたいと言いなんす方には、どなたにでもと、いつも口癖のように・・・・・・」
「さすがだね」
「あい。花魁のような方を姐様と呼べるのは、わっちどもの幸せにありんす」

心底嬉しげな新造に、楊ゼンは微笑した。
おそらく彼女は、まだ十五歳ほどだろう。女郎らしい感情の隠し方は身に付け始めているようだが、心底、花魁を慕っているのはよく見て取れた。

「それにしても・・・・・・、八朔の折の白無垢が、あまりにも良く似合っていたから、それ以外の格好はちょっと想像がつかなかったけれど、嫦娥は何を着ても美しいものだね」
言いながら上座の花魁にまなざしを向けると、新造は控えめに、だがはっきりとうなずく。
「お客人の言いなんした通りにありんす。確かに、八朔の雪ほど花魁に似合うものはおざんせんが・・・・・・」

今宵の花魁は、薄縹(うすはなだ)の綾に流水と花を縫取りした着物の上に、渋みがかかった海老葡萄の裾濃(すそご)の綾に、金銀色鮮やかな花鳥を縫取りした豪奢な打掛を重ね、あでやかな紅の錦の帯を前結びにしている。
だが、あれほど白が映えていた容貌は、色鮮やかな絹を重ねていても、少しも美しさが損なわれていない。
むしろ彼女自身の持つ、晧々と輝く月光にも似た清雅さを、豪奢な衣装が際立たせていた。


客と妹女郎の注目にも一向に関心を持たないように、花魁は凛としたまなざしを動かさない。
その姿は、まるで人形のようにも見えるが、人形ではない証拠に、その場を圧倒する何かが静かに彼女を包んでおり、鮮やかなまでに人々の目をひきつけて離さない。


その姿に、なるほど、と楊ゼンはうなずいた。

確かに、これならば吉原一と呼ばれてもおかしくはない、と思う。
これまでにも数多くの遊女を見てきたが、こんな雰囲気をもつ妓は、どこの大見世にもいなかった。



まだ言葉も交わしてはおらず、指一本さえ触れてはいない。
けれど、その凛とした美しい表情から伝わってくるものがある。

張りとか意気とか呼ばれる類いのそれは、明らかに他者を寄せ付けない至高の輝きを持っていた。



不躾にならない程度に、つくづくと透き通るような美貌を眺めながら、これならいい、と考える。
これまで、それなりに廓遊びの経験も積んできたが、実のところ、それほど面白いと思ったことはない。
大見世だからといって、真の張りと意気を持った妓などろくに見当たらず、適当に甘い言葉をかけてやれば、なびいてしまうような女郎ばかりで、馴染みになる前に興ざめして足が遠のくのが常だった。

けれど。

目の前にいる彼女は、これまでの誰とも違うという予感がする。
冬の夜空に輝く星のような美しい瞳の色を見つめていると、奇妙に胸が騒ぐのだ。
まるで、抜き身の剣を突き付け合っているような、そんなあやうい、しかし全身の神経が研ぎ澄まされ、血がたぎるような感覚が、ひどく快い。

この妓相手なら、初めて本気で楽しめるかもしれない、と密かに呟く。

その間も、彼女はまなざしをちらりとも動かさない。



初会というのは、こういうものなのだ。



花魁は口も利かず、飲み食いもしない。客の存在さえ無視して、ただ、座敷の気配を読んでいる。

客は、花魁を。
花魁は、客を。

この先に進むかどうか、それだけの相手かどうか、無言のうちに品定めしている。

わずかにも表情を変えようとはしない花魁の内心は、面(おもて)からはうかがえない。
だが、楊ゼンは満足だった。




やがて一刻あまりの時が過ぎて。

「そろそろ四ツ時だね」
楊ゼンは、盃を置いて遣り手に声をかけた。
「おや、もうお帰りになられますか」
「ああ。吉原一と評判の花魁の顔を見ているだけで、十分に酔ってしまったから。これ以上長居したら、酔い潰れてしまう」
「ここで潰れておしまいになれば、極楽往生間違いなしにございますよ」
それも捨てがたいけれど、と笑いつつ、楊ゼンはもう一度、上座の花魁に目を向けた。

その一瞬。

はっきりと、二人のまなざしが合う。

凛とした深い色の瞳は、やはり冬の夜空に似ていて。
楊ゼンは小さく微笑みを返した。

そして、隅に控えていた花魁付きの若い衆に、顔を向けて。
「今夜は、いい思いをさせてもらった。少ないが取っておいてくれ」
さりげなく紙に包んだ祝儀を渡し、立ち上がる。
と、両脇に居た二人の振袖新造が、手を伸ばして着物を調えてくれた。
「ありがとう」
「今夜は真から楽しゅうおざんした」
「次はいつ、来なさんすか」
「近いうちに、必ず」
花魁に代わって口々に決まり文句を告げるのに、微笑んで同じく決まり文句で答える。

そして座敷を出、帳場で告げられた花代に祝儀を加えた分を支払って、遣り手や威勢のいい若い衆の声に送られながら、外に出る。

大門の大木戸が閉められる時間が近付いた仲之町には、家路につく者の流れができ、また、馴染みの妓に会うためにぎりぎりで急いできたのか、流れに逆行するように小走りのものもいる。
そのまま歩きながらふと見上げれば、軒先に掲げられた無数の提灯の明かりにかすんだ夏の終わりの夜空には、遠く星がまたたいていた。

「薄雪、か」

凛とした美しい面影を脳裏に思い返して、口元に笑みを刻む。

裏を返すのはいつにしようかと、心の中で算段しながら、楊ゼンは二刻前にくぐった大門を、今度は家路へと向かって通り抜けた。




















本当は、傾城や禿だけでなく、遣り手や若い衆も廓言葉を使っているのですが、そこまでするとくどくなるし面倒なので、やめました。
他にも、あんまり重要でない部分は省略してあります。
まぁ、全体的な雰囲気は大体こんなもの、と思って下さい。








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* 用語解説 *

この解説は、江戸後期=1800年頃の吉原についてのものです。
これ以前、以降は、また違いますので御了承下さい。
身請け(みうけ)年季が明けていない遊女の身代を買い取ること。大抵、遊女は見世に借金があるため、それと、予測される稼ぎ代をプラスした金額を払うことで、遊女を自由の身にできる。
これを「落籍(ひか)す」というが、その時、身請けする男は、彼女を不幸にはしないという証文を見世の主人に対し書かなければならなかった。
江戸初期の太夫には、1万両という法外な代償が支払われたこともある。
小粒金
(こつぶきん)
一分金のこと。金は、1両=4分=16朱。金1両=銀60匁(もんめ)=銭1貫文(1000文)。
大体1両が10万円くらいの感覚と思えば妥当か。ただ、現代に比べると人件費が異様に安い(女中勤めの1年の給金が一両二分)ので、単純に換算するのは難しい。
遣り手(やりて)見世で主人に代わって遊女を監督し、万事を切り回す女性のこと。女郎上がりが多い。
敵娼(あいかた)相手となる遊女のこと。決まっていない場合は、遣り手が適当な相手を見つくろうことになる。
廓芸者
(くるわげいしゃ)
遊里にいる芸者。諸芸を身につけた太夫が消滅したことにより、身を売ることを専門にするようになった遊女に代わって場を盛り上げるため、茶屋などに置かれるようになった。
昼三(ちゅうさん)呼出しの次の位の遊女。昼でも夜でも、金三分(一両は四分)の揚げ代だったことによる。
(吉原は正午から午後十時までが営業時間で、大門が開いている)
なお、最上級の花魁だと、一両二分の揚げ代プラス諸経費で、換算すると一晩で10万〜20万円ほどがかかる。(薄雪は、評判は吉原一ではあっても大見世の抱えではないので、これよりはほんの少し安い)
振る(ふる)吉原だけは、例外的に遊女は気に入らない客を振る(=断る)ことができた。
もっとも、格が低い遊女が客を振るということはなく、初回から客を見世に上がらせ、枕を交わした。
嫦娥(じょうが)中国神話におけるの月の女神のこと。美女の別称。(実際の神話では、彼女はヒキガエルになったのだが、通常そのことは無視される)
花代(はなだい)遊女と遊ぶ揚代(あげだい)のこと。娼家で遊ぶには、これに加えて酒肴代、遣り手や若い衆、付添いの新造や禿などへの祝儀も必要で、実際には花代の2〜3倍の金がかかる。