そっと楊ゼンは手を伸ばして、太公望の額に落ちかかっている髪を指で払った。
 太公望は結局、そのまま意識を失って、今は静かな眠りの中にあった。
 改めて見れば、やはり小さな顔は疲労の影に覆われていて、無茶なことをしてしまったと楊ゼンは自責の念にかられる。
 寝台脇の椅子に腰を下ろしたまま、また手を伸ばして、ほのかな月明かりに艶をはじく黒髪に触れた。
 何度、指先でそっと払っても、癖のない髪はさらさらと太公望の白い額に落ちかかる。
 感情に流されて、無体を強いてしまったという後悔は胸の内を占めている。だが、愛しい人をこの手に抱いたという、切なさに似た充足感も、確かに楊ゼンの中に在った。
 正直なところ、この状況に至った感情は複雑すぎて、楊ゼン自身にも上手く把握できなかった。
 今でも心の中では、哀しさと切なさが愛しさと混じりあって、さざなみのように打ち寄せている。
 しかし、感情に流されたのは確かだが、決して征服欲や単なる情欲などではなく、彼への愛しさで抱いたことだけは間違いない。
 それだけは、はっきりと誓えた。
 ───だが、果たしてそれが免罪符になるものだろうか。
 少なくとも自分は太公望を愛しているが、太公望が自分を想ってくれているという確信は、楊ゼンにはない。
 嫌われていないことは先日、太公望の口から直接聞いたし、今夜も拒む意志は一度も感じなかった。
 だが、好きかどうかとなると、『好きだと言われるのは嫌ではない』というのが、今の太公望には精一杯だったのである。
 なのに、こういう状況になってしまって、目覚めた時に太公望はどう思うだろうか。
 そのことを思うと、楊ゼンは気が重かった。
 九ヵ月前のように避けまくられるだけなら、まだ良い。
 最悪なのは、荒っぽく自分の内側に踏み込まれたことに太公望が傷ついている場合だ。
 傷だらけの太公望の心を、誰よりも守りたいと思っている自分が新たに傷つけたのでは、本末転倒どころの話ではない。
 その可能性を思うと、恐慌状態に陥りそうなほど怖かった。が、何となく、そうはならないような気も、楊ゼンはしていた。
 そもそも、悪夢に怯えてすがりついてきたのは太公望の方なのである。
 確かに平静さは失っていたが、すがりついている相手が楊ゼンだということも、楊ゼンがキスをしたことも、太公望ははっきりと認識していた。
 キスやその先を拒まなかったのは、おそらく情に流されただけなのだろうけれど、一応は合意の上でのことだったと言い切れる。もし抵抗されていたら、強引に事を進めることはなかっただろう。
 そして、キスくらいならばともかくも、太公望が何一つ最後まで抵抗しなかった、ということが楊ゼンの心に引っかかっていた。
 何も経験がなかったのだから、たとえ理性を失っていても本能的に抵抗して当然だったのに、太公望は拒まなかったのである。
 それはつまり、情に流されて最後まで受け入れてしまう程度には、好意を持っていてくれるということなのだろうか。
 ──そこまで考えて、楊ゼンは溜息をつく。
 都合のいい解釈も、程々にしておかねばならない。
 なにしろ、太公望は普通の状態ではなかったのだ。五日も食べず眠らずで、しかも、その原因である辛い記憶の夢を見た直後だった。
 誰彼構わず、傍にいた人間にすがりついてもおかしくないのだし、そんな不安定な状態で情に訴えかけられたら、その優しさゆえに流されてしまっても仕方がない。
 形だけを見れば、間違いなく、楊ゼンは精神不安定な太公望に付け込んだのだ。
 そんなつもりは全くなかったが、そう言っても太公望が納得してくれるかどうかは怪しい。
 なんといっても、太公望にとっては初めての経験だったのである。並よりもずっと初心(うぶ)でストイックな彼が、そう簡単にこの状況を受け入れられるはずがない。
 最低でも、我に返って怒り狂った太公望に怒鳴られ、殴られるくらいのことは覚悟しておかなければいけないだろうな、と楊ゼンはまた溜息を繰り返す。
 はっきり言って、そうされても仕方のないだけのことはした。
 ───本当に、傷ついてぼろぼろになった太公望の心を救ってあげたかっただけなのだけど。
 自分自身を責め続ける彼が、あまりにも辛くて我を忘れてしまった。そのことは、どうやっても言い訳できない。
 もう一度溜息をついて、目覚めた太公望がどんな反応をしても、甘んじて受け入れようと心に決め、楊ゼンは顔を上げる。
 そして、大きく目をみはった。
 ───師叔。
 太公望は、相変わらず静かに眠っていた。
 が、その閉じたまなじりから、透明な水滴が伝い落ちている。
「師叔?」
 そっと覗き込んでも、太公望の顔に苦痛や怯えの色はなかった。
 憔悴はしていたが静かな表情で、呼吸も深く落ち着いている。
 ただ、涙だけがゆっくりと、だが止まることなく零れ続けていた。
 一粒、また一粒、透明な雫がこめかみを伝い落ちて、癖のない髪に吸い込まれてゆく。
「太公望師叔……」
 静かな表情で涙を零し続けているのが、返って深い悲しみをうかがわせるようで、楊ゼンは眉をひそめた。
「何故、泣いていらっしゃるのですか……?」
 自分を責めているのか、それとも失われた生命を悼(いた)んでいるのか。
 だが、寝顔には苦痛の色も怯えの色もないのだから、どちらも違うような気がする。
 それでは──…。
「もしかしたら……御自分の背負ったものの辛さに、泣いていらっしゃるのですか?」
 太公望を起こさないように、低くひそやかな声で楊ゼンは問いかける。
「こんな風にしか、あなたは御自分のために泣けないのですか……?」
 ───他人のためになら、きちんと泣けるのに。
 仙界大戦の終結直後、太公望が四不象一人を傍に泣いていたことを楊ゼンは知っている。
 あの涙は、辛すぎた戦いに終止符を打ち、次へと太公望が歩き出すために必要な涙だった。
 泣くことで、太公望は気持ちに整理をつけ、喪われた友への訣別をすることができたのだ。
 だが、こんな太公望自身も知らないうちに流す涙が、一体、何を癒すというのだろう。
 今夜、自分の運命が辛いと叫んだ時に、声を上げて泣いていれば、一時的にとはいえ、多少なりとも楽になれただろうに。
「こんな風に泣くほど辛いのに……、それでも御自分を許すことはできないのですか?」
 目覚めている時には、自分のためには泣くことさえ許さない太公望が哀しくて、楊ゼンはきつく右の手のひらを握りしめる。
 力を込めすぎた爪が皮膚を破り、血が滲み出したが、その痛みも胸の痛みに比べれば無きに等しかった。
 どうして、この人はこれほど過酷な道を歩まねばならないのだろうと、楊ゼンは思う。
 何故、太公望が何もかも背負わねばならないのか。
「僕が……います。そんなに辛いのであれば、僕があなたの背負っているものを共に背負います。だから、一人で泣かないで下さい。お願いです……」
 祈るように、楊ゼンは低く呼びかける。
 太公望は相変わらず眠ったまま静かに泣き続けていて、涙が止まる気配もない。
「太公望師叔……」
 この小さな両肩に乗せられた、封神計画という重荷。
 最初、太公望が指令を受けた時は『妲己を中心とした悪虐な妖怪仙人を封神する』という単純な内容だったのに、得体の知れないプロジェクトは見る見るうちに規模を広げて、いつのまにか人間界と仙人界の命運をかけた易姓革命にまで巨大化してしまった。
 それなのに、当初と全く違ったものに変貌してしまった封神計画を、太公望は自分が引き受けたことだからと、決して投げ出そうとはしない。
 妲己を倒し、殷に変わって周を起こすことが自分の役割だと、真っ直ぐに前だけを見つめている。
 ───封神計画の本当の目的が、一体、何であるかも分からないというのに。
 仙界大戦の折、楊ゼンは王天君との会話で封神計画の真の目的について疑問を抱(いだ)き、元始天尊を問い詰めた。
 だが、元始天尊は応えず、楊ゼンを制して言ったのだ。聞かれておる……、と。
 そして、封神計画の目的を気付かれてはならぬ、と崑崙の教主は何かを恐れるように言った。
 その元始天尊が恐れている相手の名が───。
「歴史の道導……」
 その単語を、楊ゼンはこれまでに聞いたことがない。
 ただ、元始天尊の態度とその言葉の意味合いから、それが『元始天尊よりも更に上位の何か』なのだろうという確信は持っている。
 一体、それが何であって、封神計画にどう関わってくるのか。
 そして、封神計画は一体、何を目的として立案されたものなのか。
 少なくとも、その最終目的は単に妲己を倒すことではない。そのためだけなら、これほど規模を拡大する必要などなかった。
 本来、人間界のことには介入しないのが仙人界の心情である。
 だから、妲己を倒す件は身内の不始末として当然だとしても、その後、殷が国を立て直すにしても、周が新王朝を興すにしても、人間界のことは人間たちに決着をつけさせるのが、本来の仙人界のやり方であるはずなのだ。
 そう考えると、妲己と殷に対する元始天尊の姿勢は、あまりにもおかしい。
 ───だが、楊ゼンには、まだ何も分からなかった。
 手がかりが少なすぎて、考える材料の絶対数が足りないために、元始天尊が太公望に何をさせようとしているのかが分からない。
 しかし、殷周易姓革命という歴史の大きなうねりと、『歴史の道導』。その妙に響きあう何かが、楊ゼンに嫌な予感を覚えさせる。
 そして、その殷周易姓革命と封神計画という歴史の渦の中心にいるのは、間違いなく太公望なのだ。
 『歴史の道導』というものが何なのかは知らないが、もし、これ以上彼を傷つけるようなことになったら、たとえ元始天尊でも許せないと楊ゼンは思う。
「師叔……」
 ふと見れば、いつのまにか太公望の涙は止まっていた。
 まつげも濡れたままで、こめかみには涙の伝った跡が残っているが、閉ざされた瞳から新たに涙が零れ出す様子はない。
 楊ゼンは、右手を上げかけて、指先が自分の血で汚れているのに気付き、左手を伸ばして、そっと太公望のこめかみを指でぬぐう。
 そして、閉じた両瞼に羽根のようにやわらかなキスを贈った。
 太公望は、目覚める気配もなく静かに眠り続けている。
 彼が今、夢を見ているかどうかを知る術は楊ゼンにはない。だが、できることなら、もう夢など見ずに眠って欲しかった。
 たとえ、夢に見るのが幸せだった頃の記憶であっても、夢から目覚めた太公望は失ったものを悼(いた)んで、きっと自分を責める。
 だから、どんな夢も訪れない、優しい無明の闇が太公望の眠りを包んでくれたらいい…、と楊ゼンは思う。
 大人びた色の瞳を閉じていると、太公望の印象はずいぶん幼くて、童顔に似合わない憔悴の影がひどく痛々しい。
 その額に、楊ゼンはそっと口接ける。
「僕がどんなに守りたいと思っても、あなたは結局、僕の手の届かない処で傷ついてきてしまう。それならば、僕はあなたを守ると同時に、あなたの痛みを共に背負いましょう。あなたがこれ以上、一人ぼっちで辛さに耐えなくてもいいように……」
 傷つき過ぎて、優しくなり過ぎて、もう自分のためには何一つ、望めなくなってしまった人。
 世界中で一番哀しい、愛しい人。
 この人のためになら、どんな事でもできるだろう。
 元始天尊の思惑がどこにあろうと、『歴史の道導』の正体が何であろうと、自分は太公望を守り通して見せる。
 そう心に誓って、楊ゼンは祈るように目を閉じる。
 たとえ嫌われても、憎まれてもいい。
 太公望さえ幸せに笑っていてくれるなら。
 その心と命を守ることができるのなら、もう、他には何一つ望むものはなかった。












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