太公望がやっと眠りに落ちたのは、寝台に横になってから半刻ほどが過ぎた頃だった。
静かな呼吸が深くなり、右手が完全に力を失ったのを確かめて、楊ゼンはそっと寝台の傍を離れた。太公望の眠りを妨げたくなかったのだ。
そうして、特にすることもないまま大卓の上に広げられた何枚もの地図を取り上げては、窓際のほのかな月明かりの中で眺めていた。
卓からはみ出すほど大きな牧野の平原周辺の地形図。そして、その上に、更に詳細な区域ごとの拡大図が何枚も散らばっている。
それらの地図には、書き込みも何もない。
太公望は作戦を考える時、ほとんどメモは取らないのだ。機密の漏洩(ろうえい)を防ぐためなのか、全て自分の頭の中で考え、戦闘の直前になるまで誰にも語らない。
作戦立案は、誰も立ち入れない領域で行われる、太公望の孤独な作業だった。
従来の戦闘の常識を覆す画期的な戦術を次々に考案しながら、彼が何を思っているのか、知る術はなかった。が、これまでに流された血と、これから 流されるだろう血の量を考えているのだろうことを、疑う余地はない。
実際、太公望ほど軍師に向いている人物も、不向きな人物もいなかった。
民を憂い、人の死を嫌って戦いを厭(いと)う彼の本質は、決して戦場向きではない。だが、その優しさや弱さがあるからこそ、犠牲を最小限に抑えて勝つこと考える優れた司令官となり得るのである。
それは大いなる矛盾であり、太公望を傷つける両刃(もろは)の剣だった。
現に、太公望は自分を責めるあまり、精神に失調をきたしている。
実のところ、これまでに太公望が出した犠牲というのは、崑崙・金鰲の仙道を合わせても千人に満たず、十万の将兵を指揮する軍師としては驚異的に少ない数字である。
だが、それでも彼は自分を許せないのだ。
これほど大きな戦争で犠牲を出さないことなど、神をもってしても不可能であると分かっているくせに、太公望はそれを実現しようと必死になっている。
それは、軍師としては正しい在り方ではあるが、彼の姿勢はいささかでなく度を越していた。
卓上に地図を戻し、楊ゼンは静かに眠る太公望に目を向ける。
年端のゆかぬ少年のような姿をした彼は、その幼さに似合わないひどく疲れた顔で眠りの淵を漂っていた。
血の気の薄い、白い顔を痛々しい思いで楊ゼンは見つめ、彼の心の傷の深さを思った。
ふと、何かが聞こえたような気がして、楊ゼンは窓枠に預けていた背筋を起こした。
太公望が眠りに落ちてから、まだ一刻ほどしか経ってはいない。
「…………」
───師叔?
もしやと、いささか慌てて楊ゼンは足早に寝台に歩み寄った。
近付いてみれば、いまだ眠りのうちにある太公望は、苦しげに眉を寄せており、額には、うっすらと汗がにじんでいた。
「師叔」
呼びかけても目覚めることなく、太公望は辛そうな浅い呼吸を繰り返す。
「師叔!」
楊ゼンはやや声を強めたが、よほど夢に深く囚われているのか、太公望は堅く目を閉じたまま、かすかに嫌々をするように首を振った。
「………や…め……」
「太公望師叔!!」
小さくこぼれた悲痛な響きのうわ言に、楊ゼンは強い声で彼の名を呼ぶ。
名を呼ばれた瞬間、太公望は小さく身体を震わせ、次の瞬間はっと目を見開いた。
そして太公望は、真っ直ぐに自分を見つめていた楊ゼンを見上げる。
「楊……ゼン……?」
「はい」
大きくみはられた、ひどく怯えたような瞳に、楊ゼンは胸を衝(つ)かれた。彼のこんな表情を、これまでに見たことがない。
「大丈夫ですか?」
優しい声で問いかけても、太公望は怖い夢に怯えた子供のような表情で楊ゼンを見上げたまま、答えなかった。
それでも、ひとまず彼が目覚めたことには安堵を覚えて、楊ゼンは椅子に腰を下ろし、寝台の脇にある小卓の上から水差しを取り上げ、茶器に冷たい水を注いだ。
「喉が渇いていらっしゃるでしょう? 水を飲まれたら、少し気分が落ち着きますよ」
言いながら、楊ゼンは茶器を片手に、もう片方の手で太公望の背を抱き起こす。
が、楊ゼンに助けられて半身を起こした太公望は、ふいに手を伸ばして、そのまま楊ゼンの胸にすがりつく。
「──!?」
思いがけぬ太公望の動きに、茶器は楊ゼンの手を離れて床に落ち、陶製のそれは磨かれた石の床の上で粉々に砕け散った。
だが、その高い音も聞こえなかったかのように、太公望は楊ゼンの胸のあたりの服をきつく握り締め、顔を伏せている。
その夜着に包まれた細い肩が──すがりついた手が細かく震えていることに、楊ゼンは気付いた。
「師叔」
「………を覚えておるか?」
「え?」
「顔を伏せたまま発せられた、かすれた極小さな声を聞き取れず、楊ゼンは聞き返す。
「臺盆を、覚えておるか……?」
今度ははっきりと、太公望は言った。
その単語に、楊ゼンは息を飲む。
───それは、もう十年以上前の惨劇。
封神計画を預かり、下界に下りたばかりの太公望は妲己との直接対決に敗れ、朝歌中の蛇を集めた穴──臺盆で処刑されかけた。
だが、太公望の心を深く傷つけたのは、自らが死の危険にさらされたことではない。
彼の目の前で、太公望の出身部族だからという理由だけで奴隷の羌族百六十人が臺盆に落とされたことが、立ち直れないほどに彼を打ちのめした。
そんな状況で彼が命を落とさずにすんだのは、事前に知り合っていた武成王・黄飛虎が、混乱に紛れて彼を救い出してくれたからだ。
───あん時の太公望殿は酷い状態だったよ。俺も一体、どう言葉をかければいいのか、分からなくて困った。自分が引き起こした惨劇に呆然としてて、死にたくて仕方がないって目をしていてな。
事件から数年後、知己(ちき)となった武成王から、救い出された直後の太公望の様子を、そんな言葉で楊ゼンは聞かされていた。
だが、武成王に叱咤されて、太公望はそこから立ち直ったはずだった。
惨劇を忘れられなくとも、償いのためには妲己を倒して平和な世界を造るしかないと、太公望は気持ちに整理をつけたのだと事件を知る誰もが思っていた。
なのに、今、彼は楊ゼンの胸でこんなにも震えている。
あの時、惨(むご)たらしく殺されていった百六十の生命は、十年を経た今も、太公望を苛(さいな)み続けている───。
そのことを思い知らされて、楊ゼンは愕然となった。
「あの時……殺される羌族の一人が、わしに『あんたのせいだ』と言った。力もないくせに、ハチの巣をつつくような真似をするからだと……」
震える小さな声で、太公望は言葉を紡ぐ。
「その通りだ。妲己を倒すという大義名分を掲げて、一体、わしは何人殺した……?」
太公望の細い身体は、自らの業(ごう)の深さに怯えたように小さく震え続けていた。
それがたまらなくて、楊ゼンはそっと太公望の背に腕を回す。
簡単に抱き込める小さな身体は、辛い惨劇の記憶に体温を奪われたかのように冷え切っていて、楊ゼンは少しでも多くの温もりを与えてやりたくて腕の力を強めた。
「いつもいつも、人が死んでゆくのをわしは見ているだけで……。村が焼かれた時も臺盆の時も、玉鼎が死んだ時も、道徳や普賢たちが死んだ時も、わしは何もできずに見ていた。
皆……、皆わしのために死んでゆき、わしだけがいつでも生き残る……」
「師叔……」
「どうして、わしだけが生き延びるのだ? 皆、わしの目の前で死んでゆくのに……、いつか誰もいなくなって、最後にわし一人だけが生き残るのか? それが、わしの運命だというのか!?」
太公望の声が、やりきれなくはね上がる。
抱きしめた華奢な肩が、大きく震えた。
「そんな……そんな運命などあってたまるものか! 人々の死を見届けるために、わしは生きているのではない!!」
何かを振り切ろうとするかのように、太公望は悲痛な声で叫ぶ。
「師叔」
その無数の傷口から血を流し続けている太公望の心が胸に痛くて、楊ゼンは抱きしめる腕の力を強くする。
「誰の死も、あなたのせいではありません。こんなに傷ついているあなたが背負うべき罪など、何一つない。妲己さえ居なければ、あなたはこんなに苦しまずにすんだんです。あなたは加害者ではなくて、妲己によって最も傷つけられた被害者の一人なんですよ」
心からの思いを込めて、楊ゼンは言った。
太公望の目の前で失われた命は全て、妲己さえいなければ喪われずにすんだものだ。それなのに、太公望は守りきれなかった己の責任だと、自分自身を責め続けている。
それは違うのだと、分かって欲しかった。
だが、太公望は楊ゼンの腕の中で、小さくかぶりを振る。
「わしに力があれば……あやつらは死なずにすんだ」
「師叔」
「わしに妲己と対等に戦える力があれば……、誰ひとり死なせはしなかった」
「それは……無理な話です」
それを口にするのは残酷かとも思ったが、楊ゼンは言わずにはいられなかった。
「妲己は、千五百年以上もの齢(よわい)を重ねた妖怪仙人です。妖怪仙人というのは、そもそも人外のものが気の遠くなるほどの年月を経て化生したものがほとんどですから、原型によっては最初から強力な妖力を持っているんです。それを更に修行で磨けば、人間出身の仙人など足元にも及ばないほどの力を身につけることも不可能ではありません。そこまでいく妖怪は極稀(まれ)ですが……。
……ですから、あなたが妲己に力及ばなかったのは仕方のないことなんです」
しかし、その言葉にも太公望は首を横に振った。
「理屈ではそうかもしれん。だが……わしのしたことは、許されることではないのだよ」
そう言い、ゆっくりと太公望は顔を上げる。
窓から差し込むほのかな月明かりの中で、その顔は冷たく青ざめていた。
至近距離から、深い色の大きな瞳が楊ゼンを見上げる。血の気のない薄い唇が、ゆっくりと動いた。
「あの臺盆事件は……」
「師叔、あれはあなたのせいでは……」
楊ゼンの言葉を、太公望は強くかぶりを振ってさえぎった。
「忘れられぬのだ、楊ゼン。あの羌族の目や言葉や、蛇に食われて死んでゆく姿が、わしに忘れるなと……!」
言いながら、まるで泣き出しそうに太公望は顔を歪める。
「どうして、わしには一人で妲己を倒せるだけの力がないのだ……!!」
絞り出すようなその声の悲痛さに、たまらず楊ゼンは太公望を再び胸に抱きしめた。
だが、冷え切った小さな身体は、どれだけ強く抱きしめても慄えが止まらず、衣服越しに重なった胸からは声なき慟哭が……身を引き裂かれるような痛みが、奔流のように流れ込んでくる。
「師叔」
何もかも、本当は太公望も分かっているのだ。
だが、どうしようもなかったことだと理屈では分かっていても、感情が許さない。
目の前で人が死んでゆくことに、心が耐えられない。
この期に及んでも、不可能だと分かっているのに、まだ本心では一人きりで妲己と戦うことを望んでいる。
そんな歪みさえ感じさせるような犠牲精神の強さは、幼い日の惨劇と臺盆事件が、太公望の心を癒すのも不可能なほど傷つけた証(あかし)。
彼の深い優しさは、彼の哀しみの深さの証だ。
一体どうしたら、この運命に引き裂かれて傷だらけになった孤独な魂を救ってやれるのだろう。
「太公望師叔」
でも、自分に一体何ができるというのか。
長い間、痛みを抱え続けてきたのも、戦い続けてきたのも、太公望自身だ。
赤の他人の自分が、どうしてその辛さを分かってやれるだろう。
───僕は……。
「そんな風に……一人で耐えないで下さい」
胸をえぐられるような痛みをこらえながら、楊ゼンは言葉を紡ぐ。
「僕は……あなたに何もしてあげられない。でも、せめて……、あなたの辛さを……痛みを僕に分けて下さい」
言葉など、太公望の心の傷の前では無力だと分かっていても、それでも言わずにはいられなかった。
それが、どんなに不条理な言葉だと分かっていても。
「あなたの辛い記憶を、僕に半分……。どうしても忘れられないというのなら、せめて半分、僕に分けて持たせて下さい」
何もかもを背負い、重みに押しつぶされそうになっていながら、それでも毅然と立とうとしている太公望がどうしようもないほど哀しくて、楊ゼンは必死に呼びかける。
「あなたの辛い夢を半分ください」
「楊ゼン……」
他に何もできない……何もしてやれることがないのだと、深い嘆きを響かせる声に、太公望がゆっくりと顔を上げ、かすかに戸惑ったような表情で楊ゼンを見上げた。
すいこまれそうなほど深く澄んだ瞳が、じっと楊ゼンを見つめる。
「────」
辛くて仕方がないと悲鳴を上げながら、自分自身のためには決して泣くことを許さず、悲しみだけを見つめている瞳が哀しくて、せめて今だけでも目を閉じてくれないかと、楊ゼンはそっと頬に唇を寄せる。
目の下に口接けられて太公望は目を閉じたが、楊ゼンが離れると、再び大きな瞳を見開いて目の前の青年を見つめた。
「──…」
そして、その名を呼ぼうと動きかけた口唇を、またもや羽根のような軽い口接けで楊ゼンは封じる。
もう、何も言って欲しくなかった。
太公望は結局、彼自身を追い詰め、傷つける言葉しか口にしない。
これ以上、この人に自分を傷つけて欲しくなかった。
「一人で何もかもを抱えて耐えないで下さい。そんなあなたを見ているのは辛い……」
「楊ゼン」
名を呼んだ唇を、もう一度自分の唇でそっと塞ぐ。
太公望は目こそ閉じなかったが、抵抗はしなかった。
その代わりに、ただ、切々と訴えかける楊ゼンを何か痛ましいものを見るような瞳で見上げた。
「師叔」
そんな瞳で見られるのが辛くて、楊ゼンは太公望の目元に口接け、そして閉じた瞼に口接ける。
「師叔、僕はあなたが好きなんです。どうか一人で苦しまないで下さい。……それとも、僕では駄目ですか? あなたを助けてあげることはできませんか……?」
何とかして太公望の心に言葉を届けたくて、楊ゼンは再び唇に口接けた。今度は太公望も目を閉じる。
薄く開かれていた唇の間から、そっと舌を割り込ませれば、太公望は一瞬背筋を震わせたが、楊ゼンを突き放しはしなかった。
一通り、内部を探って楊ゼンは唇を離す。時間にすればほんの短い口接けだったが、解放された太公望は、小さくあえいで肩を震わせた。
「太公望師叔……」
だが、名を呼ばれてゆっくりと瞼を開き、そして、やりきれないほど切なげなまなざしをした楊ゼンを見つめた。
「──楊ゼン」
太公望は哀しみにも似た色を澄んだ瞳ににじませて、そっと生身の右手を上げる。
冷えた細い指先が、楊ゼンの頬に触れた。
「わしのために、そんな顔をするでないよ」
その言葉に、楊ゼンは頬に触れている冷たい手を自分の手で包み込むように握りしめる。
「わしには、おぬしがそんな顔をしなければならぬ程の価値はない」
「師叔」
静かな声が胸に痛くて、楊ゼンは言葉を紡ぎ出す唇を再度封じる。
「もう何も言わないで……」
低いその声に、太公望はひどく切なげな表情で瞳を閉じ、楊ゼンの口接けを深く受け入れた。
小さく震えてはいたが、太公望は何一つ抵抗はしなかった。
ずっと胸に抱きしめていたはずなのに冷え切っている小さな躰が哀しくて、少しでも温めるように楊ゼンは丹念に口接ける。
そうして、華奢な躰を余すところなく触れ、中心に手を伸ばすと太公望は小さく声を上げたが、逃がさずにそっと指を絡めれば、他愛もなく反応して昇りつめた。
それだけのことで、半ば意識を飛ばしてしまったような太公望の様子に、楊ゼンは彼の経験の無さを感じた。
もしかしたら、自分の手で触れたことも無かったのかもしれない。そう思わせるほど、太公望は物慣れない様子だった。
楊ゼンは先を急ぎはしなかった。
心の中を占めていたのは、愛しさよりも哀しさだったから、太公望が欲しくて先走るようなことは無かった。
ただ、傷ついて血まみれの心を更に自分で苛(さいな)み続けている太公望が哀しくて、少しでも彼の抱えている痛みを自分に移してやりたくて、楊ゼンはひたすら優しく指と唇で触れ続けた。
「──ぁ……や…っ……」
ゆっくりと内部で指を動かしてやると、耐えきれないように太公望は首を振った。
しどけなく開かれた細い足が、与えられる感覚に細かく震えている。
切なげに上気し、うっすらと目尻に涙をにじませた太公望を見つめながら、楊ゼンは少しだけ迷った。
太公望がまったく何の経験もないことは、もう充分すぎるほど分かっている。そんな彼を、こんな状況でこのまま抱いていいものか、ここまで来ても、まだ決心がつかない。
「師叔……」
ためらいを含んだ声で呼ぶと、太公望は潤んだ瞳を開けた。
そして、自分を見下ろしている楊ゼンを認めると、敷布を握りしめていた手を解(ほど)いて細い両腕を伸ばし、楊ゼンの首筋に強くすがりつく。
「師……」
それは、際限なく注がれる感覚から逃れたがる無意識の仕草だったかもしれない。
だが、爪を立てる程ぎゅっと首筋にすがりついた力の強さは、楊ゼンに泣きたくなるほどの切なさを覚えさせた。
───愛おしい、と思った。
誰よりも傷ついて、誰よりも優しい彼が、哀しくて愛しい。
欲しい、と心の底から楊ゼンは感じる。
何を引き換えにしても今、太公望が欲しい。
彼を傷つけるかもしれないという躊躇いが完全に消え去ることはなかったが、それでも、もう自分を抑えることはできなかった。
「太公望師叔」
すがりついている細い腕にそっと手をかけて緩めさせると、楊ゼンは震えるような呼吸を繰り返している唇に口接け、深く舌を絡めとった。
ゆっくりと舌で甘い口腔内を探ると、何度もキスを繰り返しているうちに無意識に応え方を覚えたのか、彼も舌を伸ばし絡めてくる。そのたどたどしい動きが愛しさを煽った。
想いに流されるままに深い口接けを繰り返し、ようやく楊ゼンは唇を離す。
そして、華奢な脚に手をかけて大きく開かせた。
「力を入れないで……、呼吸を止めないようにして下さいね」
ほとんど意識を飛ばしてしまっている太公望に聞こえているかどうかは怪しかったし、既に数度昇りつめさせられた下肢は、もう力など入れたくても入れられなかっただろうが、それでもそう言って、楊ゼンは自身を太公望に押し当てる。
「──あ…っ……!!」
力を込めると、太公望は細い声を上げ、潤んだ瞳を見開いた。
だが、とうに力を失い、充分すぎるほどに熔かされていた太公望の躰は、抵抗しきれずにゆっくりと楊ゼンを受け入れていった。
時間をかけて全てを収め、太公望を見下ろせば、抗(あらが)う術もないまま初めて他人を受け入れた華奢な躰は圧迫感に震えていて、辛そうな乱れた浅い呼吸を繰り返している。
「師叔……」
その緊張を熔かしてやりたくて、頬や唇に軽いキスを繰り返しながら、楊ゼンは太公望の稚(おさな)い中心に手を伸ばした。
「……っ、や…っ……!」
懸命に苦痛に耐えていたところに、突然、強い刺激を与えられて太公望は全身を震わせる。
だが、楊ゼンは容赦することなく、ゆっくりとした指の動きで快楽を与え続けた。
とめどもなく注ぎ続けられる快楽は、やがて苦痛を駆逐してゆく。いつしか太公望の慄(ふる)えは収まり、四肢の緊張もほどけていった。
様子を見計らって、楊ゼンは細い腰を抱き直し、より深く自身を内部に進める。
「…あ……っ」
その動きに、太公望は細い首をのけぞらせて声を上げたが、その細い声はどこか甘く、きつく寄せられた眉にも苦痛の色は見えなかった。
そして、そうすることで少しでも感覚から逃れようとするかのように、また楊ゼンの首筋に腕を回してすがりつく。
華奢な躰が余計な緊張を解いたことを確認して、楊ゼンは紅く色づいた薄い唇に口接ける。そっと舌を差し入れれば、また太公望は、たどたどしい動きながらも楊ゼンに応えた。
もう、理性を失っているからでも、無意識でも、何でも良かった。
太公望が自分を拒絶せず、受け入れようとしてくれていることが泣きたいほど切なくて、そんな太公望がただ愛おしい。
唇を離して、楊ゼンは太公望の顔を見つめる。
冷たく青ざめていた頬も今は上気し、薄紅に染まっていた。
視線を感じたのか、うっすらと太公望は瞳を開く。
いつもは凛とした瞳が熱に潤んで、まなじりには涙がにじみ、睫毛はしっとりと濡れている。
だが、それでも澄んだ瞳の色は変わらなかった。
その瞳の色が、綺麗だと楊ゼンは思う。
「あなたが……好きです」
痛々しいほど凛としたその瞳に、初めて出逢った時に捕(とら)われた。
ずっと、前だけを見つめている瞳が愛しくて、哀しかった。
もっと、自分を見て欲しかった。
辛い過去や遠い未来ばかりでなく、もっと他のものを──他の誰のものでもない彼自身の幸せに目を向けてくれたらいいのに、と思う。
一体、どうしたら届くのだろう。
この想いは……。
「楊ゼン……」
唇を噛んだ時、かすれかけた小さな声で、太公望が名前を呼んだ。
そして、キスをしているうちに楊ゼンの首筋から離れて、肩に添える形になっていた手を上げ、もう一度楊ゼンを抱きしめる。
「──!」
それはまるで、母親が傷ついた子供を慰めるような仕草だった。何もかも受け入れ、許そうとするような、優しい抱擁だった。
その温かな感覚に、楊ゼンは泣きたいような切なさを覚える。
───どこまで彼は優しいのか。
こんなほとんど理性を失った状態の時でさえ、楊ゼンの哀しさを感じ取って、自分のためにそんな顔をするなと慰めるように抱きしめてくれる。
この哀しい人の無限の優しさが、どうしようもなく切なくて愛しい。
「太公望師叔……」
やるせない胸の痛みに、楊ゼンは太公望を強く抱きしめ返す。
「……ん…っ……」
その動きの与えた刺激に、太公望は息をつめた。楊ゼンを抱きしめていた細い手が、肩に爪を立てる。だが、それは拒絶というよりは、込み上げる感覚をこらえる仕草だった。
「師叔」
甘さを含んだ切なげな太公望の表情を見つめ、爪が肩に食い込む小さな痛みに誘われるように、楊ゼンはゆっくりと動き始める。
「……や……ぁ…っ!」
繰り返し与えられる熱い感覚に、太公望は耐えきれないように細い悲鳴を上げた。
だが、初めて知る感覚に怯える心とは裏腹に、焦らされた躰は蕩(とろ)けきっていて、苦痛よりも快楽の方をより強く感じているのか、やわらかな内部は甘く楊ゼン自身に絡みつき、更に奥へと誘い込むようにきつい収縮を繰り返す。
「………っ…ん…」
躰の奥に感じる切なさが辛いのか、甘い声を上げるのが嫌なのか、何かを堪えるように、太公望は口元に当てた右手の人差し指を小さな歯できつく噛みしめる。
その無意識の仕草を見とめ、
「駄目ですよ」
甘くささやきかけて、楊ゼンは太公望の胸元に指を滑らせた。
「───あ…っ!!」
小さな尖りを刺激されて、太公望は短い嬌声を上げ、その拍子に噛みしめていた指が外れる。
もう歯を立てることができないように、楊ゼンはその歯型がくっきりとついた指に自分の左手の指を絡め、手のひらを合わせて小さな手を握りしめた。
「我慢しないで……。何もかも、吐き出してしまえばいい。辛いことも哀しいことも、全部……」
ささやいた声は、果たして聞こえたかどうか。
だが、声を封じる術を奪われた太公望は、楊ゼンの望むままに途切れ途切れのすすり泣きにも似た甘い声を上げ始める。
「──や…ぁ……っ…」
経験のない躰は、初めて知る苦痛と、それをはるかに上回る快楽に翻弄され、感覚を制御する事もできないまま熱を上昇させてゆき、
「…も…ぉ……やっ……」
やがて限界を訴えるように、太公望が首を振る。汗にしっとりと濡れた髪が、その動きにあわせて小さな音を立てた。
「あ…っ…楊……ゼン…っ、よぅ…ぜ……」
太公望のすすり泣くような声が、繰り返し楊ゼンの名を呼ぶ。
その声に、楊ゼンもまた自分の熱が上がるのを感じた。
「師叔……」
もう、他に何もいらない、と思う。
太公望さえ傍にいてくれたら、もうそれだけで良かった。
彼さえ、幸せに笑っていてくれたら。
「……や…っ、…ぁ……!!」
背筋を大きくのけぞらせて、太公望は腕を伸ばし、楊ゼンに強くすがりついた。
その華奢な躰を抱きしめて、楊ゼンは最奥まで大きく突き上げる。
「────…っっ!!」
ほとんど音にならない声を上げて、太公望は昇りつめた。ほぼ同時に、楊ゼンも自身を解放する。
その灼熱を受け止めて躰を震わせる太公望の堅く閉じた瞳から涙がこぼれ落ち、そして、ゆっくりと弛緩に落ちてゆく二人を、月明かりだけがほのかに照らし出していた。
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