上空は風が強いのか、ゆっくりと雲が形を変えながら流されてゆく。
 その様子を眺めていた楊ゼンは、寝台の方で身動きする気配に振り返った。
「師叔!」
 足早に近寄ると、眠たげに目をしばたたかせながら、枕に頭を預けたまま太公望は楊ゼンを見上げた。
「お目覚めですか?」
「楊ゼン……?」
 不思議そうな顔で名を呼び、ふと気付いたように室内を見回す。
「今……一体、何時なのだ?」
 どうしてこんなに明るいのかと、更に不思議そうな顔になって太公望は楊ゼンに尋ねた。
 少しためらった後で、楊ゼンは答える。
「……申の刻(午後三〜五時頃)を半刻ほど回ったところです」
「申!?」
 その返答に、驚いて太公望は飛び起きようとした。が、身体を半分ほど起こしかけたところで、ふっと力が抜けたように寝台に突っ伏してしまう。
「無理しない方がいいですよ」
 いささか慌ててそう言った楊ゼンを、太公望は、なぜ動けないのか分からないと戸惑った表情で、顔だけを動かして見上げた。
 そんな太公望の視線を、楊ゼンは申し訳なさそうな困ったような顔で受け止める。
 と、戸惑った顔をしていた太公望が、はたと何かに思い当たった表情になり、次の瞬間、耳の先まで赤くなった。
 そんな太公望の反応に、楊ゼンは目をみはる。
 ───可愛い…!!
 出会ってから十年以上も経つが、ポーカーフェースの得意な彼が真っ赤になるところなど初めて目にした。
 しかも、思い出してしまったどうしよう、とパニックしているのが丸分かりの、年端もゆかぬ少年のような表情である。
 そんな場合ではないと分かっているのだが、はっきり言ってものすごく可愛い。
 これほど太公望が初心(うぶ)な反応をしてくれるとは思いもよらなかった楊ゼンは、思わずまじまじと見つめてしまう。
 が、そんな楊ゼンの少し驚いたような視線に気付いて、太公望はぱっと顔をそむけ、寝台にうつぶせたまま、壁の方を向いてしまった。
 その様子がまた可愛らしく思えて、楊ゼンは何となく微笑する。
「師叔」
 ひとまず傷ついた顔や嫌悪の表情をされなかったことに安堵を覚えながら、楊ゼンは向こうを向いたままぴくりとも動かなくなった太公望に、そっと声をかけた。
「皆には、どうしても師叔が眠れないとおっしゃるから、薬丹を処方して眠っていただいたと言ってあります。武王や道士たちは皆、あなたの体調が良くなさそうなことに気付いていたようで、ほっとした様子でしたよ」
 とりあえず、太公望が一番気がかりであろう事を説明する。
「僕があなたに付いていましたから、今日の道士たちの特訓は休みですが、兵士の訓練は南宮括がいつもと同じように仕切ってくれています。もうそろそろ終わる頃合でしょう」
 楊ゼンがあれこれ喋っている間中、太公望はじっと無言だった。
 そして一通りの事を報告し終えて、楊ゼンは少し沈黙する。
 肝心な事を言わなければならなかった。
「太公望師叔」
 身動き一つしない背中に向け、楊ゼンは改めて名を呼んだ。
「昨夜は……申し訳ありませんでした。二つ、約束を破ってしまって……」
「───二つ?」
 楊ゼンの言葉に、わずかに太公望は顔をこちらに向け、枕に伏せた顔から片目だけをちらりとのぞかせる。
 その仕草が、どうにも子供じみていて可愛らしく、楊ゼンは微笑を誘われそうになるのを懸命にこらえた。
「……疲れているあなたには何もしないというのと、あなたの意思を尊重するというのと、二つです」
 前者は昨夜言ったことだが、後者は、太公望が記憶しているかどうかは定かでないが九ヵ月前に言ったことであり、普賢真人との密かな約束事でもある。
 別に普賢真人の祟(たた)りを恐れているわけではないが、『太公望の意思を尊重する』という最優先事項をすっ飛ばしてしまった事実は、楊ゼンの良心をかなり苛(さいな)んでいた。
 申し訳なさそうに言った楊ゼンを太公望は片目で見上げていたが、やがて、ふいと顔を背(そむ)けてしまった。
「師叔……?」
 呼びかけて、髪の間からのぞいている太公望の耳がひどく赤いことに気付く。
 その様子に、どうやら昨夜の記憶は、結構残っているらしい、と楊ゼンは見当をつけた。
 だとすれば、恋愛沙汰に関しては、もとより天然記念物レベルに初心な彼である。とにかく気恥ずかしくて仕方がないに違いない。
 実に可愛らしいことこの上ないが、これ以上、自分に傍にいられるのは嫌だろうな、と楊ゼンは太公望の心情を気遣った。
「──太公望師叔、僕を許してくれとは言いません。ただ……、あなたを傷つけるつもりはなかったということだけは、信じて欲しいんです。本当に……申し訳ありませんでした」
 それだけを告げて、立ち去ろうと楊ゼンは身体の向きを変えかける。
 が、その時、太公望が小さく言葉を発した。
「…………」
「師叔?」
 背中を追いかけてきた、くぐもった小さな声が聞き取れず、楊ゼンは振り返る。
「……もう良い」
「え?」
 咄嗟に小さな声の意味が把握できず、再度聞き返すと。
「もう、良いと言っておるのだ!」
 太公望は枕から顔を上げて、少し怒ったような顔で叫んだ。が、やはり頬は、よく熟れた桃のような薄紅色に染まっていた。
「わしも抵抗しなかったのだし、あの跡は夢も見ずに眠れた。だからもう良い!」
 早口でそう言うと、太公望はまた、ふん! と枕に顔を埋ずめる。
 そして、少々呆気(あっけ)にとられて太公望を見つめていた楊ゼンは、ゆっくりと顔をほころばせた。
 許してくれたことが嬉しくて、またその言い方が太公望らしくて可愛くて、思わず笑いが込み上げてきそうになる。
「分かったら、さっさと桃でも持ってこんか! わしは動けんのだ!!」
 その気配を見なくとも察したのか、顔を上げないまま太公望はわめきたてた。
「はい、すぐにお持ちしますから待っていて下さいね」
 苦笑しながら、楊ゼンは踵(きびす)を返して扉に向かう。
 許してくれたことも嬉しいが、それ以上に、夢を見ずに眠れたという言葉が胸に響いて、不思議なほどに心が温かくなった。
 誰かを愛する幸せというのは、こういうことを言うのかと、切ないほど太公望が愛おしかった。








 ぱたん、と扉が閉まる音を聞き届けて、太公望はそっと枕から顔を上げる。
 楊ゼンの気配は室内のどこにもない。そのことにほっとして、太公望はころんと仰向けに転がった。が、途端に躰の奥に鈍い痛みが生じる。
「〜〜〜〜〜っ!!」
 ああもう! と太公望はたまらない気分になった。
 いっそのこと記憶が消えていれば良かったのに、と心の底から思う。
 だが、正気を失っていた割に記憶細胞はきちんと活動していたらしく、昨夜に起こった事の大半は思い出してしまった。
 どうして、あんなことになってしまったのかなんて分からない。
 ただ、自分に向けられた楊ゼンの哀しさが、そのまなざしや指先から伝わってきて、それがひどく切なくて抵抗できなかったことは覚えている。
 反則だ、と思うのだ。
 あんな辛そうな瞳をして、あんな切ない声で名前を呼ぶなんて。
 自分のためにあんな顔をさせているのが胸に痛くて、キスもその先も拒む気になれなかったではないか。
「〜〜〜〜〜」
 もし、あれが計算ずくの演技だったら、絶対に受け入れはしなかっただろう。
 でも、楊ゼンは本気だった。
 だから───。
「……わしも甘すぎる…」
 本当は、なんという事をしてくれたのだと、怒鳴り散らしたい気がするのだが、楊ゼンの想いを感じ取ってしまったから怒れない。
 本気で彼は、自分を救いたがっていたから。
「あやつも馬鹿だのう……」
 もっと幸せになれそうな相手を選べばいいのに、と太公望は溜息をつきながら思う。
 こんな数えきれないほど罪を背負ったエゴイストの自分では、きっと楊ゼンの優しさを傷つけるばかりで、到底幸せになどしてやれない。昨夜がいい例だった。
 自分の業(ごう)の大きさが、真剣に自分を想ってくれる楊ゼンを傷つけ、あんなにも悲しませた。
 そして、この先も、きっと同じようなことの繰り返しになるに決まっている。
 だから、自分のような者にはさっさと見切りをつけて、もっと他の優しい誰かを見つければいいのだ。
 そうしたら、あの大きな孤独を背負った青年は、きっと幸せになれるだろう。
 そう思いながらも、楊ゼンはそうすることを選ばないような気が、太公望はしていた。
 昨夜、分かってしまったのだ。
 どれほど楊ゼンが深く自分を想っているのか。
 どれほど真剣なのか、知ったら辛くなるから分かりたくなかったのに、分かってしまった。
 きっと彼は自分に対して働きかけることを、よほどのことがない限りやめない。どうしても無理だと悟るまで、懸命にこの底なし沼のような業から自分を救おうとし続けるだろう。
「馬鹿だのう……。本当に……」
 自分が救われる日など、決して来ないというのに。
 だが、一方で自分がそれを甘んじて受け止めようとするだろうことも、太公望は分かっていた。
 本気で向けられた情は、絶対に振り払えない。
 応えられないくせに振り払わないことが、どれほど相手にとって残酷なのか分かっていても。
「……わしも、まだまだか……」
 己の弱さに、太公望は苦い溜息をつく。
 そして、身体に響かないようにそうっと寝返りを打った。
 ───それにしても、よく眠れた。
 やわらかな枕に頭を預けて目を閉じながら、ふとそう思う。
 この数日、常に感じていた重苦しい頭痛が綺麗に消えていた。身体はともかくも、気分は随分すっきりしている。
 こんな気分になったのは、一体いつ以来だろうか。
 思えばこの十年余りの間、いつでも寝る前や目覚めは気分が重かった。
 常に戦いのことばかり考えていて、血の匂いを忘れたことがない。
 封神計画を授かる以前も、一族を殺された無念と、どうしたら仇を討てるかということが頭から離れなかった。
 寝ても覚めても、哀しみや憎しみ、そして恐怖から心が離れないまま、数十年を生きてきてしまったのだ。
「───…」
 それなのに、今は不思議なほど心が凪いでいる。
 まるで思い切り泣いた後のように。
 そう思いながら、太公望は目を閉じる。
 ───ずっと昔、一度だけ自分のために泣いたことがあった。
 あれはまだ、崑崙山に上がって一年も経たない頃。
 当時、本当に少年だった自分は、同じように少年だった普賢真人の前で、一度だけ泣いた。
 辛くて苦しくて仕方がなかった心に、少年の優しさが温かな雨のように満ちてきて、涙が止まらなかった。
 そして、泣いて泣いて、ようやく泣き止んだ時、少しだけ心が軽くなっていた。涙の効用を知ったのは、その時のことだ。
 ───今の気分は、あの時の感覚に似ている。
 何故だろう、と太公望は思う。
 昨夜、泣いた覚えはない。臺盆の記憶は身を切り刻まれるよりも辛かったが、泣きたいとは思わなかった。
 楊ゼンのお陰だろうか。
 行動内容はともかくも、彼が向けてきた切なさや哀しさは本物だった。
 それらは形こそ違えど、普賢真人がくれたものと同じ、この心を気遣う優しさだった。
 それが自分の心を少しだけ癒してくれたのか───。
 背負った罪の重さに耐え切れず、慰めを求めて他人の優しさを欲しがる己の心に、太公望は小さく息をつく。
「──そういえば、救いを求めるのは当然だとあやつは言ったな……」
 不意に昨夜の楊ゼンの言葉の一つを思い出して、太公望は呟いた。
「だが……駄目なのだよ。わしは……」
 救われるには、憎み過ぎてしまったから。
「すまんのう、楊ゼン……」
 どんなに気遣ってくれても、どんなに想ってくれても、何一つ応えてはやれない。
「おぬしの優しさも、普賢の優しさも……、わしには綺麗すぎるよ」
 この心の中には、誰かにあげることができるほど綺麗なものは何一つない。醜い、どろどろとしたものばかりで満ちている。
 そのことを哀しいと……、辛いと思う自分がまだ何処かにいるけれど、もうどうしようもない。
 もう、憎しみも悲しみも知らなかった頃には戻れない。
 ───わしは、おぬしらの優しさを仇(あだ)で返すようなことばかりしておる……。
 深すぎる業(ごう)を抱えた自分を、太公望は彼らに詫びた。
 物音一つしない静かな時間が、ゆっくりと過ぎてゆく。
 楊ゼンは、まだ戻ってこない。
 この執務室から厨房までは、かなりの距離があるが、いい加減戻ってきてもいい頃合だった。
 途中で誰ぞに捕まって、自分の容態について訊かれているのかもしれない、と太公望は思う。
 楊ゼンの言葉によれば、自分ではそれなりに上手くやっていたつもりだったが、やはり多くの人に心配をかけてしまっていたらしい。とりあえず、武吉と四不象には、きちんと謝らなければならないだろう。
 そんなことをつらつらと考えているうちに、太公望は眠気を覚える。
 今の時刻から計算すると半日以上は眠っていたようだが、積み重なった睡眠不足はそれで解消するような生易しいものではない。
 ───早く戻ってこんかのう。どうせなら、桃を食ってから眠りたいもんだが……。
 睡魔に囚われながら、ぼんやり太公望はそんなことを思った。
 体温の移ったやわらかな布団が、ぬくぬくしてひどく気持ちいい。もう、あまり長く持ちそうにはなかった。








 コンコン、と二度叩いてから楊ゼンは扉を開ける。
「すみません、師叔。途中で武王に会って、あなたの様子を聞かれていたので……」
 桃を載せた盆を片手に部屋の中を進み、楊ゼンは言葉を止めた。
 主殿の端に在るこの部屋はL字型になっていて、扉を開けた正面に執務用の大卓がある。そして、壁に沿って右に折れた所に置かれた衝立の向こう側がプライベートスペースとなり、一番奥の窓際に寝台が置かれていた。
 その寝心地の良さそうな広い寝台で、太公望はまた眠りに落ちていた。顔をこちらに向けて、ややうつぶせ気味に気持ち良さそうに眠っている。
 どうやら桃を待ちきれなかったらしい。
 楊ゼンは微笑して、桃を寝台脇の小卓に置いた。そして、昨夜から置きっぱなしだった椅子に腰を下ろす。
 気配を殺したその動きに、太公望が目覚める様子はなかった。
 ただの少年のように無邪気に、安らかな寝息を立てている。
「いいですよ、太公望師叔。どうぞ、ゆっくり休んで下さい。休めるのは今の間だけですから……」
 そうささやいて、顔にこぼれ落ちた髪をそっと指先でかき上げると、癖のない黒髪はさらさらと指先から流れた。
 気持ち良さそうな太公望の寝顔を見つめ、楊ゼンはひどく満ち足りた想いを感じる。
 言葉も何も要らなかった。
 太公望が安らかに眠っているのがただ愛しくて、この平穏な時間が少しでも長く続けばいいと、それだけを祈った───。












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opening text by 「灯りを消す前に」 山崎まさよし