深夜の場内はひっそりと静まり返っていて、等間隔で廊下や回廊に灯されている燭台の火が燃えるかすかな音さえ、はっきりと耳に届く。
 その静寂の中、石造りの堅牢な階段を上り詰めた所で、楊ゼンは意外なものを見出して足を止めた。
「武吉くん……。四不象……」
 階段の先の廊下の壁際に、毛布にくるまった二人がうずくまっている。
 名前を呼んだ楊ゼンを、二人はほっとしたような表情で見上げた。
「どうしてこんな所に……。もしかして毎晩、ここに居たのかい?」
 楊ゼンの問いにこくりとうなずいて、武吉は廊下の先を指差す。
「お師匠様の部屋の扉の隙間から、灯りが漏れているのが見えますか?」
 見れば、確かに武吉の言う通り、細い光が弱々しく石造りの廊下に線を描いている。
「こんなとこに居ても、意味がないって分かってるんスけど……」
 しょんぼりと四不象がうつむいた。
 太公望の辛さが分かっているからこそ何も言えず、また心配で傍を離れることもできない二人を、楊ゼンは痛ましい思いで見下ろした。
「楊ゼンさんは、お師匠さまの所へ……?」
「うん。きちんと眠るように説得しようと思ってね。夜更かししてる現場を押さえれば、あの人も反論しにくいだろうと夜中になるのを待ってたんだけど……」
「そうなんですか」
 楊ゼンの言葉に、二人は明らかにほっとした様子を見せる。
「だから、師叔のことは僕に任せて、君たちも部屋に戻ってきちんと眠った方がいい。春とはいっても、まだまだ夜は冷えるんだしね」
 石造りの建物内に響かないよう、低い静かな声で楊ゼンは言った。
 武吉と四不象はうなずきあい、立ち上がる。毛布を抱えて武吉は楊ゼンを見上げた。
「それじゃあ、お師匠さまのこと、お願いします」
「うん」
「おやすみなさい、楊ゼンさん」
「おやすみ」
 ぺこりと頭を下げて階段を降りてゆく二人の姿が見えなくなるまで、楊ゼンは無言で見送り、そうして、ゆっくりと足音が響かないように廊下を歩き出す。
 太公望の仮の執務室は、主殿左翼の一番奥に在った。
 分厚い木製の扉の前で足を止め、楊ゼンは壁と扉のわずかな隙間からこぼれ落ちる淡い光を見つめる。
 それは本当にかすかな光だったが、灯篭(とうろう)の明かりが届かない廊下の冷たい面に、はっきりと細い筋を刻んでいた。
 一つ呼吸をして、楊ゼンは扉を軽く二度叩いた。
「──誰だ?」
 やや間があって、中から声が返る。
「僕です、太公望師叔」
 今度の沈黙は少し長かった。
「───入れ」
 心なしか低くなった声に、楊ゼンはゆっくりと扉に手をかけた。






 室内は薄明るかった。  見れば、壁の灯火は消され、大卓の両脇の燭台だけに火が灯されている。四不象の言った通りだった。
 太公望は夜着に着替え、西側の窓際に立っていた。かつて失われた手と寸分変わらぬ精巧な義手の左手が軽く窓枠にかかっている姿勢から、おそらく外を見ていたのだろうと楊ゼンは見当をつける。
 こんな夜中に、一体何が見えるというのか。
 ───否、きっと太公望が見ていたのは目に映るものではないのだろう。
 闇の中に彼が見ていたものは……。
「──何の用だ?」
 低い問いかけには答えず、楊ゼンは静かに歩み寄った。
「楊ゼン」
 楊ゼンの雰囲気が夕刻と異なっていることに気づいたのか、太公望は訝(いぶか)るように低く名を呼ぶ。
 そんな彼からやや離れた位置──大卓の傍で楊ゼンは立ち止まり、そうして真っ直ぐに太公望を見つめた。
「──昨日、軍議の後に顔色が悪い、と僕はあなたに申し上げましたね」
 よく通る落ち着いた声音に、太公望はかすかに反応する。
「あなたは灯火のせいだとおっしゃいました。でも、今日の夕刻も、あきらかにあなたの顔色は悪かった。それもまた、灯火のせいだとおっしゃるのですか?」
 静かな詰問に太公望は答えなかった。ただ、楊ゼンに向けた大きな瞳が、灯火を映して強く輝いている。
「あなたは今、御自分がどんな顔をなさっているか、分かっていらっしゃるのですか?」
 薄明かりの中で見る太公望の顔は、あきらかに影を刻んでいた。目元がややくすみ、やわらかな線を描いていた頬はやつれ、もとよりすっきりしていた顎の輪郭が更に鋭くなっている。
 変わりがないのは、瞳の輝きの強さだけだった。
 彼の外見の中で最も印象的な瞳が変わらないから、明るい場所で顔を合わせている限り、周囲の人々は太公望が憔悴している事に中々気づけないのだろう。
「──楊ゼン」
 静かに太公望は青年の名を呼んだ。
「わしを気遣うなと、夕刻に言わなかったか?」
「お聞きしましたよ」
 抑揚のない声で、楊ゼンは答える。
「でも、そんなひどい顔色をして、こんな真夜中になっても寝(やす)んでおられないあなたを放っておけとは、お聞きしませんでした」
 楊ゼンの返答に、太公望の瞳が強い光を帯びる。
「楊ゼン、おぬしは一体、こんな時間に何用があってわしの部屋へ来たのだ」
 抑えた口調の中に憤りを含んだ声だったが、そんなもので楊ゼンは動じなかった。かえって瞳の色を厳しくする。
「ここまで聞いて、お分かりにならないんですか? 師叔」
「──説教なら聞かぬ」
 傲然と素っ気なく言った太公望に、楊ゼンは静かな怒りが込み上げるのを自覚した。
 脳裏に、心労で憔悴しきった武吉と四不象の姿が浮かぶ。
 二人があれほど心を痛めて泣いていたのは。
 冷たい石の廊下で毎晩、毛布一枚で過ごしていたのは。
 ───一体、誰のためだというのか。
「いい加減になさって下さい」
 まるで半病人のような顔色で、どこまで強情を張るのかと楊ゼンは厳しい声を向けた。
「今がどれほど重要な時なのか、誰より分かっているのはあなたでしょう。なのに食事もせず、睡眠もとらず……。御自分の立場を分かっていらっしゃるんですか」
「──聞かぬと言った」
「いいえ、あなたが周の軍師でなければ、僕も何も言いません。でも、あなたはその肩に周の命運を背負っているんです。軍師が将兵に不安を与えてどうするんです? あなたは周を滅ぼすつもりですか?」
「口が過ぎるぞ、楊ゼン!」
 冷ややかな厳しい口調に、太公望は眉をはねあげる。
 だが、叱責にも楊ゼンは眉一つ動かさなかった。
「お怒りになるのは何故です? あなたも御自分の状態が、どれ程の危険を招くか分かっていらっしゃるからでしょう? あなたがそんな状態では、周は決して殷に勝てない。このままでは、あなたは妲己に打ち倒され、武王や兵士たちも死んで周は滅びるんです。一体、何のために、これまで数多(あまた)の犠牲を払ってきたんですか?」
「黙れ!!」
 容赦のない楊ゼンの言葉に、とうとう太公望は声を荒げた。
「おぬしに何が分かる!?」
「分かりませんよ」
 叫ぶように言った太公望の言葉を、楊ゼンは冷ややかに切り返す。
 そして、自分を睨みつけている、揺らめく燭台の炎を映した瞳を見下ろした。
「分かるわけがないでしょう。封神計画の遂行者も周の軍師も、世界にあなた唯一人なんですから。誰もあなたの代わりにはなれないし、あなたの辛さも代われないんです。……だから、あなたが何も言わない限り、僕たちはあなたの辛さを真実、理解することはできない」
 一呼吸おいて、楊ゼンは続けた。
「あなたの辛さを分かち合って、あなたを慰めることもできない」
 その冷たさや厳しさとは違うものを含んだ低い声に、太公望は表情を止める。
 怒りを殺(そ)がれて大きな瞳で見上げる太公望を、楊ゼンは静かな瞳で見つめた。
「僕たちはあなたを気遣い、心配することしかできないんです」
「────」
 かすかに切なさとやりきれなさを奥底ににじませた言葉に、太公望の顔から憤りの色が消えて、代わりに悪事を咎(とが)められた少年のような色が浮かぶ。
 そして、太公望はふいと視線を落とし、呟くような小さな声を出した。
「──心配など……」
「太公望師叔」
 名を呼ばれて、太公望の肩がぴく、と揺れる。
 それを見つめながら、楊ゼンは静かに言った。
「あなたらしくありませんよ。あなたは人の心が分からない方ではないでしょう? ……一つ教えて差し上げますが、僕が今夜、ここに来たのは、武吉くんと四不象に泣きつかれたからです。二人は心底、あなたのことを案じていましたが、あなたには心配している素振りを見せないようにしていた。どうしてか、分かりますか?」
 うつむいた太公望は答えない。だが、返答があるとは楊ゼンも思っていなかった。
「心配している素振りを見せたら、あなたは更に心配させないように気遣うからですよ」
 響きのいい声で、楊ゼンは太公望に言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「分かりますか、師叔。僕たちは周が滅びるかもしれないから、あなたを心配しているわけではないんです。軍師としてではなく、僕たちにとってあなたが大切な人だから、あなたの健康を気遣い、食事も睡眠もとることができない、今のあなたの心の状態を心配しているんです」
 太公望は顔を上げようとはしなかった。だが、全身でその言葉を聞いていることが、楊ゼンの目にはよく分かる。
 そうして楊ゼンは、うつむいた小さな姿を見つめ、ここまで厳しい言葉で追い詰めなければ、自分を心配する言葉に耳を傾けることができないほど余裕のない太公望の心を思った。
 太公望とて、食べらず眠らずの状態を続けていれば、いずれ周囲の人間が気付き、心配し始めるだろうことくらい分かっていたはずである。
 だが、分かっていても、食事や睡眠を拒絶してしまう心をどうすることもできず──いや、もしかしたら、あえてその状態を受け止めていたのかもしれない。
 そう考えなければ、夕刻に「気遣うな」といった時のあの静かな表情が理に合わない。
 食べられないのも眠れないのも、おそらくは無意識の領分からの自身に対する断罪。
 そして、太公望はそれから逃避しようともせずに、自らを責め苦の中に浸しているのだ。
 一体、どれほど厳しく自分自身を苛(さいな)めば、彼の心は気がすむというのだろう。
「師叔」
 胸にやりきれない痛みを覚えながら、楊ゼンは太公望を呼んだ。
「どうしても眠れないというのなら僕が薬丹を処方しますから、どうか眠って下さい。妲己との直接対決を目前にして、しかも先日、封神台内部に入ったあなたが、これまでの多くの犠牲を思い出して御自分を責めていらっしゃるのは仕方のないことでしょう。それを割り切れとは言いません。あなたはそういう人ですから。
 でも、どんなに辛くても、御自分を大切にして下さい。あなたは周の軍師としても崑崙の道士としても、そんな肩書きや立場など関係のない一人のひととしても、なくてはならない存在なんです」
 真摯に楊ゼンは呼びかける。
「師叔も、そんなことは分かっていらっしゃるんでしょう?」
「──分かっておるよ」
 小さな声が、返った。
 楊ゼンの見つめる前で、ゆっくりと太公望は顔を上げる。
 小さな白い顔が一瞬、泣き出しそうに楊ゼンの目には見えた。が、深い色の瞳は揺らぐことなく、鮮やかに燭台の炎を映していた。
「分かって、おるよ。楊ゼン」
 楊ゼンの目を真っ直ぐに見つめて、太公望は繰り返した。
 自分の立場も、周囲の人々の気持ちも。
 何もかも本当は分かっているのだと、大きな瞳が告げる。
 でも、どうにもならない心があるのだ、と。
「………封神台の内部を初めて見て……」
 少しだけまなざしを伏せて、小さな声で太公望は言った。
「わしは、安心してしまった。生前と変わらぬ姿でいる趙公明や聞仲を見て……。何か、救われたような気がしてしまった。あやつらを封神したのがわしだという事実は、決して消せぬのに……」
 まるで懺悔をするように、太公望は細く声を続ける。
「そして、普賢たちもこんな様子なのだろうと思わず考えて、それで気付いた。わしは本当は、楽になりたくて仕方がないのだ。自分のために人が死ぬのが辛くて、救いが欲しくて……。あやつらが封神台で苦しんでおらぬことに、安心してしまった」
 太公望の細い肩が、小さく震えた。
「太公望師叔」
 自分を許すまいとする姿が痛ましくて、楊ゼンは思わず歩み寄る。
「師叔。誰でも辛い時に救いが欲しいと思うのは、当たり前のことです。僕でも自分の罪が時々どうしようもなく辛い時があるのに、ましてやあなたが背負っているものは、僕とは比べ物にならない。何もかも正面から受け止めていたら、心が壊れてしまいますよ」
 だが、太公望はかぶりを振った。
 そして、伏せていたまなざしを上げ、目の前に立つ楊ゼンを見つめる。
「許される罪と、許されぬ罪があるのだよ。楊ゼン」
 許されることを諦めた瞳で、太公望は言った。
「──夢を見るのだ」
「夢……?」
 問い返されて、太公望はうなずく。
「もう、取り返しのつかぬ夢を……」
 やるせない微笑さえ浮かべて、太公望は力なく呟いた。
 再びうつむいてしまった太公望に差しのべかけた手を止めて下ろし、楊ゼンは唇を噛む。
 ───太公望が眠れず、また眠ろうとしない理由。
 彼は夢を見たくないのだ。
 だが、それは身喰いだ、と楊ゼンは思う。
 おそらく太公望の夢は、自分自身を許せない彼の心が生み出しているもの。
 そうして自分を責めるあまり、太公望は食事さえ受け付けなくなっている。体力の限界が訪れるのは、それほど先のことではないに違いない。
 けれど、もし、そんな状態で最終決戦を迎えたら、間違いなく太公望は妲己に敗北する。
 そうなったら全ては破滅し、太公望は精神的にも肉体的にも、ずたずたに引き裂かれて絶命するだろう。
 それは楊ゼンにとって、どんな悪夢よりも最悪な予感だった。
 ───この人を失ったら、もう生きる意味など何処にもない。
 臆病で嘘つきな子供だった自分に、他人を信じることや誰かを大切に思うことを教えてくれたのは、両親でもなく師父でもなく、太公望という存在だった。
 気がついた時には、彼は心の中に入り込んでいて、二百年もの間、どうやっても埋められず、ついには意識することもなくなっていた孤独や寂しさを温かいもので 満たしてくれていた。
 その太公望がいなくなったら、この世界に何の意味もない。
 ───この人だけは、絶対に失くしたくない。
 大切なのは、太公望が生きていること。
 自分を見てくれて、笑いかけてくれて、名前を呼んでくれること。
 他には何もない。
 たとえエゴイストと呼ばれようが、太公望というたった一人の存在を失わずにいられるのであれば、それ以外のことは自分にとってはどうでもいい。
 太公望の肩に掛かっている数十万の人間の命も。
 国家の存亡も、封神計画も。
 そんな事は、本当はどうなろうと知ったことではなかった。
 ───こんな本音、あなたには口が裂けても言いませんが……。
 おそらく、口にしたところで太公望は自分を責めはしないだろう。妖怪が本来、どれほど利己的な存在か、彼はよく理解している。
 だからきっと、傷ついた表情を隠して、そうかとうなずき、まなざしを逸らすだけだ。
 それが分かっているから──傷つけたくないから、本心は絶対に告げない。
 ……多分、言わなくても彼は気付いているのだろうけれど。
 妖怪としての本性を確かに持ちながら、人のように彼を大切にしたいと思う、どこか矛盾した滑稽な構図に心の中で苦笑いしながらも、唯一の人を守るために楊ゼンは口を開く。
「師叔」
 静かに呼ぶと、ゆっくり太公望は顔を上げる。
 灯火を映した深い色の瞳が、炎を閉じ込めた宝玉のようで、たとえようもなく綺麗だった。
 その瞳を見つめて、楊ゼンは言葉を紡ぐ。
 何よりも今は、太公望を休ませなければならない。
「夢を見るというのなら、僕が傍についていてあげますから、どうか寝んで下さい」
 穏やかに言った言葉に、太公望は軽く目を見開く。すると、老成した表情が少しだけ幼くなった。
「楊ゼン……?」
「朝まで居ますから、とりあえず横になって下さい。それだけでも身体を休ませることはできますから」
 言われた、太公望は少し戸惑った表情になる。その顔を見て、楊ゼンは軽く微笑した。
「大丈夫ですよ。疲れているあなたには何もしません」
 一瞬、何を言われたのか分からない、という顔をした太公望は、次の瞬間、頬に血の気を昇らせる。
 そして、やや眉根を寄せて視線を逸らしてしまった。
「別に……そういうことを気にしたわけでは……」
 困惑したような小さな声で呟く太公望に、楊ゼンは微笑を浮かべる。
「僕を信頼して下さっているのは嬉しいですよ」
「別にそういうわけでも……」
 この数日の間、特に耳にすることのなかった楊ゼンの想いを匂わせる言葉に、太公望は居心地の悪そうな視線をちらりと楊ゼンに向け、小さく溜息をついて寝台に向かった。
 彼が寝台に上り、布団にもぐりこむのを見届けて、楊ゼンは大卓の両脇の灯火を消す。
 そして、椅子を持って窓から差し込むほのかな月明かりの中を、静かに寝台に歩み寄った。
「おぬしはいいのか?」
 傍に居ると言ったからには、今夜は寝ないつもりなのだろうと、太公望は枕に頭を預けたまま、寝台の脇に椅子をおいて腰を下ろした楊ゼンに尋ねる。
「あなたとは体力が違いますよ」
 楊ゼンは微笑して答えた。
 当然ながら、妖怪仙人と人間出身の道士では端(はな)っから体力勝負など目ではない。十日程度なら、楊ゼンは寝なくても平気でいられる。
 それもそうかと、彼の出自を思い出して太公望は納得し、掛け布団を肩まで引き上げた。
「師叔、目を閉じて下さい」
 穏やかな声で言った楊ゼンを、太公望はふいに物言いたげな顔になって見上げる。
「師叔?」
「……………」
 たっぷり数秒間の間、太公望は楊ゼンを見上げていたが、結局、何も言わないまま瞼(まぶた)を閉じた。
 深い色の瞳が閉ざされると、途端に太公望の印象は幼くなって、ただの十代半ばの少年にしか見えなくなる。
 そんな太公望の顔を見つめながら、楊ゼンは上体を屈)かが)めて、彼の薄い両瞼にそっと口接ける。
 そうされることを予想していたのか、太公望は瞬間、小さく反応したが、目は閉じたままだった。
「大丈夫。夢なんか見ないで眠れますよ」
 甘やかな声でささやき、楊ゼンは掛け布団の端から出ていた細い手を取って、大きな手で包み込むように優しく握る。
「僕がここに居ます」
 もう一度ささやくと、太公望はゆっくりと息をついて身体の力を抜いた。
 楊ゼンはもう何も言わず、ただ憔悴の色の濃い顔を見つめる。
 すぐには眠気は訪れないようだったが、それでも太公望は瞼を閉ざし、静かな呼吸を繰り返していた。
 楊ゼンの手に預けられたままの右手は、少し冷えていて、その冷たさが切なかった。
 この小さな手を精一杯に伸ばして、太公望はこの世の全ての生命を守ろうとしている。
 一つも失うまいと必死になって、それでもこぼれ落ちてゆく生命を悲しみ、守れなかったことを悔やみ続けている。
 幼くして知った大きすぎる孤独と悲しみが、彼の過ぎるほどの優しさになり、その優しさが結局は彼自身を傷つけ、新たな孤独と悲しみを生むのだ。
 救いのない円環を巡り続けている太公望が、楊ゼンは哀しかった。












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