最初に違和感を覚えたのは、夜半まで長引いた軍議がようやく終了した時だった。
 灯火に照らされた、ややうつむき加減の顔が一瞬、ひどくやつれて陰りを帯びているように見えた。
 思わず声をかけ、顔色が悪いと告げたが、彼は照明の加減でそう見えるのだろうと笑って取り合わなかった。
 ───確かに、その笑顔はいつもの彼だったのだけれど。






             *             *






 七日前、太公望の手腕によってメンチ城を無血開城させた周軍は、未だにその地にとどまっていた。
 というのも、攻略するのに少なくとも十日ほどはかかるだろうと思われていたメンチ城を、太公望がたった一日で陥としてしまったため、色々な場面で当初の予定とずれが生じてきてしまったのである。
 孟津で諸侯達と落ち合う予定の日時までには少々間が出来てしまったし、また、メンチ城を陥とした直後には、殷との最終決戦に備えて補給を行うはずだったのだが、肝心の糧食輸送隊がまだ到着していないという有様だった。
 それらの時間的なずれは如何(いかん)ともし難く、また、ここまで来て今更進軍を急ぐ必要もなかったから、太公望はそのままメンチ城内に周軍を入城させて、決戦までの数日を過ごすことを決定した。
 だが、だからといって将兵に遊ぶ時間が出来たわけではない。
 メンチ城から黄河までは三日の道程であり、黄河を渡れば殷の王都・朝歌は目前に迫る。
 そして、その黄河河畔には、牧野の平原と呼ばれる土地がある。
 牧野の平原は、黄河の氾濫によって形成された平野で、敵味方・計五十万人に達しようとする大軍が戦闘を繰り広げることが出来る地形は、朝歌周辺には他にない。従って、太公望は前回の遠征時からここが殷との決戦場になると目(もく)していた。
 そんな間近に敵の本拠地と決戦の地があれば、否が応でも将兵の緊張は高まってくる。
 たとえ数日の足留めをやむなくされていても周軍にくつろぐ余裕などあろうはずもなく、実際に太公望は連日、兵士に隊列運動の厳しい訓練を課していた。
 戦闘が大規模になればなるほど、軍師の命令がいかに全軍にすばやく伝達され、正確に実行されるかどうかが勝敗に大きくかかってくる。
 ましてや、太公望が得意とするのは、陣形(フォーメーション)を縦横無尽に変形させて敵の動きを封じ込めて無効化し、常に正面の敵に勝る兵力を持って対するという集団戦術である。
 それには、兵士がいかに秩序を保ってすばやく動くかが最も重要で、そのために太公望は、殷との最終決戦に備えて考案した幾つもの陣形とその変形パターンを兵士に習熟させることに、この空白時間を費やしていた。
 また一方で、妲己や支配下の妖怪仙人らと直接に対決することになるだろう道士たちも特訓に余念がなく、それに関しては、遠征開始直後から引き続いて現在も、楊ゼンが一任されて当たっている。
 こうして太公望の指揮の下、着々と周軍は目前に迫った殷との最終決戦に向けて準備を整えつつあった。







「それにしても、輸送隊の到着が遅れておるのう」
 いささか溜息をつくように、太公望はぼやいた。
 ここはメンチ城内の、太公望の仮の執務室兼私室である。
 おそらく張奎の副将か誰かが使っていた部屋だろう。調度品の少ない程々の広さで、執務用の大きな卓の使い勝手がいいと、入城直後から太公望は一日の大半の時間をここで過ごしていた。
「途中でずいぶん雨に降られて、行軍速度が鈍ったそうですからね、仕方がありませんよ」
 本日の道士たちの特訓の様子を報告に来ていた楊ゼンは、軽く眉をしかめた太公望をなだめるように言う。
 しかし、太公望はやや不機嫌な表情を隠そうともせずにぼやいた。
「だが、もう進軍停止して七日だ。いい加減に動かぬと、わしらだけが孟津での会合に遅刻してしまうぞ。仮にも武王は諸侯の盟主の立場にあるのに……」
「周が距離的に一番離れていることも、一番進軍の障害が多いことも諸侯たちは承知しているでしょうから、多少の遅れなら大目に見てもらえますよ。
 それに、あと五日ほどで輸送隊も着くと報告があったじゃないですか。それなら突発的な事故が起きない限り、会合にはぎりぎり間に合います」
「うむ……」
 宥められてうなずきながらも、太公望の表情は渋いままだった。
 よほど師叔はこの停滞が意に染まないらしい、と楊ゼンは微かに苦笑を浮かべる。
 確かに、決戦を前にしながら停滞しているというのは、盛り上がった士気を下げる危険性があった。太公望としては、メンチ城を無血開城させた勢いのまま、殷との決戦に臨(のぞ)みたかったに違いない。
 だが、補給なくして兵士は戦えない。
 周軍の兵士は十万人。彼らを食べさせるだけでも大変なのに、更に飢えた殷の民衆にも食料や物資を分け与えながら進軍しているため、膨大な兵糧の補給は戦略上の最重要課題だった。
 そして現在、前回の補給からは既に一月近くが経っている。手持ちの食料はあと三十日足らずで無くなる計算だから、もし、この時点で補給をしなかったら、殷との決戦が短期で決着せず長期戦になってしまった場合、兵士は飢えてしまう。
 もし兵糧が不足したとしても、妲己と紂王に搾取され尽くした朝歌の民から食料を徴発することは不可能であるし、新王朝を起こそうとしている以上、そんな非道は絶対に行うわけにはいかない。『武王と周軍は民の味方』というイメージが、民衆の支持を得るためには何よりも大切なのだ。
 だからこそ、太公望もここで輸送隊の到着を待ち続けている。
「それほど、この足留めが不本意ですか?」
 現在の状況がやむを得ないものだと分かっているはずなのに、いつまで経っても渋い表情を変えようとしない太公望に、楊ゼンは微苦笑して尋ねた。
 実のところ、彼が憂い顔を他人に見せることは珍しい。大抵、見せたとしても一瞬のことで、すぐにポーカーフェースに戻ってしまうのが常である。
 だが、楊ゼンが質問の形で暗にそれを指摘しても、太公望は表情を変えなかった。
 そして、浮かない顔のまま、ぽつりと言った。
「──不本意なのは、遠征の最初からだ」
「……どういうことです?」
 やや首をかしげた楊ゼンを太公望はちらりと見上げ、再び視線を卓上に落とす。広げられた地図の端に置いてある、亀を象(かたど)った玉(ぎょく)製の文鎮を見るともなしに見つめながら、ゆっくりと口を開いた。
「遠征ほど民を疲弊させるものはない。働き盛りの男たちは全て駆り出され、残された女子供と年寄りが田畑を耕さねばならぬ。当然、収穫高は落ちる。だが、備蓄庫の食糧は兵糧として持ち出される一方だ。
 そうして戦(いくさ)から男たちが無事に戻ってくればよいが、もし帰ってこなければ、減少した生産力が回復するのには十年はかかる」
 決して大きくはない、だが良く通る声で太公望は続ける。
「今度の遠征は既に九ヵ月以上に及んでおるが、この後、殷との最終決戦を終えて豊邑に戻るまでには、まだ最低でも一月はかかる。周の国力では遠征を継続できるのは二年だ。二年を超えれば、食糧備蓄庫が空になる。あとは、民から強制徴発するしかない。
 幸い、去年は天候に恵まれたから、男手がないことによる収穫高の減収は二割弱にとどまった。だが、もし今年不作だったら? 来年、飢えた民を救おうにも、国の食糧備蓄庫は空だ。民を飢えさせてしまっては、たとえ殷を倒しても何の意味もない」
「……その理屈で考えるのであれば、戦争そのものが罪ですね。何から何まで民に負担がかかる」
「その通りだ、楊ゼン」
 うなずいて、太公望はゆっくりと椅子の背もたれに背中を預けた。
「もし戦わなかったら、戦争をするよりも民を悲惨な目に遭わせる事になる。──そういう状況にならぬ限り、戦などしてはならぬのだよ。
 一旦、兵を起こせば、血が流れ民が疲弊する。そうしてまで得た戦果が、本当に民の負担に見合うだけの価値があるものなのか、一国を背負うものは見極めねばならぬ」
 目線を伏せたまま、太公望は静かに言った。
「その点では、此度(こたび)の戦争はやむを得なかった。立ち上がらねば、邑は滅ぼされ民を殺される。妲己によって四大諸侯は全員身内を殺されておるのだから、兵を挙げる名目も立つ。
 だが、だからといって民の負担が軽くなるわけではない。故に、わしは一日でも早く決着をつけて、この戦争を終わらせたいのだ」
 その言葉を聞きながら、太公望師叔らしい…と楊ゼンは思った。
 いつでも、彼が何よりも優先して考えるのは、無辜(むこ)の民のことだ。
 支配者を選ぶことも出来ず、暴君に搾取され、戦に駆り出され、虫けらのように死んでゆく歴史に名を残すこともない人々。
 だが、そんな彼らにも生きる権利が──幸せになる権利があるのだと、太公望は繰り返し言う。
 ───夢想だと笑われるかも知れぬが、叶うことなら全ての人々が明日があることを幸せに思えるような、そんな国を作りたい。
 何年も前、当時まだ存命だった姫昌に、何のために西岐に尽くし殷と戦うのかと問われて、太公望が答えた言葉だ。
 殷の民は、この世に生まれてきた不運を嘆き、明日があることに怯えている。一体、彼らは何のために生まれてきたのか、決して支配者に虐(しいた)げられるために生を受けたのではないはずだ、と……。
 そう考えている太公望だから、戦場でも常に自分を一番危険な位置に置き、最小の犠牲で最大の成果を上げようとする。
 そんな太公望の気性を良く分かっているから、楊ゼンはいたわるような微笑を彼に向けた。
「あなたは本来、西岐の軍師にもなりたくなかった方ですからね」
 指揮官ともなれば、兵士に戦うことを  死ぬことを命令しなければならない。平静を装っていても、太公望にとっては身を切られるより辛いことだろう。
 それが分かっているからこそ、周囲の人々は太公望を案じる。
 卓越した頭脳で必勝の策を講じながら、流した血のことを考えずにはいられない軍師の心を。
「………自分で選んだことだ」
 だが、牧野の平原周辺を詳細に描いた地図に視線を落としながら、太公望は低く言った。
 そうすることで平和な国が造れるのならと、犠牲を出すことも覚悟して引き受けたのだと言いたげに瞳を伏せて。
「……そうですね」
 正直なところ、自己犠牲精神に乏しい楊ゼンは、太公望ほど民衆のことを考えはしない。
 強いものが勝つという弱肉強食の法則は、普遍的なものだ。自然界では、弱い獣が強い獣の餌食になるのは当たり前のことである。
 だが、そうとわかっていても弱いものを決して見殺しにできない太公望の情を、楊ゼンは仕方がないと苦笑つつも、傷つけるつもりはまったくなかった。
「でも、あなたはよくやっていらっしゃいますよ。ここまでほとんど兵士たちの犠牲がないのはあなたの手腕です」
 だが、
「──楊ゼン」
 よく通る声が、言葉を遮(さえぎ)るように名を呼ぶ。
 太公望は卓上に視線を落としたままだったが、その目は地図を見てはおらず、何か表現しがたい色を浮かべていた。
 その瞳の色に、楊ゼンが引っかかるものを感じ取って声を出すよりも一瞬早く、静かに太公望は続ける。
「あまり、わしを甘やかそうとするでない」
「……師叔?」
 思わぬ言葉に薄く当惑の表情を浮かべた楊ゼンに対し、ゆっくりと太公望は顔を上げた。
 深い深い色の瞳が、楊ゼンを見つめる。
 けわしい色を浮かべるでもなく、やるせない色を浮かべるでもなく、太公望は、ほんのかすかに微笑を含んでさえいるような、静かな表情をしていた。
「わしを気遣うな」
「────」
 決して、気迫に満ちた手厳しい拒絶の顔ではない。
「──分かりました」
 だが、太公望の持つ、静かな何かに反論の言葉を封じられて、楊ゼンは思わずそう答えていた。
 答えてから、自分でも何故…と思ったが、うなずいてしまった以上、今更言葉を返すことは出来なかった。
 太公望は、瞳に戸惑いの色を一瞬走らせた楊ゼンを見つめていたが、何も言わないまま、卓上の地図に視線を戻す。
 その横顔を、卓の両側に置かれた燭台の灯火がちらちらと揺れながら照らし出し、複雑な陰影を作った。
 そんな太公望の態度から、話は終わった、という意思を楊ゼンは感じ取る。
「───…」
 しかし、退出する前に何かを問いかけたい……、否、問わねばならないと思ったが、表現できない違和感が喉に引っかかったまま、具体的に言葉が浮かんでこない。
 単に民衆の生活を憂いているだけとは思えない表情や、今の言葉と瞳の色の意味。
 何故、と訊くべきだった。
 だが、影を刻んだ横顔が全ての問いかけを拒んでいるようで。
「……では師叔、僕は皆のところへ戻りますから、何かあればいつでも呼んで下さい」
 結局、何をも言うことが出来ず、いつものようにそれだけを告げて、楊ゼンは退出しようとした。
 が、太公望が呼び止める。
「悪いがついでに、そこに置いてある饅頭を蝉玉と天祥に届けてくれぬか」
 背後を指差されて振り返ると、入ってきた時には気づかなかったが、扉近くの小さな円卓に小ぶりの饅頭が六つ、菓子鉢に盛って置いてある。
「先程、賄(まかな)い方の兵士が持ってきてくれたのだがな、わしは今、腹が空いておらぬのだ。悪くなると勿体ないから、連中にやってくれ」
 意地汚いほど甘い物好きの彼にしては珍しい、と楊ゼンは思ったが、女子供らしく甘いものの好きな蝉玉や天祥に時折、彼が甘味(かんみ)を分けてやっているのは知っていたから、口に出しては何も言わなかった。
「分かりました。では、また何かありましたら御報告に来ます」
 そうして楊ゼンは菓子鉢を片手にたずさえ、太公望の仮の執務室を後にした。







 メンチ県の公庁であり、また朝歌に最も近い関所として守将や兵士、官吏の住居も兼ねているメンチ城は、石造りの堅牢な建物の集まりで、主殿を中心にして回廊で繋がれている。
 それらの幾つもある回廊の一つに出た時、ふと楊ゼンは歩む速度を緩めた。
 数メートル先、回廊の中ほどで武吉と四不象が何やら話しているのが目に留まったのだ。
 この回廊の先にあるのは、厨房を主とした城内の日常生活を支える雑用向きの部署が置かれた建物だけである。
 普段は屈託なくどこででもしゃべっている二人が、彼らに割り当てられた部屋からは程遠い、この人気(ひとけ)のない回廊で会話しているというのが奇妙で、これは邪魔をしない方がいいだろうかと思った時。
 ふいに武吉が気配に気づいたのか、顔を上げた。
「楊ゼンさん」
 声につられるように四不象も楊ゼンの方を見る。
「こんな所で、どうしたんだい?」
 気づかれては仕方がなく、楊ゼンは二人に歩み寄った。
 近付くにつれて、いつも明るい少年と霊獣が妙に元気がなく、憂い顔をしているのが黄昏の薄闇の中でもはっきり見えてくる。
 と、ふっと武吉の表情が変わった。
「楊ゼンさん、その器……」
 言われて、楊ゼンは自分が抱えている空の菓子鉢に視線を落とす。
「お師匠様のお部屋にあったのじゃないですか?」
「そうだけど……」
 二人の前に立った楊ゼンは、手の内の菓子鉢を軽く傾けて見せた。
 すると武吉と四不象は、ぱっと表情を明るくし、顔を見合わせる。
「よかった……。お師匠様、食べて下さったんだ」
「よかったっスよ〜〜」
 まるで泣き出しそうなほど嬉しげな顔を見せる二人に、楊ゼンは戸惑いを覚えた。
「あ……、いや、違うよ。武吉くん、四不象」
「え?」
 途端に顔色を翳らせた二人に、楊ゼンは戸惑いを深めながらも、この鉢に盛られていた饅頭は、太公望の指示で蝉玉と天祥に届けたということを説明した。
「それで今、厨房にこれを返しに行くところなんだ」
「じゃあ、お師匠さまは一つもお饅頭を食べてないんですか?」
「饅頭は六つあったけど……」
「六つ……」
 繰り返すように呟き、武吉は絶望したような表情で目を潤ませる。その隣りを見れば、四不象も同じような表情をしていた。
「やっぱり御主人、食べてくれないっス……」
 その哀しげな言葉に、楊ゼンは聞き捨てならないものを感じた。
 背筋を嫌な予感が這い上がる。
「四不象、武吉くん」
 自然、尋ねる声は厳しくなった。
「まさかと思うけど……、太公望師叔は食事をされてないのか?」
 けわしい表情の楊ゼンに、武吉と四不象は顔を見合わせ、こくりと力なくうなずく。その拍子に、武吉の目から涙が一粒こぼれ落ちた。
「一体いつから……?」
「──この砦に入城した翌々日から……」
 消え入りそうな声で武吉が答える。それを聞いて、楊ゼンは絶句した。
 守将の張奎夫妻が立ち去ってから、既に七日が経っている。
 確かに仙道は、人間に比べれば食事の必要は薄い。だが、何も食べなくても平気というわけではないのだ。長期間食物を摂取しなければ、間違いなく身体は衰弱して、いずれは死に至る。
 もとより体力自慢ではない太公望のこと。五日も食事をしていなければ、かなり身体の負担は大きくなっているはずだった。
「何故……」
「お師匠さまは、大好きな桃さえ食べてくれないんです。だから、何でもいいから食べて欲しくて、果物とかお菓子とか甘いものを色々持っていくんですけど、全部、僕たちが知らないうちに他の人にあげてしまっているらしくて……」
 半ば呆然と呟いた楊ゼンに、武吉はほとんど泣きながら訴える。
「今日も、賄い担当の兵士さんに頼んで、お饅頭を作ってもらったんですけど……」
 それもやはり、蝉玉と天祥の手に渡ってしまった。
「それだけじゃないっス」
 四不象が、彼もまた涙に潤んだ大きな目で楊ゼンを見上げる。
「御主人は──…」
「何だって……!?」
 泣き泣き訴えた四不象の言葉に、楊ゼンは耳を疑った。
 ───御主人は御飯を食べなくなった日から、眠ってもいないっス。
「五日間ずっと……!?」
 泣きながら四不象はうなずき、そして燭台の灯油の減りが速すぎるのだ、と言った。
 きちんと夜、眠る時に消していれば、灯油は大体三日持つのに、この五日間、太公望の執務室の卓の両脇にある燭台の灯油は毎朝、底の窪みにほんの少し残っているだけになっている、と……。
「きっと、御主人は一晩中明かりをつけているっス。寝台は寝たみたいに乱してあるけど、何か感じが違うんっス」
「そのことを師叔に言ったのかい?」
 尋ねた楊ゼンに、四不象はかぶりを振る。
「言ったら御主人はもっと気を遣って、ボクたちに分からないように隠すに決まってるっス」
 そんなことをさせたくないし、して欲しくないと四不象は答えた。
 子供のようにぽろぽろと涙をこぼして泣いている二人を前にして、楊ゼンは難しい表情になった。
 この数日間に、太公望の顔色がよくないと感じたことは楊ゼンも幾度かある。実は先程、執務室を訪ねた時もそう思ったのだが、なにぶん黄昏時のことで、はっきりと口に出して指摘できるほどの確信はなかった。
 とはいえ、少しやつれたような太公望の様子に、おそらくあまり眠っていないのだろうという推測はしていたのだ。
 だが、これほど悪い状態だとは。
 事態の深刻さに、楊ゼンは無意識に唇を噛む。
 そもそも太公望が食事もせず、眠りもしない原因は何なのか。
 彼は確かに繊細なところがあるが、大事の前に体調を損ねるような真似は、決してこれまでしなかった。いつでも戦いの前にはよく食べ、よく眠るように勤めていたはずである。
 なのに、この殷との最終決戦を目前にした今、どうしてそんな不安定な状態になったのだろう。
 宿敵・妲己との直接対決を控えてナーバスになった、と考えられないでもないが、原因がそれだけと考えるには状況が深刻過ぎる。
「……どうして師叔がそんな状態になったのか、思い当たることはあるかい?」
 考えあぐねて、楊ゼンは二人に心当たりを尋ねた。
 すると、途方に暮れたように二人は泣き濡れた顔を見合わせる。だが、四不象は、一つだけ心当たりがあるとすれば……と口を開いた。
「この間、封神台から張奎さんと帰って来る途中、御主人は全然、口を聞かなかったっス。御主人の顔は見えなかったスけど、何か沈んでる感じがしたっス」
「なるほど……」
 封神台があるのは、崩壊した崑崙山の中。
 そして、その崑崙山は同じく崩壊した金鰲島と共にある。
 そこで以前、何が起こったか。
 九ヵ月前の記憶はまだ、誰の胸にも生々しい。
 太公望が何を思い出したのか、楊ゼンには分かる気がした。
「分かった。殷との決戦も近いのに、太公望師叔をそんな状態においておくわけにもいかない。師叔には僕の方から言ってみるよ」
「ありがとうございますっ!!」
 楊ゼンの言葉に、救いの神を得たように武吉が潤んだ目を輝かせる。四不象もほっとした表情になった。
「うん、これ以上君たちが心配しなくてもいいようにするから、僕に任せておいで」
 二人の子供が泣き止むように、楊ゼンは言い聞かせる。
 優しい言葉に袖で涙をぬぐいながら、武吉は、楊ゼンが持ったままだった菓子鉢に目を留めた。
「あ、楊ゼンさん、それは僕が返してきます」
 相変わらずよく気のつく少年に、楊ゼンは微笑する。
「悪いね、助かるよ」
 問題の発端となった菓子鉢を受け取り、厨房へと去ってゆく武吉と四不象を見送ってから、楊ゼンは踵(きびす)を返した。
 その端正な顔には、二人に向けた穏やかなものは既にかけらもなく、甘やかな色合いの瞳には険しい光が浮かんでいた。












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