#096:溺れる魚
昼過ぎから降り出した雨は、強く弱く、夕方になってもまだ降り続いていた。
風は、ほとんどない。
ただ、夏の気配を含んだ水滴が、泣き沈むような重い色をした空から落ちてくる。
夕闇が近付いてきて、よりいっそう薄暗さを増し始めた風景の中、大地を濡らし続ける天水を楊ゼンは一人、見つめていた。
雨の中で、世界はひどく静かだった。
草木を・・・・大地を叩く雨音に、すべては紛れてしまい、よほど神経を研ぎ澄ましても、自分以外の存在の気配を感じ取るのは難しい。
世界から切り離されたようなその静寂の中で、一人だ、と感じる。
寂しさではない。
雨の中で感じるものは、寂しさよりもむしろ、虚無感に近い。
誰もいない。
何もない。
自分の内側にも、外側にも、何一つ。
そこに、ただ雨音だけが響いている。
世界が完結してしまっているような、まるで降り注ぐ雨滴に満たされた小さな水晶球の中に世界が存在しているような、そんな錯覚を覚えるのは嫌いではなかった。
もしかしたら、自分は一人になりたいのかもしれない、と思う。
愛しい存在も、その人を思う心も、全部置き去りにして。
一人になってしまいたいのかもしれない。
そうしたら、それが何なのかも分からない、『何か』をも捨てられるような気がして。
今よりも楽に呼吸できるようになるかもしれない、と淡い夢想を覚える。
この雨に、存在をかき消してしまえたら、と。
「──どうしました?」
濡れた草を踏む、かすかな足音に低く声をかける。
どんなに土砂降りであろうと、近付いてきた気配に気付かないはずがなかった。
決して間違えることのない、ただ一人の気配。
草原を渡る風の匂いを持った人。
「おぬしこそ、こんな所で何をしておる?」
「何も」
「何も?」
「ええ。ただ、雨に濡れているだけです」
「───・・・」
そう答えた相手に、追求する言葉を探しあぐねたのか、黙ったまま、太公望は楊ゼンの目の前に立った。
その姿も、雨に濡れそぼっている。
髪を伝い落ちてゆく水滴を見て、楊ゼンは冷え切っているだろう細い躰を抱きしめてやりたくなる。
楊ゼンが立って居たのは、荒野の只中にある朽木の傍だった。
もとは巨木だったのだろうが、半ばで幹が折れたそれには葉の一枚もなく、雨を遮るものは何もない。
その幹に軽く背を預けたまま、楊ゼンは右手を伸ばして、太公望の濡れた前髪を優しくかき上げる。
思った通りに、触れた肌は自分の手の温度と変わらないほどに冷えていた。
「どうしました?」
体温を失っている頬に右手のひらを当てたまま、同じ問いを繰り返すと、見上げていた瞳が、ふいとうつむくように逸らされる。
「・・・・・おぬしの姿が、見えなかったから」
探していた、という述語は太公望は口にしなかった。
代わりに、数秒の沈黙を挟んで、再び楊ゼンを見上げる。
「雨に濡れて、何を?」
「何も。ただ濡れてしまいたかっただけですよ」
そう言って、楊ゼンは微笑し、太公望を見つめる。
「あなたもそうではないのですか? こんなにも雨が降っているのに、雨具の一つも持たないで」
太公望の全身も、長い間、雨の中に立っていた楊ゼンに負けずと劣らず、濡れそぼっている。
雨は土砂降りというほどではないのだから、10分や20分歩いた程度では、ここまでは濡れない。
おそらく最低でも1時間近く、太公望も屋外にいたはずだ。
姿の見えなくなった補佐役の青年を探すという、目的とも口実ともつかない理由で、この雨の中を一人、歩き続けて。
夏が目の前まで近付いたとはいえ、雨の降り続いている今日は気温も低い。
冷えてしまった頬を、そっと撫でてて、楊ゼンは太公望の額に口接ける。
いつもは咲き初めの小さな花のような、清々しい甘い香りのする肌も、今は雨の味がして。
「・・・・・せっかくあなたが来て下さったんですから、もうしばらく濡れていきましょうか」
急ぎの仕事などないだろうと・・・・用があって探していたのではないだろうと、抱き寄せた耳元にささやく。
太公望は応とも否とも言わず、けれどゆるく抱きしめた楊ゼンの腕に抗いもしない。
寄り添った二人の上に、止むことを忘れた雨が降り注ぐ。
どれほど雨に打たれたところで、何を洗い流せるわけでもない。
何が変わるわけでもない。
けれど、自分を──この身体に詰まった薄汚く醜いものも、愛しい綺麗なものも、雨に流してしまえたら。
自分というものさえも失くして、まっさらになったら。
何が見えるだろう?
「・・・・・っ・・」
唇で触れたところから、濡れた肌に熱が生まれる。
解くのも再び身につけるのも面倒な、水分を吸って重くなった布地は、代わりに、身につけたままでも指や唇の感触をダイレクトに伝える媒体となる。
やわらかく触れる指先に、朽木の幹に寄りかからせた細い躰が、少しだけ抗うように震えた。
「大丈夫ですよ。誰もいないし、誰にも見えない。僕たちは二人きりです」
雨音の中でささやいて口接けると、冷えていた唇はすぐに熱を帯びる。
その温もりを・・・・熱を逃すまいと、すがるように差し出された甘い舌に応えて、深く口接けるうち、太公望の腕も楊ゼンの背に回って。
ともすれば雨音に消えてしまいそうな不確かな熱に、二人で溺れる。
「・・・楊ゼン・・・・っ」
たとえ、雨に打たれて全てを失ってしまっても。
自分さえ失くしてしまっても。
それでも、もし。
この人が──この存在が、何もなくなったはずの地平に残っていたら。
それを・・・・その感情を、何と呼ぼう?
「・・・っ、あ・・あぁっ・・・ん・・っ」
「もっと・・・、今は僕だけ感じて・・・・?」
「あ・・・やぁっ、楊ゼン・・・っ!」
「師叔・・・・」
雨が降る。
黄昏時、二人きりの世界に。
互いを繋ぐ熱だけが、世界で唯一つ、確かなものだとでもと錯覚させるように。
大地に、雨が降る。
また『雪』の二人。
時々、この二人はものすごく書きたくなります。
このシリーズでの雨ネタはサイト開設直後からあったんですけど、ようやく実現。
これも、本来なら文庫に放り込むべきなんでしょうけどね・・・。
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