#079:INSOMNIA







まるで憎むように、恋に落ちた。














「師叔、こちらはどうします」
「そうだのう・・・・」

昼過ぎの執務室は、真夏の暑さに寄り添うように静かだった。
大きく開け放たれた窓から、夏虫の声だけがうるさく響いてくる。

「とりあえず、こうしておいてくれ。細かい裁量は、おぬしに任せる」
「分かりました。では、不都合が起きたら、またその時に報告しますよ」
「うむ」

手早く書き込みを入れた書類を返して、太公望は卓に積まれた書類の山から、新しいものを取り上げる。
返された書類を巻き上げながら、楊ゼンはそんな太公望をちらりと見下ろした。

「根を詰めすぎるのは体に毒ですよ、師叔」
「毒になるほど真面目になぞ、やっておらん。適当に息抜きしておるよ」
「そうですか?」
「わしが怠け者だということは、傍に居ればすぐに分かるだろうが」
「あいにく、僕の眼にはそうとは見えないんですよね」

そう言い、楊ゼンは執務卓に片手を置く。

「楊ゼン?」

そして、何かと顔を上げた太公望の顎に、もう一方の手をかけ。




──唇を奪った。




同意も何もない、突然の・・・それも初めての口接けに、太公望の瞳が大きくみはられる。
だが、その深い色を、唇を重ねたまま楊ゼンが見つめると、一つまばたきをした後、ゆっくりと瞼が閉ざされて。
それを合図に、楊ゼンは薄く開いていた唇の間から舌を滑り込ませる。
昼日中の執務室には似合わない、濃厚な口接けにも太公望は抗わず、静かに受け止めた。

窓も扉も開け放ったまま、長い長い口接けを終えて、ゆっくりと離れる。
すると、太公望は震えるように深く息をして、閉じていた瞳を開いた。
まっすぐに見上げてくる、無表情といってもいいほどに深い、感情の読めないその色を見つめて、楊ゼンは微笑む。

「──今夜、お伺いしますから」

そうささやくと、ほんのかすかに、太公望の表情が驚いたように動いた。
だが、確かめるよりも早く、その色は瞳の深い色合いに紛れ、消えてしまう。

そしてそのまま、どちらも何も言わず、何も問わず。

楊ゼンは書類を手に執務室を出てゆき、太公望はまた一人、室内に取り残される。
卓上に書類を開いたまま、青年が姿を消した回廊を見つめ、そして何かを思うように視線をめぐらせて。
太公望は、再び卓上の書類に視線を落とす。

それきり執務時間が終わるまで、もう目線を上げることはなかった。








夏の夜は、真の闇にはならない。
月明かりと星明かりに青く染められた薄闇の中、楊ゼンは扉を二度、軽く叩く。
返事はなかった。
だが、分厚い木製の扉を押すと、音もなくそれは開いて。

室内には、燭台が一つだけ灯されていて、回廊よりは少しだけ明るいその中、部屋の主人は窓枠に軽く肩を寄りかからせて、外を見ていた。
その視線が、許可なく部屋に入ってきた相手へと向けられる。

深い色の瞳に浮かんでいるのは、どんな感情でもなかった。

非難でも嫌悪でも、ましてや歓喜でもなく。
しんと静まり返った色が、楊ゼンを見つめる。
その表情を敢えて形容するというのなら、言い表せる感情は一つだけ。

虚無にも似た、言葉にならない哀しさ、あるいは寂しさ。

──この瞳だ、と楊ゼンは思う。

一体誰が知っているだろう。
感情を伺うことすらできないほどに深く深く、果てのない水底へと沈んでゆく、この色が、誰よりも優しくて強く見える人の真実の瞳だとは。
何かを狂うほどに求めながら、すべてを諦めてしまったような。



───修羅に灼けた、瞳。



ゆっくりと歩み寄ると、その深い色が楊ゼンを見上げた。

「──何故?」

瞳の色と同じ、しんと静かな声が短く問う。
その響きを、楊ゼンも静かに受け止めた。

「それはあなたも御存知でしょう? 意味のない質問ですよ」
「──そうだな」

問いかけで返した楊ゼンの答えに、太公望の瞳が、するりと目線を外して、寝台脇で燃えている燈火へと向けられる。

「質問を間違えた。──何故、今夜を選んだ?」
「・・・・あなたの瞳を見たから」
「わしの?」

太公望の視線が、楊ゼンへと戻る。
そのまなざしを、楊ゼンは真っ直ぐに見返した。

「今日の昼間、珍しくあなたの周囲に誰も居なかったせいでしょうね。あなたの瞳が、今と同じ色に見えた。だからですよ」
「理由になって・・・・いや、・・・・・それで通じるか」

否定しかけて、太公望は思い直したように小さくかぶりを振る。
そして、どこか疲れたように一つ嘆息した。

「昼間、何を思っていたのかはもう忘れた。だが・・・・、そういうことなのかもしれぬな」

太公望の瞳が、楊ゼンを見上げる。
その色に呼ばれるように、楊ゼンはゆっくりと二人の間の距離を詰めてゆく。

「・・・・巡り合わせ、とでも?」
「そういう言葉は好きではないよ」
「では、僕たちのことは、どう表現します?」
「さあ?」

自嘲めいた微笑を口元に滲ませて、太公望は至近距離まで来た楊ゼンの瞳を見つめる。

「言葉で表現できることには限度がある。そうだろう?」
「ええ。同感です」

それきり、意味のある言葉は、どちらからも発せられなかった。















──出会ったのは、眩しいほどの初夏の空の下。

ゆるやかに起伏の続く平原の中を、西へと伸びていた街道。
あの時吹いていた風を、まだ覚えている。

出会った瞬間に・・・・真正面から向き合った瞬間に、気付いた。

深い深い、どこか遠い海の底を思わせる色。
凛として、目に映るすべてをはじくようで、また飲み込むようでもあって。
熱く燃えることも、冷たく凍てつくことも忘れたような。
永遠に続く静寂と渇望を同時に知っている、決して泣かない修羅に灼けた瞳。



───自分と同じ瞳をした人。



運命も巡り合わせも信じない。
けれど、この人なのだと思った。
望んだわけではない、けれど、出会うべくして出会ってしまったのだと。
その瞳の色を見た瞬間に、理解した。

そして、それは彼もまた同じ。

望みもしないのに、否応ない嵐のような激しさで心を惹かれて。
離れて呼吸していることが不思議に思えるほど・・・・魂の片割れかと錯覚するほど、強烈に求め合っている互いの存在をずっと感じていた。

愛なのか憎しみなのか、執着なのか、それさえも分からなくなるほど。

そして、ようやく触れ合った今も、幸せなのか哀しいのか、判別がつかない。
分かるのは、狂おしいほどの離れがたさ。
ただそれだけで。

何一つ癒されるわけでもない。
安らぎを感じるわけでもない。
なのに、長い時間、圧力をかけられ続けていた水が、小さな亀裂から水柱を上げて噴き出るように、何かが魂の奥から迸り出てくる。
それとも、何かが胸の奥で、声に──言葉にならない悲鳴を上げて慟哭しているのか。



誰よりも近付き、ひとつに交じり合い、溶け合う感覚に。



──魂が・・・心が軋む。















「好きですよ」

そう告げた途端に、太公望は大きく瞳をみはって楊ゼンを見つめた。
あからさまなその驚愕の色に、かえって楊ゼンの方が不思議そうな表情になる。

「何です?」
「・・・・いや、その言葉を聞くとは思わなかったから・・・・」
「そうですか?」

くすりと笑って、楊ゼンは自分と同じように寝台の上に座り込んでいる太公望の髪に手を伸ばした。
今日初めて触れた、太公望の髪はしなやかで張りがあり、さらさらと指先から逃げてゆく。
その感触が心地いいと、楊ゼンは思った。

「実のところ、たった今の瞬間まで、分からなかったんですけどね、僕も」

月明かりの中で、楊ゼンは穏やかな口調で告げる。

「でも、今は触れる前以上に離れがたいと思いますし、あなたが傷つく場面を想像すると不快になる。だったら、この感情は憎しみではないでしょうし、ただの執着というには根が深いかなと思うんですよ」
「だから、消去法で?」
「ええ。あなたが好きなのだろうと」

いい加減とそしられても仕方のない言い分だった。

「・・・・・そうなのかもしれぬな」

だが、太公望は否定することなく、窓の向こうの月へとまなざしを向ける。
その瞳が、月明かりに深く透けて。

「──出会わなければ良かった、と思ってますか?」

楊ゼンは静かに問い掛けた。

「もう出会ってしまって居るのに? それこそ意味がない」
「それでも。出会わなければ、僕たちは互いに一人でいられた。そう思いませんか」
「・・・・そうだな」

短く同意して、太公望は瞳を伏せる。



──自分たちの関係に未来がないことは、どちらにも分かっていた。
同性だからというのではなく、それぞれの魂の在りようそのものに未来がない・・・・将来(さき)が見えない。
泣くことも忘れた、修羅に灼けた瞳が見るのは、消えることのない過去の傷と、そこから動かない己の心だけ。
自分たちが出会い、共に在ったところで、何一つ救われず、一歩も進むことはない。
永遠に立ちどまり、そこでうずくまっているだけだ。


けれど。


うずくまるのが一人きりでなく、二人で寄り添ってのことだったら。
虚無にも似た静寂の中で、せめてもの互いの体温を感じることができたなら。

その温もりを知ったら、もう二度と離れられるわけがない。

自分と同じ瞳を──痛みを知っている存在。
寄り添ったところで立ち上がることもできず、何一つ救いにはならないとしても。
痛みは痛みのまま、永遠に心の中にあるのだとしても。




「──それでも、いい」
「師叔?」

太公望が小さく呟いた言葉に、楊ゼンが耳を止める。
と、太公望が真っ直ぐに楊ゼンを見上げた。
深い色の瞳が、どこかやるせない微笑を滲ませて静かにきらめく。

「所詮、どこまでいっても人間は一人だろう? わしがおぬしになることも、おぬしがわしになることも、二人で一つになることもできぬ」

そして、太公望の細い腕が上がり、ゆっくりと楊ゼンを抱きしめた。

「──独りであることが変わらないのなら、せめて、こうしてすがることのできる存在がある方がいい」
「・・・・自分のものではない温もりを感じるからこそ、余計に寂しさを感じるのだとしても?」
「それでも」

楊ゼンの肩口に顔を埋めるように、太公望は寄り添う。
その華奢な躰を、楊ゼンも両腕で抱きしめる。

「愛しておるよ」
「僕も、あなただけを愛してます」

口にしたのは、本当は憎しみや執着と判別のつかない、実体のない言葉だった。が、それでも構わなかった。
それが何であれ、魂の奥底から迸る感情は、ただ一人にしか向かわない。
その感情を表現する言葉が世界にない以上、代わりになる言葉であれば・・・・互いが飲み込める言葉であれば、何と言ってもいいはずだった。






月明かりの中で瞳を見交わし、深く唇を重ねる。
素肌の触れ合う感触と、交じり合う熱。
幸せが何かも分からなくても、それだけは確かに存在することを感じて。

ほんの少しだけ、泣くことができたらいい、と思った。











『雪』の二人のなれそめ。
なんとなく、どちらかが一方的に好きになる片想いのパターンは、この二人に限っては有り得ない気がして、こうなりました。

出会った瞬間に一目惚れというには痛すぎる、強烈な引力を感じてしまった楊ゼンと太公望。
自分自身を知りすぎているあたり、多分、悪い意味で似た者同士なんでしょう。


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