#095:ビートルズ
七夕は過ぎたものの梅雨明けまでにはまだ間のある、夏の初めの宵は、じっとりと蒸し暑い。
できることならば、あるかなしかの夕風を感じながらゆったりと歩きたいところだが、西の空から急速に広がってくるように見える濃灰色の雲に自然、脚の運びが速くなる。
もっとも家路を急ぐ理由はそればかりではなく、一秒ごとに暗さを増す空に時折まなざしを投げかけながら、楊ゼンはいつもよりも少し速い歩調で駅からの路を歩いていた。
駅から家までは、徒歩で十五分ほど。
自転車を使うのにちょうどいい距離だが、舗装の行き届いた道は平坦で、歩いて苦になる道程でもない。
あと少し、と最後の曲がり角を曲がった時、彼方で低い太鼓のような音が聞こえた。
「夕立、来るかな・・・・」
今すぐ降り出したところで、家は目の前なのだから別に構わない。
むしろ、明日の朝の庭の水遣りの手間がはぶけてありがたい、と思う。ここ最近、お湿り程度がせいぜいで、まとまった雨は降らなかったから、どうせなら思い切りどしゃ降ってくれた方がいいのだ。
今年の夏も暑くなりそうだし、梅雨がいささか空梅雨気味で、ダムの貯水率も下がっているというから、いずれにとっても恵みの雨といったところだろう。
雨雲に追われるように、どうにか最初の一粒が落ちてくる前に、家の玄関に滑り込む。
「ただいま、クロ」
忠実な愛犬がすかさず立ち上がり、ふさふさのしっぽを振るのに応えて頭を撫でてやる。すると、クロはいっそう激しくしっぽを振って楊ゼンを見上げた。
「夕立が来るから、小屋に入っておいで」
飼い主の言葉など、どこまで理解しているかは難しいところだが、そう言い置いて犬の頭から手を離し、玄関のドアを開ける。
途端、ひやりとした空気が全身を包んで、思わずほっと溜息が零れた。
「ただいま戻りました」
声をかけながらドアを開け放したままのリビングに入ると、「おかえり」と返ってきて。
当たり前のことが、いつもながら妙に嬉しくて口元に笑みが浮かぶ。
「お土産ありますよ。グラン・マルシェの杏仁プリン」
「ほう」
そう言った途端に、太公望の顔に嬉しげな色がさした。
グラン・マルシェは駅前にある、ごく普通の街のケーキ屋だが、なかなかに美味で二人のひいきの店の一つである。
中でも、この春から新登場した杏仁プリンは甘さ控えめ、ぷるぷるの食感が絶妙で、太公望のお気に入りだった。
「食後のデザートだな」
「これでまた、レポートを頑張ろうという気になるでしょう?」
「なるなる」
早速ケーキの箱を開けて、中身を確かめながら太公望はうなずく。
その傍らには様々な本やファイル、プリントの類が散乱していて、しかも昨日よりも更に無秩序さを増していることから、あまり進んでいないのだな、と楊ゼンは推測した。
週明けが締切だというレポートは単位取得の厳しいことで有名な教授の課題であり、しかもどうも太公望とは相性が合わないらしく、一番最初の課題の時には突き返され、書き直しを命じられすらしたのだ。
さすがの太公望も、その時には呆然とした様子で、「こういうこともあるのだな・・・・」と呟いていたのが楊ゼンの印象に残っている。事実、楊ゼンもそのレポートを読ませてもらったのだが、どこにどう非があるのか、さっぱり分からなかった。
が、大学という象牙の塔においては、教授が不可といえば不可なのだ。何年か前には、就職の内定も決まっていたのに、どうしても卒業論文の内容を認めてもらえず、泣く泣く留年した学生もいたというありがたくない伝説の存在に対して、どうするすべがあるわけでもない。
(ちなみに、その学生は翌年もあわや不可になりかけたものの、事態を見かねた学部長から教授に対する沙汰があって、どうにか卒業し、「どうしてもうちに来て欲しい」と1年待ってくれた内定先の企業へ無事就職したらしい。)
「苦労してますね」
「そりゃもうな。来年、おぬしは絶対に!!あの教授の講義を取るなよ」
「ええ」
苦笑混じりにうなずき、楊ゼンは右手の親指で空間を指差す。
「で、これも気分転換の一環ですか?」
玄関を入った時から気付いていた。
今日は、かけているCDがいつもと違う。
嫌いではないけれど、特に好きでもないというレベルのポップミュージックは、控えめな音量でリビングの空間を満たしていた。
「BGMが尽きてきてのう」
今に限ってはヒーリング系はかえって苛々してくるし、クラシックでもないし、とCDラックを漁った結果の選択らしい。
苦笑しながら、それでも太公望は、誰でも耳にしたことがあるだろう四人組のグループが解散寸前に作った曲のワンフレーズを、CDに合わせて口ずさんだ。
「とりあえず、飯にしようか。下ごしらえはしてあるから」
「今日は僕が作るって言ったのに・・・・」
「だーかーらー、気分転換だ。一日中、資料とばかり向き合っておれるものか」
「うーん」
苦笑しながら、楊ゼンは太公望と共にキッチンへと向かう。
その後姿をも、やるせなさの薫るメロディーが穏やかに包んでいた。
「アルバイトをね、変えることにしました。来月からなんですけど」
「ふぅん?」
そう楊ゼンが切り出したのは、夕食の片付けを追え、ダイニングキッチンのテーブルで向かい合ってデザートの杏仁プリンを手に取った時分だった。
最初の一口を口に運んでから、太公望は「今度は何を?」と問いかける。
大学に入ってからこれまで、楊ゼンは何度かアルバイトを変えている。
案外に頭脳労働も肉体労働も苦にならないたちであるため、ディスカウントショップの倉庫で裏方の仕事を短期間
やったこともあるし、知り合いに頼まれてソフトハウスに雑用を兼ねたプログラマーとして出向いたこともある。
しかし、基本的には高校生相手の家庭教師が主なアルバイト収入源だった。
今も昨年の秋から、一人の男子高校生を週に2度、教えている。
「撮影スタジオの助手です」
「ほう」
少しだけ驚いたように、太公望がスプーンを口に頬張ったまま、目をみはる。
「撮影だけじゃなくて、現像まで請け負っているところなんですけれど、すごく綺麗な良い仕事をするスタジオなんです。それに今日まで知らなかったんですが、オーナーは僕の好きなプロ写真家とも親しいらしくて・・・・」
その名を聞いた時、身震いがするほどに興奮したのだ。
たまたまスタッフ募集の張り紙を見て、プロの仕事を間近に見てみたいという好奇心にも似た思いだけで申し出てみただけだったのに。
思わず、運命とか神とかいうものを信じてもいいような気がして。
「家庭教師の方は今日、行ったついでに今月いっぱいで辞めると断ってきました。まだ一年生ですから、途中で教える学生が変わっても大して支障はないでしょうし」
「教え子はともかく、母親がどうも、と言っておったしな」
「ええ」
悪戯っぽく言われて、楊ゼンは苦笑する。
トラブルが嫌だから、教える生徒は男子のみに限っていたのだが、それでも塾ではなく家庭教師だから、どうしても生徒の母親だの姉妹だのとは顔を合わせる羽目になるのだ。
人に勉強を教えるのはそれなりに楽しかったから、これまで途切れ途切れながら家庭教師を続けてきたものの、毎度のように起こるトラブルには、ほとほと嫌気がさしていたのも事実だった。
「とにかく、そういうことなので、もう少し帰宅が不規則になります。夕食に間に合わなくなるのは申し訳ないですし、僕も残念なんですけど・・・・」
「それは仕方がなかろうよ。夕食が要らぬ時には、支度をするまでに連絡をしてくれれば良いさ」
そして。
太公望は、杏仁プリンをスプーンにすくいながら、何でもないことのように続けた。
「わしも今のバイトは、今年の夏いっぱいで辞めるつもりだしな」
「・・・・え?」
思わず、手が止まる。
今、彼は何と言ったのか。
「いつまでも続けられるものでもないしな。来年、司法試験を受けるつもりだから、そろそろ限度だろう」
目をみはった楊ゼンの様子に苦笑して、太公望はスプーンを置いた。
「9月から、知り合いの法律事務所に雑用で使ってもらうことになっておるのだ。前々から決めておったのだがな、何となく言いそびれていた」
凛として穏やかな、いつもと変わらないように見えるその笑みが、どこか寂しげなものを滲ませていることに、楊ゼンは気付く。
当たり前だった。
自分たちは、あの店で出会ったのだ。
あの小さな、隠れ家のようなバーで。
あの店が、あの街になかったら。
おそらく自分たちは同じ校舎の中ですれ違ったまま、言葉を交わす機会もなかった。
それとも、また違う場所で出会うことができていたのだろうか。
「・・・・そう、ですか」
「うむ。・・・・すまぬ」
「そんな、謝ることじゃないですよ」
謝ることではない。決して。
けれど。
「そうですか・・・・。寂しくなりますね、なんか」
「そうだな」
アルバイトを辞めるというだけだ。店がなくなるわけではない。
太公望がいなくとも、あの道楽店主はオールディーズをBGMに、次から次へと珍妙なメニューを考案して見せるだろう。
そして、自分たちが行けば、いつでも歓迎してくれるだろう。
なのに、何故。
こんなにも寂しさを覚えるのか。
急き立てられるような心もとなさを、自分は感じているのか。
「・・・・・・先輩」
分からないまま、楊ゼンは目の前の相手を見つめる。
と、太公望が、ふっと笑んだ。
「どうした? そんな顔をして」
そのまま椅子を立ち上がり、太公望はテーブルを回り込んできて楊ゼンの傍らに立った。
そして、そっと優しい手つきで楊ゼンの髪に触れる。
「バイトを変えたくらいで、わしは変わらぬよ」
「──そう、ですよね」
そうではない気がした。
言ってもらいたい言葉は、それではない。
けれど、恋人に何を求めたいのか、何を求めているのか、それすらも分からなくて。
楊ゼンは表情を隠すように、椅子に座ったまま細い身体を抱き寄せて、その薄い胸に顔を伏せる。
「すみません、妙に感傷的になってしまって」
「良いよ」
優しい腕が頭を抱きしめて、宥めるようにゆっくりと髪を梳いてくれる。
けれど、奇妙な焦燥とも不安とも付かない感覚は、なかなか消えず。
しばらくの間、楊ゼンは太公望を抱きしめたまま、リビングから流れてくる古いポップミュージックを聞くともなしに耳を傾けていた。
久しぶりのMidnight。
なーのーに、甘いような痛いような微妙な空気でオシマイ。前半を見てラブラブを期待した方、すみません。
でも、太公望ももう大学三年生なので、いつまでも遊んではいられないのですよ・・・・。作中では織り込めなかったのですが、大学入ってすぐから司法試験用の勉強もしてるのです。
とはいえ、シリーズはまだ折り返しに入ったところなので、のんびり続きをお待ち下さいませ〜。
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