#032:鍵穴
夏の終わりの日差しは今日も眩しい。
目を射る真昼の光に目をしかめるように細めてから、ゆっくりと楊ゼンは日差しの中へと足を踏み出す。
大学という所は高校に比べると、あらゆる面で開放的であり、自由でもあったが、ただ一つだけ、講義ごとに教室どころか校舎そのものを移動しなければならないという手間がある。
4月から翌年3月まで、勝手に定められた同じクラスメートと同じ教室で顔を突き合せ続ける鬱陶しさに比べれば、遥かにマシではあったが、それでも夏の盛りや真冬の屋外を経由する教室移動は、あまり嬉しいものではなかった。
さっさと日陰に滑り込もうと、早足でキャンパス内の通路を歩いていた足が、
「あ」
ふと緩む。
今いるT字路の向こう、緑濃く葉を茂らせた植え込みを背景に、横切っていく学生たち。
その中に、一番大切な人の姿を認めて自然、見送るように足が止まった。
楊ゼンも顔を見知っている友人と談笑しながら、夏の終わりの日差しの中を横切ってゆく。
その姿はひどく鮮やかで、楊ゼンはほんの数年前、高校時代のことを思い出した。
まだ、どちらもブレザーの制服を着ていたあの頃。
太公望は校内ではいつも、友人たちに囲まれていた。
全国模試でもトップを争うずば抜けた秀才として、同級生ばかりか上級生にも下級生にも人望厚い生徒会長として。
彼の名前と顔を知らない者は校内にいなかっただろう。
楊ゼンも、入学式の日、在校生の代表として新入生の前で壇上に立ち、凛とよく透る声で歓迎の辞を述べた彼のことは、そのまま記憶に残っていた。
が、何かを意識したという覚えはない。確かに今と変わらないような綺麗な顔立ちだったが、しかし、それは楊ゼンの興味を惹く種類のものではなかった。
非の打ち所のない、かといって真面目すぎることもない優等生そのものの彼は、雲ひとつない青空にも似ていて、そこには何一つ、自分との共通点を見出すこともできなかった。同じ校内に居ながら、もっとも遠い存在だったのだ。
大学のキャンパス内で見る恋人の姿は、あの頃に少しだけ似ている、と思う。
担任教師も内申点もなく、本当に望む勉強をするための場所を手に入れた今、もはや優等生を演じる必要もなくなり、楊ゼンとすれ違う時にも知らん顔で通り過ぎて行ったりはしない。
けれど、気負いのない明るい表情で友人たちと話している様子は、あの頃、本性とは似ても似つかないと思った優等生の仮面すらも、本当はまぎれもなく太公望の一部だったのだということを改めて楊ゼンに教える。
不夜城のネオンの洪水の中で出会い、共に暮らすようになってから丸三年。
何よりも大切な最愛の恋人ではあるけれど、何もかも知らないことはないと言うには程遠い。
隠し事をすることもされたこともないが、だからといって、嬉しいこと悲しいことの全てを語りつくすには三年という月日は短い。
まだまだ知らないこと、気付いていないことがたくさんある。
それは当たり前のことであり、これまでに気付いていなかったことではない。むしろ、知らないことがまだまだある、という事こそが倦怠感を遠ざけ、恋人と暮らす日々を胸をときめかせながら過ごす原動力の一部ともなっていた。
なのに、今。
これまで気付かなかった……あるいは忘れていた、恋人の一面が楊ゼンの心に翳を造る。
「────」
太公望の後姿は、すぐに校舎の影へと隠れて見えなくなる。
その姿を見送ってから、楊ゼンは再びゆっくりと歩き出し、T字路を恋人が行ったのとは逆の方向へと曲がった。
夏休みが終わって間もないキャンパス内は、人通りが多い。
2限目が空き時間となっている楊ゼンは、人の流れを縫いながら当初の予定通りに図書館へと向かう。
冷房の効いた図書館のロビーは学生たちの憩いの場となっているが、基本的に私語は禁止であり、司書も目を光らせているから格別に騒がしくなることは有り得ない。一階の閲覧室は気軽に出入りできる造りのせいか、席を占領して昼寝している学生も多いが、二階へと上がってしまえば、割合たやすく空席を見つけることができた。
出入り口から見て奥の方の窓際に空いている机があることを確かめ、楊ゼンはそこへ行く途中の書架で足を止めて、レポート作成の資料となる書籍を探す。
本格的にやろうと思ったら、容量の少ない開架ではなく、膨大な所蔵量を誇る書庫へと赴かねばならないが、今日はそこまでの必要はない。二、三冊の本を選び出して、それを手に奥の空席へと向かった。
同時に6人が席に着ける広い机の一番端を選び、鞄と本を下ろしてペンケースとレポート用紙を取り出す。
けれど、資料用の本を数ページめくっただけで、指先が気力なく止まった。
「…………」
勉強することは嫌いではなかった。
高校時代までの暗記中心の勉強には何の興味も覚えなかったが、いま、法学部に在籍して法律を学ぶのは面白いし、膨大な量の課題も、難解な定期試験もさして苦にはならない。
けれど。
───もし、あの人と出会っていなかったら……?
自分がこの大学の法学部を選んだのは、ただ一つの理由しかない。
一番大切な人と、ずっと一緒に居たかった。大学だけでなく、その先もずっと。
太公望が法学部を選んだ理由は、その前から知っていたから、彼が彼の望む職業に就いた時、自分もその傍らで彼の手伝いをしたいと思った。
──願わくば、一生を共に。
それだけを思って、進路を決めた。
そのことを悔いたことはないし、今でも間違えたとは思わない。
けれど。
「……あの人は僕よりもずっと大人だ……」
年齢差は1つでしかない。
だが、年齢差以上に自分と恋人の間には大きな隔たりがある。
太公望が将来の職業を心に決めたのは、まだ中学生の頃だったと聞いた。
そして、そのまま一途に目指した道を進んでいる彼は、いずれは必ず、彼が望んだ通りの力を手に入れるに違いない。
幼い頃の夢を現実に変えるだけの力を、彼は持っている。
そのことを疑う気は毛頭もない。
だが、自分は。
力不足だとは思わない。
自分の能力をもってすれば、恋人が進む足跡をそのまま辿って、どこまでもついてゆくことができるだろう。
けれど、それは。
───あの人が望む未来の形なんだろうか?
自分が選んだ進路や、それに基づいて描く未来図に太公望が異論を唱えたことはなかった。
望むようにすればいいと、いつも優しい色の瞳で笑っていた。
でも、彼が本当にそれを望むのだろうか。
今でさえ、互いのスケジュールやアルバイトには口を挟むことなく、ただ、帰る場所が同じであることを──二人で居られる時間を、他の何よりも大切にしていてくれる人が。
己に殉ずる形で、恋人が将来を選ぶことを。
本当に望むだろうか?
共に過ごした日々は、まだ三年でしかない。
けれど、それだけの月日を過ごしただけでも確信を持って言えることは幾つかある。
そのうちの一つが、自分が本気で望むことであれば、太公望は絶対に拒絶も反対もしない、ということだ。
だから、太公望のサポートをすることが心の底からの望みであるのであれば、太公望は必ず、それを喜んで受け入れてくれるだろう。
けれど、もしそうでなければ。
彼は、やんわりと、だが完璧に拒絶する。
「僕は……」
そして、もう一つ。
太公望は、いつでも自分に忠実だということだ。
本心を隠すことはあっても、決して己自身に嘘はつかない。
だからこそ、自分が望む道を進み続けるために、あれほど気に入っているように見えたアルバイトも、すっぱりと辞めることを誰に相談することもなく決めてしまった。
その潔さは、楊ゼンにとってひどく眩い。
眩すぎて、今は少しだけ。
───痛い。
彼ほどの潔さと強さを持って、自分は法学部を……将来を選んだだろうか。
晴れた時も曇った時も、いつでも側に居たいという気持ちに嘘はない。
けれど、太公望はたとえ自分が側に居ようと居なかろうと、誇りを持って己の仕事をやり遂げるだろう。どんな困難にぶつかっても、決して諦めないだろう。
そんな彼を一番側でサポートしたいという思いは、今この瞬間も変わらない。
けれど。
それで本当にいいんだろうか?
自分がそうすることで、最愛の恋人は一生、幸せそうに笑っていてくれるのだろうか。
側に居たい、それだけの理由で職業を選んでも。
あの誰よりも凛として潔い恋人は、それを幸せと感じてくれるだろうか?
「……いつまでも学生ではいられないものな……」
出会ってからのこの三年間は、夢でも見ているかのように楽しかった。
半人前の学生として生活の苦労もなく、ただ愛しさのままに人生の春とでも呼ぶべき日々を過ごしてきた。
けれど、季節の移り変わりと共に確実に時間は過ぎてゆき、今月末で自分たちが出会った酒場でのアルバイトも太公望は辞めてしまう。
それを引き止めることは誰にもできない。
確実に、彼は自分よりも一年早く、実社会へと旅立って行くのだ。
そして自分もまた。
いつまでも生活力のない子供ではいられない。
この先も、ずっと一緒にいたいのであれば、尚更に。
もう一度、きちんと考えなければならない時が迫ってきている。
「!」
本のページをめくる手が止まったまま、物思いにふけっていた耳に、やわらかなチャイムの音色が飛び込んでくる。
驚いて腕時計を見てみれば、いつの間にか進んだ針の位置は昼休みの到来を告げていた。
結局、一時間半もの間、何ひとつ進まなかったと己の集中力のなさに眉をしかめ、楊ゼンは本を閉じて荷物を片付ける。
とりあえず、この本は借りて帰ろうと考えて、ふと、鞄の内ポケットに収めてある携帯電話のパイロットランプが点滅しているのに気付いた。
『午後から休講になった。先に帰るが、今どこに居る?』
用件だけのショートメールに目を細めるように微笑み、手早く返信する。
『図書館です。僕の方はいつも通り。バイトが終わったら帰るコールします』
そして立ち上がり、閲覧室を出て、一階のカウンターで本の貸し出し手続きを取っていると、再び携帯電話がパイロットランプを点滅させながら震えた。
『席確保。カフェの中央窓際』
帰る前に昼食を一緒に食べよう、という用件だけの誘いに楊ゼンは、再び微笑する。
『了解』
一言だけ返信して、手続きの終わった本を受け取る。
そうして昼休みになり、学生の姿が増えた図書館のロビーを抜けて、急ぎ足で真昼の白い光に満ちた外へと向かった。
久しぶりのMidnight。
半年ほど間が空いたおかげで、思いっきり季節はずれです。くそう。
残暑真っ盛りの青春真っ盛り。
頑張れ青少年。
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