#093:Stand by me







思えば、長い年月だった。

自分という存在が、この宇宙に発生した時からの歳月が、ではない。
これまで自分が何億年生きてきたのであれ、そんな時間には何の意味も無かった。
意味があるのは、たった一時。
自分の感覚からすれば、まばたき一つほどにしか匹敵しない一瞬が、けれど、自分にとっての全てだった。





どうしてだろう、と思う。
消えたはずの執着が、今もまだ、この胸の奥深くに巣食っている。
異質なものを受け入れ、間違いなく変質したはずなのに──あまりにも長すぎる、あらゆる記憶が今や全て自分のものとして存在するのにもかかわらず、それらはいずれも、モノクローム撮影された映像のように遠く、その一瞬ごとに感じたはずの感情さえ、うっすらとしか思い出せない。
どれほど自分の中を探っても、色鮮やかに在るのは一つきり。
数億年の生の中で、ほんの一瞬にしか値しない年月。
愚かしいほどに、ただ、それしかなかった。

どうして自分たちは、出会ってしまったのだろう。考えると、未だに不思議だった。
あるいは、どうして出会うことができたのか。
同胞の因子を引き継いでいるとはいえ、似ても似つかない小さな小さな存在であったはずなのに、何故、彼にだけ、同胞にすら感じなかった渇いた風の音を感じたのか。
何故、彼だけが背中合わせではあっても、寄り添うことが出来たのか。
何もかもが偶然の一言で片付けるには、あまりにも切実に過ぎて、けれど、運命だなどという稚拙な言葉にも拠りたくなくて、メビウスの輪を巡るように思考は、ただ堂々巡りを続ける。
分かるのは、彼が唯一の存在だという、そんな今更のことばかりで。
繰言のように、今もひたすらに彼のことばかりを考えている。

一体、どの自分が、こうまでも彼に執着しているのかは、もう分からない。
人の皮をかぶっていた自分なのか、妖怪の皮をかぶっていた自分なのか。
それとも、それらのいずれでもない自分なのか、それらのすべてである自分なのか。
ただ、どんな自分であれ、一旦出会ってしまった以上、未来永劫、彼に執着し続けるのだろうということだけは、この姿になって改めて感じたことだった。
どれほど変質しようと、名乗る名が変わろうと、不思議なほどに自分は自分でしかなく。
そのことに気付いた時、どうしようもない安堵と虚無感を覚えた。

いっそ変質するのなら、心まで全て白紙に戻り、初期化してしまえば良かったのに、と心の底から思う。
魂は形を変えたのに、感情の形が変わらないのは、自分に言わせれば理不尽極まりないことだった。
感情の形が変わっていれば──変質と同時にこの執着が消え去っていれば、自分はもっと簡単に消滅できただろうに、感情の形が残っていたばかりに、自分は消滅を拒んでしまった。
決して取るまいと思っていた……決して取らないと約束していた女の手を取ってしまったのだ。
まるでそれが、彼の手であるかのように。
差し伸べられた白い手に思わずすがって、何度目か知れない、余命を手に入れてしまった。
あの瞬間、自分は一体何を夢見ていたのだろうと思う。
余命を……新たな肉体を得たことが、何に繋がるというのか。
変質を受け入れ、永遠の孤独を彷徨うことを、既に選択し終えていたのに、その後など必要であるはずがない。
そんな自分にとって、魂すら砕け散る真の消滅は、まさに僥倖であったのに。

裏切りばかり続けているのに、消えてしまうこともできない。
そんなことになってしまった我が身が、どうしようもなくやるせなく、恨めしいと思う。
この水分と蛋白質を主とした化合物の肉体では、かつて同胞たちがやったように、微塵に魂を砕き、同じく微塵に砕いた器の分子に封じ込めて、周囲に同化するという荒業は使えない。
いつの日か、始祖の魂を受け止めきれなくなった肉体が崩壊し、その後は魂魄が自己を保てなくなり宇宙に同化するのを待つ。そんな気の長い真似をするしかないのだ。
いっそのこと、ここに立ち尽くしていたら木石のように風化できないか、と願わずにはいられない。
この風の強い丘に立ち尽くしていたら、遠目にはきっと枯れ木のように見えるだろう。
そして、枯れ木よりも役に立たない、ただの物質として、ここで風化できたなら。
それはそれで、一つの終末の形なのではないか。
それとも、そんな終わり方ですら、この自分には贅沢だろうか?




───本当は、少しばかりでなく女々しいと思う。
どうして、この場所に来てしまったのか。
理由など一つしかないのだが、それでも自嘲せずにはいられなかった。
自分が浅ましい存在であることは昔から分かっていたが、こんな有様になっても、どうやっても、あの瞬間、感じたものを自分の中から消せないでいる。
───あの日、この場所で。
初めてその瞳を見た瞬間、感じたもの。
何の前触れもなく唐突に巻き起こった感情の嵐の中で、理解したこと。
それこそが自分にとっての永遠だったのだと、今になって痛いほどに感じる。

けれど、と目を伏せると、風にさらされて乾いた瞳が少しだけ痛んだ。
今更、ここに立ち尽くしていたところで、どうなるわけでもない。
時間は遡れず、変質してしまった自分も、もうどうしようもない。
いい加減に、諦めるべき頃合なのだろう。
もしかしたら、今、自分がここを訪れたのもそのためだったのだろうか。
確かに、訣別するのには良い場所だった。
全ては、ここから始まったのだったから。

短い草がまばらに生える、平坦な土地。
改めて周囲を見渡して、少しだけ、自分たちの裡にある風景に似ている、と思った。
だからこそ、自分たちはここで出逢うことになったのだろうか。
この、大地を吹き抜ける強く、渇いた風の中で。

草の一本一本までも刻み付けるように、白く乾いた道の続く草原を見つめて。
行こう、と足を踏み出しかけた時。







「どこまで馬鹿をやったら、気が済むんです?」




在り得ない声が、聞こえた。








反射的に振り返ったのは、幻聴だと思い、幻聴というには生々し過ぎると、自分の聴覚を疑ったからだった。
声が聞こえるわけがない。
彼が、ここにいるわけがない。
間違いだと、そう信じたかったのに。

「───…」

同じ瞳、だった。
どこまでも無機的に冷め、裡にある感情を読ませない。
相手を撥ねつけるような、何もかも見透かすような、この色を自分が見違えるはずはない。
こちらを見つめ、呆れたように皮肉な溜息を零す仕草ですら、あの頃と何一つ変わりはなくて。

「先に言っておきますが、何故かなんて訊かないで下さいよ。そんな馬鹿げた質問をされたら、さすがの僕でも回れ右して帰りたくなりますから」

そんな物言いで容赦なく機先を制されて、ますます何と言えばいいのか分からなくなる。
有り得ない存在を前にして、問うなと言われたら、他にどんな言葉を発することができるというのか。
刃(やいば)のように研ぎ澄まされた、それでいて真意の読めない言葉を鋭く投げつけ、平然としている。相手の反応など構わないそんな傲岸な物言いすらも、楊ゼン以外の何者ではなかった。

───そう。
楊ゼンだった。
目の前にいるのは、他の誰でもない。
この世でたった一人、執着し過ぎるあまりに、何度も何度も、裏切りを重ねた存在。
裏切ることしか選択できなかったほどに、執着して執着して。
失くしてしまった、はずだった。

「まったく……。僕を理解してもらいたいと思ったことは一度もありませんけど、幾らなんでも、ここまで見くびられているとは思ってませんでしたよ。こんな場所に来るくらいなら、いっそ、真っ直ぐ戻って来たら良かったでしょうに」

溜息交じりに言い、風に煽られた髪を後ろへと掻きやる。
たったそれだけの仕草にさえ。
心が焦がれた。

それきり言葉はなく、ただ冷えた色のまなざしを向けられて、身動きすらままならない。
激しく打つ鼓動が、頭の奥で耳鳴りのように響くのが耐え難いほどにうるさく、思考は形を成さないまま、何故、という言葉ばかりが脳裏をめぐる。
───そう。何故、ここに居るのか。
こんな何もない所へ。
風と、乾いた大地と、それだけしかない場所。
敢えて意味をつけるとしたら、始まりの場所、そう呼ぶしかない土地へ。
何故、彼が。

「……まったく」

と、注視する先で、楊ゼンはこれ見よがしに溜息をついて見せた。

「ここまで予想通りの反応をされると、何を言う気も失せますよ」

そう言い、足を踏み出して。
こちらが反応する間もなく、一瞬で間合いを詰め、そして。

腕を掴まれ、強く引き寄せられた。







「一体どれだけ僕を独りにしたら、気が済むんですか」







声は、衣服越しに低く、直接鼓膜へと響いた。
体温と、鼓動と、匂いと。
全てが彼という存在に包み込まれ、世界から遮断される。
そして、その言葉は。




ずっと探していた何か、探していることにすらこの瞬間まで気付いていなかった何かに、とても良く似ていて。




「泣くくらいなら、最初から戻ってこれば良かったんですよ。本気で、僕があなたを手放すとでも思ってたんですか」

まったく手がかかる、と零す声は、心底から呆れ返り、うんざりし切っているようだった。
それでも背に回された腕の力は緩むことなく。

「で? どうします? これ以上逃げるつもりなら、僕にも考えがありますが?」

皮肉な口調で言われた問いかけに、反射的にかぶりを振る。

「───帰る」

衣服越しに鼓動が聞こえる胸に顔を埋めたまま、告げた言葉はかすれて拙く、まるで幼い子供のようだと思った。
けれど、それを恥じるだけの余裕はなくて。

「おぬしと一緒に、帰る」

ようよう、そう告げるのが精一杯で、あとは言葉にならない。




『誰かに拉致されたのなら、何が何でも取り戻しますし、あなたが自分の意志で居なくなったのなら、必ず探し出して連れ戻すか押しかけ亭主になるかですね。あなたに関しては、僕は割となりふり構わなくなりますから。あなたの意見も聞く気はありません』




いつだったか、常と変わらぬ素っ気無い口調で自分の問いに反された言葉。
その時、自分がどう感じたのかはよく覚えていない。
信じたいと思ったのか、期待するなと自分に言い聞かせたのか。
そう、少なくとも単純に喜びはしなかった。
あまりにも、彼の言葉はいつも自分にとって都合が良いものばかりだったから。
ただ喜ぶには、あまりにも込み上げる感情が切実に過ぎて、口に出しては何も言えなかった。

思うよりも早く、求められる。
言葉にするよりも早く、抱き締められる。
それは、ぬるま湯に浸かるような快感だった。
何かを求め、自分から手を伸ばすことをためらう臆病な人間の性情を、おそらくは一番最初から見抜いていたのだろう。どんな時でも楊ゼンはためらわず、揺らぎもせずに手を伸ばし、言葉を与えてくれた。
そんな彼がどれほどかけがえのない存在だったか・・・・どれほど自分を満たしてくれていたか。
遠く離れてから思い知ったことを、今もまた泣きたいほどの感情の嵐の中で噛み締める。

「楊ゼン」
「ここに居ますよ」

名を呼べば、迷わない声が返ってくる。
───今なら。
今なら言える、と思った。




「もう・・・・どこにも行かない」




それは、ずっと言いたくても言えなかった言葉。
信じたいと思いながら、いつか二人で居る日々は壊れてしまうのではないかと、ずっと怯えていた。
それでも、永遠に離れがたくて、夜の底で何度、相手も自分もなく一つに融けてしまいたいと願っただろう。
そんな臆病な自分の中に、ずっと凝っていた言葉。

───ずっと傍にいて欲しい。
───決して離れたくない。

───もう、一人になりたくない。

なのに。

「当たり前でしょう。僕を置いて、これ以上どこに行くというんです?」

そんな風に簡単に、もう二度と手放さないと当然のように口にする。
どうすればいいのだろう。
この想いを。
この相手を。

「愛しておるよ」
「僕も愛してますよ」

せめてもの言葉は、風に攫われて消える。
───互いの胸を吹きすさぶ風は、この先も永遠にやまないものかもしれない。
枯れ果てた荒野に、風に耐える花が咲く日もきっと訪れることはないだろう。
けれど、それでも自分たちは出会い。

───今、ここに居る。

ただそれだけのことに、目のくらむような歓喜が押し寄せて。
すがりつくように広い背を抱き締める。
そうすれば応えるように、強く抱き締め返されて。
それ以上、言葉は見つからずに。








*               *









「何だっていいんですよ。過去も未来も関係ない。どれだけ変質しようと、あなたという存在があれば僕はそれだけでいい」

息も止まるような、永遠まで続くような交歓の後、夢うつつに霞んだ耳元に静かな囁きが落とされて。
半ば眠りに落ちかけたまま、手探りで求めると、指先が長い髪に触れた。
その髪を手繰り寄せるように、まだ熱の去りきっていない胸へと体を寄せる。
すると、落ち着いた鼓動が、耳元へと温かく響いた。

「わしは、おぬしのこの鼓動が在れば、それで良いよ」

そう告げた言葉は、届いたのかどうか。
確かめる間もなく、ただ、強く抱き締められるのを朧気に感じ取って、意識はそのまま、やわらかな波間に沈んだ。







end.







次回、エピローグです。


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