番外14:良夜







夜の狭間で、彼の瞳はまるで底無しの宇宙の深遠を映しているようだった。

「言い忘れてましたが、僕の出自は人間ではないんですよ」
「……それが?」
「勿論、どうもしませんよ。ただ、軍師であるあなたには伝えておくべきかと思いまして」
「…………」

しばしの間、彼は情報の価値を吟味するようにまなざしを伏せて。
人形でそれだけの力があるなら、本性に立ち戻れば切り札として投入できるやもな、と呟き、それきりどうでもいいとでもいうかのように、こちらに身を寄せ、目を閉じた。

それはもう随分と昔の、初めて体を重ねた夜の記憶。














久しぶりに見る寝顔は、変わらず老成しているようで幼い、幼いようで老成している不可思議な透明さを保っていた。
自分としては、目覚めている時の瞳の色こそが彼を構成するパーツの中で最も惹かれるものだったが、こうして夜の狭間で眠るひとの顔を見つめるのも嫌いではない。
淡蒼い月光の中、自分の腕の中で困憊したように、けれど、静かな表情で眠り続ける人の目元に、そっと指を触れる。
そして、涙を見たのは初めてだったな、と思った。

───かつて、一度だけ、彼の涙を見たことがあった。
だが、あれは涙と呼ぶべきものではなかった。
彼自身を責め苛むためだけのもの、その心と眸を灼く修羅の証でしかなく、到底涙と呼べる代物(しろもの)ではなかったのだ。
比べて今日、自分の胸を濡らしたものは。
真実、堰を切ったように溢れた熱い雫だった。

修羅に灼け、泣きたくても泣けないはずだった瞳が涙を零したのは、確かに小さな驚きだったが、だからといってその涙が何を意味していたのか、理解しようという気はない。
これまでに自分たちの間にあった全ての事象と同様、理解したいとも思わなかった。
所詮、涙は涙、水滴は水滴でしかなく、誰が零したものであれ、世間が言うほど格別に尊いものでも愛おしいものでもない。
自分にとって価値があるのは唯一つ、腕の中に抱き締めたひと──重なった胸から変わらず聞こえた、風の音、それだけだった。




三年という時間を、離れて過ごしたのは事実だった。
あの日から今日まで、一度も顔を見ることもなく、声を聞くこともなかった。
だが、その月日が何をもたらしたのかというと、呆れるほどに何もないのだ。
自分の執着は出会った時からそのままに薄れも強まりもしなかったし、それは彼のほうも同じであるようで、すがるように求めてくる腕の力も、背に立てられた爪の甘い痛みも、ひどく切実に自分を呼ぶ声も、何も変わりはなかった。

結局、自分たちは変われないのだと思う。
昼間、三年もの間ふらふらと彷徨っていたひとを抱き締めた時には、取り戻した、という気がしたし、太公望の涙も詰まる所は同じようなものだっただろう。
自分のほうは一時、手を離しただけのことで喪ったとは思っていなかったが、太公望のほうは全てを喪ったと思っていた、違いがあるとしたらそれくらいのことだ。
その差を除けば、出会った時から変わらず、自分たちはいつでも合わせ鏡のような存在であり、どちらか一方が相手を置き去りにすることなど、在り得なかったし、許す気もなかった。
彼が居なくなれば宇宙の果てまででも追い、自分からは決して離れない。
それだけが、自分にとってのルールであり、それに関しては相手の意見を聞く気すらなかった。

「だって、聞く必要なんか、無いでしょう?」

白い額に零れ散る前髪を、そっと指先で掻きやる。
この小さな頭の中で何を考えているのか、理解しようと思ったことはなく、またそう願う必要を感じたことも無かった。
いつでも、知りたいと思うよりも早く自分たちは、互いの感情を読み合っていたのだ。
言葉にならない感情は、どれほど離れていても、まるで時も空間も越えて響き合っていて。
一方は、精神に不安定さを抱えるがゆえに思い込みで読み間違えることがあったとしても、自分たちにとっては互いこそが魂の片割れだった。
そして今日の再会こそが──自分を見た瞬間に彼の瞳に浮かんだ色、あるいはこの胸を濡らした涙こそが、それが間違いではない何よりの証拠だった。

「永遠なんて信じてませんけどね。でも未来永劫、変わらない事があるということは分かってるんですよ」

自分たちの出会いを、在り方をどう呼ぶのかは知らない。
運命だとか必然だとか、恋だとか愛だとか、そんな呼び方は他人に任せておけばいい。
ただ、自分は見つけたし、太公望も見つけた。
それだけのことだ。
そして、その執着が全てであり、この命が続く限り、それもまた続くというだけのことだった。

「───…」

腕の中で、細い体が小さく身じろいだ。
見つめていると、思った通りに瞼が震え、重たげにしばたいて、ゆっくりとまなざしが上がった。
窓から差し込む淡蒼い月光を受けて、これまでになく深い色の瞳がこちらを見つめた。

「──どうした…?」

夢の続きを見ているかのようなゆっくりとした動きで、細い手が上がり、頬に触れる。
少し冷えた指先の感触が、ひどく心地よかった。

「いいえ、何も?」

静かに答えて笑むと、何かを思うかのように微かに首をかしげ、けれど、黙ったままで頬に触れていた手を首筋へと回し、胸元に頭を摺り寄せてくる。
そして、小さく吐息を零した。
その温かな重みに、自分もまた細い体へと腕を回す。




───こうしてぴったりと体を寄り添わせているだけで込み上げて来る感情を、執着以外に何と呼べばいいのか。
このまま一つに解け合ってもまだ足りない飢(かつ)えに、魂が軋みをあげているような気さえする。
けれど、それこそが生きていると実感させてくれる唯一のものでもあって。




「──愛してますよ」
「わしもだよ」

使い古された陳腐な言葉以外に、この感情を載せることができないもどかしさを感じながらも告げると、ひそやかにささやきが返る。

「もう二度と離しませんから」
「うむ」

それでいいと、腕の中のひとがうなずく。
重なった胸からは、変わらず荒野を吹きすさぶ風の音が聞こえて。





永遠など信じないし、欲しいとも思わない。
けれど、未来永劫、変わらないものがここにあるのだと思った。







end.










これにて『天葬』、終幕です。
長い間、お付き合いありがとうございました。


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