#100:貴方というひと
心底、馬鹿なひとだと思った。
驚かなかったと言えば嘘になる。
だが、他者が思うよりも遥かに、自分の受けた衝撃は小さなものだった。
確かに気配は、少し異なっていた。
外貌も、かすかにではあるが異質なものの痕跡があった。
けれど、あの瞳は。
彼が彼であることを確認するために向けた刃を──殺気を正面から受け止めた、深い瞳の色は自分が良く見知っているものだった。
──毅然として迷いなどないかのように衆目には見せかけながら、自分の前でだけは、全てを諦めたような、それでいて何かを渇望するような色で、惑い、揺らめいた。
──泣きたくても、泣き方など忘れてしまったのだと、虚ろにまばたいた。
──いつもいつも、何かを切望するようにこちらを見つめ、そして、何一つ求めることができない拉(ひし)いだ眸を、言葉もなく伏せた。
他者が何と言おうと、自分が見間違えることはない。
けれど、その瞳を一度合わせたきり。
あのひとは。
「本当に馬鹿ですよ、あなたは」
───相手を理解したと思った事はなかった。
何を思っているか、感情はいつでも読めたし、彼の頭の中でめまぐるしく計算されている戦略戦術も、我が事のように理解できたが、それでも彼のことを分かったと思った事は、一度もない。
常に傍らにあり、唯一の存在だと知っていても、あくまでも彼は自分ではなく、どれほど二人で一つの存在でないことを世界に呪っても、自分たちは別個の存在だった。
だが、それでも。
彼のことなど何も理解する気のない自分にも、彼がどうしようもない愚者だということだけは、天地神明に誓って断言できる。
「いくら情緒不安定になっていたとはいえ……どうして、それだけのことで僕があなたを手放すと考えるんですか」
一人きり、勝手に不安を抱えて、怯えて。
挙句、こんどこそ何もかも諦めて消えてゆこうとした。
そればかりか、消滅をまぬがれ、九死に一生を得たというのに、あれから三年の月日が過ぎてもまだ戻ってこない。
そんなにまでもこちらの感情を侮(あなど)っていたのかと思うと、腹が立つよりも、倦んだ気持ちの方が勝ってくるのは、もはや止められるものではなかった。
「いい年して、手を引いてやらないと、まともに歩けもしないんですか、あなたは」
どこまで手を焼かせるのかと、ぼやくのも馬鹿馬鹿しい。
だが、ぼやくのにも倦むのにも飽きてきたのは、事実だった。
──向こうが勝手にこちらの感情を決め付けて、姿を晦ましたことには、普段、感情が波立つことなどまずない自分ですら、多少とはいえ神経が逆撫でされた。
だから、すぐには行動を起こさず、今日まで放っておいたのだ。
どうせ、一人きり、渇いた瞳をもてあましたまま、その辺をうろうろしているに決まっている相手のことなど、今更心配などしなかった。
この世界に存在する何者が手を出したとしても、彼を殺すことはできない。そして、多少の傷など、始祖の生命力の前では何の意味もない。
そんなものの心配をするなど、あまりにも無意味なことだった。
けれど、さすがに三年も経てば、そろそろ顔も見たくなってくる。
放っておいて自主的に戻ってくる相手ではないことは承知していたから、会いたいと思えば、こちらから出向かなければならない。
そのための時間を作ることも、地上に居るはずの相手の気配を見つけ出すのも、自分の能力をもってすれば造作もないことだったが、面倒くさいことには変わりがない。その辺り、実に厄介だとしか言えない相手だった。
が、そんな相手に執着してやまない自分の方こそ、本当のところは問題があるのだろう。
それでも、どんなに手間がかかろうと、彼以外のものなど欲しいとは思わないのだ。
互いに裡に吹きすさぶ渇いた風を持て余したまま、荒野の真ん中で、言葉もなく背中合わせに立ち尽くしているような関係に何の意味も無かろうとも、そんなことは関係なかった。
どれほど無意味に見えようと、ただ互いが在れば、それだけで足りるものがある。
誰にも──彼自身にすら、そのことについては反論させる気はなかった。
「まったく面倒なひとですよ、あなたというひとは」
ぼやきながら立ち上がる。
そして、すいと神経の端を研ぎ澄まし、求めるひとの居る座標を探った。
───出会い、二十数年もの間、共に在って。
それでもなお、薄れない執着がある。
この執着につける名など知らない。自分にしてみれば、執着は所詮、執着でしかない。
けれど、この先永遠に生きようと、二人と出会えない存在であることだけは分かっている。
それは、まるで。
───互いが互いの為だけに、生まれたかのようですらあって。
「覚悟して下さいよ、師叔。この僕に、こんな手間をかけさせるんですから」
笑みを含んだ声で呟きながら、音も無く楊ゼンは虚空に指先で円を描き、一瞬の後にその中へと消えた。
コメントなし。
そのまま#093 Stand by meにどうぞ。
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