#070:ベネチアングラス







「なーんか不調そうだね」
「そうだな」

からかう風でもなく、さらりと告げられた言葉に逆らわず、太公望はうなずく。
夏の終わりの今夜は、台風が来ているわけでもないのに何故か客がいない。
ちょうどいいから、と昼間に国際郵便で届いたという段ボール箱をカウンターに上げ、バーテン姿の二人があちら側とこちら側から梱包を解いている様は、端から見ると奇妙にこっけいな風景かもしれない。そんな風に思いながらも、太公望は手を止めることはなかった。

「かれこれ……一ヶ月近い? 珍しいね、本当に」
「うむ」
「って、もう少し何かコメントしてよ」
「と言われても」

両手で抱えられるくらいの大きさの段ボール箱の中身は、殆どが反古紙を丸めた緩衝材だった。
さすがに、いつ客が来るか分からないのにゴミを散らかすわけには行かないと、奥から出してきた指定ゴミ袋にぽいぽいと丸められた紙を放り込んでゆく。

「わしの問題ではないし」
「それはそうだけど。それでいいわけ?」
「あやつが決めることだから」

緩衝材という名のゴミをかきわけて、ようやく中身が出てくる。
マトリョーシカだね、と評した太乙に、マトリョーシカというより、らっきょうだな、と太公望は呟く。
幼稚園の頃に持っていた童謡のレコードの中に、らっきょうを剥いて剥いて剥きまくるサルの歌があった、と不意に思い出した。
ただし、らっきょうの中身は空だが、この箱の中には中身がある。はずだった。

「すっごく君らしいけど……君はきつくないのかい?」
「それはまぁ、のう。仮にも一つ屋根の下で暮らしておるわけだし」
「家族の不調って、結構ダイレクトに伝わってくるしねえ」
「……否定はせぬよ」
「ちなみに、最近の二人でいる時の会話比率は? 平均値に比べると何パーセントダウン?」
「聞くな」

苦笑しながら、らっきょうの芯……ではなく、深いオリーブグリーンの紙箱の封を丁寧にはがし、蓋を開く。
そっと箱を傾け、添えた手のひらに出てきたのは、鮮やかな地中海の青だった。

「これこれ! いい色だろう〜!!」
「そうだな」
「しょっちゅう海外に行く知り合いに頼んでおいたんだよ。この色でこのサイズのタンブラーがまとまった数手に入ったら、即送ってくれって。頼んでから一年もかかったよ〜」

嬉々として、宝石のように煌く青を次から次にカウンターに並べてゆく。
その様子は、どこか積み木遊びをしている子供を思わせて、太公望は小さく含み笑った。

「……八、九、十、と。うん、きちんとあるね。一つも割れてないし欠けてもない」
「イタリアからの国際郵便としては上出来だな」
「うんうん」

それこそ子供のように満面の笑みを浮かべる店主に、太公望は今度こそ苦笑する。
可笑しいとは思うが、太乙のこういう所は嫌いではない。
恋人とはまた別の意味で、一緒にいて苦にならない相手だった。

「よし、じゃあ早速洗って明日からレギュラー登板させよう。どんなカクテルを入れようかな〜」
「いっそ種類を限定して、スピッツ系がいいような気がするがのう。無色の方がグラスの色が映える」
「そうだよねえ。ウイスキーやバーボンはそのものの色を楽しまないと勿体無いし……」

待ちわびた逸品を使用人に洗わせようという気はないらしい。
肘までシャツを腕まくりして、嬉しそうにスポンジに泡を立てている太乙を、太公望はダンボールの中にまだ残っていた緩衝材を片付けながら横目で見守る。

「ねえ太公望」
「うん?」
「明日、楊ゼンは来れるのかい? せっかくだから披露したいんだけど」
「明日……は、多分大丈夫だと思うがのう。最近バイトが不規則だからな、確約はできん」
「えー。確約して欲しいなあ」
「言っておけば、明日は無理でもその次には来るだろうよ。ああ見えても相当律儀だから」
「うん。だから煮え詰まっちゃうんだろうね。一旦考え出すと」
「そこに戻ったか」

一旦途切れていた話題が復活したことに、太公望はまた新たな微苦笑を浮かべる。
そこに滲むほろ苦さに、おそらく太乙は気付いただろう。
たとえ楽しげにタンブラーを磨いていたとしても、その能天気な姿に騙されると、後々とんでもない所から足をすくわれることになる。
決して太乙自身には、さほど悪意はない……というより、単に好奇心旺盛で、興味を持った相手をつっつかずにはいられないだけの話なのだが、その分、ずばりと切り込んでくるから、時々、彼の言葉は精神衛生上よろしくないのだ。
もっともその分、口調は軽いし、言葉も時折、驚くほど優しかったりするのだけれど。

「大変だよね、お年頃は」
「のようだな」
「他人事みたいに」
「実際、他人事だし」
「おや、クールなお言葉」
「うむ」

ちいさく笑みを口元にはいて、太公望は洗ったばかりのタンブラーに指紋が付かないよう、やわらかなタオル越しに取り上げて水分を拭き取る。
その手元で、白いパイル地にくるまれた青は、まるで地中海に浮かぶ白い島と海をそのままそこに持ってきたかのように、カウンターの上のスポットに照らされて鮮やかな煌きを放った。

「あやつが決めることだから。どんな結論になってもいいと思っておるよ」
「それでいいんだ」
「これがわしのやり方」
「それはそれは。本気で愛してるんだね、楊ゼンのこと」

言われて、初めて今夜、太公望は破顔し、いつものきらめくような笑みを浮かべる。
そして、そのままの瞳でカウンター越しに太乙を見やった。

「羨ましいか?」
「いいや。私は色恋沙汰には向いてないからね」
「ふぅん?」

風貌や性格だけで言うのなら、案外もてるだろうに、と内心で太公望は呟く。
少なくとも、いわゆる彼女いない暦=年齢のモテナイ君な雰囲気は、太乙にはないのだ。
一見子供じみたところもあるが精神的には年相応に成熟しているし、かなりのマニア気質ではあるものの、世の中には、好きなことに夢中になって侵食を忘れる芸術家タイプ、あるいは職人タイプを好む物好きな女性も多いから、これまで恋人が全くいなかったとは、ちょっと思いにくい。
にもかかわらず、どこそこの店の新人の娘(こ)が可愛いとか、普通の男同士の世間話はするのに、肝心の浮いた話はこれまで一度も聞いたことがなかった。
そもそもからして、付き合いそのものはもう何年にもなるのに、太乙のプライベートについては殆ど知らないと言っていい。
自分よりも十歳ばかり年長であることと、元は最先端技術を開発する研究所の職員であったこと、そんな程度のことが分かっているだけで、たとえば家族構成であるとか、詳しい履歴などは聞いたことも聞かされたこともない。
これまで気にしたこともなかったが、案外、謎の相手だということに今更ながらに太公望は思い至った。

「とにかくだ。楊ゼンが来ても余計なことは言うなよ、太乙」
「もし言ったら?」
「わしの知る限りのネタを、この界隈に流す」
「うわ! ひどっ! 友情より恋人を採るんだ!?」
「おぬしに関しては、それが当たり前」
「うわ〜っ。何だかすっごいショック〜」

派手に呻く太乙に構わず、太公望は壁にかけられた年代物の振り子時計を仰ぐ。

「そろそろ看板にするか。今夜はもう誰も来そうにないしのう」
「それはいいけど……。ショックだ〜」
「そこ、うるさいぞ」

さっさと仕事をしろとばかりに、太公望はカウンターを離れて、表の立て看板をしまうために店を出る。
そして看板を片手に狭い階段を下りて地階に戻ってくると、太乙はまだカウンターの中で呻いていた。

「こら、そこのぐうたら店主。さっさと後片付けをせんかい」
「今度はぐうたらって言った〜っ」
「おぬしを見ておれば誰でも言うわ」

相手にしだすとキリがない。
そんな雇い主の性格を知り尽くしている太公望は、それきり口をつぐんで、テーブルを拭き始める。
無視される形になった太乙はしばらくの間、太公望の人非人〜、とぶつぶつ言っていたが、しかし、口で何と言おうとやるべきことはわきまえている性格である。手際よく、水回りの片づけを始めた。




客が少なかったこともあって、片付けは簡単に終わり、店じまいを始めてからバーテンの制服を着替えてしまうまで、二十分もかからなかった。
奥の部屋から着替えを終えて出てくると、太乙は届いたばかりのタンブラーをどの棚にしまうべきか思案しているところだった。
なにせ、到着を待ちわびた自慢の逸品である。
できることなら、棚の中でもとりわけ照明の光が届き、客からも良く見えるような位置に置いてやりたいのだろう。

「太乙、わしは帰るぞ」
「あ、うん。また明日ねー」
「うむ」

カウンターの後ろにある棚を見上げながらの生返事に苦笑しながら、太公望は再び奥へと戻り、ビルの裏口から地上へと出る。
夏の終わりの夜風はむっとした熱を多分に残していて、冷房で冷えた身体には少しだけ心地よくも感じられる。
ちらりと辺りに渦巻くネオンの洪水に目をやり、しかし太公望はそれらに背を向けて、いつもと同じ歩調で家に帰るべく歩き出した。










「あ……」

溢れんばかりだったネオンが途切れ、ぽつりぽつりと街路灯が光るだけの道に差し掛かるちょうどその境目に、太公望は見慣れた人影を見出す。
だが、すぐに声をかけなかったのは、真夜中過ぎという時刻のせいではなく、相手の方がこちらに気付かなかったからだった。
ガードレールに軽く腰を下ろすようにして、ややうつむいた横顔に、仕方がないな、と淡い苦笑を覚えながらゆっくりと近づく。
と、人間よりも早く、その足元でお座りをしてしっぽをぱたぱたさせていた黒っぽい犬の方が、待ちきれない様子で立ち上がった。

「先輩」

ふと夢から覚めたような表情が、こちらを振り返る。
気付いた途端、瞳に浮かぶ笑みだけはいつもと変わらなくて、そのことが嬉しいと感じながら、太公望は歩みを速めるでもなく近づく。

「おかえりなさい」
「ただいま」

クロも御苦労様、と身をかがめて頭を撫でてやると、犬はしっぽを元気よく振りながら小さく、わん、と鳴いた。

「すみません、クロがいたから今夜は店までいけなくて」
「構わんよ。太乙は会いたがっておったがな」
「マスターが?」
「今日、ベネチアングラスの逸品が届いたから、それを自慢したかったらしいよ。あいにく今夜は客もロクにこなかったしな」
「そうなんですか」

それは拝見させてもらわないといけないかな、と呟く恋人を、太公望は淡く笑んだ瞳で見上げる。

「綺麗な青いタンブラーだったよ。地中海の海そのものの色だった」
「へえ。それじゃあ、やっぱり見せてもらいたいですね」
「頼まなくても見せびらかすだろうさ、あの様子では」
「そんなに嬉しそうだったんですか」
「そりゃもう。浮かれまくっておったよ」
「あー、何だか目に浮かぶなあ」

笑いまじりの言葉を交わしながら、二人と一匹はゆっくりとした歩調で歩き出す。

「おぬしのバイトの方はどうだった?」
「あ、今日はすごくいいことがあったんですよ。例のプロ写真家のフィルムが持ち込まれて……」

おかげで帰るのが遅くなったんですけど、と言いながらも、楊ゼンの声はなめらかに流れて。
いつのまにか季節の移り変わった秋の星座の下、響きのいいその声に耳を傾けながら、太公望は口元にほんのりと、少しだけ切なさの滲む笑みを刻んだ。










青春真っ盛り・太公望視点編。
このシリーズでなくとも太乙さん書くのは、すごく楽しいです。
しかし、太公望がべた惚れすぎてニセモノ臭いですよ・・・・。

頑張れ青少年。
日本の夜明けはどっちだ!?


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