#073:煙
「──ただいま」
後ろ手に玄関の錠を下ろしつつ、家の中に向かって声をかける。
ただいま、と告げるのは帰宅時の習慣のようなもので、幼い子供のように家人が答えるまで呼び続けることも、声を張り上げることも、とうに二十歳を過ぎた今はしない。
けれど、返事が返らないことには、少しばかりの違和感を覚える。
別段、出迎えて欲しいわけではない。
こちらも子供ではないし、相手も保護者ではない。ましてや、互いが帰宅した時には出迎えると約束をしたこともない。
しかし、玄関に靴があり、リビングに明かりがついていることからしても、同居人が既に帰宅していることは間違いないのに、おかえりなさい、という声と姿がないことに、何とも言えない感覚が心をよぎる。
溜息未満の吐息が零れ落ちそうになるのを自覚しながら、廊下を過ぎざまにリビングに視線を向けても、明かりがついたままのそこには、やはり誰の姿もなく。
「────」
数秒の間、二階へと続く階段を凝視する。
そして、一つ息をついて、さほど幅の広くない極ありきたりの住宅の階段を上り、その先に続く短い廊下へと視線を向ける。
案の定、明かりの灯っていない廊下の床面に、細い一筋の光が零れていた。
ゆっくりと、足音を忍ばせるようにドアの前まで近づき、ノックしようと片手を上げて。
ドアを見つめたまま、上げた手が止まる。
──自由に使ってくれて構わない、と告げて明け渡した六畳間。
室内には、大した家具もない事は重々知っている。
何の装飾もないベッドとデスク、タンス、戸棚。
たったそれだけしかないウィークリーマンションよりも殺風景な部屋は、実際、ビジネスホテル以下の、身の回りの物を収納する程度の意味しか、これまで与えられたことはなかった。
けれど、今は。
「───…」
上げた手をゆっくりと下ろし、もう数秒、ドアを見つめてから、踵(きびす)を返す。
そして再び、足音を忍ばせるようにして階段を下りて。
しんと静まり返った家の中で、一つだけ、溜息をこぼした。
長い菜箸を器用に操りながら、手際よく料理を盛り付けてゆく。
そうしながら、太公望は一瞬、手を止めて、階上を窺うように天井へとちらりと視線を向けた。
けれど、まなざしはすぐに伏せられて、手元の鍋の中身へと移る。
決して何かが不満というわけではない。
だが、こうして一人きり、夕食の支度をしているという現実には、どうにもならない違和感が込み上げてきて、時折、手を止めずにはいられなくなる。
共に暮らすようになってから、ちょうど三年。
自分も楊ゼンも大学生になってからは、世間の学生像とは裏腹に、びっしりと時間割の埋まった講義や大量のレポートに追われ、更にはアルバイトにも追われて、二人で過ごす時間は極端に限られるようになった。
それ以前の段階で同居を始めていたから良かったものの、そうでなければ、同じ大学に通いながら逢うこともままならないような日々の連続に、おそらくどちらかがキレていただろう。
だからこそ……互いに多忙を極めていたからこそ、自分も楊ゼンも、二人でいられる短い時間を大切にしてきたつもりだった。
何を約束したわけでもないが、家に居るときは、まず間違いなくリビングか、その続き間のダイニングキッチンにどちらの姿もあったし、どちらかが忙しくて手を離せないというような時以外は、食事の支度も後片付けも、二人でするのが当たり前だった。
こんな風に、どちらも家の中に居ながら、一階と二階、まったく別々の場所に居たことは、これまで皆無だったと言ってもいい。
「────」
今ここには居ない相手の心情は、具体的に聞いた事はないが、大体の所は承知している。承知しているつもりだった。
だから、咎めようとは思わないし、不満があるわけでもない。
ただ。
ただ、少しばかり──…。
大きく息をつき、太公望は軽く頭を振る。
同居人でもあり、恋人でもある相手のことだ。関係ないとは決して言わない。
だが、自分の問題でないのは事実。
今は何も言うまいと、夕飯の支度の整った食卓をちらりと見やり、太公望は楊ゼンを呼ぶべくダイニングキッチンを離れた。
先程とは違い、あえて足音を忍ばせるようなこともせずに普通に階段を上がり、自分の部屋の前を通り過ぎて、隣の部屋のドアの前に立つ。
「楊ゼン、飯だぞ」
コンコン、と軽いノックの音を響かせれば、直ぐにドアの向こうで少々慌てたような気配と立ち上がる物音が聞こえた。
待つまでもなく、ドアが開かれて。
予想通りの表情をした恋人が姿を見せる。
「すみません、時計を見てなくて……。いつ帰ってきたんですか?」
「んー? 二時間くらい前、かのう。クロを散歩に連れて行ってから、夕飯の支度をしておったから」
「……すみません」
悄然と愕然がないまぜになったような、何ともいえない叱られた犬のような表情で詫びの言葉を繰り返す。
そんな楊ゼンに、太公望は優しい笑みを淡く口元に滲ませた。
「良いよ、別に。わしは今日は暇だしな。それより飯にしよう」
「──はい…」
表情は変わらないものの、楊ゼンは素直に部屋の電灯を消し、太公望の言葉に従う。
それ以上特に何を言うでもなく、二人は階下へと下りて。
いつもと変わらないような夕食の時間が始まった。
「先輩」
何かを思う風の楊ゼンの声が太公望を呼んだのは、二人で夕食の後片付けをしていた最中だった。
「少しお話があるんですけど……いいですか?」
「……うむ」
食器をすすぐ手を止めないまま、太公望はうなずく。
互いが何かを切り出した時、それを拒絶したことはこれまでの二人の関係で一度もなかった。
「ここの片付けが終わったらな。コーヒーか茶かを入れて、それからだ」
「はい」
三年も共に家事をしていれば、改めて確認の言葉を交わすまでもなく、阿吽の呼吸でまたたく間に片付けは終わる。
浄水器を通した水を満たしたケトルをガスコンロにかけ、二人分のマグカップを出したところで、ダイニングキッチンには微妙な沈黙が落ちた。
その中であえて言葉を捜すことはせず、太公望は手元にある二つのマグカップを眺める。
片方は紺藍の地で模様のないのシンプルなデザイン、片方はミルクホワイトにくすんだグリーンで、デフォルメされた蔦の葉が描かれた、これもまたシンプルな印象のデザイン。
揃いでもなければ、購入した店さえ違うマグカップの取り合わせが、太公望は自分たちらしくて好きだった。
改めて振り返るまでもなく、自分たちの関係はいつもそうだった。
共に在ろうとする気持ちと、物事に対するスタンスが少しばかり似ているだけで、それ以外の好みはまったく異なる。
互いの好みについても、『自分で買おうとは思わないが好きな部類』の範疇のものであったから、二人分の小物が並べておいてあっても別段、不協和音を奏でることはなかったが、それでも個人の持ち物は、パソコンも携帯も、服も鞄も、それぞれにこだわりを持ってブランドやメーカーを選び、手元に置いている。
それについて、たとえば購入を迷った時などに意見を求められれば応じるが、だからといって、相手の持ち物をけなすことはない。
相手が気に入っているのなら文句はなかったし、また、自分の感性から見るとあまりにも珍妙な品であれば、それを素直に口にし、反論して最後は二人で笑い合うのが常だった。
それが、自分たちの在り方だった。
だから。
「────」
沸騰した湯をドリップに注いで、ゆっくりとコーヒーを入れる。
そして、温めたマグカップに注ぎ分けてしまえば、もうそれ以上する事はなかった。
「──それで?」
ダイニングテーブルの椅子を引いて、腰を下ろしながら問いかける。
いつもと同じ表情を見せているだろう自信はあったが、久しぶりに煙草が欲しいと思った。
自分も楊ゼンも吸わなくなってから随分経つ。愛用していたスターリングシルバーのスリムライターも、自室の机の引き出しに放り込んだまま、手入れをすることも忘れている。
今、ここに一本、マルボロがあったところで何が変わるわけでもない。
それでも曖昧な雰囲気を作ることが得意な小道具が今、手元にあれば、少しばかり自分も楊ゼンも楽になれるような気がした。
「──先輩と僕と……二人で暮らすようになってから随分経ちましたよね」
「……三年ちょっと、か? あっという間だった気もするが……」
「ええ」
楊ゼンの言葉を待ちながら、太公望は自分のマグカップに満たされたコーヒーの水面を小さく揺らしてみる。
何となく気分で、ミルクなしの砂糖入りにした今夜のコーヒーは、香りは良いもののほろ苦い。
いつもと同じブラックの楊ゼンは、今夜のコーヒーの味をどう感じているのだろう、とふと思った。
「それで……勝手だとは思うんですけれど、一度、僕は自分の家へ戻ろうと思うんです」
その一言を、太公望は静かに聴いた。
「あなたは何も言いませんけれど、このところ、僕はあなたとまともに話をすることもできていない。今日だって、あなたが帰ってきたことにすら気付かなかった。それでは駄目なのに……」
「───…」
「今の僕が、あなたと一緒に居ても意味がない。だから、一度一人になって頭を冷やしたいんです。それで、きちんと考えて……」
「楊ゼン」
静かに、名を呼ぶ。
そうすることで相手の言葉を遮って、太公望は真っ直ぐに目を上げた。
「負担や不満を感じたのなら、すぐにそう言う。わしは我慢などしたりせぬよ」
「ですが……」
「何度も言わせるな。わしは、おぬしの何だ?」
待つことなら幾らでもできた。
沈黙を保つことも、幾らでも。
だが、言うべき時には、言うべき事はすべて言う。
そう決めていたから、太公望の中に迷いは無かった。
「はっきり言っておくが、わしは今のおぬしを一人にする気はない。一人になってどうする? 今、自分がどういう顔をしておるのか分かっておるのか?」
「どうって……」
直ぐには答えず、太公望はマグカップをテーブルにおいて立ち上がった。
そして、テーブルを回り込み、楊ゼンの傍らへと立つ。
ゆっくりと上がった手が、優しい仕草で楊ゼンの頬に触れた。
「おぬしが何を考えておるのかくらい、分かっておるよ」
「……せ…」
「それはおぬしが答えを出すべきことだが、だからといって物理的に一人きりになる必要がどこにある? 今ですら、食事の時間を忘れるくらいなのに、誰も居ないマンションでどうやって過ごす気だ?」
「そんなことはどうにでも……」
「人間の基本は、まともな衣食住だ。そのバランスを崩した中で、まともな答えが出せるわけがなかろう」
仕方のない、というように太公望は、まるで愛犬を撫でる時のような手つきで楊ゼンの髪を梳く。
「ここに居ればいい。おぬし一人の世話くらい、わしにはどうということはないよ。既に庭には一匹、ワンコが居るのだし」
「……僕はクロと同じレベルですか?」
「似たようなものだ。クロの方が良い子で手がかからぬ分、上かもな」
くすくすと笑いながら、ひどいなぁとぼやく楊ゼンの頭を胸元に抱き寄せる。
「おぬしは時々、真面目すぎるのだよ。もう少し肩の力を抜いていいし、甘えてもいい。限度を越えたら、ちゃんとわしが叱ってやるから」
「──何だか、すごく情けないんですけど」
「今更何を言っておる」
一番最初から、おぬしはそうだっただろうが、と太公望が笑うと、楊ゼンは答えようが無いとばかりに唸った。
そんな年下の恋人を抱きしめて、太公望は静かな声を聞かせる。
「ゆっくり考えれば良いよ。わしはここに居るし、おぬしもここに居る。考えるのであれば、その上で、だろう?」
確かな響きで綴られた言葉に、しばし黙って。
「あなたには敵わないな……」
楊ゼンは苦笑交じりの大きな溜息をついた。
それまで下ろされたままだった両腕が上がり、太公望の背中へと回される。
抱き寄せられる感触に、太公望は目を閉じた。
「──本当は、もう答えはほとんど出てるんです」
少しばかりの沈黙の後。
告げる声は、呟くようだった。
「ただ、それを選ぶにはまだ僕に勇気が足りない。それだけの、ことなんです」
「……それだけ、でも、おぬしには大切なことだろう?」
客観的に見れば、それだけ、でも、本人にとっては、とてつもなく重い。
そういうこともあるはずだと、太公望は静かに言葉を返す。
すると、背を抱く楊ゼンの腕の力が強くなった。
「……すみません。あなたはいつでも、こうして傍に居てくれるのに……。僕は自分一人の考えにはまり込んで、あなたの優しさをを傷つけるようなことを……」
誰よりも大切に……一つも傷などつけたくないのに、と囁く声に太公望は楊ゼンの背を抱き返す。
「おぬしは、わしを傷つけてなどおらぬよ」
「先輩……」
「おぬしはわしを傷つけたりはしない。そうだろう?」
───それは、一番最初の約束ではない約束。
本当に悪意をもって傷つけられる、ということがどういうことなのか、太公望は知り尽くしている。
そして、楊ゼンもまた、今は太公望の中に眠る傷痕の深さを、自分の痛みとして知っている。
だから、傷つけない。
傷つけられない。
誰よりも大切に想われている気持ちも、それを伝えようと心を砕き、持てる力の全てを尽くしてくれていることも、十分過ぎるほどに知っている。それなのに、傷つけられることなどあるはずもない。
たまの不可抗力など、かすり傷にすらならない。
「そう簡単に、わしは傷ついたりなどせぬよ」
痛みを知る者であるからこその強さで、太公望は告げる。
と、楊ゼンもまた、仄かに含み笑って太公望を抱きしめた。
「ダイヤモンドを傷つけられるのはダイヤモンドだけ、ですか」
「そういうことだ」
戯言めいた言葉に互いに小さく笑って、二人は少しだけ腕の力を緩める。
そして至近距離で瞳を見交わし、ゆっくりと口接けた。
「──もう少しだけ、待っていて下さい」
「良いよ」
だがのう、と太公望は続ける。
「何です?」
「クロを散歩に連れて行くくらいはしてやれ。あやつは、おぬしを飼い主として認識しておるのだから」
「……僕が見るところ、クロは僕よりもあなたの方に忠実な気がしますが。僕の声より、あなたの声に反応しますし。どう見ても、彼は僕よりあなたを好きですよ」
「それでもだ。クロを拾ってきたのはおぬしだろう?」
「──はい。善処します」
「よろしい」
すました口調でやりとりを終えて。
互いの顔を見つめ、そして同時に破願する。
笑いながら、じゃれ合うようにやわらかく回した両腕に感じる温もり。
それが一番大切なものだった。
ひっきーでヘタレな楊ゼンと、漢前で母性愛に満ちた太公望。
段々、割れ鍋に綴じ蓋っぽくなってきました……。(今更?)
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