#069:片足







マグカップを片手に寝室に戻ってくると、太公望はベッドの上に起き上がっていた。
パジャマの上だけを軽く肩に羽織り、立てた片足の膝に頬杖をついて窓の外を眺めている。
いかにも春らしい朧月の光にやわらかく照らし出された、その輪郭は、ただ綺麗で。
一瞬、出す言葉に迷った。

「どうぞ」
「ん」

普段はどちらかというとコーヒー党のくせに、情事の後は、何故か香りのいい茶を太公望は飲みたがる。
くつろいで良い気分だからかのう、と曖昧な理由をもらったのは、もう何年か前の話だ。
今夜もリクエストに従って、楊ゼンがキッチンで入れてきた桂花茶のマグカップを、彼は穏やかな表情で口に運ぶ。
独特の甘く優しい花の香りが、熱の余韻を穏やかに鎮めていくようで、ベッドに腰を下ろした楊ゼンは、もう一度少しだけ、思いついたことを口に出すのをためらった。

「先輩」
「ん?」
「こういうことを僕が聞くのは、無神経だと思うんですけど・・・・」

どんな表情をするべきかと迷うような淡い微笑で切り出した楊ゼンに、太公望は目で先を促す。
向けられた瞳の深い色に、真剣に紡いだ言葉であれば何であれ、この人は受け止めてくれるのではないかと、信頼とも甘えともつかない気がして。
楊ゼンは喉元でわだかまっていた言葉を、形にして押し出す。

「女性を抱きたいと・・・・思うことはありませんか?」

どう聞いても無神経極まりないその質問に、しかし、太公望は怒りも驚きもしなかった。
一つまばたきして、それからかすかに笑みを含んだ静かな表情で楊ゼンを見つめる。

「おぬしは?」

表情と同じく、静かに向けられた凛と澄んだ声に、楊ゼンは正直な思いを胸の中に探る。
この恋人相手に嘘などつきたくないし、ついたところでおそらく感づかれるに違いない。
第一、答えにくい質問を先にぶつけたのはこちらの方なのである。
ごまかすことなど、最初から思いもよらなかった。

もう何年も触れていない、女性のやわらかさ。
一度知れば忘れがたいその心地よさは確かに、思えば掻き立てられるものがないとは言えない。

「・・・・僕も男ですからね。好みのプロポーションの女性がいれば、どうしても自然に目は向きます」
「細くて、綺麗に筋肉がついてきゅっと足首の締まった脚とか?」
「ええ」

普段、そういうことを口にしなくても四六時中、一緒にいれば好みのタイプくらい把握できる。
そういうあなたは、少しふっくらとしたやわらかそうな雰囲気の女性が好きでしょう、と苦笑しながら、楊ゼンはうなずいた。

「確かに好みの女性のタイプというのはあるんです、今も。でも、抱きたいかというと少し違うんですよ」

そして、静かに続けた言葉に、太公望は深い色のまなざしを向ける。
ほのかに湯気を立ち上らせるマグカップを、細い、女性のやわらかさは無いが綺麗な骨格の手にしたまま、間違えないようにゆっくりと言葉を綴ってゆく恋人の声に、黙ったまま耳を傾ける。

「いい感じだな、と思っても、そこで思考が止まるんです。それ以上先には進まない。手を触れたら気持ちいいことは分かってるんですけど、自分の手を伸ばしてもいいとは思えないというか・・・・。上手く言えませんけど、『僕のものじゃない』と感じるんです」
「・・・・ひどいたとえをするなら、『自分の弁当があるのに、どんなに美味そうでも他人の弁当を勝手に食べていいはずがない』という感じか?」
「・・・・・本当にひどいですけど。はい」

片膝に頬杖をついたまま、悪戯っぽく笑って助け舟を出した太公望を、楊ゼンは苦笑の滲んだ瞳で見つめる。
その感覚は、いわゆる倫理観とかそういった類のものなのかもしれない。
だが、恋人がいるから浮気はいけないという理屈で抵抗を感じているわけではなく、ただ、『それは違う』と心のどこかが告げてくるのだ。

「だから、抱きたいとか欲しいとか思うのは、今は本当にあなただけです。あなた以外には、どんなスタイル抜群の美人を前にしても多分、反応しません」

静かに、だがきっぱりと言い切った楊ゼンに、太公望は半分ほど残っているマグカップの中身をゆっくりと揺らしながら、小さく苦笑まじりの溜息をついた。

「そこまで自分は答えを出していながら、どうして、わしに聞く?」
「どうしても何も、僕とあなたとでは立場が違うでしょう?」

抱くのと、抱かれるのと。
たとえ得られる快楽の深さは同じでも、質がまったく異なるのは自明だ。
だからこその質問だったのだが、太公望はまた、即答はしなかった。

「・・・・おぬしと知り合う前は、確かに経験もあるがのう」

軽く頬杖をついたまま、窓の外にまなざしを向ける。

「一度知った快楽というのは、簡単に忘れられるものではないからな。欲望に負けて何度かは手を出した。やわらかくて温かいものに触れるのは、誰でも気持ちいいものだろうし、生理的な快感も勿論あったよ。・・・・だがのう」

淡々としていた声が、不意にほのかな翳りを帯びる。
滅多にないその響きに、楊ゼンは、はっとなった。

「女を相手にすると、どうしてもあの時のことを思い出す。自分もこんな風に男たちに体を弄られて、よがってみせたのか、とな。まるで目の前で実演されているようで・・・・そう何度もしないうちに嫌悪感の方が強くなって、それきりだ」

そう言って、太公望は淡い自嘲の笑みを滲ませて、楊ゼンに目線を戻した。

「おぬしに抱かれる時は、全然気にならぬのにな」

現金な話だと、そしてまた、太公望は手元のマグカップの桂花茶を軽く揺らす。

「だから、女性が嫌いなわけでもないし、今なら普通に抱けるような気がするが、積極的に欲しいと思うことは無いよ。第一、おぬしとSEXして、その上で女が欲しいと思うほど、わしは絶倫でもないしな」

聞く側の楊ゼンの気持ちを思いやったのだろう。
冗談めかした言葉で締めくくり、太公望は一番最初と同じ静かな表情で楊ゼンを見つめた。
だが、楊ゼンはいたたまれずに、まなざしを伏せる。

「すみません・・・・」
「うむ」

心の底から自分の無神経さを詫びた楊ゼンに、太公望は否定することなくうなずく。

「だが、知らぬままに、悶々と気にしておるよりは良いだろう?」
「───・・・」
「半年や一年で終わるような関係なら、知る必要も話す必要もないことだが・・・・違うだろう?」

深い色の瞳が、静かに楊ゼンを見つめる。
その凛と透きとおった色合いに、顔を上げた楊ゼンは言葉もなく見惚れた。

「いずれ話すことになるかとは思っておったし、聞いてくれて嬉しかったよ」
「・・・・すみません・・・・」
「良いよ」

太公望は淡く笑んで、楊ゼンの謝罪を受け入れる。
窓から降り注ぐ朧月の光にも似た、やわらかなまなざしに誘われるように楊ゼンは、ややためらいながらも手を伸ばした。
彼がずっともてあそんでいたマグカップを受け取ってサイドテーブルに置き、それからそっと頬に指を触れて、確かめるように梳いたやわらかな髪に、ついばむような口接けを落とす。
そして、細い肩を、ひどく大切なものを扱うように自分の胸に抱き寄せた。

「──あなたの感じ方というか・・・感覚は分かりましたけど、でも、」

でも、と言いかけた言葉は、少し冷えた指先に遮られる。
驚いて腕の中を見下ろした楊ゼンを、太公望は左手の人差し指で青年の唇を抑えたまま、まっすぐに見上げた。

「それは言うな」
「────」
「それを聞いたら、わしも、わしでいいのかなどという寝呆けた質問をしなければならなくなる」
「───・・・」

そして、太公望は小さく笑って指を離し、変わりに自分の肩を抱いていた楊ゼンの右手を取って、その手のひらに軽く口づける。

「先輩」
「一つだけ教えておいてやるが、わしは、おぬしでいい、と思ったわけではないぞ」
「え?」
「おぬしならいいと思ったし、おぬしがいいと思った。それは嘘ではないから、覚えておけ」

鮮やかに・・・・不適なまでに鮮やかに笑んで。
太公望の瞳が、世界に二つとない宝玉のようにきらめいて楊ゼンを見上げる。



───どうして。
どうして、この人はこんなにまでも強くて。
こんなにまでも鮮やかに。



「・・・・・はい」

答える言葉も無く、ただうなずいて。
楊ゼンは太公望を抱きしめる。

「はい。僕もあなただけです。あなたが・・・・いい」
「うむ」

小さく笑んでうなずく太公望の両腕も、楊ゼンの背に回る。
そして、幾つも繰り返される額や頬へのキスにくすぐったそうな吐息を零し、唇へのキスを求めた。
重なった吐息はすぐに深いものへと変わり、何度も角度を変えて口接けながら、太公望の身体はゆっくりと体制を崩してベッドに沈む。
羽織っただけのパジャマからのぞく肌を、さざなみが寄せては返すような甘さで触れられて、太公望は熱を帯びた吐息まじりの苦笑を零した。

「あんまり優しくすると、このまま寝るぞ」
「眠ってもいいですよ」

楊ゼンもまた、小さく笑って答える。
触れ合いたいのは、快楽を貪りたいからではない。
何よりも大切な存在を愛しみたいからだ。
かつて欲望という名の暴力に手酷く傷つけられたことのある恋人が、自分が与える愛撫に心地よさを感じて眠ってしまうというのなら、楊ゼンにとって、それは喜び以外の何物でもなかった。

「・・・・努力はするが、本当に眠っても見逃してくれ」
「いいですよ。それならそれで、本当にあなたが寝てしまうまでこうしてますから」
「ん・・・」

一度抱き合った後ではあるし、時刻も深夜をとうに過ぎている。
横になった途端、眠気に襲われたらしい恋人に微笑して、楊ゼンは肌に触れる指先の動きを甘やかなものから、ただ優しく、いとおしむものに切り替える。
自分もベッドに横になり、抱き寄せた頭をそっと撫で、ゆっくりと肩から背中まであやすように繰り返し撫でているうちに、太公望の呼吸が深くなり、ほどなく寝息へと変わった。
恋人の穏やかな寝顔に目を細め、楊ゼンは眠りを妨げないように気をつけながら、パジャマの前ボタンを留めてやる。
そして、ベッドの足元の方にわだかまっていた羽毛布団を太公望の肩まで引き上げた。

「・・・・こんなにもあなたをもらって、僕はどうしたらいいんでしょうね」

いつでも凛とまっすぐに顔を上げ、どんな傷からも深く澄んだ瞳を逸らさない、誰よりも綺麗な人。
他の誰でもない、その人から預けられた信頼と想いの深さに、切なさに胸が痛むほどの幸福感が込み上げる。

「愛してます。本当に、あなただけを・・・・」

こんな陳腐な言葉しか言えない自分が、ひどくもどかしかった。
だが、言葉にできるような想いではないし、百万の愛の言葉を並べたところで到底足りるものでもない。
だから、楊ゼンは万感の想いを込めて、太公望の額に口づける。

そして目を閉じると、桂花茶のほのかな残り香が甘く香って。
泣きたくなるような愛しさを抱いたまま、楊ゼンもゆっくりと眠りに落ちていった。










私は普段、こういうことについてはスルーするんですが、この2人の場合は書いておくべきかな、と浮かんだネタをそのまま文章化。
こういう問題に目を逸らしたままでいられる2人ではないですしね。
しかし、仕事仕事で煮詰まってた繁忙期に何故、こんなネタが浮かぶのか。

というわけで、また次号。


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