#012:ガードレール
春の訪れを実感させる移動性高気圧が天気予報で報じられるようになった日、ふと出かけようと思ったのは、「山笑う」という古い表現を、傍らで一緒にニュースを見ていた人が呟いたからだった。
どこかで聞いたような、確か春先の山の形容だったはずと問い返してみれば、案の定、妙なところで博学な彼は、北宋の画家である郭煕の言葉で、山水画の四季を例えた四時山の一節だと教えてくれた。
春山の淡さは笑っているかの如く、夏山の翠緑は滴る如く、秋山の明浄は装うかの如く、冬山の寂寥は睡っているかの如く。
ああ、そういうものだなと・・・・ありのままの風景を捉えることが結局は一番美しく、一番難しいのではないかと、数百年も昔の異国の宮廷画家の言葉にひどく納得して。
低気圧が通り過ぎた翌日、車を出してみた。
「あれ・・・・」
三月上旬の里山は、まだ幾分、冬の寂しさの名残をとどめていて、けれども南向きの斜面には、新芽を伸ばしつつあるカタクリや、それ以外の名前の分からない幾種類もの春草が萌え出し、梢の新芽も膨らみ始めている。
山笑う、という表現には少し早かったものの、所々に咲いている梅の花の白さに目を細めながら、フィルム4本を使い果たし、そろそろ帰ろうと車に戻ったのは、夕暮れにはまだ少し早い時間だった。
空が明るくても、林道が暗くなるのは早い。
携帯電話は持って出ていたし、家で待っているだろう恋人も、無闇に無事を心配するような性格の持ち主ではない。だが、不用意に帰宅が遅くなるのは避けたかったし、できることなら夕食の時間に間に合いたかった。
そう思いつつ、夕暮れが近づいてきて刻一刻と変わってゆく空と稜線の色を横目で見ながら、曲がりくねった林道を下っていた楊ゼンが、パジェロのブレーキを踏んだのは、ちょうど山の中腹辺りに差し掛かった時だった。
この林道の先にはキャンプ場もあり、この中途半端な季節にも車の往来は比較的多い。
だから、行きにそれを見た時も、少し引っかかりは覚えたものの、わざわざ車を停めることはせずに通り過ぎたのだ。
しかし。
「────」
少し迷いながらも楊ゼンは路肩に寄せて車のエンジンを止め、ドアを開けて降りる。
夕暮れが近づいた山の風は、ジャケットを脱いだままの肩には冷たい。
だが、構わずに楊ゼンはそのまま、それへと近づいた。
近づく楊ゼンに気づいて・・・・否、車が停まった時からこちらを見ていたのだろう。
黒い瞳は、まっすぐにこちらを向いている。
その向こうで、黒いふさふさのしっぽが、持ち主の困惑を示すように一度、ぱたりと振られた。
───犬、だった。
雑種だろうか。黒を基調として部分的に茶が混じった、ふさふさの毛並みの中型犬である。
午前中に楊ゼンが通りかかった時も、この犬はここで、うろうろとしていた。
そして今もまた、ガードレールの脇で両前足を揃えてお座りをしている。
辺りには車も人影もないのも、往路と変わらない。
「捨てられたのか・・・・?」
可能性としては、ないこともない。というより高い。
何らかの事情で飼えなくなったとしても、この大きさの成犬では引き取り手を見つけることは難しいだろうし、かといって保健所に引き渡すのも忍びない。
そうして考えあぐねた飼い主が、誰か拾ってくれないかと車通りの多い林道に置き去りにした、というのは難しい想像ではなかった。
「───・・・」
動物は割合好きだったが、しかし、ずっとマンション暮らしだったから自分でペットを飼ったことはない。
どうしたものかな、と思いながらも楊ゼンは身をかがめ、目線を低くしてみる。
そして、十分に用心しながら、低い位置からそっと自分の手のひらを差し出してみた。
そうしてみたことに深い意味があったわけではない。
ただ、犬を飼ったことがあるという恋人が、公園などでよその犬に触れる時、いつもそうしているのを真似ただけである。
それに、顔の正面や高い位置から手をかざされたら動物は本能的に怖がるだろうということは、何となく見当がついた。
楊ゼンが差し出した手を、犬は困ったように見つめ、再び楊ゼンの目を見つめる。
そうしてどれほどの時間が過ぎてからか。
犬が警戒をあらわにしながらも首を伸ばして、ふんふんと手のひらの匂いを嗅ぎ、ぺろりと舐めた。
楊ゼンはほっと息をついて、気をつけながらも犬の顎にゆっくりと手を触れる。犬はそれを嫌がらなかった。
「お前は賢いな・・・」
軽く犬の首を撫でながら、どうしようかと少しだけ迷って。
楊ゼンはジーンズのポケットに入れてあった携帯電話を取り出す。
上面の小さな液晶画面を確認すると、こんな山中でもちゃんとアンテナは立っていた。
「もしもし、先輩? 僕ですが・・・・」
「おかえり」
パジェロのエンジン音で帰宅に気づいたのだろう。楊ゼンが車を降りるよりも早く、太公望は玄関から出てきた。
「すみません、いきなりあんな電話して・・・・」
「構わぬよ。事故をしたという知らせでもなし・・・・この子か」
「ええ」
楊ゼンが開けた後部座席から降りてきた黒茶の中型犬に、太公望は微笑して、その前にかがみ込んだ。
そして、楊ゼンがしたのと同じように片手を差し出す。
と、犬は少し困惑したように背後にいた楊ゼンを見上げ、それから太公望の手の匂いを嗅いだ。
「なんだ、もうおぬしのことを主人と認識しておるのか?」
「え? まさか・・・」
「いや、分からぬぞ。素直におぬしに従ったのだろう? 飼い主がおぬしに似ておったのかもな。匂いとか声とか・・・・」
「そういうものですか?」
「そういうものだ。よしよし、車酔いはしなかったようだのう」
言いながら、太公望は犬の顎や首筋を慣れた手つきで撫でる。
さすがに気持ちがいいのか、犬はおとなしくされるがままだった。
「それで・・・・」
「ああ、首輪と鎖とリードと、餌と餌入れは買ってきてあるぞ。とりあえず玄関の柱に繋げばいいだろうよ。古毛布も用意しておいた」
ちょっと待っておれ、と太公望は立ち上がり、玄関脇に置いてあったそれらを持ってくる。
そして手際よく犬に首輪をはめ、鎖を繋ぐと、一旦家の中に戻り、ほどなく餌入れを手に戻ってきた。
「絶食後のようだから、消化のいいものが良いだろうと思ってのう。牛のすね肉でスープを取っておいたのだ」
「へえ」
「というわけで、今夜はポトフだぞ」
でもこれは犬用に塩コショウ抜き、と悪戯っぽく笑いながら、スープをかけてやわらかくしたドライフードを犬の前に置く。
すると、少し困惑したような顔で太公望を見上げた犬は、「食べてよし」と告げられると、途端にガツガツと食べ始めた。
その様子を見つめて、あーあ、と太公望は苦笑する。
「よほど腹が空いておったようだな。量を少なめにして正解だった」
「やっぱり犬でも絶食後の大食いは危ないですよね」
「多分な。雑種みたいだし、人間よりは丈夫かもしれんが、いきなり餌を大量に食べれば胃がびっくりするだろうよ。──しかし、よく躾けられておるようだのう」
「ええ。とにかく全然吠えないし、おとなしいんです」
「可愛がられておったのかな。・・・・山道に捨てた言い訳にも情状酌量にもならぬが」
最後の一言は、常になく冷ややかなものを帯びていたが、楊ゼンは何も言わず、太公望もそれ以上は言わなかった。
一心不乱に餌を食べる犬を二人は並んで見つめ、綺麗に食べ終わった犬が、まだ少々物欲しげに見上げると太公望は微笑して頭を撫でた。
「今日はこれで終わりだ。また明日、やるから今日はもう休むといい」
そう言い、太公望は水入れを残して餌入れを片付け、四つ折にした古毛布を玄関脇に置いてやる。
「分かるか? ここが今夜のおぬしの寝床だ。犬小屋は追々、用意してやるから今晩はこれで我慢するのだぞ」
穏やかな言葉を、どこまで理解したのか、理解していないのか。
犬は不思議そうに太公望を見上げ、そして古毛布の匂いを嗅ぐ。
その様子を見つめて、太公望は立ち上がった。
「とりあえず、今夜はこれでそっとしておいてやろう。飼い主を恋しがって鳴くかも知れぬが、多少は仕方なかろうな」
「ええ。いきなり全然違う所に連れてこられたんですからね」
「うむ。もし鳴いたら、明日、近所にお詫びと報告に回れば良いさ。ほれ、中に入って、わしたちも食事にするぞ」
「はい」
わずかに首をかしげて、古毛布の横にお座りしている犬を肩越しに振り返って。
二人は玄関のドアをくぐった。
「先輩」
「ん?」
楊ゼンが入浴を済ませて二階の寝室に上がると、太公望はベッドの上にくつろいだ姿勢で本を読んでいた。
穏やかな表情で、ゆっくりとページをめくる様子を見つめて、楊ゼンはベッドに歩み寄り、腰を下ろす。
新たに加わった青年の重みに、ベッドのスプリングがかすかに軋んだ。
「今日は・・・・すみませんでした」
静かに告げた、その一言に。
太公望はまばたきして顔を上げ、肩越しにこちらを振り返る楊ゼンの顔を見直す。
それから、無言で開いていた本に栞を挟み、少しだけ身体を乗り出してサイドテーブルへと置いて。
「あのな、楊ゼン」
淡い溜息まじりに、恋人の名を呼んだ。
「たとえばの話だ。今日、犬を拾ってきたのがわしだったら、おぬしは怒ったり迷惑に思ったりしたか?」
「いいえ・・・」
「だったら謝るな」
そもそも犬を飼っていいと、年の初めに言っただろう、と太公望の細い人差し指が、楊ゼンの額をはじく。
その小さな痛みに、楊ゼンは淡い苦笑いを浮かべた。
「それは覚えてましたけどね。でも、ここはあなたの家なのに、勝手をしてしまった気がして・・・・」
「楊ゼン」
もう一度、今度はあからさまな呆れを滲ませて、太公望は楊ゼンの言葉を遮る。
「いい加減にせぬか。おぬしがうちに転がり込んでから、何年になる? それ以上要らぬ気遣いをするのなら、本当に放り出すぞ」
「──はい」
きっぱりと告げられた言葉に、うなずいて。
それから楊ゼンは、そっと太公望に手を伸ばす。
さらりと指から零れる洗い立ての髪を、ほのかに甘いまなざしで追い、そして楊ゼンは、太公望の額に触れるだけのキスを落とした。
「すみません」
「何が」
「さっき言ったのは、多分、わざとです」
「多分?」
「ええ。考えてみたんですが、あなたに甘えてみたかっただけかな・・・と」
「ふうん?」
「あなたは僕を否定したことがないから。ずるい話ですけど、それを確かめたかったんだと思います」
「・・・・それも謝ることではないし、ずるい話でもないぞ」
でも、これはこれでおぬしらしいか、と穏やかに澄んだ声で太公望が言い、細い手が楊ゼンの背を流れ落ちる長い髪をゆっくりと梳く。
と、不意に、くすりと太公望が笑みをこぼした。
「前から思っておったが、時々、おぬしは犬っぽいのう」
「犬ですか」
「うむ。血統書つきの大型犬かな。尻尾のふさふさした奴」
「それなら、あなたは猫ですよ」
時にはするりと差しのべた手を逃れてしまうのに、いつのまにか、ぴったりと寄り添っていたりする。
そんな気まぐれで、大きな目をきらきらさせた黒猫、と言うと、太公望は更にくすくすと笑った。
「犬と猫か。けだもの同士で相性がいいのか悪いのか・・・・」
「悪いと思います?」
すばやく唇を重ねて、顔を覗き込むように楊ゼンが問うと。
太公望は目をまばたかせ、それから綺麗な笑みを浮かべた唇でキスを返した。
「お星様に聞いてみるかのう」
「答えてくれますかね?」
「最悪とか言われたりしてな」
「言わせておけばいいんですよ、そんなのは」
戯言めいた睦言を交わしながら、子犬と子猫がじゃれるように二人は触れるだけの軽いキスを幾つも互いに降らせる。
そして、楊ゼンのパジャマのボタンに手を伸ばしながら、太公望がどこか楽しげに言った。
「犬の名前、考えなければのう」
「そうですね、どんなのがいいかな」
「黒いから、クロとかクマとか」
「そんな安易な・・・・・」
「なら、ポチかコロでどうだ」
冗談なのか本気なのか、本気ならある意味すごい恋人のネーミングセンスに苦笑しつつも、楊ゼンは太公望の首筋にキスを落とす。
ちり、と肌を灼く熱に、太公望も息を詰めて笑いを途切れさせて。
それきり、触れ合う甘さに二人の意識は融け、春先の夜は窓の外を淡く更けていった。
というわけで、二人が犬を飼うことになるお話。
色々考えたのですが、子犬をもらうとかペットショップで買うとかは、どうしてもこの2人には似合わない気がしたので、捨て犬を拾ってもらいました。
ちなみに楊ゼンの愛車であるパジェロは、大学の知り合いに7万円で譲ってもらった中古車で、新車じゃありません。このシリーズの楊ゼンに新車は似合わないので。
(いや、先日7万円で買ったというパジェロを見たので。伝票見た時、てっきり手付金かと思って聞いたら違った・・・)
似合わない物尽くしの、割れ鍋に閉じ蓋の2人。
でもやっぱり幸せだし、勝手にやってろな砂吐きラブの毎日です。
あ、書き忘れるところでしたが、犬の名前募集。
私が考えると、クロかクマかブラックハヤテ号にしかなりませんので、どなたかいい名前を考えて下さいm(_ _)m
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