#048:熱帯魚
ちょっとまずい相手に会ったな、と思った。
「たまには遊びに来てくれてもいいじゃない。サービスしてあげるわよ」
そう言って、あでやかに微笑むのは、顔見知りのホステスだった。
この数軒先にあるキャバクラのナンバーワンで、年は20代後半に入ったくらいだろうか。スタイルのいい華やかな雰囲気の美人である。
そこまでお客を送ってきたらしい彼女に、偶然、楊ゼンは行き会ってしまったのだ。
彼女との関係はあくまでも顔見知りであり、それ以上でもそれ以下でもない。
だが、彼女の方は見栄えの良い青年である楊ゼンのことを気に入っているらしく、こうして顔を合わせるとお誘いをかけてくる。
サービスしてあげるとは言っても、ただにしてあげるとは言わないのに、相手に嫌悪感を与えないのは、さすがに店ナンバーワンなだけある。
が、くっきりはっきり、「美味しそうvv」と綺麗な笑顔に書いてあるとなると、もう苦笑するしかない。
「すみません。こう見えても一応、好きな人がいるんですよ」
「嘘、って言いたいところだけど、分かるわよ」
「そうですか?」
「そうよ。私がちょっといいな〜と思う人は、皆、好きな人がいるの。優しい目をしてるのも当たり前よね」
優しい、と女性に言われたことはなかったから、正直なところ、楊ゼンは少し戸惑う。
しかし、彼女の方は気にしていなかった。
「好きな人がいる。結構じゃないの。新しいテクを開発させてあげるわよ」
「だから、勘弁して下さい」
あっけらかんとした言葉に、今度こそ苦笑が零れる。
「本気で、その人のこと、裏切りたくないんですよ。お誘いには、かなりくらくらきてるんですけど」
「嘘つき」
ちょこっと拗ねたような表情で、彼女は楊ゼンを見上げる。
が、誘いは本気でも、楊ゼンが乗ってくるとは最初から思っていなかったのだろう。次の瞬間には、さっぱりとした表情で微笑む。
「いい男って、どうして皆、こんなのかしら。こんなにいい女が誘ってるのに・・・・あら」
何かを見つけたように、彼女の瞳が動く。
その視線を追って、楊ゼンもそちらへと顔を向け。
軽く目をみはった。
休憩時間になったのだろう。ビルの通用口から出てきたその人は、壁に軽く寄りかかって煙草に火をつける。
一連の隙のない、流れるような動きを何となく二人は無言で見守った。
と、相手の方がこちらに気付いて、少しだけ驚いたような表情をした後、微笑と共に彼女に目礼した。
「相変わらず綺麗な子ねぇ」
にっこりとあでやかな笑みで片手を振り返してから、小さく彼女は溜息をつく。
その横顔には、はっきり「味見してみたい」と書いてある。
それを見て、楊ゼンはまた苦笑した。
「そろそろお店戻らないとまずいんじゃないですか? またミナさん目当てのお客が来てると思いますよ」
「そうね。いい加減にしないとフロアマネージャーに怒られちゃうわ」
うなずき、楊ゼンを見上げる。
「その気になったら、遊びに来るのよ。うんとサービスしてあげるから」
「ええ。フラれた時には是非、慰めて下さい」
「まかせてちょうだい。じゃ、これ約束ね」
え、と思った時には、もう遅かった。
向こうに居る人に意識が向いていたせいもあるだろう。
甘い甘いプアゾンの香りが鼻先をかすめて。
「ご馳走様」
にっこりと笑うと、彼女はピンヒールを鳴らして人込みとネオンの中に消える。
その後ろ姿を、いささか呆然と見送って。
楊ゼンは、スローモーションな動きで、向こうのビルを振り返った。
煙草を手にしたまま、太公望はうつむいて小さく肩を震わせていた。
休憩に出てきて思いがけない場面を一部始終、目撃してしまったわけだが、楊ゼンの心理を想像するとどうしようもなく笑いがこみ上げてくる。
爆笑しそうになるのをかろうじてこらえ、煙草の灰が長くなっているのに気付いて、足元に捨て、火を踏み消す。
それから、近付いてきた人影に顔を上げた。
「───・・・」
言いかけた言葉を止め、楊ゼンは何かを思うように一瞬、まなざしを彷徨わせる。
そして、改めて太公望を見つめた。
「──すみません」
ただ一言だけ、告げる。
その神妙な台詞と表情に、太公望は一つまばたきしてから小さく微笑って。
ちらりと通りの方に視線を走らせてから、伸び上がるようにして唇を重ねた。
「先輩・・・・?」
一瞬だけ触れて離れたキスに、楊ゼンは目を見開く。
と、太公望は軽く笑んだまま、楊ゼンを至近距離から見上げた。
「ミナさんのキスと、どちらが気持ち良かった?」
「──そんなの、比べ物になるわけがないでしょう」
「そうだろう」
楊ゼンの答えに、太公望は笑う。
「浮気する気など微塵もないと分かっておるのに、わざわざ嫉妬して怒ったりはせぬよ。おまけに、ミナさんは美形大好きで有名だし」
「・・・・そういえば、あなたのことも美味しそうに見てましたよ」
「知っておる。前に誘われた事もあるよ」
さらりと言って、太公望は手を伸ばし、楊ゼンの髪を指に絡め取る。
人が見ていないからこその戯れだが、太公望が屋外でこんなことをするのは珍しかった。
「それに、付き合っている相手が店ナンバーワンの美人にモテるというのは、悪い気はせぬしな」
「あなたでも、そんな風に思ったりするんですか?」
「たまには、な」
それから、と続ける。
「おぬしが言い訳せずに、開口一番、謝ったのも良かった。ミナさんに悪気があったわけでなし、不可抗力とはいえ女のせいにするのは聞き苦しいからな。そんなことをしたら、思いっきり減点していたよ」
「本当は一瞬、言い訳しかけたんですけどね。キスされたのは、僕に隙があったせいですから。第一、女性に責任をかぶせるのは趣味じゃありませんし」
「そういうところが、おぬしの良いところだよ」
くすりと笑って、太公望は楊ゼンの首筋に細い腕を回した。
「口直し、するだろう?」
「もちろん。でも、いいんですか?」
「どうせ誰も見ておらぬよ。ミナさんみたいな美人と関節キスをするのも悪くない」
「ひどいな」
笑いながら、数度、触れるだけの軽いキスを繰り返し、そして深く舌を絡め合う。
互いの体温とその甘さに心地好く溺れながら、こんなキスをする相手は他にいないと分かっているのに、嫉妬をするなど、むしろ傲慢だと二人して共通の思いを抱く。
そして、名残を惜しむようにゆっくりと離れ、一瞬、互いの瞳を覗き込んだ。
「──表から入って来い。太乙も手ぐすね引いて待っておるから」
「ええ」
とん、と楊ゼンの胸を押しやるように指先で軽く叩いて、太公望はするりと恋人の腕から逃れる。
楊ゼンもまた、通用口に消えるその後ろ姿を見送ってから、古ビルの表へと回る。
二人の夜はまだ、始まったばかりだった。
嫉妬ネタ第2弾。
しかし、設定が変わるだけで、どうしてこうも内容が変わるのでしょうか。
#017が嫉妬(?)爆発ならぬ暴発なら、こっちは不発。
新婚さんかつ熟年夫婦な二人は、どこまでいっても砂吐きラブラブらしいです。
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