#068:蝉の死骸
「そう言えば最近、蝉の声がしませんよね」
「いつの間にか、な」
日没が近付いたこの時間も、アスファルトの上にこもる熱は薄らがない。
数分も屋外にいれば、背筋が汗ばんでくるほどの残暑は今年も厳しい。
「お盆過ぎまでは、色々鳴いてた気がするんですけど」
「もう、つくつくぼうしも聞こえてこぬしな。あんなにうるさかったのに」
耳をすませても、虫の声らしい虫の声は殆ど聞こえてこなかった。
つい先日までは、大都会の真ん中であるにもかかわらず(住宅地ではあるが)、うるさすぎてうんざりするほどの蝉の声に満ち溢れていたのに、今はアスファルトを走る車の音くらいしか分からない。
「スーパーにも新作のチョコレート菓子が、もう並んでましたしね」
「9月になった途端にだ。これから2月までは、次から次に新商品が出るぞ」
「楽しみなんでしょう?」
「もちろん」
くすくす、と小さな笑い声が零れる。
「日が暮れるのも、早くなりましたよね」
「朝もな。家を出た時の日差しの角度が全然違うよ」
「あー、そう言われればそうですね」
「──たまには、まともな時間に登校せんか」
「そうですね。卒業までに、あと1回くらいは」
「・・・・学年首席で良かったな、高校生。出席が足りなくても、間違いなく卒業させてもらえる」
「そのために首席をキープしてるんですよ」
「可愛くない奴め」
「当然です」
二人の前にできた影は、間違いなく1ヶ月前よりも長く伸びている。
そのいびつな形と、深さを増しつつある東の空の蒼を、見るともなしに見ながら、ゆっくりと二人は歩く。
「でも、まだ夏ですよね。日が暮れるのが早くなっても、熱帯夜は変わらないし」
「そうだな」
「これだけ暑いと、さすがに屋外で手を繋ごうという気力も起こりませんし」
「今、手なんか繋いできたら殴るぞ」
「あなたって、暑がりの寒がりですもんねぇ」
「悪いか」
「いいえ。冬は嬉しいですよ」
「夏は」
「クーラーがうんと効いた部屋って、いいですよね」
「クーラーは冷房病になるから嫌いだ」
「暑がりのクーラー嫌いでどうするんです? このモンスーン気候のど真ん中で」
「毎年どうにかなっておるよ。今年の夏だって、もう少しで終わりではないか」
口の減らない恋人に、楊ゼンは肩をすくめる。
が、もちろん別に本気で言っているわけではない。
太公望は確かにクーラー嫌いで、日中はなかなかスイッチを入れさせてくれないが、暑さも寒さも嫌いな身に熱帯夜は辛いらしく、さすがに寝る前には窓を閉めて、風速は弱か微ながらもエアコンの電源を入れてくれる。
逆に言えば、バスタイムまで少々我慢すれば、後は好きなだけ、寄り添っていられるのだから、楊ゼンとしてはそれで十分だった。
「だが、夏休みも終わったし、おぬしもようやく受験本番だな。どうする受験生」
「どうするって・・・・どうもしませんけど」
「そうは言うが、よくあるではないか。受験が終わるまで、少し距離を置きましょうとかいうやつ」
「ああ、定番といえば定番ですね」
ちらりと見上げて笑った太公望に、楊ゼンも笑みで答える。
「うちのクラスでも居るみたいですよ。お付き合いは夏休みいっぱいまでで、受験が終わるまでは、それぞれ頑張ろうということになったらしい奴も。
まぁ、昨日今日付き合い始めた間柄なら、勉強が手につかなくなることもあるかもしれませんけど、でも、そうやって悪足掻きして、やっぱり受験に失敗して相手にも逃げられたら、どう言い訳するんでしょうね?」
「謎だな」
「ねえ? 受験と恋愛を天秤にかけた時点で、負けてますよ。僕だったら、そもそも、あなたと受験を比較することも思いつきませんから。人生なんて、二兎を追って五兎を得るくらいの気持ちでいないと」
「強気の上に欲張りだな?」
「これはあなたの影響です」
楊ゼンが笑顔を向けると、太公望もくすりと笑う。
確かに、その台詞は、むしろ太公望の方に似つかわしかった。
「ふむ。そういうつもりなら、良かろうよ」
「何がです?」
「これから秋になって冬になっても、遠慮せずにおぬしで遊ぶことにする」
「・・・・遠慮するつもりだったんですか?」
「ちらっとはな。考えた」
わずかに驚いた顔を見せた楊ゼンに、太公望は瞳で笑ってみせる。
「余計なお世話かとは思ったがな。もしかしたら、おぬしでもナーバスになることがあるかもしれぬし」
「僕が、あなた相手に苛々したりとか? 有り得ないですよ」
「うむ。失敗したら別れると言ったところで、動じる奴ではないと、よーく知っておるが」
「失敗する気なんか、最初からありませんから」
勝算のない勝負などしないし、どんなに難しい勝負でも勝ってみせる。
そう言った楊ゼンに、太公望が、一瞬の残光にも似たきらめくような笑みを零した。
「それでこそ、おぬしだな」
「そりゃそうですよ。勝ち目がないからといって弱気になったり、本当に玉砕するような男に、あなたの隣りにいる資格があると思いますか?」
その言葉に。
今度こそ太公望は笑い出す。
夕暮れ時の住宅街の真ん中を歩きながら、押し殺した笑いにしばらくの間、細い肩が震えた。
「何というか・・・・本当におぬしは変な奴だのう」
「それを気に入ってくれているんでしょう? だったら、褒め言葉ですよ」
「うむ。褒め言葉だ」
笑って。
太公望はスーパーの袋を反対側の手に持ち替え、空いた方の手を楊ゼンの手に絡める。
「先輩?」
「家はもうすぐそこだしな。3分くらいなら我慢してやる」
「ウルトラマンですか?」
「正義の味方だ」
「・・・・ものすごくエセ臭いですねぇ」
「この優等生に向かって何を言う」
「正義の味方の正体を知っているからこそなんですけど」
笑い合う二人の手元で、今年最初の秋刀魚と、秋限定ビールの入ったスーパーの袋がかさこそと音を立てて。
昼間の熱気の消えないアスファルトに、消えてゆく太陽が最後の残光を投げかけ、ゆっくりと空は黄昏に蒼く沈んでいく。
過ぎ行く夏への追憶と、新しい季節が来る予感と。
どれほど季節が移ろっても変わらない想いを、重ねた手のひらに感じながら、ゆっくりと二人は歩調をそろえて歩いた。
夏の終わりの暑苦しい会話。
太公望は大学生、楊ゼンは高校生で学校帰りに待ち合わせて、駅前のスーパーで買い物した帰り道です。
しかし、ほのぼのを書きたくてMidnightを選ぶというのは、何かが大きく間違っている気が・・・・(-_-;)
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