割り当てられた客室のドアを開けると、同宿の相手は、こんな夜更けにもかかわらず、窓枠に軽く寄りかかるようにして外を見つめていた。
 階下の集団からも一人離れて、かといって眠るでもなく、一体何をしているのかと疑問に思うべき相手の様子だったが、しかし、そんな単純な感想を抱くには、ティルはその人物のことを少し知りすぎていた。
「セイは一旦、気がついてから、また眠ったよ。少しずつ体温も戻ってきているようだし、あの分なら明日の昼前には起き上がれるんじゃないかな」
「──そう」
 短く返ってくる声は、いつもと同じく冷ややかに物憂げで。
 けれど、ほんの少しだけ、異なる反響をティルは感じ取る。
 その事に小さな溜息を覚えながら、天牙棍をベッドから手を伸ばせばすぐに掴める位置の床に置き、そして寝台に腰を下ろした。
「……君は知っていた? セイの紋章が、あの子の命に関わるものだということを」
 淡い月の光にも似た横顔を見上げながら、静かに問いかける。
 すると、その事実の確認に等しい質問に、振り向かないまま、真なる風の紋章の主は薄い唇を開いた。
「薄々、ね。輝く盾の紋章が強い力を発揮するたびに、あの子は尋常じゃない倒れ方をするから。レックナート様は決して何もおっしゃりはしないけれど、所有者の命を削る真の紋章の存在は、過去の文献に出てくるし。
 ただ、その特性を持つ紋章は、それ一つしかないはずだったんだ。勿論、それは始まりの紋章でも盾でも刃でもなく……。不完全な紋章も、そうなのだとはどこにも書いてなかったからね。僕も実際に見るまで知らなかった」
「そう」
「それだけじゃないよ」
 相槌を返したティルに、ルックはちらりと視線を向け、否定的な接続詞を加えた。
「君は気付いていないだろうけれど。もう一つ、あの紋章には問題がある」
 その氷翠色の瞳が淡い月光を受け、凍てついた銀月のような色合いを放つのに、ティルはかすかに眉をひそめる。
 バランスの施行者の唯一の弟子は、愛想はないが、だからといって寡黙というわけではない。必要な事を問われれば語ることを、ティルは以前から知っていた。
 だが、今夜は。
 明らかに問うた以上の事を──必要最低限を遥かに超えた語数を口にしている。
 それとも、あるいは彼の中では、これが必要最低限の範疇なのか。
 いずれであるにせよ、歓迎すべきことではない、とティルは、感情の浮かばない顔を見つめながら問い返した。
「もう一つの問題、というと?」
「君は同盟軍に足を突っ込んで、まだ数ヶ月にしかならないから、比較のしようがないだろうけれど。成長してるよ、あの子は」
 それは。
 決して精神が──心がという意味ではなく。
「──まさか」
「事実だよ。単に成長が遅いのか、紋章の影響が多少なりともあるのかは微妙だけど、それでも、僕が初めて彼を見た時から3cmくらいは背が伸びてる。他の連中は気付いてないようだけどね」
「───…」
 つまり、それは。
 その事実が指し示すものは。
「おそらく前の所有者のゲンカクもカーン・ハニンガムも、紋章を所有していた期間が短かったから、それらの負の特性がはっきりとは現れず、記録にも残らなかったんだろう。そういう結果になったのは単なる歴史のあやだけど、さっさと紋章を手放した彼らは賢明だった、ということになるね。今日のことで君も分かっただろう?」
 一瞬言葉を見失ったティルに構わず、ルックは淡々と冷ややかに物憂げな声を紡ぎ続ける。


「このままだと遠からず、あの子は死ぬよ」


 救われる術があるとしたら、唯一つ。
 不老にならないばかりか所有者の命を削り続ける紋章を、一刻も早く手放すことだけだと。
 真なる風の紋章の主の言葉は、まるで神の託宣のようで。
「……そう」
 ティルは一旦、宙へと向けていたまなざしを伏せ、静かに呟いた。
「セイの話を聞いて覚悟はしてたけど、成長までしてるとはね。……今回ばかりは、失う心配はしなくてもいいだろうと思ってたのに。上手くはいかないね」
「確かにあの紋章を宿している限り、君のソウルイーターはあの子に手出しはできないだろうけれど。でも紋章が不完全なままであれば、最終的な結末は一つしかない。あとは時間の……体力気力の問題だよ」
「全てはセイ次第、か」
 溜息をつくようにゆるり、とうなずいて、まなざしを上げたティルは、先程までルックが見つめていた窓の向こうの夜空を見やる。
「仕方がないね。僕はセイの選択に口出しをする気はないし。……それに、あの聡い子は、どうせ全部気付いて、一人で結論を出しているのだろうから」
 セイは、これまで学校に通った経験が無いためか、むしろ自分が世間知らずであることを強く意識しており、己の知性の鋭さに対する自覚が全く無い。
 確かに、セイが世間ずれしていないのは事実だが、しかし、それは単に教えられたことがないから知らないだけなのであって、周囲の人々や出来事から知識を吸収する学習能力や、それらを応用する思考能力の高さには目をみはるものがある。
 以前、ティルがシュウに告げた、一軍を預ければセイは必ず勝利するといった言葉も、決してその場限りの豪語ではなく、あくまでもティルが、軍主としてのセイを公平に見て感じた事実でしかなかった。
  そして、それだけの能力を持った聡い少年が、己の直面している未来図に気付かないはずがなく。
 決して目の前の出来事から目を逸らさない彼は、たった一人で苦しみ、考え抜いて。
 ──きっと、とうに結論を出している。
 ティルにも、誰にも手の及ばない処で。
 だからこそ、今日も。
 紋章は決して封印しない、と。
「あの子が自分の思う通りに進むように、僕も、僕に許された範囲でやれる事をやる。……分かりきった事だけど、それしかないんだな、結局」
 仕方がない、と静かに繰り返して、それからティルは、ちらりとルックを見やった。
 その視線に、ルックが目ざとく反応する。
「何?」
「君はどう考えているのかな、と思ってさ」
「何が」
「珍しくセイのことは気に入っているようだから。もっとも紋章の負の特性に気付いたところで、君は僕以上に自ら動こうとはしないだろうけどね」
「──どうして僕が、頼まれもしないのに動かなきゃいけないんだ」
 ティルの言葉に、心外だといわんばかりにルックは柳眉をしかめる。
「僕にしてみれば、君の方がよほど不可解だね。そんなにセイに執着してどうするわけ?」
「……執着、ねえ。執着してるように見える?」
「そう見えない奴は節穴だ」
 きっぱりと言い切って、ルックは窓枠に背を預けたままの姿勢で、軽く腕を組んだ。
「君のことを知らない奴には分からないだろうけれど、あの頃を知っている立場の人間としては異常としか見えないね。そもそも君は、誰かを特別に構うタイプじゃない。セイがソウルイーターの安全圏内に居る事を考慮しても、限度を超えてる。ただの気まぐれには到底見えないよ」
「───…」
 旧友、と表現してもまったくの的外れではない相手の、歯に衣着せぬ物言いに、ティルは口元に薄く笑みを刻む。
 時折、神経を逆撫でされないこともないが、彼のこういう部分は決して嫌いではなかった。
 それは、おそらく。
「本当によく分かってるよね、君は。他人に全然興味ないような顔をしてるくせに。それとも分かりたくもないのに分かりすぎるから、わざと興味ない顔をしているのかな」
 認める気はないが、どこか気性が互いに通じるものがあるからであって。
「それ、嫌味のつもり?」
「いや。感心してるだけだよ」
 露骨に眉をしかめたルックに答えながら、ティルは寝台から下ろしている足を、ゆったりとしているのに隙のない流れるような動作で組み直し、それから自分の右手の甲に左手で触れた。
「──そうだね。このままセイの命が紋章に削られていって、肉体が魂を留められないほどに崩壊したら。こいつは迷うことなく、僕に忠実にあの子の魂を喰らって、この右手に永久に引き止めるんだろうね」
「……そういう事を、さらりと言わないでくれない?」
「君が先に言い出したことだよ、ルック」
 小さく笑って、ティルは苦情を受け流す。
 そして、ゆっくりとした口調で続けた。
「最初は確かに気まぐれだったんだけどね。あんな愛くるしい子犬みたいな目でお願いされたら、さすがにこの僕でも、邪険に振り払うのは難しくてさ。君だって、身に覚えがあるだろう?」
「……ないよ」
「だったら、その眉間に寄った皺は何なわけ? とにかく、最初はそんな感じだった。いつも元気一杯で素直で一生懸命で。あんまり可愛いものだから、僕らしくもなく、ついつい甘やかしているうちにね。色々と見えてきたんだよ」
「……色々って?」
 聞きたくないけど仕方ないから聞いてやる、この借りは後で倍にして返せ、と言わんばかりの気配もあからさまに、ルックは気だるげに窓枠に背を預けたまま問い返す。
 だが、ティルはそんな相手の態度に頓着したりはしない。相変わらずの涼やかに透る声で、言葉を紡いだ。
「平たく言えば、セイは僕が最初に思ったほど、簡単な子じゃなかったということだよ。僕はね、ルック。あれほどひたむきに、一生懸命に生きている人間を他に知らない」
「………悪趣味だね」
「何とでも」
 これまでに見てきた数多の人間の誰よりも、ひたむきに輝かしい存在なのだと。
 誇らしげな笑みさえ滲む声に、ルックは呆れ果てたような溜息をついてみせる。
「で? 犬っころに惚れ込むのは君の勝手だけど、この先はどうするつもり? そんな根無し草のくせに」
「根無し草はひどいね。せめて、放浪の旅人とか、もう少し言い様はない?」
「言葉を飾ったところで、正体はそんなじゃないか。意味ないね」
「……本っ当に言ってくれるね、ルック」
「今更何を」
 ふん、と肩をそびやかす風使いに、ティルも、わざとらしく肩をすくめてみせて。
 そして、
「先の事なんて、考えても意味がないだろう?」
 横道に逸れるばかりの話を元に戻すべく口を開いた。
「この戦争が終わる前にセイの命が尽きてしまったら、僕はあの子の魂を喰らうしかないだろうし。無事に戦争が終わったら、僕はこの国にとってもセイにとっても、不必要な存在でしかなくなる。
 あの子は、このデュナンの地と人々が好きだし、家族もいるし。かたや僕は、君の言葉を借りるのなら根無し草だ。戦争の切れ目が縁の切れ目、としか言いようがない」
「──君の見解が間違っているとは言わないけど。あの子の気持ちは、どうする気なわけ?」
「どう、って?」
「今更とぼけるんじゃないよ。ここまで誑(たぶら)かして、心を傾けさせておいて。戦争が終わったら、はいさようなら、っていうのは無責任なんじゃないの?」
「誑かす、って、またすごい言い方をしてくれるね。否定はしないけど」
「で?」
 返答はどうした、と促す氷翠色の瞳に、ティルは溜息をついて。
「──あいにく、僕はそんなに自惚れてないんだよ」
 漆黒の艶やかな前髪をかき上げながら、言った。
「セイが今、僕にどういう感情を抱いているとしても。それはおそらく、感情の転移でしかない。僕を慕ってくれているのは事実だろうけれど、それ以上の傾倒は、ね。
 あの子は今、本当に辛くて苦しくて、なのに、それを受け止められる存在は僕しか居ないから。勘違いとまでは言わないけど、永続的な感情には成り得ないよ、きっと」
 淡々と紡いだ答えに、ルックはあからさまに眉をしかめて。
「……馬鹿だとは思ってたけど。本当に底抜けだね、君は」
「そう?」
「ああ。つくづく呆れたよ」
「そうかな。僕としては、こういう自分は嫌いじゃないけどね」
 ティルは笑って、ルックの背後に広がる濃藍色の夜空を仰ぐ。
 今夜は月の光が弱いために、星もよく瞬いており、室内からではごく狭い範囲の空しか見えないものの、屋外に出れば、星々を結んで幾つもの星座を作ることができそうだった。
「君たち宿星は、セイを天魁星として仰ぎ見ることしかできないし、セイをセイとして見ていた筈の幼馴染は、あんな風にどこかでトチ狂ってるし、たった一人きりの家族もあんな状態だし。そんな状況で、幸か不幸か僕とセイは出会ったんだ。
 周囲に祀り上げられた人間の気持ちなんて、同じ立場を経験した者にしか分からないからね。あの子が僕に傾倒するのは止めようがないし、僕もセイには幸せになって欲しいと思う。その幸せがどんな形であってもね」
 今は、あの子が望む未来を掴んでくれたら、それで十分なのだと。
 静かに微笑した声で告げて。
「だから、こういう事を口にするのは業腹だけど、君にも多少は感謝してるんだよ、ルック。君が、真の紋章同士の力は牽制し合うことを教えてくれたから、僕はこうして今も、ここに居られる」
「……明日は雹(ひょう)でも降るんじゃないの?」
「自分で言っていても口が曲がりそうだから、君の気持ちは分かるけどね。それでも、こういう時は素直に聞いておくべきだよ。僕が君に感謝するなんて、きっと一生にこれきりなんだから」
「余計にありがたくないね」
 あっさりと切り捨てて、鬱陶しげにルックは自分の髪をかき上げる。
「下らないこと言ってないで、さっさと寝たら? 僕はもう休むよ。君が本物の馬鹿だということはよく分かったしね」
 これ以上は付き合っていられない、と今まで起きていた自分の事は棚に上げて、窓に近い方のベッドに歩み寄り。
 いつもしているサークレットを外す様子に、ティルは溜息まじりの声をかけた。
「僕に向かって馬鹿と言うのは、大陸広しといえども君だけだよ」
「そう。世の中、節穴ばかりだということだね」
「……そういう事にしておいてあげるよ。おやすみ」
 さっさとベッドにもぐりこみ、こちらに背を向けてしまう相手に肩をすくめて、ティルはもう一度、窓の向こうの夜空を振り仰ぐ。
 淡く細い月は天頂を越えて傾き、ほどなく窓枠から消え去ろうとしており。
 その頼りない輝きからまなざしを逸らし、しばし物を思うように、ティルは目を伏せた。








 翌日、セイが目覚めたのはティルの予測通り、昼前のことだった。
 蒼白だった顔色も戻り、いつもと変わらぬ様子で「心配かけてごめんなさい」と頭を下げた軍主に、人々は安堵の息をつき、さて、これからどうしたものかと首をひねった時。
 思わぬ所……というよりは、少々忘却しかけていた所から、助力が現れた。
 既にノースウィンドウの地で知己を得ていた先祖代々の吸血鬼ハンターを生業とする男カーン・マリィが、長年の探索の末に彼の吸血鬼の魂を封じ込める術と、更なる切り札を手にして、セイ及びビクトールとの邂逅を果たしたのである。
 そして、そのカーンが持つ切り札こそが。
 前夜に星辰剣が語った、月の紋章の真の所有者・シエラだった。
 複数の真の紋章の気配を感じて、少し前にデュナンの地に足を踏み入れたという齢八百余の吸血鬼の始祖は、思わぬ所で思わぬものに出会うこと…、と色素の殆ど感じられない髪と肌に深紅の瞳という異相の美貌に、やや驕慢にも見える笑みを浮かべて、ネクロードから己の紋章を取り戻す道行にセイたちの同道を許した。




 そして、舞台は再びティント市へと移り。
 悪逆非道の限りを尽くした吸血鬼の最期は、ひどくあっけなく訪れた。
 月の紋章をシエラによって封じられ、魂のみで逃れる術さえ、マリィ家の悲願を賭けたカーンの封印によって押さえ込まれては、いかにネクロードといえども勝機など見出しようもなかっただろう。
 カーンとセイの宿した破魔の紋章が眩い浄化の閃光を発し、ティルの生と死を司る紋章が召喚した、紫電をまとった六柱の死神が大鎌を振りかざして襲い掛かり、クライブのシュトルムが轟音と共に火を噴き、そして、ビクトールの星辰剣がその肉体に深々と突き立てられた時。
 それまでの長年に渡る苦闘が酷い悪夢であったかのように容易く、もろく、吸血鬼の肉体は魂を内に抱えたまま崩れ去った。
 その時、ネクロードを追い続けた人々の胸に去来したものが何であったのか、それは他者が知りえることではなく。
 傾きかけた陽光が色鮮やかなステンドグラスから輝かしく差し込む礼拝堂にて、人々を苦しめ続けた悪夢は永遠に終わりを告げた。








「わらわも共に行ってやろう。ほんの僅かとはいえ、ネクロードから紋章を取り戻す手助けをしてくれたことへの礼代わりにな」
「え……」
 ネクロードを滅ぼし、ティント、ミューズ両市とあらためて共闘協定を結んだ日の翌朝。
 別れを告げに行ったはずの宿の客室で、思いがけないシエラの言葉にセイは目を丸くした。
「なんじゃ、不服か?」
「いえ、そうじゃないです。すごく嬉しいんですけど……でも、いいんですか?」
「良いも何も。おんしらの争いに手を貸すのが、何ほどのことがあろう。わらわには差し迫ってやらねばならぬ用も無い。ちょうど良い暇つぶしくらいにはなろうよ」
「暇つぶし、ですか」
「そうじゃ」
 これまで生きてきた年月が自然にそうさせるのだろう。顔立ちそのものは可憐としか言いようの無い美貌に、少々驕慢な笑みを浮かべてシエラは言い放つ。
 そんな吸血鬼の始祖の姿に、セイは小首をかしげ、それから、ふわりと笑った。
「それじゃあ、お好きなだけ暇つぶし、して下さい」
「ふむ?」
「僕たちの住んでるお城は広いし、色々な人が沢山居ますから。ちょっと賑やか過ぎるかもしれませんけど、きっと退屈はしないと思います。ね、マクドールさん」
 部屋のドアの前で天牙棍を片手に、二人の会話を見守っていたティルを肩越しに振り返り、セイは同意を求める。
「そうだね。確かに、夜を好まれる貴女には少々不向きな所もあるかもしれませんが。クォン城は気持ちのいい『家』ですよ」
 後半はシエラへと向けた言葉に、セイはくすぐったそうな、けれど、とても嬉しそうな表情になって。
「そう言ってもらえると本当に嬉しいです」
「素直な感想だよ」
 ティルもセイへと笑みを返し、そしてシエラとまなざしを戻した。
「出自も種族も関係なく、大勢の人々が助け合って和気藹々と暮らしている街のような城ですから、きっと貴女も歓迎されるでしょう。もっとも、中には少々頭の固い偏屈な人物も約一名、居ますがね」
「……それって、あの人のことですか、マクドールさん?」
「内緒vv」
「……そんなものすごくイイ笑顔しないで下さい。別にあの人は偏屈じゃないですよ。確かに、おでこで釘を打てそうだなーと思うことは僕でもありますけど」
「彼の見事な石頭があれば、ハイランドの城壁くらい訳なく突き崩せると思うんだけどね、僕は」
「それは人間技の領域超えてますってば。時々、無茶苦茶言いますよね、マクドールさんって」
「おや心外。僕はこんなに真面目なのに」
「──確かに面白そうな場所ではあるようじゃの」
 ともすれば二人きりの会話になりかねないティルとセイの遣り取りに、軽く溜息をついてシエラは白銀の髪を、その繊細な指でさらりと梳く。
「ともかく、おんしらが出立するというのであれば、わらわも支度をしよう。……そうじゃの、おんし、手伝ってたもれ。なに、さして荷物はない」
「僕が?」
 二人を見比べ、年長の青年の方へと視線を定めたシエラに、指名を受けたティルは、何故に、という顔をしたが、セイの方がさっさとうなずいた。
「分かりました。じゃあ、僕、皆にシエラ様も一緒に行くことになったって知らせてきますね。用意ができたら、宿の表で待ってて下さい。それじゃあマクドールさん、また後で」
「……うん。後でね」
 笑顔を閃かせて自分の横を通り過ぎてゆくセイに、片手を小さく振り返して。
 ティルはシエラを振り返る。
「──どういうお積もりだか知りませんが……僕に何をしろと?」
 機嫌を損ねたというほどではない。が、笑みは消したティルの表情に、シエラは薄く笑む。
「何、少しおんしと話をしてみたかっただけのこと。わらわも長く生きては居るが、真の紋章の主と巡り合うのは、そうそうある事ではないゆえな」
「……なるほど」
「おんし、あの子供のことを相当に可愛がっておるようじゃな」
「それが?」
 どうしたと言わんばかりに、ティルは部屋のドアに軽く背を預けて腕を組んだまま、シエラを見やる。
 しかし、寝台から起き上がっただけの姿勢の彼女は、少々何かを思う様子で、わずかに首を傾けた。
「あの子供が持っておる紋章は、刃と対になっておろう? 他の真の紋章のことに詳しいわけではないが、二つに割れた紋章の能力の限界は聞き知っておるゆえ、な。
 にもかかわらず、おんしはその紋章を持ちながら、あの子供を随分と慈しんでおる。……その行く末が、の。少々見てみたくなったのじゃ」
「……悪趣味だな」
「そういう意味ではない。わらわとて月の紋章の宿主じゃ。真の紋章の恐ろしさは知り尽くしておる。それゆえに、よ。
 わらわは決して悲劇を期待しておるのではない。おんしらが避け難い真の紋章の呪縛を、どう堪えるか……もがき苦しんだ果てに何を見出すのか。それが少々気になるというだけよ」
「それでも悪趣味には変わらない。僕たちは見届け人など、必要とはしていないよ」
「だから、わらわの勝手な興味じゃと言うておる。所詮は月の光とでも思っておけばよい。秘め事を月に覗かれたとて、いかほどのことがあろう?」
 くすりと笑って。
 シエラは両手を伸ばし、愛らしくも優雅な少女の仕草で一つ伸びをした。
「さて、面倒ではあるが着替えるかの。さっさと向こうを向きゃれ」
「……あいにく、僕には童女趣味はないんだけどね」
 どう間違ったところで対象にはならない、と悪態を返しながらも、ティルは逆らわずにシエラへと背を向ける。
 すると、寝台を下りる音に続いて、しばらくの間、さらさらと衣擦れの音がして。
「もう良いぞ」
 掛けられた声に振り返れば、昨日と同様、繊細なレースのブラウスに、たっぷりと布地を使ったフレアスカート、そして丈の短い上等のマントを羽織ったシエラが立っており、その足元には小さな鞄が置かれていた。
「荷物はこれだけ?」
「わらわには食事も必要ないし、代謝も人とは違っておるゆえな。財布一つあれば、殆どそれだけで足りるのじゃ」
「成程」
 便利なものだとうなずいて、ティルはその小さな革製のトランクを取り上げる。見た目通りに軽いそれは、持つのに何の苦にもならなかった。
「それじゃ、行こうか。セイが待ちくたびれてるだろうから」
「そうじゃの」
 促し、部屋を出て無言で階段を下りる。
 そして、宿の支払いを済ませて外に出ると。
「あ、マクドールさん、シエラ様!」
 固まって何やら話していた集団から離れて、セイが駆け寄ってきた。
「用意、もういいですか?」
「うん。大丈夫だと思うよ」
 ティルの返事を聞き、その隣りでうなずくシエラを確かめて、セイは笑顔になる。
「それじゃあ帰りましょう、クォン城に」
 そう言って、背後を振り返り。
「皆さーん、出発しますよー!」
「おう!」
「はーい」
「分かりました」
 口々に答える仲間たちに手を振ると、もう一度ティルとシエラに、行きましょう、と笑いかけて。
 雲一つない眩しい初夏の空の下、彼らは我が家へと帰るべく、深い山々の懐に抱かれた鉱山都市を後にした。

End.

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