ひどく呼吸を重く感じて、その苦しさにセイは、うっすらと目を開く。
 瞼を開ける、それだけのことがこんなにも億劫な仕草だったかと思いながら、暗く翳った視界に瞳をさまよわせた時。
「セイ、気がついた?」
 ひどく優しい、涼やかな響きの声が耳に届いて。
 ほう…、と安心した。
 ──大丈夫。
 すぐ傍に、あの人が居る。ここは安全な場所。
「セイ?」
 まだ完全に覚醒はしていないのかと控えめに呼びかける声に一度目を閉じ、そうして、ゆっくりと見開いた瞳をまばたかせる。
 燭台のやわらかな光に照らし出された天井が、まず目に映り、それから、ゆっくりと声が聞こえる方へ目を動かすと。
「良かった。気がついたね」
 思った通りに優しい笑顔を向けてくれる人がいて、セイもまだ半ば夢うつつのまま、微笑を浮かべた。
「セイ、僕が分かるね?」
「……はい、マクドールさん」
 答えた声が、喉に引っかかって、けほ…とセイは小さくむせる。
 と、ああごめんね、とティルが傍らにあった水差しからグラスへと水を注ぎ、それを一旦サイドテーブルに置いて、セイの身体を、そっと抱き起こした。
「僕に身体を預けて……。飲める?」
 大丈夫です、とうなずきながら、渡されたグラスへと口をつける。
 冷たい水は渇いた喉にひどく甘くて、ゆっくりと飲み干した後、思わず満足の溜息が漏れた。
 空になったグラスを受け取ると、ティルは再びセイをベッドに横たわらせる。
 そして、セイの前髪を優しく梳きながら、語りかけた。
「ここはクロム村の、村長の家。皆もちゃんと居るよ。だから安心していい」
 大丈夫、と言われてセイはうなずく。
 ティルの言葉を疑う理由など、自分の中には欠片ほどもなかった。
「それで……セイ、何があったか覚えてる? どうして今、自分がベッドに居るのか」
 言われて考える。
 改めて思えば、グラスの水を飲むことすらティルに助けてもらわなければできないほど、全身が重くていうことを利かない。
 それは初めてではなく、覚えのある感覚だったが、けれど今回は何故、と考えて。
「──ああ、あそこで倒れちゃったんですね、僕……」
「そう。今は、そろそろ日付が変わる頃。君は、あれからほぼ一日、眠っていたんだよ」
 応じるティルの声が、溜息をつくようで。
「ごめんなさい、マクドールさん……」
 また心配をかけてしまったのだと、セイはしおれる。
「セイ」
「はい」
「君は何に謝っているの? 僕やナナミちゃん、皆に心配をかけたこと?」
「はい……」
 ティルの声は、別に厳しくはなかった。いつもほどの甘やかさはないが、それでも穏やかで優しい。
 けれど、セイはひどく叱責されているような気分に陥る。
「セイ」
 もう一度名前を呼んで、ティルはまた溜息のような吐息をつき。
「僕は怒ってはいないよ。君が体調の悪さを隠そうとしたのは当然のことだと思うしね。リーダーは、そんな簡単に人前で倒れちゃいけない。今回も、結果的にはあそこで倒れてしまったけれど、限界まで良く頑張ったと思う。──でもね、一つだけ、僕に言っておいて欲しかったことがある」
 そう言って、セイの瞳を覗き込んだ。
「セイ、君が倒れたのはこれが初めてじゃなかったんだね。これまで皆がいる前でも、何度も倒れてる。僕は今回、ナナミちゃんに聞いて初めて知ったけれど……それだけはね、僕には教えておいて欲しかった」
「……ごめんなさい」
 言葉を捜し、けれど、それだけしか言えないセイの髪を、ティルの指先が優しく撫でる。
「いいよ。本当に怒っているわけじゃないから。それよりも話してくれないかな。どうして倒れるのか……君が分かっていることを、全部」
 あれは普通の倒れ方ではなかったから、と静かに問われて。
 セイは迷う。
 もうこれまでにも、ティルには様々なことを打ち明けてきた。
 葛藤も、望みも。
 たった一人、全てをそのままに受け止め、肯定してくれる人にすがるように、心の内を語ってきた。
 けれど。
 こればかりは。
「セイ」
 逡巡するセイの思いを読んだのだろう、ティルが名前を呼ぶ。
「これはね、お願いだよ。僕の『お願い』。君がどんなに話したくなくても、僕に聞かせたくなくても。お願いだから、僕に教えて欲しい」
 決して興味本位でも、沈黙を咎めるためでもなく。
 ただ、教えて欲しいのだと。
 セイのことを思い、案じるが故の懇願に。
 だからこそ、この人にだけは知られたくないのだと思いながらも、セイは、胸の上に鉛の重石でも載せられているかのように重苦しく感じられてならない呼吸をする。
「……僕が考えていることは、本当に僕が、勝手に想像してるだけで」
 呟くように喉から押し出した声は、小さく、微かにかすれていた。
 どれほど嫌だと思っても、たった一人の相手からの懇願を拒めるはずがなく。
「証拠なんて何もないんです。そんな話でも……いいんですか?」
「構わない。それで十分だよ」
 真っ直ぐ向けられる漆黒の瞳に。
 きっと、この何もかも見透かしてしまう人は、自分がこれから語る言葉から、自分が思う以上の真実を──恐らくは彼自身、知ることを望みもしない真実を探り当ててしまうのだろうと。
 その事ばかりを哀しく思いながら、セイは小さくうなずいて、話し始めた。






 何から話せばいいのか分かりませんけれど、と前置きして。
「マクドールさんは、この紋章が対になっていることは知ってますよね……?」
 セイは、ティルの瞳を見上げて問いかけた。
「うん。トトの村にあった祠で、君がその輝く盾の紋章を、ジョウイ君が黒き刃の紋章を継承したんだったね」
「はい……。元々は、始まりの紋章というものだったのが、ほら、神話にあるでしょう? 『なみだ』から『剣』と『盾』が生まれたって。あんな風に二つに分かれたらしいんです。いつの頃の話なのか、そんなことは全然分からないんですけど……」
 とにかく、とセイは続ける。
「レックナート様の門の紋章は、表と裏があるってルックが教えてくれましたけど、僕たちのは初めから二つだったものじゃないんです。どこか途中で二つになってしまったもので……。だから、だと思うんですけど」
「けど……、何?」
 静かに問いかけるティルに、言葉を捜すようにセイは少しだけ沈黙して。
「これは本当に、僕が勝手に考えたことなんですけど。普通の紋章が100だとしたら、僕とジョウイの紋章は50と50なんです。でも、紋章魔法は他の紋章と同じように、普通に使えるでしょう? 僕はまだ第3段階までですけど、ちゃんと第4段階まであるみたいですし……。
 変なたとえですけど、紋章の力は50…半分なのに、紋章魔法は100…全部。……ねえマクドールさん。その足りない部分は、一体どこから来るんでしょうね」
 小さく小さく、哀しい笑みを浮かべて、セイはティルを見上げる。
 そして、言葉を見つけられないでいるらしいティルの漆黒の瞳から、隠れるように目を閉じた。
「普段は平気なんです。普通の紋章魔法なら、よっぽど無茶な使い方をしない限り、倒れたりとかしないんですよ。……でも時々、暴走ってわけじゃないですけど、普通の魔法じゃないちょっと特別な力を使う時ってあるでしょう? 今回もそうでしたけど、ものすごく危ない状態になった時に、紋章が勝手に発動するような。そういうのが、駄目なんです」
「……駄目、というのは……?」
 声にも表情にも出さない。
 けれど、それでも明らかに、ティルが衝撃を受けているのを感じて。
 ごめんなさい、とセイは心の中で呟く。
「削られてる、感じがするんです。うまく言えないですけど、熱、みたいなものが。僕の中から消えるんです、すごく沢山。そういう時は、いつも。
 そうなると、頭から氷水をかけられたみたいに身体が冷たくなって、……あれは貧血なのかな、目の前が真っ白になって何も見えなくなって、気持ち悪くて立っていられなくて」
 これだけは決して話したくなかったと思いながら。
 淡々と言葉を紡ぎ続ける。
「何とか自分の部屋に帰るまで我慢できる時もあるんですけど、今回みたいにどうしようもない時もあって。……それに」
「それに?」
「僕が紋章を使った時だけじゃないんです。何もしてないのに、そうなることもあって。……ちょっと前に言いましたよね、紋章が教えてくれたから、僕はジョウイが何をしたのか知ってるって。
 元は一つだったから。不完全な紋章は、きっと今でも不完全に繋がったままなんです。50と50のまま……」
 そして、セイは閉じていた目を開いた。
 途端に、ティルのまなざしが映る。
 彼の瞳は静かだった。
 その色に、セイは、この人はずっとこんな瞳をしていたのだろうか、と考える。
 三年前に終わった隣国の内乱の最中、きっと多くの人の死を見送りながら、それでも尚、強く静かに前を見つめる……そう、他の誰も持ちえない帝王の瞳を。
「ごめんなさい、マクドールさん」
「どうして謝るの?」
「言えなかった事と……それから、聞きたくなかったでしょう? こんな話……」
「聞かせて欲しいと願ったのは、僕だよ」
「それでも。本当なら知る必要なんかない話だったのに」
 自分のためだけに、彼が、もしセイの想像が当たっているのなら残酷としか言いようのない真実を、知ろうとしたこと。
 そのことにセイは、ひどく泣きたいような思いを感じる。
「ごめんなさい……」
「謝らなくていい。君は何一つ悪くない」
 静かに言って。
 ティルは、そっと毛布から出ていたセイの右手を取った。
「セイ、一つだけ訊くけれど……これを元通り、封印する気はないんだね?」
 右手を包む彼の手の温かさに、自分が今どれほどの体温を失っているのかを感じながら、その問いかけに、セイはうなずく。
「はい。この戦争が終わるまでは、僕は『僕』でいないといけませんから」
 ──人々が求めているのは、かつての英雄に育てられた、今の『英雄』。
 汚名を着て故郷を去った、今は亡き英雄と同じ紋章を右手に宿した存在。
 だから、決して手放すわけにはいかないのだと、セイは曇りのない声で答える。
「うん。そうだね、これは君にとって必要なものだ。……それなら、ね。セイ」
 セイの右手を取ったまま、ティルはまっすぐにセイを見つめて。
「僕はもう、グレッグミンスターには帰らない。この戦争が終わるまで、ずっと君の傍に居るよ」
「え……」
「君が少しでも、この紋章を使う機会が減るのなら。そして、少しでも早くこの戦争を終わらせる手助けをできるのなら、僕はクォン城に……君の傍に留まりたい」
 真摯に……あまりにも真剣に告げられた言葉に、セイは返す言葉を失う。
 思いがけない申し出に混乱し、戸惑い、そして。
「駄目……、駄目です、マクドールさん!」
 かすれた悲鳴のような声を上げた。
「どうして?」
「だってマクドールさんは、本当はこの戦争に何の関係もない人じゃないですか。偶然出会っただけの僕が、お願いして力を貸してもらっているだけで……。だから、そんなの駄目です。そんな、僕のために……!」
「セイ、違うよ」
 泣き出しそうな瞳になった少年へと、ティルは静かに聞かせる。
「昨夜、僕が言ったことを覚えてる? 確かに最初の頃は、君が頑張っているなら手伝ってあげようかというくらいの気持ちだったけど、今は違うんだよ。君の笑顔が、僕にとって大事なものだから。……だから、僕に出来ることがあるのなら、僕はそれを惜しみたくない」
「で…も……。でも、マクドールさんには帰る家があって、待ってる人たちが居て……!」
「セイ、お願いだから拒まないで。君の望みが、この戦いを終わらせることなら、それは今の僕の望みでもある。──それとも、本当に必要ない? 僕の存在は、君に……同盟軍に必要のないもの?」
 それは卑怯な言い方だと、おそらくはどちらもが承知していただろう。
 けれど、卑怯であると感じるほどに、その言葉ほど正鵠を得ているものもなく。
 今にも泣き出しそうだったセイの瞳が潤んで、涙が一筋、音もなく伝い落ちた。
「セイ……」
 名を呼び、そっと優しい仕草で涙をぬぐうティルを見上げて、セイは微かに首を横に振る。
「うん?」
「必…要、なくなんか、ないです。マクドールさん……」
「うん」
「マクドールさんが、居てくれるから、だから僕は……」
 嗚咽に声を詰まらせ、ぐっと唇を噛んで。
 そしてセイは、もう一度ティルの瞳を見上げる。
「傍に……居て、下さい」
「セイ」
「マクドールさんが居てくれたら、きっと僕は頑張れるから。最後まで頑張れるから、だから……」
 その言葉を口にするのは、どうしようもないほどに苦しかった。
 けれど、他に言える言葉など……望むことなど、本当はあるはずもなかったから。
 ただ、傍に居て下さい、と繰り返すセイの瞳から零れ落ちる涙をぬぐい、ティルはうなずく。
「うん。……君の傍に居るよ」
 そして、そっとセイの上半身を抱き起こし、泣き止まない小さな肩を胸に引き寄せた。
「約束するから。だから、もう泣かなくていい。一人で苦しまなくてもいい。……こんなに辛くて苦しかったのに、今までよく頑張っていたね。
 でも、これからは僕が居るから。君の苦しさを代わってはあげられないけれど、少しだけ君の負担を軽くしてあげることはできる。
 だから、セイ。もう一人で泣かないで?」
 あやすように抱きしめ、背を撫でて。
 優しく優しく、ささやきかける。
 その間にもセイは嗚咽に小さく震える肩を、止めることがどうしてもできず。
 ティルはセイが苦しくならない程度に、いっそう抱きしめる腕に力を込めた。
「マクドール、さん」
「うん」
「マクドールさん……マクドールさん……っ」
「大丈夫だよ、セイ。君はきっと頑張れる。必ず、この戦いを終わらせることができるから」
 呪文のように繰り返し名を呼ぶ、泣き濡れてかすれた声にティルが静かに答える。
 ──言葉はあまりにも無力で、けれど今は。
 優しい人が紡いでくれる言葉にすがることしかできない。
 その事実が、ひどく胸に辛かった。
 








 階段を下りてゆくと、耳ざとく階下に居たビクトールが振り返った。
「おうティル、セイはどうした?」
「気付いたよ。今はまた眠ったけれど。疲れが溜まっているんだろうね。ここ数日、あまり眠れていなかったみたいだし」
「……そうか」
 間近にセイとジェスの遣り取りを見ていたからだろう、ティルの説明をすんなりと受け入れて、ビクトールは難しい顔になる。
 だから、ティルもそれ以上は何も言わず、他のそこにいるクラウスやリドリーといった面々の様子を、さりげなく見て取りながら、居間のテーブルに置かれていた水差しを手にして、グラスに水を注ぐ。
 そして、それを半分ほど干してから、改めて彼らへとまなざしを向けた。
「ナナミちゃんは?」
「宵の口に寝に行ったきり、起きてこねぇよ。ブランデー入りホットミルクが効いたみたいだ」
「そう。セイが気付いたって事を知らせてあげたかったけど、それなら明日でいいね。このまま寝かせておこう」
「だな。ナナミも、そうとう疲れてるみたいだったし」
「ナナミちゃんなりに一生懸命なんだよ。だから、ああいう無茶もするし、結果的にこうしてセイが倒れたりすれば、見ていて可哀想になるくらいに自分を責める。いい子だよね、本当に」
「そうだな……」
 本当ならこんな戦場には似合わない、という言葉は互いに呑み込んで、うなずき合い、それからティルは、それとなく自分の方へ注意を向けているクラウスとリドリーへと、視線を流す。
 それを受けて、
「マクドール殿、それでセイ様の容態は、いかがでしょうか?」
 控えめながらもしっかりとした口調で、クラウスが問いかけてきた。
「今夜ゆっくり眠れば、明日には起き上がれるようになると思うよ。まだリリィとロウエンのことは話してないけれど、聞いて大人しく寝ているような子でもないしね。
 ネクロードと戦うにしても、何か決定打が無いとどうにもならないわけだから、そちらを先に考える間に、多少は身体を休ませられるだろうし、まず心配はないよ」
「そうですか」
 うなずき、クラウスは隣りに居るコボルト族の将軍へと、意見を求めるように視線を向ける。
 リドリーもまた、ティルの言葉にうなずきながら、考え深げに口を開いた。
「そういうことであれば、セイ殿については問題はありませんが、しかし、ネクロードは困ったものですな」
「ええ」
 クラウスも、この青年にしては珍しく溜息をつくように応じて、何か打開策は浮かばないものかと首をかしげる。
 その様子を見ながら、ティルはちらりと、馴染みの傭兵の方を見やった。
「星辰剣は、何か知らないかな。ネクロードの持っている紋章について。月の紋章とか言ってたんだけど」
 傭兵にではなく、その腰に吊るされた剣へと問いかけると。
「私に意見を求めるとは、不遜ではあるが慧眼だな。生と死を司る紋章の主よ」
 金属的な響きのある低い声が、不意に室内に響いた。
「ということは、貴方は月の紋章を知っている?」
「おい星辰剣、知ってんなら何で早く言わねぇんだ! さあ吐け! とっとと知ってやがる事、全部吐かねぇか!!」
 ティルの質問を遮るように、ビクトールは己の剣を抜き、ぶんぶんと振りながら柄に刻まれた顔に向かってがなり立てる。
 それは、ある種の喜劇じみた光景だったが、周囲の者は失笑するよりも、真の紋章の一つ、夜の紋章が宿る剣に対してその聞き方はまずいだろう、と思わず冷や汗を垂らさずにはいられなくて。
「ビクトール、ちょっと落ち着いたら? 気持ちは分かるけど、そんな聞き方をしたら、星辰剣だって答えてくれる気を失くすだろう」
「うむ、その通りだ。まったくもって、この小間使いは口の聞き方を知らん!」
「何だと!? 誰が小間使いだ、この野郎!!」
「貴様に決まっておるだろうが!」
 ビクトールも時々、ひどく気が短くせっかちになるタチだが、星辰剣は、それに輪をかけて気が短く、気難しい。
 見ようによっては似た者同士だと、暇な時なら笑っていられるのだが、今はそういう状況ではなく。
 溜息をついたティルは、傍らのソファーの背に立てかけていた己の武器を手に取り、おもむろに傭兵の頭を小突いた。
 それは至極他愛ない仕草に見えたが、ごん!!と鈍い音が居間に響いて。
「──ってええぇっ!!」
 ビクトールは星辰剣を取り落とし、頭を抱えて床にうずくまる。
「自業自得。しばらく、そこで大人しくしてて。──で、星辰剣。この熊男の無礼は詫びるから、知っていることを話してもらえないかな」
「……ふむ」
 絨毯の上に転がった剣を取り上げ、改めて問いかけると、星辰剣は考えるように沈黙し。
「──まぁ良かろう。私も過去の洞窟で眠っていた期間が長いために、かの紋章について、多くの事を知るわけではないが」
「それで構わない」
 ティルがうなずくと、重々しく語りだした。
「私が知っているのは、あの紋章の持ち主は、彼の吸血鬼ではないということだ。あれが何時、月の紋章を手にしたのかは知らないが、本来の持ち主は別に居る」
 予想だにしないその言葉に、集っていた一同はざわめき立つ。が、ティルはそれを視線一つで制して、質問を続ける。
「その持ち主とは?」
「最後に私が消息を聞いたのは、数百年も昔のことだ。月の紋章が存在する限り、彼の者は生きているはずだが、現在どこに居るかは分からない。しかし、あの吸血鬼の如き輩に、己が紋章を委ねてよしとするような性分ではないから、恐らくは彼の者も、あの吸血鬼めを追っていることは間違いなかろう」
「……その真の持ち主が、ネクロードに殺されたという可能性は?」
「無い。あのような小物になど、いかに隙を突こうとも倒せる相手ではない。第一、あの吸血鬼は、四百年の時を経ながら、月の紋章を制御し切れてはおらぬ。紋章が彼奴を主と認めておらぬ証拠だ。故に、私も彼奴が月の紋章を所有しているとは、これまで気付かなかった」
 星辰剣の言葉に、ティルはしばし考え込む。
 そして、慎重に言葉を選んで問いかけた。
「真の持ち主ならば、月の紋章を制することが可能か? 今はネクロードの手にあっても?」
「それは無論、可能だろう。彼の者は千年にも近い歳月を、月の紋章と共に在る。真の紋章と、真の紋章が選びし主は、共に在る時間が長ければ長いほど一体化するものだ」
「分かった。最後にもう一つだけ、その人物の名は?」
「シエラ。蒼き月の村のシエラだ」
「シエラ……」
 噛み締めるように、恐らくは女性のものだろう、その名を呟き。
「……これだけの事でも知っていると知らないとでは、随分な差がある。貴重な情報の提供に感謝する、星辰剣」
「うむ。聞いた以上、是非とも彼の者を探してもらいたいものだ、生と死を司る紋章の主よ。彼の吸血鬼めには、何としてでももう一太刀浴びせてやらぬと私の気が済まぬのでな」
「承知した」
 短く応じて、ティルはいつの間にか立ち上がっていたビクトールへと星辰剣の柄を差し出す。
 それを受け取りながら、ビクトールは太い眉をしかめて見せた。
「ったく……こういう話を黙ってやがる星辰剣も星辰剣だが、ティル、お前もお前だ。天牙棍で殴るなんて、俺を殺す気か?」
「余程打ち所が悪ければともかく、頭にたんこぶを作ったくらいで死ぬ人間は居ないよ」
 危険な部位はちゃんと外した、とさらりと受け流して、ティルはクラウスたちを見やる。
「かつて僕たちがやったように、さらわれた二人を救出することは今回も可能だと思うけれど、何か決定打がないとネクロードには逃げられる。それを繰り返さないためには、聞いていた通り、真の持ち主とやらを探すしかないんじゃないかな」
「それは……そうなのでしょう。しかし、その人物が一体どこに居るのか……」
「何か手がかりがあればよいのですがな」
「シエラ、シエラねえ……」
 それぞれが首をひねるが、初めて聞く名に心当たりなどあるはずもなく。
「まぁ、夜が明けてからまた考えた方がいいだろうね。もしかしたらクォン城に居る誰かが、何かを知っているかもしれないし」
 誰にともなくティルは言い、一旦テーブルの上に置いていたグラスを取り上げて、残っていた水を飲み干した。
 そして、居並ぶ人々へと視線を向け、
「悪いけど、僕はこれで休ませてもらうよ。君たちも休める時に休んでおいた方がいい。ネクロードは昼夜関係なく動く奴だから」
「ああ、そうだな」
「それじゃ、おやすみ」
「お休みなさいませ」
 再び天牙棍を手に取り、居間を通り抜けながら挨拶を交わして、ティルは階段を二階へと昇る。
 そうして足音を殺したまま、階段から見て二番目のドアをそっと開けた。
「───…」
 火を小さくした蝋燭が仄かに照らす中、セイは先程と変わらず静かに眠っていた。
 ゆっくりと歩み寄り、白い額に触れると、指先にやわらかな温もりを感じる。
 まだ完全には程遠いようではあったが、一時に削られたセイの『熱』は多少、回復しつつあるようで、そのことにティルはほっと安堵の息をついた。
「……大丈夫、なんてね。本当は今の君に対して言える言葉ではないけれど。でも……それでも、僕はここに居るから」
 小さく小さく、誰も聴くことのない囁きを呟いて。
 ティルは、前髪の間から覗くセイの額に、そっと口接ける。
「今はゆっくりお休み、セイ」
 願わくば、夢すら見ない穏やかな眠りを、と祈るように告げ。
 何一つ音を立てることなく、ティルは大切な存在の眠る部屋を後にした。

...to be continued.

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