眩しい朝の光の中、整然と隊列を整え、ミューズの市兵たちがティント市の大門を出てゆく。その光景を止める術を持った者は、そこには一人としていなかった。
居並ぶ人々焦燥に手を堅く握り締めたまま、五千人の兵士と、それを指揮する二人の将を見送る。
「クラウスさん、リドリーさん」
そんな誰もが重苦しく言葉を失っていた中で、いち早く声を上げたのは、一堂の中で最も年若い少年だった。
「ごめんなさい、僕はこれから、すごく無理なことを言います。──お二人で同盟軍の兵を率いて、ミューズ兵の後を追って下さい。無理に追いつく必要はありません。ただ、万が一のことがあった時、一人でも多くのミューズの人を連れて戻って欲しいんです」
その言葉に、居合わせた大人たちは目を見交わす。
「──セイ殿は、やはり罠だと思われるのですかな」
「単なる可能性です。グスタフさん。一人でも多くの戦力が欲しい今、あの人たちを失うことは出来ません。ですから……」
きっぱりとした口調で言い、幼さの残るどちらかといえば可愛らしい部類の顔立ちには似合わない、ひどく難しい表情でセイはグスタフを見、そして仲間の将を見やった。
その視線を受けて、即座にクラウスがうなずく。
「承知しました、セイ様。すぐに用意を整えてミューズ兵を追います。リドリー将軍もよろしいですね」
「勿論だ。今は行き違いがあるとはいえ、ミューズも本来ならば共に手を携えて戦うべき友邦であることに変わりはない。セイ殿、必ずや無事に連れ戻して見せましょう」
「お願いします。でも絶対に無理はしないで下さいね」
出来る限り誰も傷つかないように、と念を押し、そしてセイは自身を落ち着けるように一つ深呼吸し、硬くなっていた表情に小さな笑みを浮かべた。
「ジェスさんもハウザー将軍も有能な人たちですから、頭に血が上りっぱなしということはないと思います。何か異変があれば、きっと我に返ってくれるでしょうから、クラウスさんとリドリーさんは機を逃さないことだけ、注意していて下されば十分です。その後のことはお任せします」
軽口というほどではないが、淡い揶揄を込めて伸びやかな口調で言われた言葉に、ふと大人たちの表情も緩む。
「……たとえネクロードの罠であったとしても、上手くすれば、これでミューズを引き込むことが出来るかもしれませんしな」
「ええ。一石二鳥を狙うのですから、我々の責任は重大です」
「ですが、遣り甲斐はある。せいぜい恩を高く売りつけてみせましょう」
軍主の声に答えるように口々に言い合い、クラウスとリドリーは、セイに向かって一礼した。
「それではセイ様。行って参ります」
「吉報をお待ち下さい」
そして足早に立ち去ってゆく二人を見送ってから、セイは更に、ギジムとコウユウを振り返る。
「ギジムさん、コウユウさん。あなた方は、この辺りの土地には詳しいですよね。申し訳ないんですけど、ティント市の周辺の様子を探ってもらえますか? グスタフさん、最悪の場合を考えると、町の人たちの脱出路は確保しておいた方がいいと思うんです。ギジムさんたちと協力して、安全な経路を考えてもらえますか」
「──最悪の事態、か」
セイの言葉に、グスタフは顔をしかめる。
だが、セイは、迷わずうなずいた。
「さっきも言いましたけれど、可能性です。ほんの少しでも可能性があるのなら、打てるうちに手は打っておいた方がいいと思うんです。遅かれ早かれ、ネクロードがここに来ることは恐らく間違いないんですから……」
「セイの意見は正しいと僕も思うよ」
不意に割り込んできた声に、セイは少しだけ驚いて傍らを振り返る。
「マクドールさん」
彼がずっとそこに居たことは知っていたが、『同盟軍軍主の客分』に徹している彼がこんな風に人前で発言してみせることは、これまで殆どなかったといっていい。
どうして、と疑問のまなざしを送ったセイに、しかし今はティルは答えず、グスタフたちをその漆黒の瞳で見やった。
「かつてネクロードと戦った経験のある立場から言わせてもらうけれど、あいつは本当に性根が汚い。どんな卑劣な手段でも平気でやる男だから、少しでも気を抜くと足元を掬われてしまう。そうだろう、ビクトール?」
「ああ、そうだとも!」
彼が肩越しに問うと、後ろの方で苛々と歯噛みをしていた傭兵が、唸るような返事を返す。
「あいつは心底、ろくでもねえ野郎だ。グスタフ市長、悪いことは言わないからセイの言う通り、やれることは全部やっといた方がいい。そうでないと、本当に最悪のことになる」
かつて、ネクロードの手によって故郷を滅ぼされた男の言葉には、音声では到底表現できない重さ苦さが滲んでいて。
グスタフも、大きな溜息をついてうなずいた。
「そうなのでしょうな。死者しかいない王国を造るなどとほざいた奴だ。まともな神経で考えていては太刀打ちできないということを肝に銘じなくては」
「よっしゃ、分かった。俺たちはすぐに動こう。行くぞ、コウユウ」
「合点承知の輔!」
話がまとまりをみせたところで、うなずき合った山賊たちがセイに一礼し、足早にティント市の門を出てゆく。
その後姿を見送ってから、グスタフがセイたちを振り返った。
「我々は市内の守りを固めて、ネクロードの襲撃に備えるとしましょう。数人ずつ男たちを組ませて巡回させればよろしいですかな」
「はい。単独行動だけは絶対にしないように伝えて下さい。そして、もし敵襲があったら、大声で叫ぶようにと」
「それならば笛を持たせましょう。坑内でも落盤や有毒ガス発生を迅速に伝えるために、笛を使うことがあるのですよ」
「いい案ですね。それじゃあ僕たちにも、貸してもらえますか? 僕たちも二手に分かれて市内を警戒した方が、効率がいいと思いますから」
「分かりました。では、ひとまずギルドホールへ行きましょう」
手早く話をまとめて、一同は移動を始める。
そうしてギルドホールへと続く坂道を登りながら、セイは変わらず自分の傍にいるティルを振り仰いだ。
「マクドールさん」
「何?」
「どうしてですか? さっき……」
昨日のだらだらと続いた作戦会議の時でさえ、求められた時に短く答える以外は全く発言しなかったティルが、何故、この場で口を挟んだのか今一つ分からず、セイは小声で問いかける。
と、ティルは、にこりと笑んで。
「セイが頑張ってたから。援護しようかなと思ってね」
「……半分、ですよね、それ」
「おや、聡い」
理由の半分しか答えてない、と突っ込んだセイに、ティルは更に面白げな瞳を向けた。
「本当にすごいね、君は」
「何がですか? それより、もう半分の理由って……僕が考えてることで合ってます?」
「うん」
目的語も何もない質問に、しかしティルはうなずく。
それを聞いて、セイは早足に歩きながら眉をしかめた。
「……すごく、嫌な感じがするんですけど」
「気が合うね、僕もだよ」
「今はちょっと嬉しくありません」
「そう?」
「はい。──急ぎましょう。ジェスさんたちが本当に罠に嵌められたんだとしたら、僕たちが打つ手は、どれも全て、もう遅すぎることになります」
「ああ」
小声で話しながら、二人の表情には薄い緊張感をまとった鋭さが滲む。
互いに半ば無意識に、己の武器の感触を確かめ、ギルドホールへ続く長い階段を足早に上って。
そして、呼び笛を分配するために、こちらです、といざなったグスタフの声に応じてギルドホールの玄関口へと足を踏み出しかけた時。
セイは、仲間が一人足りないことに気付いた。
「あれ? ナナミは?」
「え? さっきまでそこに居たはずだけど……」
一同の一番後ろからついてきていたはず、とセイとティルは周囲を見回す。
「ナナミ!?」
しかし、姿は見えず、声を張り上げても返事は返ることなく。
さっと表情に緊迫感を昇らせて、鋭く四方へと視線を走らせたセイが、ふと何かに気付いたようにギルドホール前から続く通りの向こうへとまなざしを向けた。
「……あっち、誰かが騒いでる」
小さく口早に呟き、
「すみません、僕ちょっと見てきます!」
セイは誰へともなく叫んで、駆け出す。
「あ、おい! セイ!?」
「僕が行く!」
突然のリーダーの行動に何事かと振り返った傭兵を押しとどめたのは、いつになく鋭い光を漆黒の瞳に浮かべたティルだった。
その瞳で、ティルはまっすぐに、かつての仲間を見つめる。
「ビクトール、君は市長と協力して街の人たちを外へ逃がしてくれ。ネクロードはもう、すぐ近くまで来てる」
「何だと!?」
「あの騒ぎがそれだ。既に事は起き始めてる。あっちは僕とセイで何とかするから、君は急いで住民を避難させるんだ。ここから一番近いクロムの村で落ち合おう」
かつて数万の反乱軍を従えていた、あの頃と同じ声で、有無を言わせぬ指示を与えると、ティルもまたセイの後を追って通りを駆け出して行き。
「くそっ! おい、グスタフ市長!!」
事情を把握しきれないことに歯噛みしながら、ビクトールは、ギルドホール玄関口で何事かとこちらを振り返っていたティント市長へと大声を張り上げる。
それを機として、深い山々の懐に抱かれた鉱山都市は、にわかに騒然とし始めた。
ナナミが、通りの向こうの方での騒ぎに気付いたのは、ギルドホール前へと続く階段を昇りきった所だった。
前を行く大人たちと弟は、それぞれに何やら打ち合わせに集中しているようで、誰も気付く様子はなく、一瞬、どうしようかと考えて。
ナナミの出した結論は、私はセイのお姉ちゃんなんだから、というものだった。
昨夜、戦いを止めて逃げようと言った自分に、セイはきっぱりと、それは出来ない事だと答えた。
だとしたら、自分もセイのために同盟軍で頑張るしかない。弟が大事だからこそ逃げようと言ったのに、その弟を置いて一人で逃げ出すことなどできるはずもないのだ。
(ちょっと見てくるだけならいいよね。すぐに戻って来ればいいんだから)
つい先程、クラウスやリドリー、グスタフといった面々に指示を出していた弟は、これまでに見たことがないほど、大人の瞳をしていた。
あんな顔をする弟を、ナナミは知らない。
知らないけれど、それでも間違いなく、あの子は自分の弟で。
きっと苦しいのだろうに、あんなに一生懸命、頑張っていて。
──だったら私は。
少しでも、大事な大事な弟の役に立つのなら。
そんな思いで、ナナミはそっと一同から離れ、通りの向こうへと駆け出し、そして。
「すみません、ここに女の子が来ませんでしたか!? 僕と変わらないくらいの背格好の……!」
「ああ、あんた! 大変だ!!」
「中を見てくるって、入って行っちまったんだよ!!」
「え!?」
大騒ぎしている鉱員たちが口々に叫ぶのを、セイは何とか聞き取ろうと努める。
「ちょっと前に入っていった男たちが出てこなくてな、落盤事故でもあったんじゃねえかと……」
「そしたら、女の子がやってきて、ちょっと見てくるって」
「危ねえからって止めたのに、ずんずん行っちまって……!!」
告げられた事実に、セイは全身の血の気が引くのを感じた。
「ナナミは、この中なんですね!?」
「あ、ああ」
うろたえ、うなずく大人たちにセイは、きつく唇を噛む。
彼らを責めることはできない。ナナミが無鉄砲すぎるのだ。
ネクロードが今にも襲ってこようとしている、こんな時に。
「あ、おい、ボウズ!」
慌てて制止しようとする大人たちに構わず、自分も坑道へと駆け込もうとした時。
ぐ、とその肩を止められた。
「セイ!」
邪魔をするのは誰か、と血相を変えて振り返る前に、馴染んだ声が耳に届く。
「良かった、追いついた」
セイの肩を抱くようにして引きとめた彼は、一瞬、セイに微笑を向けると、すぐに周囲の鉱員たちに向き直った。
「市長命令だ! ティント市民は今すぐ家族と共に、ティント市から脱出せよ! 家財道具には構わず、命を守ることだけを考えるんだ!!」
「な……」
「何だ、あんたは……!?」
「すぐに不死の化け物たちの大群が、この街を襲ってくる。だから、ひとまずクロム村へ向かうんだ。今を逃げ切れば、一両日中に同盟軍から援軍がやって来る!」
凛と辺りを圧しのけるような強さの声で発せられた、『命令』に。
鉱員たちは一瞬、静まり返り、そしてすぐに声をひそめて騒ぎ出す。
けれど、それは驚きと怯えに満ちているとはいえ、パニックというには程遠く。
「今なら十分間に合う。だから、慌てなくていい。とにかく急いで家に戻り、家族と共に逃げろ!」
未だ戸惑いを残して居並ぶ彼らの瞳を、強い光を宿した漆黒の瞳で見渡し、もう一度、人々の行動に明確な指向性を与えるべく、張り上げずともよく透る声で告げると、ティルは踵(きびす)を返して、
「行こう」
と、セイの肩を押しやった。
人々のざわめきを後にして、所々にカンテラが吊るされているだけの薄暗い坑道の中に踏み込みながら、それまでずっと黙っていたセイは不安と緊迫に推し包まれた瞳でティルを見上げる。
「マクドールさん……」
「大丈夫。間に合うよ」
全ては、まだ大丈夫だと。
強く言い切って、ティルは入り口からさほど遠くない所に設置されている作業用のゴンドラに乗り込んで、昇降レバーを降ろす。
そして、セイを見つめた。
「大丈夫だから。急ごう」
「……はい」
こんな時でも落ち着きを失わない、静かに澄んだ漆黒の瞳を見上げて、セイはうなずき、そして呼吸を整えるように一つ深呼吸する。
ほぼ同時に、がたん、と荒っぽい衝撃と共に、作業用ゴンドラが止まって。
セイは、薄暗い坑道の中を見透かそうとするように、前へと視線を向けた。
出入り口に近いこの辺りは、まだ一本道で、採掘した鉱石を運び出すためのトロッコの線路が長く続いている。
押し黙ったまま、緩やかなカーブを描く線路をたどるように進んだ、その先。
「ナナミ?」
線路上にうずくまってる小さな影を、セイは見つけた。
「…っ! セイ!?」
「ナナミ! 良かった……!!」
「セイ! セイ! 怖かったよ〜っ!!」
どうやら怪我をしたからとかではなく、お化け嫌いのナナミのことだ、単に怖くて動けなくなっていただけなのだろう。うわーんと泣き声を上げながら飛びついてきた姉の身体を、セイは抱きとめる。
ぎゅうぎゅうと容赦のない力でしがみつかれて、かなり痛かったが、それでも全然構わなくて。
「ナナミ、本当に無事で良かった……」
「でも、すっごくすっごく怖かったんだから〜っ!!」
「それはナナミが勝手に行っちゃったからでしょ? どうしてこんな事したの? 僕もマクドールさんも、すっごく心配したんだよ?」
「それは……」
少々厳しい声で問い詰められて、うー、とナナミは押し黙る。
「だって……ギルドホールの前まで来たら、こっちの方で騒いでる声が聞こえて……」
「だったら僕たちに言えばいいでしょ? 黙って一人で行くから、怖い目に遭うんだよ?」
「ちょっと見てくるだけだって思ったんだもん! セイは忙しそうだったし!」
「そりゃ忙しいよ!? でもね、だからって何も言わずに消えたら、心配するに決まってるでしょ!?」
「だけど…っ!!」
「はいはい、二人とも、そこまで」
際限がなくなりそうだった姉弟喧嘩に、わずかに苦笑した涼やかな声が割り込む。
それだけでなく、ティルは革手袋をした手を、睨み合う二人の顔の間に差し込んだ。
「え……」
「あ、マクドールさん……」
存在を忘れていた、と見上げる姉弟のそっくりな表情に、ティルは、やはり苦笑めいた笑みを浮かべて、
「気持ちは分かるけど、今はそういう場合じゃないでしょ、二人とも」
一瞬ただの子供に戻っていた二人を、やわらかに諭す。
「とにかく、ここから出ないと。街の人は、もう脱出を始めてるだろうから」
「え、じゃ、じゃあ、やっぱり……」
ティルの言わんとしていることを理解したのだろう。ナナミが、さっと顔を青ざめさせる。
セイも、緊迫した表情に戻って、うなずいた。
「ええ。……でも、ここに入って戻ってきてない人たちがいるんですよ」
「それは僕にも聞こえた。でも、落盤事故なんかじゃないだろう。確かめに行ってもいいけど、ちょっと危険だよ」
戻らない鉱員たちが、単にモンスターに襲われたというだけなら、ここにいる三人だけでも、どうにかなる。
けれど、もし、もたついていて、そこに御大(おんたい)が登場したら。
あるいは、最初から御大の仕業であれば。
「僕たちには決定打がない。──分かるね、セイ?」
静かに告げられて。
セイは軽く唇を噛み、うなずいた。
「……はい。今は、ここを出ましょう」
「そんな、セイ……」
鉱員たちを見捨てるのかと、ナナミが弟の顔を見やる。
けれど、セイは悲しげな瞳を姉に返した。
「助けられるのなら、助けたいよ、僕も。……でも、きっとその人たちは、もう『人間』じゃなくなってる」
その言葉に、更にナナミは青ざめて、しかし。
「……でも、でも、決まったわけじゃないでしょ、まだ……」
「ナナミ、ごめんね。でも、僕たちだけで確かめに行くのは無理なんだよ」
「いいえ、わざわざ出向かれなくとも確認させて差し上げますよ」
突然響いた声に。
ざっと三人は振り返る。
「おや、失礼。驚かせてしまいましたか。なにぶん、気配なく動くのが私の身上ですので、許して下さるとありがたいのですがね」
一体いつの間に現れたのか。
壁のカンテラに照らし出されたトロッコの線路の向こう、少々薄暗がりになる位置に、背の高い影が立っていた。
漆黒のマントに全身を包んだ、その禍々しい姿は見紛うはずもなく、しかし、
「……単に生き腐れすぎて、死臭すら出なくなっただけだろう」
その仇敵へと向けて発せられた声は、常になく、しんと冷えていて。
隣りにいたセイは、ちらりと軽い驚きを乗せたまなざしでティルを仰ぎ見る。
すると彼は、その際立って秀麗な容貌に、あからさまな嫌悪の表情を浮かべており、漆黒の瞳に浮かぶ光の険しさにセイは小さくまばたきした。
「──相変わらず礼儀を知らないようですね。……ティル・マクドール、でしたか、確か」
「ああ。久しい、と言うには前回の邂逅から間がないが」
「確かに。少々早すぎて興醒めですね。しかし……」
これ以上ないほどに冷えた、氷塊を思わせるティルの声とまなざしにも動じることなく、一年や二年など塵芥にも等しい、と四百年を生きた吸血鬼は、血赤の瞳で三人を見渡す。
そして、にやりと口元に、見るものを不快にさせずにはおかない笑みを浮かべた。
「そこのお嬢さんは、花嫁とするには少々私の好みではありませんが……あなたといい、確かセイと言いましたか、同盟軍の軍主殿といい、実に素晴らしい私の僕(しもべ)となりそうだ。我が国の民となれば、末永く可愛がって差し上げますが、いかがなものです?」
「は、花嫁って……! 好みじゃないって、どういうことよ!!」
「ナナミ、いいからナナミは黙ってて……」
「でもセイ!!」
「いいから!」
更にわめこうとする姉を、ぐいと自分の後ろに追いやって。
セイは目の前の宿敵の一人を、強いまなざしで見やった。
「あいにく、お前なんかに仕える気はこれっぽちもないよ。あまり勝手なことばかり言わないでくれないかな」
そのセイの隣りに、さりげなくティルも立って、ネクロードの視線からナナミを庇う。
「それに、お前は忘れていないか? 僕が何者なのかを? それとも僕を記憶している上で、その薄汚い手で殺せるとでも思っている?」
この右手に宿るものを。
生と死を司る紋章──ソウルイーターの名を忘れたかと。
変わらず天牙棍を手にしたまま、ティルが冷ややかな笑みを口元に刻む。
革手袋に包まれた右手からゆらりと立ち上った、底無しの深淵を思わせる気配に、さしものネクロードも微かに眉をしかめた。
「……毎回毎回、私の気に障ることばかりする虫けらですね、あなたは。非常に興醒めな事ですが、確かに我が月の紋章の呪いも、あなたには効かない。それは認めて差し上げましょう。──ですが、それはあなたに限っただけのこと!」
不意に高さを増した吸血鬼の声音と共に、薄闇に満ちた坑道内の大気が、きんっ、と張り詰め。
「百人の血と命を捧げし、我が蒼き月の紋章の力を思い知るがいい!! 永遠に解かれることなき呪われし頸木(くびき)を、その身に受けよ!!」
「我が生と死を司る紋章よ、この世界に生きるに値せぬ者、暗黒の深淵に帰るべき者に、永遠なる裁きを下せ…!!」
不吉な交響曲のように薄暗い坑道に響き渡ったネクロードの声に被さるように、鋭いティルの詠唱が響き渡り、いち早く、全てを無に帰す紫電を散らした永久(とこしえ)の暗黒が、カンテラの造り出す鈍い明かりなどたやすく突き破って、ネクロードへと襲い掛かる。
が、それよりも更に一瞬早く。
「ナナミ…っ!!」
闇夜に閃く刃の如く青ざめた月光が、咄嗟に背後のナナミを庇ったセイの身体へと容赦なく降り注いだ。
「セイ!」
予測通りのネクロードの狙いに舌打ちし、恐らくは大丈夫、と思いつつも反射的に少年へと伸ばしたティルの手は、しかし。
「!?」
突如としてセイの右手から膨れ上がった緑柱石色の光に、したたかに弾かれて、ティルは己の手に生じた痺れるような痛みに、ほっと安堵の息をつく。
そしてセイは、ナナミを庇った姿勢のまま、状況を確かめるべく顔を上げて。
「なっ…、私の呪いを、弾いた……!?」
未だティルの召喚した暗黒の死神を振り払いながら、その様を目にしたネクロードが血相を変えて叫んだ。
「まさかっ、まさか、あなたも真の紋章を……!?」
「人間を虫けら以下にしか考えていないから、そういう失態を犯すんだ」
狼狽する吸血鬼に向かって冷ややかに言い放ち、ティルは再度、右手を掲げる。
「しばらく、そこで遊んでいるがいい。──我が生と死を司る紋章よ、不浄なる者へ今一度の裁きを!」
黄昏を思わせる薄闇に凛と響き渡った声に従い、夜空に走るプラズマのような紫電の輝きが漆黒の闇に縦横無尽にきらめき、六対の死神の幻影がネクロードへと再び襲い掛かる。
その隙にティルは、傍らの二人を振り返った。
「一旦退くよ。行こう!」
「はいっ!」
「ま、待て…っ!!」
叫ぶ吸血鬼には構わず、三人は一斉に坑道を外に向かって走り出す。
途中、地中から湧き上がるようにして姿を現したゾンビ数体に遭遇したが、いずれも物の数ではなく、ティルとセイが一瞬で撃破して、彼らは地上へと続く作業用ゴンドラへ飛び乗った。
ガシャン、と大きな音を立てて、昇降レバーを上げると相変わらず荒っぽい衝撃と共にゴンドラが動き出し、ゆっくりと上昇を始める。
行きと同様、焦れったいとしか言い様がないほどに遅く感じる速度ではあったが、それでも、ほどなく縦穴を昇り切ったゴンドラは衝撃と共に止まり、そこから下りた三人は外へと向かって歩き出した。
が、脱出を急ぐでもなく、むしろ慎重なセイとティルの足取りに焦燥を覚えたのだろう、気忙しげにナナミが呼びかけた。
「ね、ね、急ごうよ。追いつかれちゃうよ」
「それはしばらく大丈夫。ソウルイーターの召喚する死神は、そう簡単には振り払えやしない。それよりも、ナナミちゃんも気をつけて」
「僕たちから離れちゃ駄目だよ、ナナミ」
「え、え……?」
緊迫した口調のまま、口々に言う二人の言葉が理解しきれず、ナナミは戸惑い、怯えるように視線を行き来させる。
だが、二人はそれ以上答えることなく、一向は眩しい光の差し込む坑道出口から、外へと足を踏み出して。
少女は、己の目を疑った。
「な…、何、これ……!!」
街中に満ちる、吐き気のする腐臭。
その中を、異様にのろのろとした速度で徘徊しているのは、人の形をしてはいても、既に人ではない者。
それらが幾つも幾つも……数えられぬほどに。
「何なの……!!」
よろりと後ろに半歩下がるのを、ちょうどそこにいたティルが支える。
その傍らで、気遣わしそうにゾンビで満ちた町並みへと視線を向けながら、セイが口を開いた。
「街の人たちは無事に逃げられたでしょうか?」
「多少、僕たちが時間稼ぎはしたと思うけど……でも、怪我をしている人は見当たらないようだし、皆、無事だと信じよう」
「そうですね」
うなずき、自分たちも脱出しよう、と歩き出そうとしたセイに、自分も続いて足を踏み出しかけて。
「──セイ?」
しかし、ティルは何気なく視線を向けた先の、そのセイの顔色に思わず少年の名を呼ぶ。
「セイ、大丈夫?」
「え?」
何かと、振り返った、セイの顔は。
──蒼白だった。
表情こそいつも通りに取り繕っているが、倒れないのが不思議なほど薄い唇までもが白く色を失い、額には汗で前髪が張り付いている。
明らかに尋常ではないその様子に、ティルは眉をしかめ、言葉を継いだ
「坑道にいる時は気付かなかったけど……。──まさか、さっきのネクロードの呪いで、何か……」
「別に平気ですよ。緊張してるだけです。それよりも、は……」
早く、と言いかけ、声を途切れさせた少年の瞳から、不意に光が消えて。
がくりと膝がくず折れる。
「セイ!!」
咄嗟に腕を伸ばして受け止めた身体は、既に力を失っており、ぐったりとティルに寄りかかってきて。
「セイ!? セイ、どうしたの!?」
弟の異変に気付き、悲鳴を上げるナナミの声を聞きながら、ティルは己の革手袋の指先を噛んで右手を抜き、少年の首筋に指先を当てた。
探り当てた脈拍はひどく弱く、また不規則に遅い速度で、感じ取れるかどうかというくらいだったが、それでも途切れることだけはなく鼓動を打っていて。
「大丈夫、ナナミちゃん。気を失ってるだけだから」
指先に触れたセイの肌は、冷たい汗に濡れ、首筋であるにも関わらず体温が感じられないほどに冷えきっていたが、それは口には出さずに、セイを抱いたまま、ティルは革手袋を懐に押し込んで立ち上がった。
「とにかく今は、一刻も早くクロムの村へ行こう。そこへ行けば皆もいるから」
「は、はい!」
恐慌状態に陥りかけながらも、落ち着いたティルの声に、どうにかナナミもうなずく。
そして、二人は敵の姿を避けながら、ティント市の門を目指して急ぎ始めた。
...to be continued.
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