「──あれ?」
階段へと歩き出そうとして、セイはその向こう、一番端の部屋のドアの隙間から光が零れていることに気づいた。
「ナナミ、まだ起きてるのかな。それとも、お化けが怖くて明かりをつけたままにしてるとか」
廊下でそれぞれの寝室へと別れてから、それなりに時間は過ぎているはずである。セイ自身がティルと話していた時間も、そう短い間ではない。
夜は更けており、他の同行者も既に寝入っているのだろう。ビクトールとクライブが宿泊しているはずの部屋からは、おそらく熊の如き傭兵のものだろう鼾(いびき)が廊下にまで聞こえてきている。
「うーん。クライブさん眠れてるかなぁ。……それとも案外、平気で寝てたりして。むしろ、僕たちの部屋より遠いルックの方が明日の朝、文句言いそう」
ぶつぶつと小声で呟きながら、セイは一番奥の部屋へと足早に歩み寄る。
そして、ごく小さくノックした。
「ナナミ? まだ起きてるの?」
「セイ?」
声を低めて呼びかけると、小さな返事があって。
かちゃりと鍵が外され、ドアが開いた。
「あ、まだ起きてたんだ。どうしたの? 眠れないの?」
「セイこそ。まだ寝てなかったの?」
「あ、うん。マクドールさんと、ちょっとお喋りしてて。喉渇いたからお水をもらいに行こうと思ったら、明かりがついてるのが見えたから」
「そう……。あ、中に入ったら、セイ。廊下は冷えるし」
「……じゃあ、ちょっとだけ」
マクドールさんが心配するといけないから、と断りながらもセイは、部屋の中へと入る。
室内は、セイとティルが泊まっている部屋と同じ造りで、二つあるベッドのうち、ドアに近い方のベッドへとナナミは歩み寄り、腰を下ろした。
「セイも座りなよ」
「うん」
素直にうなずきながらも、やはり、どこか元気がない、とセイは姉の様子を観察する。
昼間、ジェスにセイがきつい言葉を浴びせられた時から、ナナミはまるでしおれた花のように、いつもの精彩を欠いているようで、そのらしくない様子に、セイも内心、どうしたものかと途方に暮れる。
「マクドールさんと、何話してたの?」
「え? 色々だけど……」
「そう。きっと話が合うんだろうね。マクドールさんも昔、トラン解放軍のリーダーだったんだし……」
「うん……。そう、なのかな。確かに大事なことは沢山、教えてもらってるけど……」
そういう簡単な物言いで片付けてしまっていいのだろうか、とセイは一瞬戸惑う。
『リーダーだから』とか『天魁星だから』とか、少なくともセイ自身は、そんな理由のために青年を慕っているつもりはなかったし、また、青年の方も、それだけの理由でこちらに付き合ってくれていると思うには、あまりにも向けてくれる気遣いが細やかに過ぎる。
(──あれ? そういえば考えたことなかったけど……僕、どうして、こんなにマクドールさんのこと好きなんだろう? すごく良くしてもらってるし、傍に居てくれるとすごく安心するけど……)
そして、彼の方は何故あんなにまでも、と一時、目の前のことから逸れかけた思考を、姉の声が引き戻す。
「ねえ、セイ」
「え、何? ナナミ」
「私たち、今は同盟軍に居るけど……セイはリーダーをやってるけど……」
「うん……?」
「私たちは、どこの人間なんだろうね」
ぽつりと、ひどく切なくナナミの声は夜更けの部屋に響いた。
「キャロの人たちは親切だったけど、どことなくよそよそしかったし……。今なら理由が分かるけど。ゲンカクじいちゃんがハイランドの人じゃなかったからなんだよね。でも、キャロに居られなくなって都市同盟に来たら、今度はハイランド人だって言われて……。ねえセイ、私たちはどこに行けばいいのかなぁ」
「ナナミ……」
それは、と。
答えようとしたセイの言葉を遮るように、
「……セイ」
ナナミがもう一度、名前を呼ぶ。
「あのね……」
「うん?」
「…………ううん、いい。何でもない……」
「何? 言いなよ、ナナミ。ナナミらしくないよ?」
「……うん。そうだね…………言っちゃおうかな……」
うつむいたまま、随分と長くナナミは逡巡して。
じっとセイは、隣りの姉の横顔を覗き込むようにして、彼女の言葉を待つ。
そうして、ようやく零れ出た言葉は。
「……セイ……もうこんな戦いなんか止めようよ……」
「セイが戦わなきゃいけない理由なんかないよ……。戦って傷ついて武器を振るって、人を殺めて。そんなことをする理由はないよ」
「ナナミ……」
「どうして? どうしてセイなの? もっとふさわしい人がいるじゃない! ビクトールさんやフリックさんやシュウさんやリドリー将軍やフリードさんや……。セイが戦う必要なんかないよ……」
堪えに堪えていたものが堰を切ったように、とめどもなく零れる言葉は、既に弟に向けたものというよりも、全く異なる何かへ向けられたものと変わり。
床の上を見つめたまま、ただナナミは言い募る。
「このままじゃ、このままじゃ、セイとジョウイは……!」
「ナナミ」
セイとジョウイは、と二人の名を呼んで。
更なる何かを言いかけた姉を、少しだけ強い声で名を呼ぶことでセイは引き止める。
その声に、びくりと肩を震わせたナナミは、何か恐ろしいものを──ひどく遠いものを見るような瞳で、けれど、すがるように弟を振り返った。
けれど、そのナナミの瞳を真っ直ぐに見つめ返して。
「ナナミ。僕が戦う理由はあるよ、ちゃんと」
「え……」
セイは静かな、けれど、曇りのない声で告げた。
「最初は違ったかもしれないけれど、今は『僕』が必要とされてるから。今の同盟軍の軍主は僕なんだよ。他の誰か、じゃないんだ」
その答えに。
「……でも」
あきらかにナナミは激しく動揺する。
「でも、でも、セイじゃなきゃいけないの? セイも私も、ただの子供だよ。こんな戦いがなかったらセイとジョウイも少年兵の兵役を終えて、あのグリンヒルの学校みたいな所に行って。明日死ぬかもしれない、なんて心配なんかしなくても良くて……」
早口でまくし立てる声が、少しずつ上ずり、震えて。
「もう嫌だよ! 嫌だよ、嫌だよ、嫌だよ!! セイが死んじゃったらどうするの!? ゲンカクじいちゃんもいない、ジョウイもいない、それなのに……!!」
瞳に涙を浮かべ、悲鳴のように叫ぶ姉の姿に、セイは唇を噛み、こぶしを握り締める。
「……ナナミ」
目を伏せ、それでももう一度、まっすぐにナナミを見つめて。
「ごめん」
それだけしか、口に出来る言葉はなかった。
短い短い、たった一言の謝罪に、雷に打たれたように目を見開いたナナミは、くるりと向こう側を向く。
そして。
幼い頃からずっと見続けてきた、その肩が、セイの目の前で小刻みに激しく震えた。
「───…」
何も言えず、身動きすることも出来ず。セイはただ、唇を噛み締め、こぶしを握り締めてナナミの後姿を見つめる。
と、一つ深呼吸をして、再び唐突にナナミがこちらを振り返った。
「へへーんだ。やーい、騙された!」
「え?」
「ね、ね、ね、びっくりした? まるで本当みたいだったでしょ? 嘘だよ、う、そ」
まだかすかに濡れた頬に、満面の笑みを浮かべて。
「そうだよね、セイは必要とされてるもんね。そして、それを受け止められる強い子だもんね。うんうん、お姉ちゃんは鼻が高いよ」
威勢よく言いながらナナミは立ち上がり、更にはセイの腕も引いて立ち上がらせる。
「さあ明日も早いからね。朝から、あのいがみ合いの続きをするかと思うと、げんなりするけどね。でも頑張らなきゃ」
さあさあとセイの背を押して、部屋のドアを開けたナナミは、そのまま弟を廊下の外へと押し出した。
「ナナミ」
「じゃあね、おやすみセイ。おなか出して寝るんじゃないわよ」
「ナナミってば!」
名を呼んだ声に返る言葉はなく、ばたん、とドアは閉ざされ、そのまま内鍵をも閉める音が小さく響く。
思わずドアを叩こうとして、セイは今の時刻を思い出し、振り上げた手をのろのろと下ろした。
「──おやすみ、ナナミ」
ドアを見つめ、小さく呟くように告げて。
部屋に戻ろうと、ゆっくり足を踏み出す。
──その足が。
一歩も進まぬうちに、ぎくり、と止まった。
「マ……」
思わず名を呼びそうになったセイを、ほのかに微笑んだ彼は、自身の唇に人差し指を立てて見せることで制する。
その意味に、はっと気付き、振り返ったドアの向こうから物音がしないことを確かめてから、セイはゆっくりと、その人の元へと歩み寄った。
「───…」
軽く背を預けていた廊下の壁から離れ、セイを迎えたティルは、革手袋を外したままの右手でそっとセイの左手を包み込む。
いつのまにか夜気に冷たくなっていた手に、その手のぬくもりはひどく温かく感じられて、優しく導かれるままにセイは彼と並んで廊下を歩き、そして階段を下りた。
そういえば水差しを取りに行くと言って部屋を出たんだっけ、と思ううちに厨房に辿り着き、ティルは並べてあった銀製の水差しの一つを取り上げて、汲み置きの冷たい水を満たす。
すべての作業を、セイの手を繋いだまま器用に左手だけでやり遂げると、左手に水差しを持ち、瞳だけで、戻ろう、とセイに告げて、ティルは再び歩き出す。
目が合った時に、自分が持つ、とセイもまた無言で訴えたのだが、それすらも静かに微笑み、小さく首を振ることだけで拒んで、ティルは一言も言葉を発することなく、自分たちに与えられた二階の部屋へと戻って。
「────」
そして部屋へ入ると、水差しを片手にしたままセイをベッドまでいざない、素直にセイが腰を下ろしたところで、ようやくティルは繋いでいた手を優しく解いた。
それから彼自身はサイドボードの方へと行って、飾り戸棚からグラスを一つ出し、水差しから水を注いで、セイの方へと戻ってきて。
「はい」
微笑みと共に差し出されたグラスを両手で受け取り、自分を見つめる優しくも静かな瞳を見上げ、
「……ありがとうございます」
やっとセイは、それだけを小さく呟くように告げ、グラスに口をつけて一口、冷たい水を飲む。
その間にティルは、先程のようにセイの隣りへと腰を下ろして。
しばらくの間、無言の時が流れた。
「───…」
両手に持ったグラスの水を、うつむいたまま小さく揺らし、その波紋が鎮まるのを待ってセイはそっと口を開いた。
「……いつから居たんですか……?」
「君が出て行って、少し経ってから、かな。なかなか戻って来ないから様子を見に行こうと思ってね。そうしたら、ナナミちゃんの部屋の明かりがついているのが見えたから」
「そうですか……」
間が悪い、とはセイは思わなかった。
おそらく、彼とはそういう巡り合わせになっているのだろう。そうとしか思えないほどに、数ヶ月前の出逢い以来、彼はこんな時はいつでも自分の傍にいる。
──けれど、その事実が……自分が一人きりではないことが、今夜は少しだけ後ろめたいとも思えて。
かすかに躊躇いを覚えながらも、傍に居てくれる人のためにセイは口を開く。
「……マクドールさん」
「何?」
「誰でも、自分の持ってる世界ってありますよね。家族とか友達とか……、自分を中心にした世界が……」
「そうだね。セイにはセイの、僕には僕の、生まれてからこれまで生きてきた世界がある。……それは一定ではなくて、常に変化するものだけど……」
「はい」
ティルはセイが言いたいことを既に察しているかのようだった。
この人は、いつもそうだ、と思いながらセイは、ゆっくりと言葉を続ける。
「僕の世界は、ついこの間まで、すごく狭かったんです。ナナミとゲンカクじいちゃんとジョウイと……。ユニコーン隊に入るまでキャロの町から出たことも殆どなくて……。大事にしたいと思うものは、本当に片手に足りるくらいしかなかった。……でも」
でも今は、とセイは己の胸のうちを確かめるように、少しだけ目を伏せた。
「──あの頃に戻れたら、と思うこともあるんです。僕も。ジョウイとナナミのことだけ考えていれば良かった、あの頃みたいに、もう一度暮らせたら、って。そうしたら今夜だって、ナナミを泣かせなくても済んだかもしれないって、今も思うんですよ」
「……でも、セイは戻らないんだ?」
「……はい」
決して咎めることのない、優しい優しい声での問いかけに、セイは小さく微笑んでうなずく。
「一番大切にしたいはずの人を傷つけてるのに、間違ってるかもしれませんけど……それでも、もう僕はあの頃には戻らない。戻れないんじゃなくて、戻らないんです」
そして、セイは、マクドールさん、と隣りにいる人を呼んだ。
「何?」
「マクドールさんには、僕とナナミの名前の由来、まだ話してなかったですよね……?」
「──そうだね、まだ聞かせてもらったことはないね」
唐突な言葉にティルは少しだけ首をかしげ、それでも何でもない話の続きをする時のように応じてくる。
そんな彼の優しさが、今だけは胸を刺すように痛いと思いながら、セイは続けた。
「由来って言っても、そんなすごい理由じゃないんです。僕とナナミが、ゲンカクじいちゃんに拾われた日が、ちょうど七月七日の聖星祭で……。だから、七に生まれると書いて、ナナミ。聖星祭のセイ。じいちゃんが考えてくれたんですけど、単純ですよね」
「そんなことないよ。僕はとても綺麗な名前だと思う。ナナミもセイも。ゲンカク老師は、君たちのために一生懸命考えられたんだと思うよ」
「……ありがとうございます」
少しだけ微笑んで、セイはティルを見やる。
「僕たちも、じいちゃんのつけてくれたこの名前、すごく好きで……。特にナナミは子供の頃、僕が「お姉ちゃん」って呼ぶと怒ったんですよ。私はおねえちゃんじゃなくてナナミ!って。最近は逆に、呼び捨てにするよりも、お姉ちゃんと呼んで欲しいみたいですけど」
「ナナミちゃんらしいね」
「ええ。……今のを聞いただけで分かるでしょうけど。僕とナナミは一緒に拾われたんです。都市同盟に焼き討ちにされた村の焼け跡で泣いているのを、偶然通りかかって見つけたんだって、じいちゃんが言ってました。僕とナナミは、二歳と三歳くらいで……二人で固まって泣いてたって。
僕とナナミは、本当の姉弟なのか、同じ村の子供というだけだったのか、偶然そこに一緒に居ただけなのか、僕もナナミも覚えてないから分かりません。……本当に、何も。僕が覚えているのは、キャロの町で、じいちゃんとナナミのいる毎日から後のことだけなんです」
「セイ……」
「幸せだったんですよ、本当に。じいちゃんがいて、ナナミがいて、ジョウイがいて。
じいちゃんがキャロの町にとっては余所者でしたから、きつく当たる人もないわけじゃなかったですけど……。でも、僕とジョウイが裏切り者っていう事にされた時ですら、早く逃げなさい、とか、お前さんがそんなことをするとは思えない、とか言ってくれた人たちが、あの町には居たんです。
……いつでも。本当にどんな時でも、僕たちに優しくしてくれる人は居たんです。必ず……」
そして、セイは隣りにいる青年の名を呼んだ。
「マクドールさん。ナナミはさっき、自分たちはどこの人間なんだろう、って言ったんです。僕たちはハイランドの人間でも都市同盟の人間でもないって……。でも僕は、そういうこと、あんまり考えたことないんですよ。ハイランド人だとか都市同盟の人だとか……」
「──何故、と聞いてもいい? ちゃんと理由はあるんだよね……?」
「はい」
どうしてこの人には分かるのだろう、と思いながら、セイはうなずく。
何が辛いというわけでもない。けれど、何故かひどく泣きたいような気がしていて。
「僕たちに優しくしてくれた人は、ハイランドの人も都市同盟の人もいたんです。それどころか、全然関係ない国や町の出身の人も沢山……。マクドールさんだって、そうですよね。──だったら、どこの出身だとか、どこで暮らしてるとか、そんなこと関係ないじゃないですか。仲が悪い国の人だから、その人がどんなに優しくしてくれたとしても敵だ、なんて僕には絶対に思えないんです……」
「ああ」
セイの言葉にひどく納得したように、ティルは言った。
「だから、同盟軍にはあんなにも様々な人が居るんだね。色んな土地の出身の、色んな人が……。セイが、同盟軍をそういう場所にしたいと思ったんだね」
「──はい。そうです、マクドールさん……」
泣き出したいほどの想いを押さえ込み、セイは答える。
どうしてあなたには分かるのですか、と心の中で問いかけながら。
「僕は多分、ハイランドの村の生まれで、都市同盟に家族を殺されたのかもしれなくて。でも都市同盟出身のじいちゃんに、キャロで育てられて。ハイランド軍に裏切られて、都市同盟の人に助けられて、今はこうして軍主になっていて。
どこの、なんて考えられるわけないんです。そんなこと関係ない。僕は、クォン城に集まって、いつも、頑張って、とか、お帰りなさい、とか、お疲れ様、とか言ってくれる皆が大好きで、ハイランドも都市同盟も、皆で一緒に仲良く暮らせるようになったらいいって……!」
「セイ」
優しい声と共に。
「!」
差し伸べられた腕を、しかし、セイはティルの胸を強く押しやることで拒む。
その拍子に手から落ちたグラスが、鈍い音を立てて床の上を転がった。
「セイ……?」
どうして、と問いかける声に、きつく目を閉じ、それから、ゆるゆると目を開き顔を上げて。
「マクドールさんには、居なかったでしょう?」
セイは微笑もうとして微笑みきれない顔で、ティルを見つめる。
「もっと辛い時、もっと悲しい時。マクドールさんには、マクドールさんみたいな人は居なかったでしょう……?」
──先程、ナナミが「もう止めよう」と言った時。
心の中に浮かんだのは、彼の姿だった。
誰よりも透き通って、誰よりも強い人。
どんなに辛いことがあっても、どんなに嘆き悲しんでも、きっと彼は逃げなかった。
きっと。
もう止めよう、と言ってくれる人さえ。
彼には居なかった。
だから。
……だから。
うっすらと涙の滲んだ瞳で見上げるセイを、ティルは小さく目を見開いて見つめ返す。
そして、言葉を捜すように数度まばたきをして。
「……セイ」
そっと名前を呼んだ。
「セイの言う通り、確かに僕には誰も居なかった。誰も何も言おうとはしなかったし、僕も言わせはしなかった。でもね、だからこそ今、セイのために出来ることがあるのなら、してあげたいと思うんだよ。
あの頃、リーダーとしてではない僕を見てくれる存在が居ないことを、辛いと思ったことはない。僕にとって、それは当然のことだった。……けれど、それでも重いと思うことはあったから。もし君が辛いと……重いと感じることがあるのなら、傍に居て、ほんの少しだけでも支えてあげられたらいい、とそう思う」
言いながら、そっとそっと壊れ物に触るようにティルはセイの髪に指を触れる。
「セイ、僕は君の笑った顔が好きだよ。バナーの村で一番最初に会った時から、すごくいい笑顔をする子だなと思ってた」
ゆっくりと髪を撫で、それから、そっと回した腕で自分の胸へとセイをやわらかく引き寄せた。
「君が大好きだというクォン城の人たちは皆、いつも笑っているけれど、それは君が居るからなんだよ、セイ。君の笑顔は明るくて元気で、見るだけでほっとして、また頑張ろうっていう気になれる。君の笑顔が皆を救って、皆を守ってるんだ。
長い戦争の中で疲れ果てて、悲しい思いを沢山して、辛くてどうしようもない時に君と出会って。きっと皆、君の笑顔を見た時、長くて暗かった冬が終わって、眩しい春の太陽が現れた時のような気がしただろうね。あるいは長くて寒い夜が、やっと明けたような。誰もがそんな気持ちになったと思う」
静かに紡がれる言葉に、かすかにセイは身じろぎして。
「……マクドールさん、も?」
クォン城の人々と同じように、あなたも、と。
その問いかけに一瞬、ティルは小さく目をみはって。
「──うん」
それから、セイのやわらかな髪に頬を寄せるようにして目を閉じ、うなずく。
「僕も、だよ」
だから、とセイを優しく抱きしめたまま、ティルは続けた。
「君の辛い気持ちが少しでもやわらぐのなら。君がまた笑顔になれるのなら、幾らでも僕にすがればいいし、甘えればいい。そのために僕はここに居るのだから」
その優しい優しい言葉に、セイはティルの服の袖を、きゅ…と握る。
──大好きな人たちが。
誰よりも優しい、誰よりも分かってくれる、たった一人の人が。
自分の笑顔を、かけがえないと思ってくれるのなら。
……それだけで。
それだけで、僕は。
愛おしみ、包み込むように抱きしめ、抱きしめられ。
二人は、しばらくの間、身じろぎすらせずに互いのぬくもりを感じる。
そして、どれほどの時間が過ぎたのか。
ゆっくりとセイは、ティルの胸から顔を上げた。
「───…」
優しいまなざしで見下ろしてくる深い深い色の瞳を見つめ、小さく微笑みかける。
「……もう、大丈夫です」
「本当?」
「はい」
確かめるような仕草で、そっと頬を撫でられ、その感触の優しいくすぐったさにセイは、本物の笑みが自分の口元に浮かぶのを感じた。
「マクドールさんが居てくれたから。ナナミを傷つけちゃったのは悲しいですけど、また明日から頑張れます」
「そう。なら、良かった」
「はい。ありがとうございます、マクドールさん」
心からの御礼を告げると、彼もまた、微笑を返してくれて。
そして。
「────マクドール、さん?」
額にそっと触れて離れた、温かくてやわらかな感触に、セイは目をみはってティルを見上げた。
「今日は色々あったから、よく眠れるようにね。おまじない」
何を、とまなざしを向けるセイに、少しだけ悪戯めいた笑顔を浮かべて、ティルはセイを抱きしめていた腕を解く。
そして立ち上がり、二人の足元に転がっていたグラスを拾い上げた。
「……染みになるかな、これは」
「あ。ただのお水ですけど……。もう拭き取れないですよね、これじゃあ」
セイがグラスを取り落とした時に零れた水は、既に床板に染み込んでしまっていて、今更どうしようもない。
「まぁ仕方がないね。明日の朝、染みになってたら、一緒にグスタフに謝ろう」
「はい。……ごめんなさい」
「どうして謝るの? セイが悪いわけじゃないでしょ、これは」
「でも、僕が落としたんですから」
「手を伸ばせば届いたのに、それを見過ごした僕も同罪。だから、明日は一緒に謝りに行こう。ね?」
「……はい」
何だか言いくるめられたような気になりながらも、それ以上の反論は出来ず、セイはうなずく。
そんなセイの様子を見て取って微笑したティルは、室内を横切り、グラスをサイドボード上に置いた銀製の水差しの横へと並べた。
「じゃあ、今夜はもう寝ようか。明日こそ、あの人たちにネクロードをどうするかの作戦を立ててもらわないといけないしね」
「そうですね。今日は結局何も決まりませんでしたし。──話し合いは大事だと僕も思うんですけど、でも早くしないと、作戦会議してる間に敵が来ちゃいそうで、何だか気が気じゃないんですよね……」
「ああ、それは僕も同感」
眉をしかめたセイに、昼間の作戦会議に同席していたティルも首肯する。
もっとも、半日話し合っても何の結論が出なかったとはいえ、それは、今回ティント市に集っているクラウスやリドリー、グスタフといった名立たる面々が無能という意味では決してない。
むしろ逆に、各々がそれなりの見識を有しているが故に、作戦会議は、かえって決定打が出ないという困った状況に陥っているのである。
なまじっかセイもティルも、飛び抜けて優秀な軍師に仕切られた軍議ばかりを経験しているために、こういう意見の収拾を付けられない話し合いには、言葉にしがたい違和感と疲れを覚える。
とはいえ、それがどんなに贅沢な話かも理解しているから、決して第三者が居る所では、こういった感想は口にしないのだが。
「本当に厄介ですよね、ネクロードもゾンビも。改めて対策を話し合ってると、つくづく思うんですけど」
「ネクロードは、ああいう奴だし、ゾンビは最初から死んでるんだから、火で焼いて浄化するか、頭を叩き潰すしかないしね。そういう敵を相手にする時は、正面決戦だけは避けるべきなんだけど……」
「籠城は救援が来ること前提でないと意味ありませんし、たとえ、うちの本隊が間に合ったとしても、相手がゾンビの大軍じゃ……」
うーん、と時ならぬ作戦会議を始めた二人は、それぞれに首をかしげた。
「首領を潰すしかないと思うんだけどね、僕は。ネクロードさえ倒せれば、ゾンビたちも只の死体に戻るんだから」
「僕もそう思うんですけど。ただ、ネクロードを倒すにしても決定打がないでしょう? また逃げられたら元の木阿弥ですし……。だから今日の作戦会議じゃ、町を空にしておいて少数精鋭で、っていう僕とビクトールさんの案が通らなかったんですよね」
「ネクロードを倒す方法、ねぇ。──ソウルイーターで、魂を丸ごと喰らうことが出来れば簡単なんだけど。あれも真の紋章の持ち主だという話だから……」
「……真の紋章が相手だと、駄目…なんですか?」
話がティルの右手の紋章に関することだけに、少々躊躇いながらもセイは尋ねる。
しかし、問われた方は、さらりと首肯した。
「らしいよ。僕も最近知ったんだけどね。真の紋章主に瀕死の重傷を負わせることは物理攻撃でも魔法攻撃でも可能なんだけど、真の紋章が持つ特殊能力で直接相手の命を奪おうとすると、効果が相殺されるというか、跳ね返されるようなんだ。
単に真の紋章が宿主を守ろうとするのか、あるいは世界の均衡を崩さないように何らかの力が働くのか、僕は専門家じゃないから詳しくは知らないけど」
「だから三年前に、マクドールさんたちがネクロードと戦った時も……?」
「あの頃は、奴が真の紋章の宿主だとは知らなかったけどね。ソウルイーターの魔法攻撃は効いても、魂を喰らうことはできなかったから、どうも変だとは思って、ずっと引っかかってたんだ。──ただ、あの時も大層な事を言っていた割には、てんで手応えがなくてね。今回、写し身だったと聞いて納得したよ」
本体はもう少し楽しめるといいけど、などと不埒な事を呟いて、ティルは肩をすくめる。
「何かいい方法があればいいんですけど。ネクロードに弱点ってないんでしょうか」
「星辰剣、だけど、あれも口うるさい割にイマイチ当てにならないしなぁ。ビクトールなんかを小間使いにしてるくらいだし」
「本当に困りましたよねぇ」
揃って溜息をついて。
けれど、考えていても仕方がない、と二人は思考を切り替える。
「とにかく寝よう。もう日付が変わるよ」
「そうですね。作戦がどういう形になるにせよ、いつでも戦える状態にはしておかないと」
休める時には休めるというのが戦場の鉄則だ。
戦いが日常と化している日々に慣れた身は、どんな状況であれ、熟睡する術を知っている。
万が一に備え、上着を脱いだだけで二人は寝支度を終えて、ティルは壁際の燭台に歩み寄った。
「それじゃ、消すよ」
「はい。おやすみなさい、マクドールさん」
「おやすみ、セイ」
ふっと明かりが消え、目が慣れるまでの一瞬、室内は暗闇に包み込まれる。
その中で、ティルもまた寝台に上がる音がかすかに聞こえてきて、セイは深く息をつき、目を閉じる。
先程ティルが言った通り、色々な事が有り過ぎた一日だったが、それでも、いつもと同じように眠れそうだった。
(──おやすみなさい)
もう一度、心の中で隣りのベッドにいる人に囁いて。
そのままゆらゆらとセイは、夢さえ見ない眠りの中に落ちていった。
...to be continued.
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