天の滸(ほとり) −第4話−







「ここだよ」
 シェイランが小さく指で示したのは、中堅どころといった趣(おもむ)きの店舗だった。
 青果商らしく、店前には見事な果物や青物の入った籠が所狭しと並べられている。が、シェイランは真っ直ぐ店舗には入らず、一旦、脇の横小路へとテッドを誘(いざな)う。
 人が擦れ違うこともできないほど狭い、まさに猫の道に入った所でシェイランは立ち止まり、おもむろに持っていた皮袋の口紐を解いた。
 そして、何をするのかと見つめるテッドの先で、金貨を正確に十五枚数えて取り出し、自分の懐に入れて、残りは元通りに皮袋の口紐を結んでテッドに押し付ける。
「持っててくれないか。商談をするのに金袋を持っていたら、相手を付け上がらせるだけだ」
「……俺が持ち逃げしたらどうするんだよ」
「別に。窃盗犯として手配するだけさ。ド・レイズ商会にも知らせて、利子の請求も君宛に出させる。グレッグミンスターの金利は他所に比べるとかなり高いらしいからね。中には、カラスなんていうのもあるそうだから」
「カラス?」
「そう。カラスが鳴いたら、つまり一晩経ったら一割の利子がつく貸付だよ」
 貸付金利といったら、今は十日で一割の、いわゆる十一(といち)が一般的だろう。それとは比較にもならないべらぼうな高利にテッドは目をむく。
「まあ、逃げ切れる自信があるのなら、やっても構わないよ」
「……その代わり、二度とこの国には足を踏み入れられなくなるって言いたいんだろ」
「そこまでは言わないけどね。我が家の力を持ってすれば、国の隅々にまで手配書を送ることくらいはできるけど、大金とはいえ所詮、窃盗犯だし、父上はそういう権限の使い方をされるのは好まれないから」
「将軍は何もしなくても、商人はそうはいかねえだろ。あの皮革商は、他の国との取引も手広くやってそうだし」
「有能な商人だよ、フィジュールは」
 さらりと言うシェイランに溜息をついて、テッドは皮袋を受け取る。金の重みがずしりと腕に響いた。
「行こうか」
 テッドが皮袋を上着の内にしまうのを見届けると、これで準備はできたと、シェイランは身軽に通りに向かって歩き出す。
 その後ろについて行きながら、テッドは、金貨十五枚というと、と頭の中で換算してみた。
 赤月帝国の通貨は、グラン金貨一枚=ダナル銀貨二十枚=ポッチ銅貨二万枚の交換比率である。そして、庶民の一家七人の生活費が、他市よりも少し高めに見積もって、およそ二千五百ポッチというところだろう。
 一年で、約三万ポッチ銅貨=三十ダナル銀貨。つまり、十五グラン金貨というと、庶民の十年分の生活費に相当する大金である。
「───」
 そんなものを得体の知れない他人に預けるな、とテッドは改めて眉をしかめるが、しかしその一方で、これが彼なりの人物判定のやり方なのかもしれない、とも思う。
 大金に目がくらんで持ち逃げするようなら、それまでの人物だと見切って、その存在など二度と思い出しもしないのではないか。
 もしそうなのだとすれば、ますますとんでもないことだった。十六かそこらでこうであるというのなら、成長した暁には一体どうなるのか。
 もしかしたら、この少年はいずれ、帝国中に名を馳せている父親すら凌ぐのかもしれないと、テッドはすらりと伸びた背を見つめる。
 武術に関しても相当の修練を積んでいるらしい彼が、あからさまに向けられた視線に気付かないはずはなかったが、シェイランはそんな素振りも見せずに平然と歩を進め、そして、ワールズ商会と看板の掲げられた店舗へ遠慮なく足を踏み入れた。
 入り口で一旦立ち止まって、わずかに顎を上げた傲岸な仕草で店内を一瞥し、そして店の奥を見定めて、再び歩き出す。
 先程、ド・レイズ商会を訪れたときとは全く異なる、店員に案内も求めずに奥へ向かう、いかにも貴族然とした傍若無人なふるまいに、店の使用人たちが声をかけることもはばかって不安げな視線を交し合う中、奥から使用人の束ね役らしき壮年の男が転がるように走り出てきて、当惑もあらわに頭を下げた。
「これはこれは若様。わたくしどもの店舗にいかような御用で……」
「ワールズに話がある。奥に居るのだろう」
「ああ、はい、勿論……。いえ、只今お取次ぎいたしますので、少々のお待ちを……」
「取り繕うほどの体裁があるのか?」
 ワールズ如きに、と侮蔑するように鼻で笑って、揉み手する男を押しのけるように奥へと進む。
 その後に知らぬ顔で続きながら、テッドはつくづくと感心していた。
 ───今のシェイランは、どこからどう見ても典型的な大貴族の御子息だった。
 シェイラン自身も、自分の外見がどう見えるのか十分に承知しての振る舞いなのだろうが、鼻持ちならないほどの傲岸な仕草の一つ一つが、その際立った容姿に嫌味なほどに映えて、強烈な反感を掻き立てられつつも目を惹き付けられずにはいられない。
 これから会う相手の性格を考慮しての態度であるには違いなかったが、先程までの気さくな言動とはまるっきり別人であり、その自己演出の使い分けの巧みさにテッドは改めて目を瞠った。
 そのまま使用人たちが制止するのも聞かずに、シェイランは店の奥の他のものより一際立派な造りの扉の前で立ち止まる。
 そして、自分に向かって肩越しにちらりと投げかけられた視線に、彼が何を求めているのかを悟ったテッドは、内心でやれやれと思いながらも顔には出さず、いかにも従者らしく丁重な手つきを装ってドアを開けてやった。
 途端に、内から誰何(すいか)の声が上がったが、その声に込められた無礼に対する非難など、ものともする彼ではなく。
「久しいな、ワールズ」
 良く透る声は、まるで氷塊のように冷たく辺りに響き渡った。
 取り付く島もない、というのは、こういう物言いをいうのだろうと、まるっきり他人事の気分でテッドが感想を抱く間にも、シェイランは室内へと踏み込み、軽蔑的なまなざしで辺りを一瞥する。
「相変わらず商売に励んでいるようだな」
「これは……マクドール候の……」
 執務室に踏み込んできた相手が誰であるのか気付き、狼狽する主人は、四十歳ほどの痩せぎすの男だった。
「前触れの使いも出さずにすまなかったが、少々内密の話をしたくてね。何、そちらにとっても儲けになる話だ」
「は……」
 そういうことでしたら、と額に汗を浮かべながらもワールズは、ディルクト織りの表地が張られた豪奢なソファーを勧める。
 だが、シェイランはここでいい、と軽く拒絶した。
「大した話じゃない。数年前までうちに出入りしていたノールの娘……マーシアといったな。あの娘のことだ」
「は……。確かにマーシアなら、まだ当店で働いておりますが……。あの娘が何か粗相を?」
「その逆だ。今日、偶然市場で見かけて、どこかで見た顔だと思い出してね。良く働く娘のようだから、我が家の下働きにどうかと思いついたんだ。近くの店の者の話によれば、あんな薄汚れた格好で、炎天下だろうが雨の日だろうが毎日市場で果物を売るのに、あの娘は泣き言一つ零さないらしい。使用人の鑑じゃないか」
 実に良くできた娘だ、と皮肉たっぷりにシェイランは笑んで見せる。
「無論、只でとは言わない。お前があの娘の父親に立て替えてやった薬代は、幾らだったかな」
「ははあ、そういうことでしたか。しかし、そうはおっしゃられましても……、何分、急なお申し出のことなので……」
 言いながらも、額の汗をぬぐう繻子(しゅす)の手巾の影でワールズの小さな目が光っている。
 恐縮したような表情の下で、気まぐれな貴族のお坊ちゃまから、幾らふんだくれるかと忙(せわ)しく計算しているのが見て取れて、テッドは白けた気分でシェイランの出方を待った。
 シェイランの店内での態度から、大した相手ではない事は予想がついていたが、こうも典型的な反応を見せられると、何の面白みもない。
 それよりも、気まぐれな若様を演じるシェイランがどんな風に決着を付けるのか、むしろ、そちらの方に興味が湧いた。
 無言でシェイランの後方に控えながら、事態の進展を見つめるテッドの目の前で、
「急も何も、どんなに細かい金額だろうと、お前の頭の中から数字が抜け落ちていることなどないだろう?」
 相手の神経を逆撫でするような微笑を口元に浮かべ、シェイランは懐中に手をやる。
「ノールが寝付いたと聞いてから死ぬまで二年。その間の薬代と父子二人の生活費、どれほど高く見積もっても三グランを越えることはあるまい? ああ、その前に亡くなったエミリーの薬代も、ノールの借金につけていたな。
 ……おや、どうしたんだ、その表情は。次期マクドール候たる者が、下々の家計など知るはずがないと思っていたか?」
「い、いえ、滅相もございません。ただ……、そう、ノールは良く働いてくれた使用人でしたから、薬も代金に糸目をつけず買い与えておりましたので……」
「そうか。使用人思いで結構なことだ」
 言いながら、シェイランは胸の前で、懐から出した右拳をゆっくりと開く。
 そのすらりと伸びた指の間から、午後の陽射しに鮮やかに豊かなきらめきを放ちながら、数枚の金貨が厚いカーペットの上へと落ちた。
 重い金属が触れ合うその音から、十枚、とテッドは測る。庶民ならば、働き盛りの男の約七年分の年収に相当する金額だった。
「な……!」
「今日のプラムの代金に加えて、父親の借金と、これまであの娘にかかった経費、それからこの先、得られるはずだった稼ぎ分だ。まさか、あんな薄汚れた痩せっぽちの小娘に、金貨十枚以上の価値があるとは言わないだろうな?」
「それは、申しませんが、しかし……!!」
 予想外の枚数の金貨と、それに伴う明らかな無礼に顔色を変えたワールズは、声を詰まらせる。
 だが、抗議などできようはずがなかった。目の前に居るのは、赤月帝国の筆頭将軍にして、帝国の北辺を治めるマクドール候の跡取りなのだ。
「この金を受け取れば、僕は今後、この店のことについては一切何も言わない。お前が使用人をどう扱おうとだ。それで満足しておくんだな、ワールズ」
 冷ややかに言い捨て、シェイランは踵(きびす)を返す。
「邪魔をした」
 そのまま振り返りもせずに店内を通りぬけ、表通りへと出て、そして十分に店から離れた所でシェイランは立ち止まり、テッドを振り返った。
「悪かったね、従者の役をやらせてしまって」
 そう言ったシェイランは、この数日で見慣れたシェイランの表情であり、聞き慣れた口調だった。
 顔立ちの秀麗さには何の違いもないのに、こちらを見つめる藍青の瞳には闊達な光が踊り、たった今までの傲岸不遜さは微塵も残っていない。
 そのことに少し安堵した自分を、テッドは不思議に思った。
「……あれくらいのことなら、いいさ」
「うん。今夜の君の分のプラムのフランは、うんと大きめに切るようグレミオに頼んでおくよ」
「…………安い報酬だな」
 一瞬反応が遅れたのは、マクドール家の執事代理が作る芸術的なまでの菓子の味に、さほど甘いものを好む性質ではないテッドも、ほんの数日で魅了されてしまっていたからだった。
「足りなければ、また別口で返すけれど?」
「……いや」
 どちらへともなく歩き出しながら、借りの話が出たところで、テッドはさりげなく切り出す。
「それより、いいのか、あんな風に振る舞っちまって」
 すると、シェイランは小さく笑った。
「勿論、ワールズが言いふらせば、僕の名には傷がつくだろうけどね。もともと、あの店はあいつの代になってから評判が悪くて、近所付き合いも少ないんだ。あいつが何を言おうと、まともに聞く耳を持つ奴はほとんど居ないだろうよ。我が家も、あの業突く張りに愛想を尽かして、五年前に出入りを差し止めたほどだし」
 何しろグレミオが言うには、代替わりした途端に、先代の頃に比べて請求書の金額が二倍近くになったそうだから、とシェイランは肩をすくめる。
「まあ、綺麗なやり方ではなかったけど、僕は慈善家ではないし、こんなものでいいんじゃないのかな」
「だとしても、金貨を放り出したのはやり過ぎだろ」
「それは自分でも思う。父上に報告する時は、それについては黙っているつもりだよ。でも、あいつの顔を見ていたら、それくらいしてもいいかという気がしてきてさ。
 何しろ、父親が死んだ途端に、マーシアは古着を着て市場に立つようになって、育ち盛りのはずの子がみるみるうちに痩せていったんだ。余計なお節介をするまいと思っていたけれど、さすがに今日、道端でうずくまってたあの子を見て忍耐の緒が切れた。僕もまだ青いなぁ」
「……まだ十六だろうが」
「うん。でも、年齢を礼にかなわない言動の理由にできる立場でもないしね」
 言葉の内容の割には、重圧を感じているわけでもない普通の口調で言って、シェイランは前方を見つめる。
 その横顔を、テッドは見つめ。
 そして、ほとんど無意識に口をついて出た言葉は。
「……重い、のか?」

 ───家の名が。
 ───或いは、父親の勇名が。
 ───それとも。

 己の在り方全てが?

 一体何を自分は、と問いかけておきながら、テッド自身もひどく戸惑う。
 何故、そんなことを問いかけたのか。
 自分でも分からないでいるうちに、しかしシェイランは、意外なほど屈託のない小さな笑みを浮かべてこちらを振り返った。
「いいや。父上の子として生を受けたことも、名将の誉れ高い曽祖父エセルディの名を受け継いだことも、僕の誇りだよ。
 確かに軽いとは思わないし、重いのは事実だけどね。その重さは全て、マクドール家の数万の家臣と領民、そして帝国のためにあるものだ」
 午後の陽光を透かした深い藍青の瞳は、重圧だなどと言っていられないのだ、と不敵なまでの輝きを見せて。
 彼という存在を鮮やかにきらめかせた。
「テッド、僕は権力を悪いものだとは思ってないんだ。僕の判断次第で、多くの人を死なせることにもなるが、逆に多くの人を生かすこともできる。そんなことは、そうそう出来ることではないだろう?」
 自分を生かし、他者を生かす。
 それは為政者にしか叶わない、高い望みなのだとそう言うように、シェイランは目の前の通りの雑踏を見つめた。
「あの屋敷からこうして一歩外に出れば、誉れ高き黄金都市と吟遊詩人に謡われるグレッグミンスターも、夢の都じゃないことが分かる。
 街の北部には、数年前から貧民窟も出来つつあってね。周辺地域から流民が押し寄せてくるのを食い止めるいい方策がないらしい。帝都の内政については、父上の管轄外だしね」
 語る声は、淡々と静かで。
 テッドの耳へと深く染み透った。
「マクドール家が全財産を投げ打ったところで、帝国全土の貧民は救えない。一時しのぎの施しを与えればいいというものではないんだ。それが分かっているから、自力では苦境を脱せない人間が手の届く所に居る時に限り、少しだけ手を貸す。そうしながら、もっと大きなことのためにはどうすべきか、父上は考えておられるのさ」
 僕もね、とシェイランは軽く笑んで、隣りを歩くテッドを見やった。
「僕の心持ちは、そんなところだよ。諸侯の家に生まれた以上、重いと言っている場合じゃないんだ。今日、生き死にの瀬戸際にいる者も居るんだから」
「……悪かった」
 向けられた瞳の深い藍青色に、そんな謝罪の言葉が、半ば無意識に零れた。
「何故?」
「質問自体が、あんたに対して失礼だったから」
 答えると、シェイランは小さく破願した。
「そんなことはないよ。むしろ、テッドが訊いてくれたことを嬉しいと思ってる」
「……嬉しい?」
「そうだよ。多少は、僕に関心を持ってくれたということだろう?」
「……言っただろ、あんたは貴族にしちゃ随分変わってるって」
「『お前』でいいよ」
「え?」
 言われた言葉の意味を把握しきれず、問い返す。
 すると、シェイランは今度こそ楽しそうに笑った。
「さっき、君に『お前』って呼ばれた時、なんか気安い感じがして嬉しい気がしたから。お前でいいし、シェイランでいい。様をつけて呼ばれるのは、本当は好きじゃないんだ」
 ───その一言に。
 テッドは、彼の内面にある陰りを見たような気がした。
 ほんの数日、マクドール邸に滞在しただけだが、あの広大な邸宅にはシェイランと同年代の者が殆どいないことには気付いていた。
 当然と言えば当然のことだが、屋敷内に起居するのは大半が成人した使用人や家臣ばかりである。そして、彼らは当然、主人の息子であるシェイランには、気さくに声をかけはするものの一定の敬意を払うことを忘れない。
 また、使用人や食客たちの会話からも、マクドール家は他家との行き来はあまりないようだった。
 当主が多忙であること、また公明正大かつ重厚なテオの性格ゆえに、彼と下心なしに気安く付き合おうという貴族は決して多くないということらしい。
 そして自分に対し、初対面の時から、シェイランが瞳に明らかな興味を浮かべたことからしても、おそらく彼は同年代の友人を持ったことがないのだろう。
 もしかしたら、敬語を交えずに対等に言葉を交わす経験すら、これまで殆どなかったのかもしれない。
「……シェイラン?」
「うん」
 試すように小さく呼んだ名に、シェイランはうなずく。
 その顔に浮かぶ表情の晴れやかさに、テッドの胸の内が疼くように激しく波立つ。
 ……もう、白旗を揚げるしかなかった。
 長い旅の途中で、極まれにある。まずいと思いながらも、あとほんの少しの間だけ、と旅立ちを遅らせてしまうことが。
 その一週間、一ヶ月の遅れが、どんな風に作用するのか、十分過ぎるほど身に染みているはずなのに。
 それでも、つい立ち止まってしまうことがある。
 けれど。
 この少年ばかりは。
 今度ばかりは、そんな人恋しさとかそんなたやすい理由ではなく、足を止めざるを得なかった。
「シェイラン」
「ん?」
「お前、さ」
 ───それは、ほんの数分前まで決して口にするつもりはなかった言葉だった。
 言うべきことではないし、彼に聞かせるべきことでもない。そう思っていた。
 だが、今は無性に言いたかった。
 もしかしなくとも、きっと自分は後悔するだろう。
 この言葉を口にしたことも、今すぐにこの街を立ち去らなかったことも。
 それでも、飾らずに内面を語ってくれた彼だからこそ、どうしても告げておきたくなったのだ。
 それが煉獄を呼び寄せると分かっていても。
「俺が子供の頃、会った人にちょっと似てる」
「……どんな所が?」
「見た目もだけど、物言いとか、雰囲気とか。……本当は最初に会った時に、その人に似てると思った」
「へえ」
「でも、その人に会ったのはずっと昔だし、どうせ他人の空似だし……。でも、さっき、お前の話を聞いてたら、その人のことをはっきり思い出した。っていっても、別に忘れてたわけじゃねえけどな。ただ、何となく最近は思い出す機会が少なかったっていうだけで……」
 ごちゃごちゃと言いかけて、何を言っているのだ、と口を閉ざす。
 それから、シェイランの表情を窺った。
「気を悪くしたか?」
 プライドばかり高い貴族連中には、他者になぞらえられることを侮辱と受け取る者も少なくない。まさかシェイランがそうだとは思わなかったが、それでも、他人の面影を重ねられることを喜ばないということは有り得る。
 だが、シェイランはあっさりとかぶりを振った。
「まさか。嬉しいよ。それに君のことだから、その人は印象に残っている人というか、大切な人なんだろう?」
「──ああ」
 ぐっと、シェイランに見えない位置でテッドは拳を握り締める。

 大切だとか、大切でないとか。
 そういうレベルの言葉で言える存在ではなかった。
 この瞬間も、はっきりと思い出せる。
 そのまなざし、その言葉。
 父母の顔さえ遠くなったのに、呪いのように焼き付いて消えない、永遠の面影。

「俺が一番、会いたい人だ」
 その言葉に、どんな響きを聞きつけたのだろう。
 茶化すでもなく、シェイランは静かに問いかけてきた。
「……それが、テッドが旅を続けている理由?」
「……かもしれない」
「そう。じゃあ、会えるといいね。他人の空似なんかじゃなくて、本物のその人に」
 何気なく、けれど限りなく誠実に、会えるといいね、とシェイランは言った。

 ───これ以上後悔するまい、と思う。
 決してこれ以上、後悔するような結果にはしない。
 望まぬ災厄を呼び込んでしまうまでに、必ず離れる。そして、二度と会わない。
 ───けれど、あともう少しだけ。
 ほんの少しだけでいいから、この相手の傍に。
 自分の心象に反応して疼くような感覚を伝えてくる右手の甲にあるものを抑え込むように、目を細めて空を仰ぎながら、強く心の中で呟く。
 ───あともう少しだけ。

「さてと。そろそろ帰ろうか。マーシアのことも気になるし」
「ああ。今日の晩飯、何だろうな。デザートはプラムのフランとして」
「さあね。グレミオの機嫌が悪くなってなければいいけど。今日は、ちょっと色々やりすぎたからなぁ」
「……分かってんなら行動を改めろ。屋敷中の人間に不幸を拡大すんじゃねえ」
「そう言われても。ああ、フィジュールにも金を返しに行かないといけないんだった。誰を行かせるかな」
「俺を見るな、俺を。絶対に行かねえぞ」
「つれないなぁ」
 他愛ないことを言い合いながら、連れ立って日の傾いた大通りを歩く。

 ───もう何一つ願わないから、あともう少しだけ。

 この永遠に値する一瞬を。














(注)捏造その3
 オリキャラだらけの第3話。
 中世欧州の商人は、金融業でなくとも大抵が金貸しを兼ねていました。金利はかなり高かったようです。(金利については適当な単語が見当たらなかったので、カラスの用語は日本の裏社会での隠語を借用しました。)
 貨幣の交換比率は、国と時代によって大幅に違うので、どこの国がモデルというわけではないですが、これくらいの比率のことが多かったようです。日本でも似たようなものですが、日本の場合は金が豊富だったので、金と銀の交換比率は低めで、これが幕末における莫大な金(小判)の海外流出に繋がった、というのは蛇足ですね。
 庶民の生活費については、幻水5の交易の相場価格(ソルファレナ)からの算出。交易市場での塩や穀類の売買単位を1袋=平均家庭の1か月分の消費量、と勝手に決め付けて計算しました。幻水2の相場価格でないのは、生活必需品が取引されているのは5のみだからです。5は、やたらと交易市場が多かったですが、首都ということでソルファレナを選択。大体、1ポッチ=150円くらいの感覚でしょうか。平均家族数が多いので、エンゲル係数高めです。


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