天の滸(ほとり) −第5話−










 故郷の風景は、もう定かには覚えていない。
 時折、どこかの森の中で、故郷の森に似ていると思うことはあったが、たとえば夜眠る前に記憶を一つ一つたどることは、人の半生ほどの時間が過ぎた時点で止めてしまった。
 今やあの村はなく、自分が忘れてしまえば、本当にこの世のどこからも消滅してしまうのだと分かっていても、どれほど丁寧に記憶の中の風景を自分の裡に蘇らせた所で、自分がその風景の中に入ってゆけるわけではないし、懐かしい人々に会えるわけでもない。
 そして、自分が建前上、死ぬことがないのであれば、いつか天上のどこかでその人々に会う可能性さえも薄い。
 そう気づいた時に、一粒の涙と共に自分は故郷を思い出すことをやめた。
 風化してしまうのなら、してしまえばいい。
 自分はどこにも帰らないし、帰る場所などない。
 そう思ってしまえば、あとは砂の城が崩れるよりも容易かった。
 けれど、この右手に宿ったものは、そんな生易しいものではなく。
 忘却の恩恵にあずかって自分の記憶を風化させることができたのは、この紋章を宿す直前まで──自分の時間が停止する直前までのわずか数年分の事象だけだった。
 それ以前のことは、もはや深い霧に包まれた景色のようにしか思い出せないのに、これを宿した瞬間からのことは、どれもこれもつい数分前に経験したことのように鮮やかに覚えている。
 木々や家屋の焼けるきな臭い匂い。
 その向こうにまぎれた濃い血臭。
 ひたすらに重い宿命を背負った自分を案じる、絶望と悲しみに満ちた祖父のまなざし。
 そして──…。

 

「テッド」
 よく透る声で名を呼ばれて振り返る。
 艶やかな漆黒の髪に、深い輝きの藍青の瞳。
 いつもながら鮮やかに人目を惹く容姿の少年が、小さな笑みを浮かべてこちらへと歩み寄ってくる。
 自分がいる回廊の窓辺からの光が、淡く彼の姿を浮かび上がらせているのに、テッドはほのかに目元に眩しげな表情を滲ませた。
 今日はあいにくの雨模様だが、これが晴天であったなら、彼はまさに光の回廊を歩いてくるように見えただろう。その容姿に見合った豪奢な衣装と装飾品でも身につければ、王侯貴族どころか人ならざる身にすら見えるかもしれない。
 だが、彼は質実剛健を旨とした彼の父祖と同じく、生地や仕立てそのものは上等であるものの、目立った装飾のない簡素な形をした濃灰青の上衣と、褐青の下衣を身につけていた。
「ここに居たんだ。探したよ」
 テッドの前まで来ると、シェイランは口元に浮かんだ笑みを、少しだけ楽しそうに深めた。
 その台詞でどうして楽しそうになる、と大貴族とは到底思えないような彼の思考回路に内心、呆れながらもテッドは出窓に腰を下ろしたまま、相手の顔を見上げる。
「俺に用があったのか?」
「用って程じゃないけどね。今日は雨降りだから時間を持て余してるんだ。だから、スカッチでもと思って、誘いに」
 スカッチというのは、象牙製の盤と駒を使って行う陣取りゲームだった。
 貴族のたしなみの一つではあるが、庶民の間でも木製の道具と簡易なルールで、小銭を賭けて楽しむものは多い。
 もちろん、テッドも遊び方は知っていた。
「──そんな用なら、それこそ使用人を使って呼びに来いよ。若様が客棟をうろうろしやがって」
 呆れたとばかりに肩をすくめて見せると、シェイランは楽しそうに笑う。
「そんなことして父上に知られたら、雷を落とされるよ。お前には足がないのか、それとも立って歩くこともできない重篤者なのかって」
「……それこそ大貴族の御当主が口にされる事じゃねえだろ」
「そりゃ父上だって、御自分の部下は呼びつけられるよ。でも、この東翼に起居している人たちは父上の部下じゃない。君を含めて皆、客人なんだ。だから、用がお有りの時は、必ず御自分から出向かれる。僕もそれに習っているだけさ」
 屈託なく語るシェイランの声を聞きながら、何だそれは、とテッドは思う。
 誰をどこに呼びつけようと気にしないのが、貴族の常だ。むしろ彼らは、それこそが貴族たるものの証と考えている節すらある。
 豪奢な椅子に座ったまま、指輪を嵌めた指先一本ですべてを済ませようとする。
 それが普通の貴族のイメージであるというのに、この屋敷の当主父子ときたら、町の小金持ちや田舎の村長よりも遥かに、それこそ下働き並に身軽に動き回るのである。
 しかし、それが卑屈さとは対極にある、自信に満ちて礼を尽くした見事な挙措に見えるのは、彼らの信念が人として正しい、確固たるものであるからだろう。
 あるいは、それが本物の貴族というものなのかもしれない。
 数百年もの昔から豊かなアールス地方の北半分を支配してきた大豪族の矜持と才覚に加えて、皇家の血を引く姫の入嫁により混じったルーグナー皇帝家の覇気。
 それらが絶妙な形で、代々のマクドール家当主に現れているのに違いなかった。
「……ったく、呆れた親子だな」
「そう?」
 皮肉ではなく賞賛だということを、ちゃんと分かっているのだろう。
 シェイランは涼やかに笑って、さて、と呼びかけるように右手を軽く差し伸べてみせた。
「それで? 君はスカッチに付き合ってくれるのかな、くれないのかな?」
「いいぜ。何でも付き合ってやるよ」
 こんな誘いを断れるわけがない。
 ちょうど雨を眺めながらの物思いにも、うんざりしてきていたところだったから、身軽くテッドは出窓から下りて立ち上がる。
「どこでやるんだ?」
「僕の部屋。書斎には父上が居られるから」
「そうか。なら人目を気にせず、お前をこてんぱんにしてやれるってわけだ」
「あ、言うね。それならお手並み拝見させてもらおうかな」
 テッドの大言にシェイランは面白げに応じて、互いに悪戯気に満ちた目線を交し合いながら、二人の少年はゆっくりと東翼から本館へと向かった。

 

「さてと。君がやったことがあるのは、どんなルール?」
 盤上に駒を並べ終わった所で、シェイランが尋ねた。
 美しい寄木細工で作られた卓の両端に置かれた燭台の炎に照らし出される盤と駒は、無論、上等の象牙細工である。
 精緻な彫刻を施され、なめらかに磨かれたそれらは、まるで宝石のように艶やかな輝きを放って、実に美しかった。
「どうって言ってもな。本式のルールだとどうなるんだ? それが分からないと、下町ルールと何が違うのか答えようもねぇよ」
「それもそうだね」
 少し考えるように首をかしげてから、おもむろにシェイランは盤上の駒を指で差して、説明を始めた。
「まずは駒の動きから。レーは全方向1升、レジーナは全方向無制限、アルフィエーレは斜めに無制限、トッレは縦横に無制限、キャヴァッロは全方向1升跳び越え、ぺディナは原則前方に1升。これはいい?」
「ああ」
「じゃあ次。本式だと獲った相手の駒を、自分の駒として再利用できるんだけど……」
「あ、下町ルールだとそれはない。やる奴もいるけど、隠居の爺さんとか暇な奴だけだな。決着が長引くだろ」
「そうなんだ。じゃあ今回はどうする?」
「再利用有りでいい。急ぎの用事があるわけじゃねえし、その方が戦略が広がって面白いだろ」
「……いいよ?」
 笑みを含んだ曰くありげな目つきでシェイランがこちらを見たのに気付いて、テッドは、何だよ、と問い返す。
「何か言いたそうだな」
「いや。なかなか手強そうだと思ってさ。じゃあ次は、ペディナの成り上がりだな。有り? 無し?」
「これは有り。再利用の場合はどうなる?」
「一手目で置いて、二手目で成ることができる」
「成らないっていう選択肢は?」
「本式だとないけど……そういうルールもあるんだ?」
「平民らしいだろ。一番安い駒のまんま、敵陣地を動き回るってのも結構面白いんだぜ。どうする?」
「いいよ。じゃあこれについては、下町ルールを採用しよう」
 更に特殊ルールのあれやこれやを確認し合い、出揃った所で改めて対戦ルールを整理し直していると、ドアを控えめにノックする音が響いた。
「シェイラン様、お茶をお持ちいたしました」
「ああ、入っていいよ」
 ドア越しに高く響いた少女の声に、シェイランが応じると、音もなくドアが開かれて洒落た細工のワゴンを押した侍女が入ってくる。
「失礼致します」
 シェイランとテッドに対し、丁寧に一礼したのは、半月程前にこの屋敷に引き取られたばかりの下働きの少女、マーシアだった。
 いくら滋養のある食事を口にできるようになったとはいえ、病的なほどに痩せた小柄な体型がほんの半月で変わるわけはないが、顔色は明らかに良くなっており、肩の辺りで切り揃えられた髪も綺麗に梳かしつけられ、大きな銀灰色の瞳に浮かぶ光は明るい。
 そして、その光は手元に運ばれた茶にシェイランが礼を言うと、更に明るくなった。
「ありがとう、マーシア」
「いいえ、若様」
 いかにも幸福そうに、嬉しげに主君に微笑んで、マーシアは続けてテッドの前にも磁気製の美しいカップを丁寧に置く。
 そして、また自然な、心からと分かる仕草で頭を下げた。
「それでは失礼致します」
 軽やかに動き回る、上等の生地で仕立てられた品のいいお仕着せを身につけた少女から、もはや餓えた野良の子猫のような憐れな面影を見つけることは難しい。
 そして、そんな少女を見つめるシェイランの瞳も、何気ないながらもこの上なく優しい色をしていて。
「──何?」
 少女が出て行ったドアが閉まり、テッドの視線に気づいたシェイランが振り返ったのに、テッドは、いいやと片頬杖をついて答えた。
「顔色良くなったなと思ってさ、あの子」
「ああ。皆でよってたかって、マーシアに美味しいものを食べさせようとしてるからね。女中頭のハンナとグレミオが目を光らせてるから、さすがに食べ過ぎで体調を崩すようなことはないみたいだけど」
「その辺のことは知らねえけどさ。俺の目には、あの子は十分幸せそうに見えるぜ」
「──そう」
 シェイランがうなずくまでには、一瞬ではあるが間があった。
 ───シェイランがマーシアを過酷な環境から救ったのは確かな事実だが、その方法は、金銭で彼女の身柄を買い取るというものだった。
 マーシアには両親が遺した借金があり、形式的にはそれを新しい雇い主であるマクドール家が肩代わり返済したのであるから、彼女が給金から天引きという形でそれを返済し終えれば、表向きの話は終わる。
 だが、彼女を引き取る際に、シェイランは元の雇い主を黙らせるために彼女の借金の数倍に値する金貨を支払っており、そしてマーシアはその事を知らない。
 そして、シェイランが手放しに、憐れな少女を救うことができたと喜ばないのも、まさにそれが理由だった。
 シェイランは、彼女を金銭で買い取ったことを、彼女の雇い主となった彼の父親以外には決して明かさない。だが、止むを得なかったとはいえ、人身売買をした自分の行為を忘れることもない。
 恥じるというほど、彼は自虐的な性格はしていないが、大金と家名に物を言わせた自分の行為の醜さを、悔いはしなくとも心のどこかで彼女に詫びているのは間違いなかった。
 だが、それでも己の心理の複雑さは脇に追いやって綺麗に押し隠し、少女に対しては、やわらかな慈愛だけを向ける。そんなシェイランの心のあり方が、テッドにはまばゆかった。
「そういえばさ、シェイラン。一つ言い忘れてたんだけどよ」
「うん?」
「下町じゃスカッチをやる時には、何かを賭けるのが普通なんだ。小銭とか小物とかな」
「ああ、それは本式でもやることがあるよ。人が集まったときの座興で、見物人が賭けることもあるし」
「じゃあ話が早い。ちょうどいいから、それ、賭けようぜ」
 テッドが指差したのは、マーシアが運んできたワゴンの上に載っている、グレミオお手製の旬の桜桃をたっぷりと使ったカスタードタルトだった。
 挑戦状を突きつけられたシェイランは、ワゴンの上のタルトを見つめ、それからテッドへと視線を戻して、おもむろにふっと笑む。
「いいよ。受けて立とう」
「よし。そうこなくちゃな」
 テッドも、にやりと笑って。
 早速二人は、盤を挟んで向き直った。

 

「王手」
 テッドの声と共に、しまったという表情がシェイランの顔に浮かぶ。
 そのまま難しい顔で盤上を凝視していたシェイランは、やがて、信じられないと言いたげに首を振りながら、両手を軽く上げてみせた。
「降参だ」
「よっしゃ。これで一勝一敗な」
 やれやれと思いながら、テッドは肘掛け付きの椅子に身を沈める。
 気が付けば、そろそろ日暮れ時らしく、窓の外は昼間の曇り空よりも一際暗くなってきていた。
「信じられない。負けたのなんか久しぶりだ」
 まだ盤上を見つめたまま、溜息混じりにシェイランが言う。
 本気で困惑しているらしいのがおかしくて、テッドは笑った。
「そりゃ光栄だな。俺だって伊達に世間の荒波に揉まれてきたわけじゃないんだぜ」
「そうなんだろうね。東翼の客人に時々いるんだ。僕や父上を負かすような凄腕の人が。……僕なんて、まだまだ井の中の蛙ってことか」
「そう悲観したものでもないぜ。少なくとも一戦目は勝ってるんだし、その腕なら、街の賭博場でなら九割は勝てるさ」
「そんなものなのか?」
「ああ。そのうち街の賭博場に連れて行ってやってもいいけど、グレミオさんが卒倒しちまうかな。バレたらお屋敷から叩き出されて、出入り禁止になりそうだ」
「そんなの気にしなくていいよ。それより、本気で言ってる?」
「お前が本気で行きたいんならな。但し、グレミオさんはともかく将軍の許可はもらってくれよ? 俺は恩知らずにはなりたくないんだ」
 それは半ば本心からの台詞だった。
 恩知らず云々はともかく、シェイランに万が一のことがあれば、テッドでは責任を負いきれない。
 大切な嫡子と、その立場にまつわる諸々を部下ですらない他人に預ける気があるかどうか、彼の父親に確認してからでなければ、到底、危険が伴う場所に行くことなどできるわけがなかった。
「分かった。じゃあそれはそれとして、テッド、またスカッチの相手をしてくれる?」
「暇な時ならな」
 頭ごなしに命令すればよいものを、あくまでも対等に頼むシェイランに、心の中で苦笑を覚えながらテッドはうなずく。
 そして、立ち上がった。
「じゃあ俺は、客棟に戻るぜ。あと、明日は晴れたら街に行くから、探しに来てもいないからな」
「分かった」
「じゃあな」
「うん。またね、テッド。相手をしてくれて、ありがとう」
「ああ」
 片手を上げてドアを閉め、何故街に行くのかと訊いてこなかったな、と思いながらテッドは廊下を歩き出す。
 実のところ、この屋敷に厄介になるようになってからの二十日ほどの間で、シェイランが強引にテッドの外出についてきたのは、最初の一度きりだけだった。
 その後は、自分が外に行きたくなった時にテッドにも声をかけ、テッドが応じれば連れ立って出かける。それの繰り返しである。
 街中で偶然出会うこともあったが、テッドがわざと目線を合わせなかったら、そのまま他人の顔で通り過ぎてゆき、後からそれを咎めることもなかった。
 おそらく、シェイランはそれが客人と、あるいは友人と付き合うときの流儀だと考えているのだろう。
 相手の行動を縛らず、咎めもせず、ただ共に在ることを喜び、楽しむ。
 そんな付き合い方をする人間は、テッドの長い人生の中でも殆ど覚えが無かった。
(昔、いたけどな)
 そういえば、もう随分と長くすれ違うこともないが、彼は今どうしているのだろう。
 鮮やかな海の青を双眸にたたえた、彼は。
 最後に出会ったのがいつだったか、指折り数えるには前過ぎて、咄嗟には分からない。
(それでも、あの時、笑ってたな)
 自分と同じく、地上に一人きりで、それでも。
 ひどく幸福そうに。
 ───ねぇテッド。たった十年が永遠よりも勝るってことが、世の中にはあるんだよ。
 そう言って、笑った。
(……強い奴だったな)
 自分と同等以上に過酷な宿命を背負っていたのに、彼の青い瞳はいつも強く輝き、前だけを見つめていた。
 そういえば、彼の瞳はどこかシェイランの瞳にも似ているような気がする、と思い、次の瞬間、テッドはぞわりと背筋が総毛立つのを感じた。
 ───似ている?
 ───誰が、何に!?
 そんなはずがない、そんなことは有り得ないと打ち消すが、一度感じた悪寒は簡単には消えない。
(冗談じゃない! 何を考えてるんだ、俺は!?)
 思い浮かぶものを振り払うように強くかぶりを振り、止まってしまった足をもう一度強引に踏み出す。
 そうして数歩進んだ所で、後方から声がかけられた。
「そこにいるのは、テッドか?」
 一瞬どきりと心臓が鳴ったが、すぐに覚えのある声だと思い出した。
「はい、俺です。将軍」
 振り返り、丁重に会釈する。
 絨毯の敷き詰められた廊下を、ゆっくりと重みのある足取りで近寄ってくるのは、まぎれもなくマクドール家の当主だった。
 今日は平服で、いかめしい甲冑を着けてもいないのに、戦場の将そのままの風格が彼には備わっている。自然、テッドの背も真っ直ぐに伸びた。
 目の前で立ち止まったテオは無言でテッドを見つめ、それからゆっくりと低く、よく透る声で語りかけてきた。
「このところ、シェイランは君に構いっぱなしだそうだな」
「……そうおっしゃられれば、そうかもしれません」
 婉曲に肯定すると、テオは面白げに笑った。その笑い方は、シェイランの笑みとよく似ていて、彼らが父子であるということを、テッドは改めて感じる。
「すまないな。どうやらあれは、初めての友人にひどく浮かれているらしい。そのうち落ち着くだろうから、君の我慢できる範囲で付き合ってやってもらえないだろうか。勿論、君の都合が悪い時には、はっきりそう言ってやってくれて構わない」
「おっしゃられるまでもなく、そうしてます。俺はこの通り、庶民育ちで礼儀知らずですから。若様相手でも、遠慮なんかしてません」
「そうか。そうしてもらえるとありがたい。私はあれを、傲慢な世間知らずには育てたくないと常々思っているのでな」
「その形容詞には程遠いですよ、若様は」
「そう言ってもらえると、嬉しいがね」
 テッドの言葉に、テオの鋭い瞳がふと和らぐ。
 それは決して、お世辞を言われて喜ぶ馬鹿親の顔ではなかった。テッドの言葉が本心からのものであることを聞き分け、息子を誇らしく思っている。そういう顔だった。
 その表情に、テッドはふと、先程のシェイランとのやりとりを思い出す。
「将軍、一つお伺いしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか」
「何かね」
「若様のことです。先程、スカッチをしていた時に俺が街の賭博場のことを口にしたら、御興味を持たれたようでした。なので、若様を賭博場にお連れしてもいいでしょうか? もちろん、素人でも安全に遊ばせてくれる胴元のいる賭場にしか行きません」
 そう告げると、テオは真っ直ぐにテッドの顔に視線を据えなおした。
 だが、こちらの真意がどこにあるのかを隅々まで探ろうとするような鋭い視線を、身じろぎもせず静かに受け止めていると、やがてテオはふっと厳しい表情を緩め、満足とも取れる温かな微笑を浮かべてうなずいた。
「許可しよう。万が一、望まない揉め事に巻き込まれた時は、私の名を出すことも認める。世間知らずの子供の世話は大変だろうが、よろしく頼む」
「はい。ありがとうございます」
「シェイランは戦場の将としてはまだ未熟だが、街のゴロツキ相手なら引けをとることはあるまい。あとは君の世知があれば、大抵のことは切り抜けられるだろう。命に関わるような事にさえならなければ、どこへでも連れて行ってやってくれ」
「はい」
 それは幾らなんでも大盤振る舞い過ぎるだろう、と思いながらもテッドは丁重にうなずく。
 つくづく、この親にしてこの子ありという格言通りだった。周辺諸国にも名を知られる大貴族としては、あまりにも規格外に過ぎる。
 だが、言うべき事は言ったのであり、そろそろ辞去しようかと思った時、テオがふと表情を真面目なものにした。
「そういえば、私も一つ聞きたいことがあるのだが……時間はあるかね?」
 そう言われた途端、テッドの中でぴくりと何かが反応する。
 一瞬の判断で、相手が相手である以上、口実を作って逃げて下手な疑いを持たれるよりも、相手の真意を確かめたほうがいい、とテッドは何気ない表情でうなずいてみせた。
「はい、勿論ですが……」
「では、こちらへ」
 テオは踵を返し、廊下を歩き出す。
 その方向を見た途端、テッドは彼が書斎へ向かう気だと気付いた。あそこならば使用人は呼ばない限り、決して入ってこない。
 一体何を尋ねる気かと内心激しく身構えるものの、表面上は平静を装って、先に立って自ら書斎のドアを開けたテオの招きにしたがって、室内へ足を踏み入れる。
 そしてドアを閉めたテオは、彼独特の重みのある、だが足音を殆ど立てない足取りで、読書用の大卓へと歩み寄り、その動きを目で追いながら、テッドはその手前、入り口近くで立ち止まった。
 周囲には座り心地の良さそうな椅子が幾つも置かれていたが、到底、腰を下ろす気にはなれなかった。
「そう身構えなくてもいい。私が聞きたいのは、シェイランのことだ」
 ゆっくり振り返ったテオの顔には、苦笑めいた穏やかな表情が浮かんでいた。
 見抜かれていたのかと思いながらも、警戒を解ききれずテッドは、いささか硬い声で問い返す。
「若様の?」
「ああ、そんな呼称を使う必要はない。君があれを名で呼んでいることは知っている。そういう君だからこそ聞きたいのだが……君はあれをどう見る?」
「どう……というのは?」
 テオの真意が量りきれず、テッドは慎重に尋ねた。
 どう見るかと言われても、その視点によって答えはまったく変わる。それが分からなければ、答えようがない。
 そして、対するテオの顔は、先程までには見えなかった沈痛さがかすかに見え隠れしているようだった。
 読書用の大卓の上に置かれた青銅製の置物に触れる手つきにも、それが現れていて。
「君がこれまで諸国を渡り歩き、様々な町や人を見てきたことは、君の目を見れば分かる。その目でシェイランを見たとき、あれがどう見えるか、正直な所を言って欲しい。
 あれの為人(ひととなり)ではなく、あれが我がマクドール家の次期当主であり、ゆくゆくは私の後を継いで帝国将軍の一人となることが、どんな意味を持つかをな」
「それは……」
 ───テオドリック・グリエンデス・マクドールは何を尋ねようとしているのか。
 重く告げられた問いかけに、テッドは絶句した。
 答えられないからではない。答えは既に自分の中にあった。
 だが、それは口に出しても良いことなのかどうか。
 そして、何故、彼がそれを自分に尋ねるのか。
 こんな得体の知れない、たかが流れ者の子供に。
「そのようなことを俺のような者が、お答えしてもよろしいのでしょうか」
 そう言ったのは、警戒でもあり、彼の覚悟を量るためでもあった。誰しも、石橋を渡るときには慎重にならざるを得ない。
 だが、テオの返答は揺らぎがなかった。
「君だからこそ、聞かせてもらいたいのだ。他の人間に聞いても正確な答えが返る可能性は皆無に等しいばかりか、不必要な危険を招きかねない。シェイランの名を呼べる友人である君だからこそ、尋ねる価値がある」
「将軍……」
 その言葉に、テッドは彼が心の奥底に抱えている沈痛を察した。
 彼は、息子の為人に不安や不満があるのではない。むしろ、その逆だ。
 そして、だからこそ案じている。
 息子の将来を……この先、彼をを取り巻くであるだろう様々な事象を。
 更には、テッドがそこまで承知の上で、彼の息子の名を敬称なしに呼んでいるのかどうかを。
 シェイランが友として心を預けるだけに足る人間であるかどうかを……非常時にあっても真実、味方となりうる人間であるかどうかを。
 分からないと言えば、見逃してもらえるのかもしれない。
 だが、答えるべきだった。
 答えなければならなかった。
 真実、シェイランを大切だと思うのならば。
 今すぐ彼の友を名乗ることをやめ、尻尾を巻いてこの屋敷を、この国を逃げ出すのでなければ。
 ───シェイラン。
 脳裏に、つい先程別れたばかりの彼の笑顔が蘇る。
 きっと今頃は、彼のことだ。スカッチの盤に向かって、自分が何故負けたのか再検討をしていることだろう。
 あの秀麗な顔を、難しくしかめて。
「──正直に、お答えすればよろしいのですね?」
「ああ。構わない」
「それでは申し上げますが……」
 一つ息を吸って、テッドは一息に言った。

「シェイランの存在は、危険です。危険すぎると言ってもいい」

 口にすると、その言葉は異様に重かった。
 重くて、痛い。
「俺はこれまで、幾つもの街や家族を見てきました。その中で気付いたことが幾つかあります。そのうちの一つは、下の者が上の者を越える才を持っていてはならない、という社会の不文律です。
 主人より使用人が、上官より部下の方が才で勝っていた場合、上に立つ側が余程人格に優れていない限り、不幸な結末になります。たとえ人格に優れていたとしても、周囲の嫉みや妬みによって、不幸な結末になることが殆どです」
 少しだけ言葉を切って待ったが、テオは口を挟もうとはしなかった。
 だから、そのままテッドは続ける。
「俺はこの国には来たばかりで、詳しいことは知りません。でも、何年か前に起きた内乱のせいで、皇位継承権を持つ方が異常に少ないということは、街の噂で聞いています。そして、今上陛下には、正妃様も御子(みこ)もおられないことも。
 そして、将軍。マクドール家は順位としてはかなり下位ですが、皇位継承権をお持ちですね?」
「二十位に近い。余程のことがない限り、我が家にそのような大権が与えられることはない」
「はい。それでもマクドール家が、帝国勃興以来の名家であることは誰も疑いません。そして……将軍、俺にお尋ねになられたのですから、正直にお答え下さい。マクドール家と同等以上の家格の王侯貴族に、シェイランを凌ぐ才を持った方はいらっしゃいますか? 今現在ではなく、十年後の朝廷と戦場に」
「──いない」
 テオの答えも、重かった。
「親の欲目などではなく、あれはおそらく百年に一度、千年に一度の才の持ち主だ。私などを遥かに凌ぐ。あれの才には底がない。このまま伸び続けるのであれば、武術、知略共に比肩するものなど、地上には在るまいよ」
「……俺も、そう思います」
 静かにテッドも同意する。
「シェイランの天賦の才がどの程度のものなのかは、俺には計れません。ただ、シェイランの成長に限界がないだろうことは予想できます。何故なら、あいつは絶対に上限を定めないから。
 あいつの心は常に高みを求めている。あいつの魂が、この地上の何よりも誰よりも強く高潔でありたがっている。武術の腕や知略は、それに引きずり上げられているだけです」
「そう。その通りだ、テッド」
 呟き、テオは雨粒の伝い落ちる窓ガラスへとまなざしを向ける。
「何よりもその魂が強く、高潔であろうとすること。それがシェイランの一番の才だ。それゆえにあれは生まれ持った技量に満足することなく己を律し、努力し続ける。真実、稀有な才だ。何故、あれほどの才を持った子が私の息子として生まれたのか……」
「──シェイランが、皇帝家の御子であれば良かったと?」
 敢えて感情の色を消したテッドの問いかけに、しかし、テオはきっぱりと首を横に振った。
「シェイランは私の子だ。何にも代え難い私の至玉だ。だが、私は業の深い人間であり、聖人ではない。あの子の才がもう少し鈍い輝きを持ち、陛下にあの子のような御子があれば、と夢想せずにはいられないのだよ。不敬極まりないことだが……」
「それは不敬ではなく、将軍が心底、この帝国を愛しておいでだからでしょう」
 そう言い、テッドは一つ息をついて、薄暗い窓の向こうへとまなざしを向ける。
「シェイランのまずい所は、才能を隠す方法を知らないことです。あと潔癖であり過ぎること。鋭すぎる才能も潔癖さも、自分が気付かないうちに他人を傷つけます。その辺りをどうにかすれば、十年後には帝国を支える最上級の柱になれる、と俺は思いますけど、いかがですか」
 間違ってますかね、と問うとテオは、まっすぐにテッドを見つめ、そして静かな微笑みを浮かべた。
「いや、私もそう思っている」
「それなら、俺が言うのは僭越かつ不敬ですが、次代の皇帝陛下のことについては皇帝家にお任せして、シェイランをどうにかすればいいんです。まぁ、特大の金剛石みたいなあいつの圭角を、どうやって削って丸くするかは難問ですけどね。あいつ自身にもう少し知恵と経験が付けば、外からは見えないように布で包み隠しちまうことくらい、そのうち思いつくでしょうよ」
「そうだな。あれは聡い。是非そうあって欲しいものだ」
 肩をすくめながらのテッドの言葉に、今度こそテオは破願する。
 そして、ゆっくりとテッドに歩み寄り、その大きな手をテッドの肩に乗せた。
「君がそこまで分かって、それでも尚、あれの友人でいてくれるのなら、私が心配することはもう何もない。テッド、君に心から感謝する」
 大きな手のひらの重さと温もりを感じながら、テッドはかぶりを振った。
 帝国筆頭将軍テオ・マクドールの内にあるのは、帝国への絶対的な忠誠と、息子への情愛。そればかりだった。己を飾ろうとする我欲など微塵もない。
 彼が何故、帝国の至宝とたたえられるのか、こうして向き合っていると、はっきりと分かる。
「そんな大したもんじゃないですよ。ただ……あんな奴には滅多にお目にかかれないって、分かるんです。俺が生涯で出会う人間の中で、あいつが最高の奴だって」

 ───それは人生の花ですらない。
 見たこともない、目の眩むような大粒の金剛石だ。
 天の光を受けて、この世のものとも思われないほどに鮮やかに煌く、至上の光輝の結晶。
 天上の星など比べ物にもならない、自分をここまで導いてきた、唯一つの輝き。

「君にそう思ってもらえるのなら、あれも幸せ者だ」
 テオはゆっくりとテッドの肩から手を外した。
 それから、じっとテッドを見つめる。
「しかし、君も大した少年だ。シェイランが認めた時点で、並の少年ではないだろうと思っていたが……」
「それは、俺を褒めて下さってるんですか、それとも御子息の自慢をしてるんですか?」
「どちらでも、好きな方に取ってくれて構わんよ」
 揶揄するようなテッドの軽口に、テオも笑った。
 そして少しばかり、しみじみとした口調になり、嘆息する。
「私はおそらく、あの子を愛し過ぎているのだろうな。君も呆れているだろう? 来年には成人する息子の将来をこれほどまでにも案じるなど、愚かな親そのものだ」
「いえ。俺は将軍を尊敬してますし、シェイランは俺以上に、あなたに心酔してますよ。あいつほど親を敬愛している息子を、俺は見たことがありません」
 だが、その言葉に、テオは首を横に振った。
「それも喜ぶべきかどうか分からんな。私が、あれの成長の蓋になるのはまずい。私は所詮、今以上にはゆけぬ身だ。いっそ、私が早く引退して田舎に隠居した方が、あれのためになるかもしれんな」
「その辺りは、将軍の御判断にお任せします。俺は、あいつの友達でいるだけですから」
「ああ、そうだ。それが一番大切なことだ」
 笑んで、テオはテッドを穏やかな漆黒の瞳で見つめる。
 色こそ違えど、その目はシェイランにそっくりだった。
「長話になってしまったな。引き止めてすまなかった、テッド」
「いいえ。それじゃ、俺はこれで失礼します」
「うむ」
 丁寧に一礼して、テッドは書斎を出る。
 そして、人気のない廊下で、大きく一つ息を付いた。
「……喋りすぎちまったかな……」
 だが、語った言葉に嘘はなかった。
 ───シェイラン・エセルディ・マクドール。
 既に壮年期も終わりに近付いた皇帝に嫡子がいない今、あまりにも危険すぎる天賦の輝き。
 いくら彼が臣下の礼を取ろうとも、彼が段下にあっては玉座に座る皇帝の姿さえ、おそらく霞む。
 次期皇帝が彼を上回る稀代の英雄でない限り、きっとそうなる。
 そして、次期皇帝がシェイランの輝きを己の輝きと錯覚し、容認できるだけの無気力な器の持ち主でなければ、おそらく……シェイランは皇帝の憎しみを一身に集める立場となるだろう。
 それはきっと、シェイランがどれほど自分の才を包み隠そうとしたとしても。
「……あれは隠しきれるもんじゃねえだろうよ」
 テオにはああ言ったが、テッドは自分の言葉を信じてはいなかった。
 世の中には、ごまかせるものとごまかせないものがある。シェイランの輝きは、間違いなく隠しようがないものの一つだ。
「ほんと、難儀な奴だよなぁ」
 言いながら、テッドはそっと右手の甲を左手で抑える。
 うずくような熱の感触は、馴染みのあるもの。
 だが、それを暴走させる気は、今度ばかりはなかった。
「やめておけ。お前にあいつは喰らえないぜ。あんなどでかい金剛石みたいな奴、喰らったら最後、お前の方がきっとどうにかされちまう」
 声を低め、半ば本気で語りかける。
 そして、そういえばこの屋敷を出て住む所を探したいと将軍に言うのを忘れていたな、と思いながらテッドは階段を下り、回廊をたどって自分の部屋のある東翼へと戻った。

*                *

 

 テオは一人、書斎にたたずんでいた。
 脳裏を静かに巡っているのは、先程、一人の少年と交わした一連の会話だった。
 北方遠征中に拾った、弓を良くする十五、六の少年。
 一見目立つ所の何もない、しかし、非凡を絵に描いたような一人息子が、親しく名を呼ぶことを求めた相手。
 だからこそ興味を覚えて、並の人間ならば答えに窮するだろう難しい問いを発してみたのだが、結果は見所があるどころではなかった。
 生まれ持った天与の才自体は、シェイランほどではないかもしれない。
 だが、それに比肩する何かを──経験と世知を、あのテッドという少年は持っている。
 何より彼の瞳が、それを物語っている。
 世の中の全てを見てきたような、遥かな年月を経た巌(いわお)のような瞳。
「彼はおそらく……」
 彼のような瞳を見たことがある。
 決して多い回数ではないが、それでも幾人か、知っている。
 それが意味する所は、一つだった。
「さて、彼を拾ったことが吉と出るか、凶と出るか……」
 ”それ”を狙う者は多い。
 おそらく彼もまた、それを誰にも知られたくないと思っているだろう。
 ならば、こちらからは何を言う必要もない。
 シェイランが彼が友として傍に在ることを望み、彼もまた、それに応えようとするのであれば、自分が口出しすることなど一つも在りはしないはずだった。
「金剛石は金剛石でしか磨けない。分かっていて君は言ったのか、是非とも知りたいものだ。テッド」
 小さく笑んで。
 テオも静かに、夕闇の迫る書斎を後にした。













(注)捏造その4
 真の紋章を宿すと、宿主の時間が停止する→記憶の風化がなくなる、というのは私の勝手な妄想です。
 不死という究極の呪いがあるのなら、もう一つ、何事も忘却できないという呪いが加わった所で大差はないかと思ったのですが……よく考えるとやはり最悪ですね。いつどこでイニシャルGの虫に遭遇したかも忘れられないんですよ。
 あとスカッチは、チェスのイタリア語です。フランス語だとそのままチェスなので、隣りの国に行ってみました。駒の名称もイタリア語を借用。(ドイツ語だとチェスはシャッハ。これは響きがいまいち……)
 駒の動きはチェスのルール通りですが、それ以外については、取った敵駒の再利用など将棋の要素も混ぜてあります。ちなみにチェスも将棋も、源流は古代インドのチャトランガという4人制の盤上戦争ゲームとのこと。(平凡社:世界大百科事典参照)
 皇帝の系譜その他については、いつもの通りに公式情報にない部分は全てでっち上げなので、信じないで下さいね。

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