07 勿忘草
パタン、と小さな音を立てて私室のドアを閉めたフレアは、小さく息をついた。
今日は朝から、港の改修工事についての陳情に来た島民の話を、多忙な父王に代わって聞いていたのだ。
大切な仕事ではあるし、島民たちの言葉にも一聴に値するものはあったから、決してそれを嫌だとは思わない。むしろ、誇りと喜びを感じている。
だが、ニ刻もの間、論理立てて話すことに慣れていない島民の話に耳を傾け、彼らの言いたい事を汲みながら、たびたび言葉に詰まる彼らを助けるために簡単な問いかけを挟み、彼らが満足するまで語らせる作業は、フレアにしても多少の疲労を伴わないわけにはいかなかった。
「でも、疲れたなんて言っている暇はないわよね」
これから島民の意見をまとめて書類に起こし、父に届けなければならない。
専属の書記がいてくれれば楽なのだが、あいにく、質実剛健を旨とする……というよりも、クールーク皇国との戦いに国庫を注ぎ込んでしまった王宮内は、常に資金不足かつ人手不足で、次期女王の地位を約束された王女であっても、やれることは自分でやるしかないのが実情なのである。
一年余りも続いたクールークとの戦いの爪痕は、群島諸国に未だ深い爪痕を残しており、とりわけ人手不足は深刻だった。
オベルに次いで栄えていたイルヤは廃墟と化したままで、瓦礫を撤去する作業も遅々として進んでいないし、もともと人口の少なかった小さな島々では、住民が他島に非難したまま戻らず、無人島になってしまった島も幾つかある。
主要産業である漁業も工芸も、働き盛りの男たちが何人も戦場で命を落とした。
商業に関してだけは戦時中も交易網が維持されていたため、今でも盛んに商取引は行われているが、他国から仕入れる食料や日用品の需要が多いのに対し、重要な輸出品目である海産物や工芸品といった特産品が入荷しない分、商売としては難しい部分がある。
いずれも少しずつ立ち直りつつはあるものの、クールークの侵攻以前の状態にまで戻るには、まだしばらくの時間が必要であるようだった。
「とりあえず、やるべきことをやらなくてはね……あら?」
呟いて、美しい花鳥の象嵌彫刻の施された執務卓に近付いたフレアは、幾通かの手紙が置いてあるのに目を止める。
おそらくは、戦争を共に戦った仲間たちからの近況を知らせる、いつもの手紙だろうと思いながら三通あるそれらを手に取った。
こんな風に『オベル王女』にではなく、フレア宛に私的な手紙が届くことは、珍しくない。
出身も立場も違った、多くの仲間たちが志を一つにして戦った記憶は未だに鮮烈で、今でも各所から消息が伝わってくるし、フレアもまた、折に触れては王国や私事の近況を手紙に託している。
それらは復興に全力を懸ける自分たちにとって大いなる励みであったし、また、ともすれば波濤に阻まれて孤立しがちな島々を繋ぐ、大切な絆の証でもあった。
「ケネスと、ラインバッハと……、!」
懐かしい名を呼び上げながら三枚目の差出人を見た瞬間に、フレアの青い目が見開かれる。
『ウィスタリア・エマーソン』
鮮やかな群青で書かれた、流麗な筆跡はまぎれもなく。
「シュリ……!」
小さく叫んで、フレアは急いでペーパーナイフを取り上げ、手紙を開封した。
ざわめく鼓動を抑えながら、丁寧に折りたたまれた便箋を開く。
すると、懐かしい筆跡が視界一面に広がって。
手紙にはいつも通りに上流階級の貴婦人を装った、丁寧だが当たり障りのない近況が綴られていた。
現在場所を特定されないようにとの気遣いだろう。立ち寄った町や村のことがあれやこれや書いてあるものの、地名や人名といった固有名詞は一つも出てこない。
だが、文章自体は生き生きとしていて、フレアは思わず口元が緩むのを抑えきれなかった。
「これを見る限り、元気そうだけど……本当に元気なのかしら」
とかく我慢するのが得意な弟の性格を思い出し、首をかしげる。
だが、美しい字で綴られた便箋の一枚目にも二枚目にも、翳りは微塵も感じられない。
そして、三枚目に差し掛かった時。
「……あら?」
不思議な言葉を目にして、フレアはまばたきした。
『深緑の美しい山間の村に差し掛かった折に、貴女もご存知の懐かしい方にお会い致しました。H様と申し上げて、思い出していただけるでしょうか? 相変わらずの誠実な物腰、物言いに、つい懐かしさが込み上げて、行く先が同じ方向だったのを幸い、いささかの無理を申し上げて今しばらくの同行をお願いしましたら、快く受けて下さり、今も傍にいて下さいます』
目をみはって文面を追いながら、誰だろう、と考える。
Hのイニシャル、誠実、というキーワードを脳裏に並べて。
「ヘルムート、かしら」
もともとHという頭文字を持つ仲間は多くないし、ましてや誠実ときたら、思い浮かぶ相手は限られる。
だが、彼は部下たちと共にクールークに帰国したのではなかったか。
「やっぱり、祖国には居辛かったということかしら……」
彼なりの考えがあってのことだっただろうが、戦わずして敵に降伏したのは事実である。
その行動のおかげで、貴重な人命が喪われずにすんだという結果は、軍事国家では高く評価されることではないのだろう。ましてや、敗戦国にあっては。
だが、再会までの経緯はどうあれ、その彼が今、シュリと行動を共にしているというのであれば。
「────」
もう一度、フレアは手紙に視線を落とす。
最後まで読んでも、文字にも文章にも何の翳りもないどころか、これまでに届いた手紙のどれよりも楽しげにはずんでいるように見える。
それはきっと。
シュリが今、一人ではないことと無縁ではないのに違いなくて。
「シュリ……」
良かった、とフレアは小さく呟く。
あの口数は少ないものの、誠実で生真面目なクールークの騎士は、誰に対してもまっすぐにまなざしを向けて言葉を返していた。
そして、シュリもそんな彼を信頼して、捕虜の敵国士官という立場にもかかわらず、身近に置いていたのをフレアは覚えている。
決して際立って仲が良かったという印象はないが、それでも、あの二人なら、旅の連れとしてそれなりにうまくやっているような気がして。
「ああ、でもきっとシュリがヘルムートを振り回しているわね。シュリははっきり物を言う子だし、ヘルムートは相手が間違っていない限り、黙って従うタイプだもの」
何となくその光景が目に浮かぶようで、フレアは、ふふと笑む。
だが、静かにその笑みは薄れて。
蓮の花のような薄紅の唇から、一つの名前が零れ落ちる。
「……セリオン……」
───可愛い弟だった。
自分と同じ、母親譲りの大きな青い瞳と、父親譲りの亜麻色の髪。
活発で、甘えん坊で、誰からも愛されていた王子。
いずれは父の跡をついで、この海の王国の王となるはずだった、たった一人の弟。
ようやく立って歩けるようになっていた彼が、母と共に敵襲の最中で喪われた時、フレアはただ泣くことしかできなかった。
泣いて、泣いて。
たった一人の家族となってしまった父を支え、支えられて十数年が過ぎて。
死んだと思っていた弟が、生きていたと気付いた時の衝撃をどう表現したらいいだろう。
彼の左手にあの紋章を見た時、そして、彼の瞳の色が自分の瞳の色と同じであることに気付いた時、言葉が出なかった。
まさか、と思いながらも王宮に戻って父に対面すれば、二人並んだ自分たちを見て、父もまた表情を殺したまま絶句していた。
そうして父と二人きり、互いの確信が間違いないことを確かめ合いながら、驚きと嬉しさとで、また泣くことしかできなかった。
泣きながら、けれど、父と共に、彼にはそれを告げないことを決めた。
何故なら、彼は『シュリ』であって、『セリオン・ラナ・クルデス』ではないから。
青い瞳に真夏の陽射しにも似た強い光を輝かせ、大海原を渡る風のような少年に成長した彼には、彼の望むように生きて欲しかったから。
そして、罰の紋章という重い運命を背負った少年を次期国王に迎えることは、現王とその王女としては、絶対に避けなければならなかったから。
親子の……姉弟の名乗りはしないことに決めた。
───そう、幼くて、姉上とも姉さまとも舌が回らず、『ねー』と呼びかけては両手を広げて抱きついてきた、小さな弟はもうどこにもいない。
けれど、シュリがいるから……彼も薄々察しながらも、屈託のない笑顔を向けてくれるから、もう悲しくはない。
この世界のどこかにいて、自分のことを時々思い出していてくれるだろうから。
悲しいことは、もう何一つない。
フレアは、そっと指先で封筒の薄紫の封蝋を撫でる。
そこに押されているのは、仮名にちなんだ藤の花ではなく──勿忘草の印章。
旅立つシュリに、それを渡したのはフレアだった。
あまりにもあからさまな、そこに込められた意図に、けれどシュリは笑って受け取ってくれて。
そして、時折届く手紙には、必ずこの封蝋が押されている。
大切な約束事のように、いつもいつも。
「シュリ……セリオン……」
愛おしまずにはいられない。
世界でたった一人の弟。
胸に手紙を抱き締めて、フレアは窓の向こうの空と海とにまなざしを向ける。
───どこにいても、何をしていてもいい。
ただ、元気でいてくれるのなら。
真の紋章と永遠の命という重過ぎるものを背負った彼が、それでも彼らしく居てくれるのであれば。
自分も父も、それだけで笑って生きてゆける。
もう二度と、この海の王国で会うことはなくても。
だから。
「忘れないで……」
呟いて。
手紙を胸に抱いたまま、フレアは祈るように目を閉じた。
『遠く離れていても、私のことを想っていて下さるだろう貴女の心を忘れたことはありません。親愛なるフレア、貴女に永遠に変わらぬ愛と友情を捧げます。いつか次にお会いする日まで、どうぞお元気で』
end.
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