08 花咲く小道
「……薔薇の花?」
ふとシュリが呟いたのは、穏やかな昼下がりの街道でのことだった。
なだらかに起伏する丘陵地をめぐるように続く道は、木立は多くはないものの地形のために、さほど見通しは利かない。
ただ姿は見えずとも、その甘い香りだけは、確かに辺りを優しく包み込んでおり、旅人に一服の清涼感を誘っているようだった。
「あそこじゃないか?」
ヘルムートが前方を指差したのは、シュリが呟いてから二十歩ほど進んだ頃だろうか。
見れば、確かにゆるやかに左へとカーブしている道の先に、白い花をつけた潅木が秋のやわらかな日差しを受けていて、近付くと、それが半ば野生化した園芸品種の薔薇だということが、シュリの目にははっきりと見分けられた。
「これは野薔薇じゃないな。誰かが植えたものだろう」
何とはなし、その背丈ほどの木の前で立ち止まりながら、ヘルムートが口にした言葉にシュリは、おや、と驚きの目を向ける。
「分かるんだ?」
「別に好きでも詳しいわけでもないがな。義姉上がお好きで屋敷中、花であふれていたから、何となく見分けはつく」
「お姉さん?」
「姉といっても実のじゃない。兄の奥方だ」
「ふぅん」
薔薇、と聞いて、あるいは花を見てシュリが思い出すのは、一人の貴婦人だった。
子供の頃、好むと好まざるとを問わず、常に間近に見ていたひと。
「薔薇の似合う人?」
「義姉上がか?」
「そう」
そっと白いやわらかな花片に触れながら、問いかけると、ヘルムートはわずかに戸惑うような表情になる。
だが、何故そんなことを尋ねるのかと聞き返しもせず、戸惑いながらも答えを探して生真面目に考え込むのが、いかにも彼らしかった。
「……そうだな。女性のことをあれこれ言う気はないが、似合っている、と思う。いつも庭に出て、花の世話をしている印象しかないから、そう思うのかもしれないが」
「自分で世話をしてるの? 奥方様が?」
「ああ。侍女や庭師と一緒になって、花ばさみを持っていた。あいにくと俺の兄は、あまりそれを快く思っていなかったようだが、義姉上は気になさらなかった」
「そうなんだ」
ヘルムートの言葉には、その女性の具体的な容姿を思わせるものは何もない。
だが、何となく思い浮かぶようだった。
侍女や庭師と共に庭に出て、大好きな薔薇の世話を、鋭い棘や虫の存在も厭わずにする貴婦人。
顔の美醜など問題ではない。きっと、その姿を目にしただけで心が温まるような女性なのだろう。
陽だまりに咲く、やわらかな薄紅色の薔薇のように。
「僕が薔薇を見て思い出すのは、君の義理のお姉さんとは正反対の女性かな」
「シュリ?」
いぶかしげに名を呼ぶヘルムートに、肩越しの笑みを向けてから、シュリは白い花に再度視線を戻す。
「白い薔薇が好きで、でも自分の手では絶対に触れないんだ。棘が嫌だから」
庭師たちが丁寧に虫や枯葉を取り除き、侍女たちが丹念に茎の棘を折って花瓶に生けた花だけを愛でていた、美しく繊細な貴婦人。
名流出身で、名流貴族に嫁いだ彼女は、若くして亡くなるまで花を眺めるばかりで、薔薇園の土にすら、その細い指先で触れたことはなかったはずだった。
「すごく……神経質といってもいいくらいに繊細な人で、自分や自分の小さな息子が、かすり傷を作っただけでも失神してしまうような人だった。でも一度、剣を習い始めたばかりの息子が、遊び相手の小間使いを相手にちゃんばらごっこをしていて、諸共に薔薇の生垣に転がり込んでしまったことがあってね。
薔薇の棘に引っかかれて傷だらけになった息子を見た途端、真っ青になって卒倒しかけて、それから息子の手当てと、息子に怪我をさせた薔薇の木を切って焼いてしまうように使用人たちに命じた。もっとも、その木は既に、転がり込んだ息子を助け出すために枝をほとんど切られてしまっていたんだけど」
その時の騒ぎを、今でも細部まで思い出せる。
剣を扱いきれずによろけたスノウをかばおうとして、諸共に薔薇の生垣に突っ込み、必死にもがいてそこから逃れた後、スノウを助け出すために庭師を呼びに行って。
その後は、使用人たちが右往左往している大騒ぎの一番端で、ぽつねんと罰を科されるのを怯えながら待っていた。
無数の薔薇の棘に引っかかれた傷もそのままに。
「──その息子と一緒にいた、小間使いはどうなったんだ?」
静かな声に不意に耳打たれて、シュリはびくりと肩を震わせる。
そして、自分が一人ではなかったことを思い出した。
───今、自分は何を言った?
何を、話した?
目の前の薔薇の花を見つめながら、一瞬、愕然となる。
だが、それと同時に、ヘルムートの声が同情も憐憫も含んでいないことを聞き分けていて。
目を閉じ、そしてゆっくりと開いてから、それまでと同じように他人事のような淡々とした口調で答えた。
「……奥方が手にしていた扇子で叩かれた後、屋敷を追い出されるところだったけれど、傷の手当の名目で女中たちが引き止めてくれて。次の日、坊ちゃまのお気に入りということで二日間の食事抜きで許されたよ」
「……小さな子供に二日間は長いな」
「でも、その子は女中たちに可愛がられてたから、物陰でパンの切れっ端をこっそりもらえたんだよ。だから、そんなに辛くなかったんじゃないかな」
そう告げてから、静かに深呼吸しつつ五まで数えて、シュリは振り返った。
いつもの表情で。
「ごめん、何か変な話しちゃった」
「いや、俺は構わないが」
「そう?」
言いながら、シュリは素早くヘルムートの表情を観察する。
鉄面皮というほどではないが、感情をあからさまにすることを好まない彼の顔には、これといった表情も浮かんでいない。
ただ、わずかに葡萄色の翳りを帯びた瞳の奥に、何かが静かに存在している。
同情でも憐憫でもない、ほのかな温もりを持ったもの。
それが何なのか、人の表情を読むことに慣れ、長けているシュリにすら判別することは出来なかった。
「行こうか」
話すつもりのなかったことを話してしまった、そんな気まずさを胸の一番奥に押し込んで、シュリはヘルムートを促す。
そして、歩き出しながら、いっそ同情してくれればいいのに、と心の中で呟いた。
同情や憐れみなら分かる。
そういった感情を向けられることは、尊敬や信頼などを向けられるよりも遥かに慣れてもいるし、理解もできる。
けれど、肯定も否定もなく、ただ受け止められてしまうと、どうすればいいのか分からない。
それとも。
あるいは自分は、もしかしたら。
全部、受け止めてもらえるとでも思っているのだろうか?
ヘルムートなら、話を聞いてくれると。
彼になら何を言っても、何をしてもいい、とそう思っているのだとしたら。
だから、こんな楽しくも何ともない昔話を口走ってしまったというのなら。
それはとんでもないことだった。
彼は対等な旅の相棒で、自分の保護者でも何でもない。
「何だ?」
思わず向けた視線に気づいて、ヘルムートが問いかける。
「……ううん、何でもない」
反射的に浮かべた笑みは、いつもと変わりないだろう。
だが、それであっさり何もないと納得するほど、ヘルムートは単純な感性の持ち主ではない。
けれど、それでも彼はうなずくのだ。
シュリが説明する必要はないと判断しているのなら、と。
「そうか」
そう言って、再び前方へと視線を向けた彼の横顔から、シュリ自身もまなざしを外して足元へと向ける。
ヘルムートが何かを言ったわけではない。
自分も、普段は決して口にしないこととはいえ、特別な何かを口にしたわけではない。
だが、何故か。
言葉に出来ない何かに、胸を締め付けられるような感覚を覚えて、シュリはひそかに眉をしかめた。
end.
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