06 手紙







「あの書き物机、少しの間、僕が使ってもいいかな」

 そんな前置きをして、シュリが宿屋の部屋に備え付けられた書き物机に向かったのは、小半時ほど前のことだった。
 旅の相棒が書き物に熱中してしまえば、ヘルムートとしては特にやることもない。
 既に日没近い時刻であり、早くも宿屋の一室に納まってしまった現在、わざわざ外出する気にもなれず、こんな時の絶好の暇つぶし、剣の手入れをしようと床に腰を据えて道具を広げる。
 幸い、というべきなのだろう。故国を出て以来、剣を使う場面にはこれまであまり恵まれていないため、この数年愛用している長剣には刃こぼれなどまったくない。
 ヘルムートが目の前に剣をかざすと、鍛え上げられた上質の鋼は、窓から差し込む夕映えを映して鮮やかにきらめいた。

 再会して以来、ここまでのシュリとの旅は、ほぼ平穏に過ぎたといえる。
 あの頃の騒動続きが嘘のように──場所も情況もまったく異なるから当然と言えば当然だろうが──、少なくともこれまでは何の事件に巻き込まれることもなかった。
 とはいえ、あの頃のシュリが災厄大王であったことは間違いなく、ほんの数ヶ月が何のあてになると言われればそれまでだが、しかし、シュリは毎日楽しそうに旅しているし、ヘルムート自身も、宛てもなく街道を辿って村から町へ、町から村へと流れてゆく日々をそれなりに楽しんでいる。
 シュリとは違い、ヘルムートは感情を表に出すのは得意ではないため、他者には分かりにくいだろうが、こうして異国の空の下でする呼吸は、故郷にいた頃のものとはまるで違っていた。
 何の重苦しさも、やりきれなさもない。今、この目の前にある剣のように、曇りも何もなく、ただ思うままに真っ直ぐにいられるのである。
 その爽快感は、故国ではついぞ、味わえなかったもので、それを自覚することは、未だに少しばかりの苦さと、かつての故国に対する忠誠の誓いの名残から生まれる疼きが伴ったが、だからといって、今更故国に戻る気もない。
 また、戻ったところで、階級を剥奪されて騎士の身分を返上した人間が、あの階級意識の強い皇国で、まともに寓されるはずもなく、そう思うとますます故郷から足が遠のくのはどうしようもなかった。

 結局、自分という人間は半端なのだろうと、冷めた自嘲とともにヘルムートは思う。
 盲目的に故国に忠誠を尽くすことは出来なかったし、かといって、故国の在りように疑問を持ちながらも、利欲に凝り固まった皇国議会に刃向かうことも出来なかった。
 その中で、せめてもの自分なりの信義が、あのラズリルでの投降だったのだ。
 それがどれほど故国において責められる行為であったかは、当時ですら十分に分かっていた。
 戦後に帰国した際、シュリや軍師エレノアが気を回して手を打っておいてくれなかったら、あるいは、共に帰国した父親が全ての公職からの引退を申し出なかったら、首を刎ねられてもおかしくなかったのである。
 だが、そうと分かっていても、あの場で無為に部下を死なせることは、自分には出来なかった。
 他人にどう評価されようと、あれが皇国騎士だった頃の自分が唯一、己が信じる道を貫いた事柄であり、その重さに迷いも悩みもしたが、今となっては悔いることは一つもなかった。

(俺の行動を是としてくれた人間も居たしな……)

 ちらりと横を見やると、シュリはまだ書き物机に向かって、せっせとペンを走らせている。
 何を書いているのかは知らないが、とヘルムートは立ち上がり、厨房で茶をもらってくるべく部屋を出た。





「シュリ、ここに置くぞ」
「あ、ありがと」
 階下からもらってきた茶を、書き物机の端の方に置くと、シュリは顔を上げて驚いたようにまばたきした。
「お茶、もらってきてくれたんだ?」
「ああ」
「ごめん、全然気付かなかった」
「別に、これくらい何でもない」
「うん。でも、ありがとう。それから、ごめん」
「? 何がだ」
「手紙書くの集中してたから。ちょっとだけ君のこと忘れてた」
 並々とミルクティーの注がれた取っ手のない陶製のボウルを、大事そうに両手で持って言うシュリに、今度こそヘルムートは呆れる。
「それこそ気にするようなことじゃない。俺も剣の手入れをしている時は、他の事を忘れている」
「うん、まぁそれはそうなんだけど」
 肩をすくめるようにしながら、シュリはそっと熱い茶をすすった。
「美味しいね。甘さ加減もちょうどいいよ」
「さすがにな、お前の好みくらいは覚えた」
「うん」
 何でもないことだろうに、ひどく嬉しそうにシュリは微笑む。
 それもまた、他人を気遣うばかりで気遣われることの少なかったかつての日々の名残だろうか、と考えかけて、何もかもそう結びつけるのは彼に対して失礼なことだと、ヘルムートは思いを振り払った。
「しかし、手紙といっても……誰にだ?」
 先に手紙を書いていると明かしたのはシュリのほうだったから、これくらいならば聞いてもいいだろうと尋ねると、シュリはあっさり答える。
「フレアだよ。約束したんだ、手紙出すって」
「王女と?」
「うん。オベルを出る時にね」
 相変わらず大事そうにボウルを両手に捧げ持ったまま、シュリは語った。
「どこに居るのかはいいから、せめて元気でいることくらい知らせて欲しいって言われたから。僕も筆まめなほうじゃないから、頻繁には無理だけど、約束した以上、目標は半年に一通、最低でも一年に一通くらいはね、出そうと思ってさ」
 なるほど、とヘルムートは聴きながら思う。
 オベル王国の次期女王として南海に広い影響力を持つフレアに手紙を出せば、自然、かつての仲間たちにもシュリの消息は伝えられるだろう。
 どこに居るかは分からずとも、この地上のどこかで生きている。そのことが分かるだけでも安堵し、喜ぶ者たちは数多いに違いなかった。
 そして、そんな約束を律儀に守ろうとしているシュリが、いかにも彼らしいと思える。
 そんな風に考えていると、茶を飲み終えたシュリがボウルを机の上に置いた。
「さて、あと署名して封したら終わりだから、もう少し待っててくれる? 終わったら下に夕御飯、食べに行こう」
「ああ」
 そのまま、書き物机の傍らで見るともなしに見ていたヘルムートの目の前で、シュリは再びペンを取り上げ、インクを含ませて、便箋の余白に流麗な書体で署名を入れる。

『ウィスタリア・エマーソン』

 思わず一瞬目を疑ったが、深い青のインクで書かれた文字は間違いなくそう見える。
「シュリ……?」
「ああ、この署名?」
 心底怪訝そうな声で名を呼ばれて、すぐに意図を察したのだろう。シュリは小さく笑った。
「これはね、フレアと決めたんだ。いくらなんでも、馬鹿正直に名前を書くわけにはいかないでしょ? でも、こうやって姓まで入れたら、何だか高貴な女性からの手紙っぽく見えるだろうから」
 つまりは、オベル王女の異国の女友達を装うことにしたのだ、と言う。
「もちろん、オベル王女宛に親展で送るんだけど、フレアの手に届くまでに何があるか分からないし、そもそも無事に届くかどうかも保証がないからね。用心だよ」

 確かに、シュリが人目をはばかるべき立場にあることは間違いないし、そんなシュリと連絡を取り合っていると思われたら、フレアにもオベル王国にも何らかの影響が及ばないとは限らない。
 となれば、手紙の差し出し元を偽ることは当然となるのだが、そもそも大陸公用語の文語における人称には男女の区別がなく、女性らしい単語の選び方、いわゆる修辞にさえ気を使えば、文章そのものから書き手の性別を判別することは難しい。
 加えて、シュリの筆跡は派手さがなく落ち着いて、硬すぎず繊細すぎもせず、習字の手本にしたいほど端整で、品がいいのである。
 更に便箋も、なめらかな肌合いを持つクリーム色の上等な紙を選んで用いているため、総じて、今、シュリの手元にあるそれには、上流階級の教養ある几帳面な女性がしたためた手紙、という風情がそこはかとなく漂っていた。

「納得はしたが……しかし、どこからその名前を……」
「ああ、これは単なる思い付き。この話をしてた時に、ちょうど窓の外にウィスタリア(藤)が咲いてたから。姓は名前に合わせて適当に考えた」
「は……」
「最初は実在の人物の名前を借りようかとも思ったんだけど、適当な人がいなかったし、それはそれで何かあった時に迷惑かけることになってしまうしね。だから、いっそ偽名をでっちあげようと」
「……確かにその方が安全だろうな」
「フレアも面白がってたよ。きっと、この手紙の差出人の署名を見た人は、藤色の瞳の貴婦人を想像するだろうって」
 さもありなん、だった。
 あの国王の長女なだけあって、フレアも真面目な性格ながら面白がる部分については、とことん面白がり、楽しもうとするところがある。おそらくは嬉々として、話を打ち合わせたのだろうと想像できた。
 そう言う間にも、手紙を書き終えたシュリは、揃いの封筒にも宛先と差出人の署名を記し、丁寧に折りたたんだ便箋を納めて封蝋まで押す。
 淡い紫の封蝋に、花を図案化した押印は何とも優雅で美しく、とてもではないが二十歳にもならない年若い青年が書いた手紙には見えなかった。

「これで、明日この町に着く予定の駅馬車に、この手紙を託せば終わり。お待たせしたね、ヘルムート」
「いや、別に待たされてはいないが……」
 言いながら、ふと思いついたことをヘルムートは口に出してみる。
「シュリ」
「うん?」
「お前は……帰りたいのか?」
 そう問いかけると。
 筆記用具を片付けていたシュリは手の動きを止めて、ヘルムートを振り返った。
 真っ直ぐに向けられた青い瞳は、決して気分を害したのではなく、ただヘルムートの問いかけの真意を測ろうとしていることを示すかのように、穏やかに凪いでいて。
「──帰りたいというのとは、少し違うかな」
 ふと、その瞳が淡く笑んだ。
「懐かしいと思うし、夢にも見るけど、今はあそこに戻りたいとは思わない」
 そうして、筆記用具をしまい終えたシュリは立ち上がる。
 階下に食事に向かうつもりなのだろう。部屋の出入り口に向かって歩き出しながら、シュリはヘルムートを呼んだ。
「ねえ、ヘルムート」
「何だ」
「……またいつか、あの海を見たいね」

 ──人も街も、懐かしいとは思うけれど、それ以上の郷愁は今は感じない。
 けれど、あの海は。
 今もきっと、鮮やかに陽光を映して輝いているだろう。
 どこまでも青く、遠く、言葉にならない眩しさで──…。

「……そうだな」
 静かに答えて。
 ヘルムートもまた、シュリの後を追って宿屋の小さな部屋を出た。






end.







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