09 花火
土用の鰻、食いにいかねぇか。
そう言われた時、臨也は反射的に渋い顔をした。
臨也が人前で不機嫌な顔をすることは滅多にない。しかし、関係が変わって以降、静雄の前では、その珍しい表情が大盤振る舞いである。
白い目でちらりと静雄を見やり、「ただでさえクソ暑いのに、なんで君と出かけなきゃならないんだよ」と実に素っ気なく返した。
勿論、静雄が、そうか、とはあっさり引き下がらないのを計算した上でだ。
すると案の定、静雄は臨也と同じくらいに渋い顔をしながらも、どうしたら行く気になる?、と問うてきて。
──それこそが、臨也が待ち望んだ一言であるとも知らず。
しかし、そんな心理はおくびにも出さず、臨也は、いかにも気乗りがしない風の至極つまらなさそうな顔で、一つ条件を提示したのだった。
そんなやりとりから五日が経過して。
今日、先手を打って渋い顔をしているのは静雄の方だった。
「なんでこんな恰好をしなきゃなんねぇんだよ」
「条件呑むって言ったのは君だよ」
苦虫をかみつぶしたような声には取り合わず、臨也は静雄の後ろに回り、丁寧に角帯を締める。
生成り地に黒で小さな花菱紋が連なって細い縞になった、粋な柄の麻の帯は、しゅっしゅっと衣擦れの音を立てながら、小気味よい手触りを伝えてくる。
その結び目が形よく整ったところで臨也は、くるりと静雄の正面へ回り、自分の仕事ぶりを確かめた。
「うん、丈もちょうどいいね。いい感じ。さすがは俺の見立て」
「だから、なんで浴衣なんだよ」
「着たかったから。で、君にも着せたかったから」
「俺を巻き込むな」
「巻き込むに決まってんだろ。君の嫌がる顔が俺は大好きなんだからさ」
へらへらと彼の嫌う笑顔で嫌味に言い返す。
だが、静雄と同じく浴衣を着こんだ臨也の胸の内は、どうしようもないほどに心臓が騒がしくて苦しいほどだった。
似合うだろうとは思っていたのだ。
そうでなければ誘われた時に、どうせバーテン服で来るんでしょ、そんなのと歩くの嫌だよ、こちらが用意した服でなければ出掛けないから、などと言いはしない。
けれど。
目の前にある現実は、あまりにも予想を超えていた。
(これだけ背が高ければ、間延びして見えそうなものなのに……)
着物は元来、小柄で寸胴短足な日本人の体型に合わせて発達した衣服である。
故に、とりわけ女性の柄物などは現代の背の高い女性が着ると、滑稽なくらいに上半身と下半身の柄の間が空いてしまう。平均身長より低いくらいの方が、訪問着や付下げといった染めの柄物は美しく映えるのだ。
それに比べれば、染めではなく織模様が主体の男性ものはマシな方だが、しかし、背が高すぎる、もう少し正確に言うならば、足が長すぎると全体のバランスが取りにくいのには変わりがない。
その点、臨也の予想では、身長185cmの静雄は、着物は似合わないとまではいかなくとも、バランスの取り方がが難しいはずだった。
そう思ったからこそ、あまり縦の線が強調されない濃紺地の縞絣、その所々に同色での丸い影龍紋が散らされた柄を選んだというのに。
(細マッチョで肩幅と胸の厚みがあるからかな。なんかもう異様に格好いいんだけど……)
かく言う臨也の方は、静雄と並んだ時の色合いも考慮して、海老茶を濃くしたような墨地にもう一回り濃色での七宝繋ぎ柄の浴衣、それに白地に細かな乱れ桜が細縞になった角帯を合わせている。
見栄えという点では負けていないはずだが、どうしても勝った気になれないのは何故なのか。
ひどく悔しい気分になりながらも、臨也は静雄に対する賞賛を無理矢理胸の奥に押し込み、男性向けの巾着袋、いわゆる信玄袋を手に取った。
これもまた、こだわりで静雄のは銀鼠(ぎんねず)色にモノクロの風神雷神柄、自分のものは黒地に細かい白の桜が一面に散っている。
静雄はもう呆れ果てたのか、文句も言わずにそれを受け取り、財布と煙草とライターを放り込んだ。
「ったく、なんの仮装だっつーの……」
「鰻を食べに行きたいって言ったのは君だろ。さ、行くよ」
先に立って歩き出せば、静雄は渋々ながらも付いてくる。
マンションの外に出ると、熱帯夜の蒸し暑い空気が二人を押し包んだ。
「やっぱり暑いね」
歩くと慣れない下駄が、からころと鳴る。だが、鼻緒がやわらかくて適度な緩さのものを吟味して選んだ甲斐があったか、多少歩き回っても痛くなることはなさそうだった。
「シズちゃん、こっち」
「? どこ行くんだよ。駅ならこっちだろ」
「その前に寄り道だってば」
「はぁ?」
怪訝な顔をする静雄に構わず、臨也は駅に向かうよりも大分手前の路地で曲がり、一ブロック先のビルへと立ち入る。
「おい、臨也……」
「大丈夫大丈夫。このビル、管理が甘いから屋上まで行けるんだよね」
言いながら、臨也は静雄を押し込むようにして古い型のエレベーターに乗り込み、最上階のボタンを押した。
ウィーンと大げさなモーター音を立てながら、まるで仕事をするのを嫌がっているかのように、ゆっくりとエレベーターの筐体は昇ってゆく。程なく、がたんと小さなショックと共に止まり、やはり億劫そうにドアを開いて二人を外へと吐き出した。
「ここからは階段ね」
「一体何がしたいんだよ、手前は」
「直ぐに分かるってば。はい、屋上」
到着、と鉄製の重いドアを開き、外に出る。
十数階の高さがあるために、空気は地表よりもかなり涼しい。
鼻歌でも歌い出したいような気分で、臨也が周縁のフェンスに歩み寄ったその時。
遠雷に似た腹に響くような音と共に、夜空に光の花が咲いた。
「花火?」
「そうだよー。今年の土用は七月最後の金曜だからね。結構、花火大会と重なってるんだよ」
フェンスに寄りかかって臨也が振り返ると、静雄は遠い空を見上げたまま、ゆっくりと近付いてくる。
「だから浴衣か」
「そう。やっと分かった?」
「まぁな」
してやられたのが悔しいのか、それとも上手く誘い出されたのが嬉しいのか、何とも言えない複雑な顔で静雄はうなずく。
そんな恋人を見て、臨也は小さく口元に笑みを浮かべた。
本当は前々から、一緒に花火を見に行きたいとは思っていたのだ。
夏といえば花火に縁日。そんな俗な発想は、臨也も勿論好むところである。
だが、性格上、行こうと口に出して言えるものではない。
一方で、静雄も人混みを嫌うその性格上、花火を見に行こうと誘ってくる可能性は低い。
だから、無理かもしれないと半ば諦めていた臨也にとっては、花火大会とも重なる土用の丑の日に鰻を食いに行こうという静雄の誘いは、渡りに船だった。
舌先三寸を駆使すれば、静雄に浴衣を着せることなど造作もないし、着せてしまえば、あとは角度の良いビルの屋上に登るだけで、全てを台無しにする人混みの問題も片付いてしまう。
ほんの十秒ほどでそこまで計算した臨也は、さりげなく共に行く条件を提示し、それを静雄に飲ませたのである。
「うちのマンションからだと、ちょうど反対側になって見えないんだよね。穴場なんだよ、ここ」
「だから、七時半までに来いってうるさかったのか」
「うん。浴衣とはいえ、着付けには十五分くらいはかかるからね。花火は八時からだし、ちょうど良かっただろ」
「まぁな」
花火を見るのは今年初めてだ、と呟く静雄のまなざしは、夜空に咲く光の花から離れない。
距離としては遠いし、ネオンも少し邪魔だったが、それでも二人きりで堪能するには十分な輝きが、幾つも幾つも絶え間なく濃紺の夜空に広がる。
子供のように夢中な静雄の横顔を微笑みと共に見つめ、、臨也もまた、夜空に咲く光の花へとまなざしを向けた。
花火の後、鰻を食べるのに、臨也がわざわざ浅草の老舗を予約したのは、どうせならば美味しいものを食べたかったのは勿論のこと、少し遠出をしてデート気分を味わいたかったからだった。
インドア派の組み合わせであるだけに、付き合っているとはいっても、普段、二人で出かけることは滅多にない。
しかし、臨也にしてみれば、全く出かけたくないわけでもなく、かといって、自分から一緒に遊びに行きたいとも言えず、これまた、静雄の誘いが渡りに船だったのである。
静雄も誘ったのが自分である以上、わざわざ電車に乗るのかよと文句を言いながらも、きちんと臨也に付いてきて、老舗のうな重と肝吸いを、美味い美味いと連発しながら綺麗に平らげた。
そんな食べて帰るだけの単純な道行だったが、それでも二人で居られれば嬉しいし楽しい。
本当に馬鹿みたいだと、自重めいた笑みを口元に刷いたまま、臨也は、下駄がからりころりと小さな音を立てるのを聞きながら、自分のマンションへと続く道を歩く。
隣りでは静雄の下駄も、少しずれながら、ころりからりと音を立てていて、それがまた何となく面白かった。
「浴衣も悪くないよね。思ったより涼しいし」
「あんな黒コート着てっから暑いんだよ、手前は」
「真夏なのに黒ベスト着込んでるシズちゃんに言われたくない」
「手前よりはマシだ」
浴衣だろうが何だろうが、二人の会話はいつもと変わらない。
けれど、下駄はからりころりと鳴るし、信玄袋はゆらゆらと揺れる。
うな重と共に一合ばかり呑んだ、冷やの純米吟醸がほんのり効いているのかもしれないが、臨也の気分はいつになく、ふわふわと心地良かった。
そうしてしばらく歩き、あと少しでマンションに着くという頃合に、不意に静雄が声をかけてくる。
「ノミ蟲」
「……何」
名前で呼ばれないのは不満だったが、今夜くらいは許してやってもいい。そう思いながら見ると、静雄は何故か目を逸らしていて。
何だろうと見つめていると、しばしの沈黙の後、ぼそりと言った。
「お前、俺と居る時以外は浴衣、着るなよ」
「──なんで?」
言葉の意図が純粋に分からず、臨也は問い返す。
もともと浴衣など過去に着た試しはないし、これからも着る予定など当分ないが、しかし、何故それを規制されねばならないのか。
首をかしげて見上げると、静雄は不意に溜息をつき、足を止めた。
「シズちゃん?」
どうしたの、と問いかけるのと、ほぼ同時だっただろうか。
左腕を掴まれて、ぐいと引き寄せられ、口接けを攫われた。
「こういうことしたくなるから。他の奴に見せんな」
低い声で告げられた言葉に、思わず目を見開く。
だが、静雄は面映ゆいのか、眉間に小さく皺は寄せていたものの、至極真面目な顔をしていて。
「……見せたく、ないの」
「当たり前だろうが」
手前は俺のもんだ、と最近の決まり文句を言われて、しばしの間、目を瞠っていた臨也は、やがてくすりと微笑む。
「シズちゃんって時々、心狭いよねえ」
「うるせえ」
悪いか、とそっぽを向く静雄に、たまらず臨也はくすくすと笑う。
ぶっきらぼうなのも、別に悪いとは言わない。それが彼の性格だ。
だが、そんな男に眩しそうな目で見つめられることは。
───ただ、嬉しい。
嬉しくて、愛しい。
湧き上がる気持ちのままに、臨也は静雄の浴衣の襟元を掴み、ちゅ…と可愛らしい音を立てて唇を奪い返す。
そして、至近距離から静雄の瞳を覗き込んだ。
「だったら、シズちゃんも俺と一緒の時以外は浴衣を着ないでよ。着物も駄目」
「着るかよ、こんな面倒くさいもん」
「約束だからね」
夜も更けた裏通りは、今は他に人の影もない。
瞳を見交わし、もう一度、互いを抱き寄せるようにキスを交わして。
「……すげぇ似合ってる」
聞こえるか聞こえないかくらいの声量で囁かれたその言葉に心から満足して、臨也は静雄の腕の中、そっと目を閉じた。
End.
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