10 約束
張り詰めていた身体がゆっくりと弛緩し、大輪の花が散るように崩れ落ちてくる。それを静雄はしっかりと両手で支えながら胸に抱き止めた。
収まり切らない乱れた呼吸が忙しなく、仰向けになった静雄のはだけた胸元をくすぐる。
ぐしゃぐしゃになってしまった黒髪を梳くように撫でても臨也は身じろぎしない。余程困憊したのだろうと細い身体を抱き直すと、二人の身体の間でわだかまる浴衣の生地の感触を嫌でも腕に感じた。
出かける前に臨也が綺麗に着付けてくれた浴衣は、今やどちらのものも、どうしようもなく着崩れてしまっている。
かろうじて帯だけはまだ結ばれているものの、結び目そのものは半ば解けてしまっているから、後もう少し身動きすれば、完全に緩んでしまうだろう。
そう思うと、臨也の帯の端を引っ張ってやりたい衝動に静雄は駆られたが、それは惜しいとギリギリの所で自分を制した。
何しろ、静雄自身は帯を結べないのである。そして一旦解いてしまったら、臨也はもう今夜は帯を締めようとはしないだろう。それは勿体無いと思えたのだ。
初めて目にする臨也の浴衣姿であり、その乱れた姿である。堪能しなければ後悔するというものだった。
(けど、マジでエロいよな浴衣って)
臨也とこういうことになる前は、静雄も健全な男である以上、AVを楽しむことも普通にあり、その中には和服ものも時折混じっていた。
画面の中で喪服の未亡人だの温泉宿の若女将だのの着物が乱される様は、何とも色っぽくて興奮したものだが、やはり現実と作られた映像は違う。
演技と本物という差もあるが、何よりも人物の差だ。画面の中で乱れていたのは名前も知らない女優だが、今、静雄が抱いているのは折原臨也なのである。
静雄が知る限り、この世で最も性格が悪く、この世で最も蟲惑的な容姿を持ち、そして最も重要なことだが──静雄のものである存在が、眼前で凛と着こなしていた浴衣を乱し、快楽に染まった顔を見せる。その威力は筆舌に尽くしがたいものがあった。
(なんつっても、こう、上からはだけていくってのがな……)
普段、臨也はカットソータイプの服を好んで着ているため、着衣のままいやらしいことをするとなると、どうしても腹から上は隠れた状態になることが多い。
しかし、着物だとその構造上、着崩すと肩や胸、みぞおちの辺りまでは見えるが、その下は隠れるというまったく逆の形になるのである。
更に、腰の辺りはわだかまった布地で隠れるのに、その下からはほっそりとした綺麗な脚、しかも真っ白な内股がちらちら見え隠れするという、これまた美味しい状況になる。
その形にそそられるあまり、今夜は臨也に上になるよう求めてしまったのだが、臨也が拒絶をしなかったおかげで、静雄は心ゆくまで臨也の乱れ切った姿を見つめることができたのだった。
(そういや、何度か「見るな」っつてたような……無理だろ、そんなもん)
自分が上になって能動的に動いていた分、理性を完全に飛ばすことが難しかったのだろう。いつになく静雄の視線に反応していたように思う。
見られることに羞恥を感じつつ、そのせいで敏感さを増して、より一層乱れて甘くすすり泣く様は罪深いほどだった。
濃色の浴衣のおかげで、肘上辺りまであらわになった二の腕はより一層細く見えたし、肩や胸も一層白く艶を増して、真珠か何かのように内からなまめかしく光っているようにさえ見えた。
そんな姿で細腰を淫らに揺らめかせ、とめどもなく甘やかな嬌声を上げて、静雄の渾名を繰り返し呼びながら静雄の身体を貪ったのである。最後の方は静雄も我慢できずに容赦なく突き上げてしまったが、それは男なら仕方のない摂理だと理解してもらいたかった。
「──っ…あ…」
腕の中に抱いていた臨也が、不意に小さな声を上げて身をこわばらせる。
静雄の胸元に置かれていた細い手が縋るものを求めて、浴衣の襟辺りをぎゅっと掴む。
その理由は直ぐに知れた。
二人の身体の繋がりが解けようとしているのだ。灼熱の想いを解放して張りを失った静雄の肉体が、同じく絶頂直後の緊張が解けてきた臨也の身体から重力に従って離れようとしている。
「や…っ……」
抜け落ちてゆく感覚が悪戯な刺激となるのか、それとも、離れてしまうことそのものを厭っているのか。こわばらせた身体を微かに震わせながら、臨也は静雄の熱を抱き留めていた秘めやかな箇所に力を込めようとする。
だが、重力の前ではそれは大した歯止めにもならず、ゆるゆるとした動きで始まった分離は徐々に加速してゆき、妄りがましい水音を立てて静雄の熱がずるりと抜け落ちた。
「あ……、は…ぁ……」
静雄の胸元の浴衣生地をぎゅっと握り締めながら、臨也は開放感に浸るとも失われたものを惜しむともつかない、なまめかしい溜息を零す。
おそらく、その虚ろになった蜜口は含まされていた白濁や潤滑液をとろとろと溢れさせながら、ゆっくりと慎ましやかに閉じてゆくのだろう。
その様を想像しただけで再び灼熱が蘇りそうな気になりながら、静雄は臨也をもう一度、胸の上に抱き直した。
たった今まで繋がっていた分、完全には静雄に体重を預けられずにいた臨也が、今度こそ脱力し切ったようにぐったりと全身を重ねてくる。
「暑くねぇ?」
「あつい……」
まだ汗に濡れた肌の熱さにふと思いついて問いかければ、いかにもだるそうな声で返事が返った。
「だよなぁ」
臨也の寝室であるだけにエアコンは十分に効いているが、しかし、二人していやらしい運動にふければ嫌でも体温は上がる。
臨也曰く、体表面ばかりでなく深部体温が上がるからのぼせたようになるのだという話だったが、理屈はともかくも暑いものは暑い。
静雄は目線だけを動かしてエアコンのリモコンを探し、サイドテーブルにあったそれを片手を伸ばして取り上げ、設定温度を三度ほど下げた。
そしてまた、緩く臨也を抱き締める。
暑いというのならば、互いに離れればよいのだ。
互いの体温を含んだ浴衣など脱ぎ捨て、ばらばらに寝台に転がるなり、冷たいシャワーを浴びにゆくなりすればいい。
なのに、それをしない理由は、静雄にとっては口に出すまでも無いことだった。
そして、離せとも言わなければ、離れようともしない臨也も、きっと同じなのだろうと思う。もしかしたら、単に疲労困憊しすぎていて動きたくないだけなのかもしれないが。
何とはなし深い満足を覚えながら、静雄は臨也の黒髪をゆっくりと撫でる。
時折、悪戯に形の良い耳やその下の薄い皮膚をも指で撫でてやると、臨也はむずかるように小さく首をすくめ、それがまた不思議に可愛らしく感じられて、口の端に自然と笑みが浮かんだ。
「なあ」
ちょうど良い湯加減の温泉にでも浸かっているような、ゆったりとした心持ちで呼びかける。と、なに、と小さく声が返った。
「今度の休み、どこか行くか?」
「……え?」
思いもよらない提案だったのだろう。ずっと静雄の胸に顔を伏せていた臨也が身じろぎして顔を上げる。
先程までの艶めいた表情は既に消えていたが、気だるげなまなざしはそれなりになまめかしく、そう感じる自分に内心で苦笑しながら、静雄は右手を上げて、臨也の頬を指の背で撫でた。
出かけようと思い立ったのは、他でもない。臨也がそうしたがっているような気がしたからだ。
静雄が先日、鰻を食べに行こうと誘ったのは、何となくそうしたいと思ったからだが、臨也の方は、いかにも気乗りのしないような態度だった。
だから、渋々付き合ってくれるのだろうと思いきや、いざ今夜になってみれば、臨也は浴衣に花火に老舗で予約と大人の夜デートのフルコンボをしてみせたのである。
そんなにノリノリなら最初から嬉しい顔をしろよと思ったのだが、しかし、臨也がそんな性格であったなら、二人の関係は最初からこじれることなどなかっただろう。そんな不毛な結論に五秒で達したため、その件についてはそれ以上を考えることをやめた。
ともあれ、今夜の臨也の様子から、どうやらこいつは俺と一緒に出かけたかったらしい、という結論を静雄は得たのだ。
単に浴衣を着たかっただけかもしれない。花火を見たかっただけかもしれない。老舗の鰻を食いたかっただけかもしれない。
だが、やりたいと思ったら独りでも平気で実行するのが臨也だ。このひねくれた上に尊大で身勝手な男は、他人の目など一切気にしない。
そんな臨也が、わざわざ静雄と共にそれらをした。その事実を何よりも重要視すべきだということは、十年近い腐れ縁を紡いできた静雄には良く分かったのである。
しかし、まともにそれを指摘しても認めるような臨也ではない。
だから静雄は少しだけ考えて、言葉を選んだ。
「いつも、ここで会うばっかりだろ。俺は別にそれで構わねぇと思ってるけど、今夜はの外出は悪くなかったからよ。鰻、美味かったし」
「……また美味しいものでも食べに行きたくなったの?」
「そんなとこだ」
わざわざ二人分の浴衣を用意して、肩を並べて嬉しそうに花火を見上げ、機嫌よく鰻を食べて杯を傾けていた臨也が何とも綺麗に可愛らしく見えて、もっと見たくなったからだ、とは口が裂けても言えるものではない。
ゆえに曖昧にごまかしたが、臨也も、まさか静雄がそんなことを考えているとは思い及ばなかったのだろう。ふぅん、と物思うようにうなずいて小さく首を傾ける。
「別に、たまになら出かけるくらいしてあげてもいいけど……」
呟き、静雄を見つめる。
「どこか行きたいとこ、あるの? 食べたいものとか」
「いや。俺はそういうの全然知らねぇし」
「だよねえ。はい、シズちゃんなんかに聞いた俺が馬鹿でした」
実にあからさまに、呆れたように臨也は大きな溜息をついて見せた。
「つまりさ、シズちゃんの『どこか行く』っていうのは、俺に行き先を決めさせて、ルートを検索させて、ついでに美味しいお店も調べさせて、自分はそれに付いて行くっていうだけの話だよね。それってさ、男としててどうなんだよ」
「どうも何も、手前だって俺にそんなこと期待してねぇくせに」
「するわけないだろ。馬鹿見るだけじゃん」
「だったら言うな」
「はぁ? 俺は純粋に心配してあげてるんだろ。出かけようって言うのにエスコートの一つもできない残念で憐れなシズちゃんの末路を儚んでさぁ。あーあ、これから先、何かの間違いで女の子に言い寄られても、デートさえまともに誘えなくて自滅しちゃうんだよね、シズちゃんは。かーわいそー」
静雄の胸に頬杖を付き、ケラケラと嫌味っぽく笑う臨也に静雄は心底うんざりする。
と同時に、こいつはこんなに底の浅い奴だったか、と目からウロコが落ちる気分だった。
静雄が女に言い寄られたり、ましてや、そういう相手をデートに誘おうとすることなど、天変地異並みに有り得ないことだと一番良く知っているのは臨也である。
そして、今の物言いに対して通常反論として出てくるのは、「言い寄る女なんざいない」或いは「なんで他の奴を誘わなきゃならないんだよ」だろう。その裏側の意味は、当然ながら、どんな愚か者でも分かる『俺にはお前しかいない』だ。
『俺が付き合ってるのはお前だし、お前以外の奴と出かけるつもりなんざねえ』
それ以外の返答しか導き出せないような台詞を臨也が吐いたこと自体が、静雄にしてみれば驚きだった。
とはいえ、静雄もまた、臨也相手にそんな台詞を真顔で言えるような性格はしていない。そこまで臨也は見越していて、このまま口喧嘩に持ち込みたいと思っているのか、それとも、特に計算などなく口が滑ってしまっただけなのか。
後者なら恐ろしく可愛いが、そこまで迂闊ではないだろうという気もする。
判別がつかないまま、静雄は斜めから攻めてみた。
「ほーお、つまり俺とお前が出かけるのは、デートって認識でいいんだな?」
「──は、あ? なんでそんな……」
「手前が今言ったんだろ。俺はデートさえまともに誘えねぇってな」
「それは俺との話じゃないだろ。どこかの可愛くて性格もいい女の子との話!」
「じゃあ、手前と出かけるのは何て言うんだ?」
「はぁ? そんなもん、外出だろ。ただの外出。お出かけ。そんなことも分かんないの?」
どうあってもデートという単語は使いたくないらしい。この野郎、と思うものの、静雄もまた、真っ向から『デートするぞ』とは言えないのだから、お互い様だった。
割れ鍋に綴じ蓋かよ、と溜息をついて臨也を抱き寄せ、頭の天辺に顎先を当ててグリグリと押してやれば、途端に「痛い痛い!!」と悲鳴が上がる。
「痛いってば!! 何すんだよ!?」
「いや、ちょっとムカついた」
「ちょっとムカついたくらいで暴力ふるうなよ! 頭の天辺は急所なんだよ!?」
「知ってるつーの、それくらい」
「だったらやるな!」
「分かってるから、やってるに決まってんだろ」
「何それ、最低!」
事後の気だるい雰囲気はどこへやら、臨也はまなざしを険悪に尖らせて静雄を睨みつける。
だが、静雄の体の上からどくわけでもなし、背を緩く抱いている静雄の腕を振り払うでもない。
ほとほと素直じゃねぇよな、と呆れつつも、静雄は手を上げて臨也の眉の辺りにかかっている前髪を梳くように撫で上げた。
形の良い額があらわになると、臨也の整った顔立ちは一層知的に、綺麗に見える。
にもかかわらず、前髪を普段は無造作に下ろしているのは、人をたぶらかすことを好む性格上、寄り付きがたい雰囲気が出てしまうことを厭っているからだろうか。
秀麗過ぎる顔立ちは、時として冷酷かつ恐ろしく見える。そんな誤解を時折受ける弟を持っている静雄は、とりとめもなく弟とはまた違う美しさの臨也のアーモンド形の目や、紅みを帯びたセピア色の澄んだ瞳や、描いたような綺麗な形の眉、すっと通った鼻筋に薄い唇の形を愛でながら、臨也の髪を撫で、頬を撫でた。
そうして淡い戯れを続けているうちに、吊り上がっていた臨也の眉と眦が、少しずつ下がってくる。
「……何なの、シズちゃん」
舌先三寸で勝負を挑むのが得意なだけに、静雄が沈黙してしまうと、臨也はどうすればよいのか対処に困ってしまうらしい。静雄がそう気付いたのは、最近のことだ。
池袋の街中ではキレることなく沈黙していることは困難だが、こうして二人して寝台で寄り添っている時ならば、自然に感情が凪いで臨也の挑発にもそれほど乗らずにいられる。すると、臨也は困惑したような拗ねたようなまなざしで、沈黙する静雄を見つめてくるのである。
きつい目で睨まれればキスをしたくなるし、細い身体を貪り尽くしたくなる。
だが、そのまなざしがへにょんと困惑するのもひどく可愛いのだと気付いたら悪戯心が止まらなくなり、結果として静雄が二人きりの時にキレる確率は、付き合い始めた頃に比べ、格段に下がっている。
「ホント、シズちゃんって訳分かんない」
むずがるように臨也は顔を逸らして触れてくる静雄の手を避け、静雄の胸元にぽすんと顔を埋める。
それならそれで、と頭を撫でてやるついでに形の良い耳にも触れたら、本来ひんやりしているはずのそこは随分と熱を持っていた。
明るい所で見たら、きっと真っ赤になっているだろう。その理由が恥ずかしがっているのか怒っているのかは定かではないが、何となく後者ではないような気がする。
そう思うと、何とはなし口元に笑みが浮かんできて、静雄はもう一度臨也の細い身体をぎゅっと抱き締めた。
「なあ、来週の休み、出かけるだろ?」
「……なんで、そんなに出かけたがるの」
「何となく」
はぐらかせば、臨也は静雄の脇にぐっと爪を立てた。
いわゆるアイアンクローだが、静雄にしてみれば可愛らしくつねられたくらいの感覚しかない。キレることもなく沈黙していれば、臨也は諦めたように指の力を緩めて、溜息をついた。
「どこに行きたいかとは聞かないから、何が見たいかくらい言ってよ。せめて食べたい物とか」
「俺が見てもムカつかないもんとか、美味いもんなら何でもいい」
「だから、それが最低だって言ってるんだよ。俺を誘うんだったらさぁ、もう少し具体的に考えてよ」
「つってもなぁ」
「和洋中華。せめてそれくらい選んで」
「あー、しばらく中華食ってねぇな。牛丼や焼肉は食うし、ファミレスもよく行くけどよ」
「……牛丼やファミレスを和食や洋食に入れるなよ」
疲れ果てたような声で呟き、しかし、それきり臨也は大人しくなる。
小さな頭の中で、きっと今、めまぐるしく行き先を選定しているのだろう。
ぐだぐだと文句を付けながらも、一度たりとも『行きたくない』とは言わなかった上に、きちんとデートだと認識しているらしい臨也にもう一度口の端で笑ってから、静雄は臨也を腕に抱いたまま、身体の向きをぐるりと百八十度入れ替えた。
「──えっ?」
「考え事は後でしろよ」
マウントポジションで顔を覗き込めば、仰向けに組み敷かれた臨也は目を丸くして静雄を見上げた。
「もしかして……もう一回するの?」
「するに決まってんだろ」
浴衣姿の臨也といやらしいことをするなどという美味しいシチュエーションを、まさか一度限りで終わらせられるはずがない。
にやりと笑ってやりながら、はだけた浴衣から覗く白い胸元に、たっぷりと意図を込めた手のひらを滑らせる。すると、臨也はびくりと目を細めて、敏感に身体を震わせた。
「嫌じゃねぇだろ?」
「──もう、本当に君って勝手すぎ」
困惑半分呆れ半分の表情で呟いた臨也は、そのまま静雄の浴衣の襟を掴んで引き寄せ、唇を重ねてくる。
その甘い唇を貪り、着乱れた浴衣に半ば覆われた細く華奢な身体を隅々まで撫で回して、夏の夜のデートの締めを心ゆくまで静雄は堪能したのだった。
End.
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