05 シングルベッド
「シズちゃんってさ……」
ぽつりと呟いた臨也の声が、夜の中でそれきり途切れる。
何だよ、と問いかけても返ってくるのは沈黙ばかりだ。
「言いかけといて止めんじゃねーよ」
つん、と静雄の肩口に落ちかかっている黒髪を引っ張ってやれば、引っ張んな、と憎まれ口が返った。
「大した事じゃないから」
「大した事かどうかは、聞いてから俺が決める」
「だから、髪引っ張るの止めてって」
「手前が言うまで止めねえ」
「……ガキ」
「手前の方がクソガキだろ」
「君にだけは言われたくない」
ということは、性質の悪い子供の部分を残しているという自覚はあるのだろうか。そう思った時。
「……SEXの時、案外乱暴じゃないよね、って思っただけ」
顔を伏せているためか、幾分くぐもった声で言われて。
その脈絡を三秒ほど考えて、一番最初の続きかと静雄は気付いた。
「どういう意味だ、そりゃ」
「言葉のまんま」
即答されて、静雄は心底うんざりし、呆れる。
「手前、根本的に俺のことを履き違えてんだろ。俺が力を加減できなくなんのはキレた時だけだっつーの。なんでSEXの時にまで馬鹿力を発揮しなきゃなんねぇんだよ」
つん、とまた髪を一房引っ張ってやったが、臨也は答えない。
何考えてんだこいつは、と思いながらも静雄は手指の形を撫でる形に変え、さらさらとした感触の髪をゆっくりと梳きながら、今の言葉を反芻した。
結論から言えば、つまり、臨也は静雄がもっと乱暴なSEXをすると思っていたということだろう。
そう考えるのは、まあ分からなくもない。
何しろ、高校の入学式で出会ってから十年近く、殺し合いに近い喧嘩しかしてこなかったのだ。優しくされることを期待するよりは、力任せに乱暴にされる方を想像するのが容易いに決まっている。
加えて元々、性衝動は男の獣性が出やすいところでもある。
だが、しかし。
「俺のもんに乱暴してどうすんだよ。壊しちまったら元も子もねぇじゃねーか」
「……その台詞さぁ、これまでの十年を振り返ってから鏡見て言ってくれないかな。ていうか、死んでよ、シズちゃん」
「誰が死ぬか」
「ホント、嫌い。最低。死んで」
まったくもって、この男は口が悪い。しかも、子供並みの口の悪さだ。
呆れ果てながらも静雄がキレずにいられるのは、これだけのことを言いながらも臨也の体はぴったりと自分に寄り添っているからだった。
この体勢そのものには、深い理由はない。単に平均身長を超える二人が同時に存在するには、シングルベッドの面積は狭すぎる。それだけのことである。
壁側じゃないと落ちそうだから嫌だ。そうごねた臨也は、それならば壁にでもへばりついていればいいものを、狭苦しいのも嫌だと静雄の右半身にのしかかっている。
そんなこんなで途中経過はうんざりするほどに鬱陶しかったのだが、とりあえず右腕にすっぽりと臨也を抱いていられるこの体勢は、静雄にしてみれば中々に好ましいものだった。
唯一つだけ難点を挙げるとしたら、臨也が肩口に顔を伏せてしまっているため、表情が殆ど見えないことだろうか。
だが、余計なことを言って更にごねられるのも面倒だったから、とりあえずこれでよしとして、静雄は臨也の身体をゆっくりと撫でた。
今夜、随分と長い間一つになっていた身体を離してから、もう幾許(いくばく)かの時間が経っている。静雄の呼吸が落ち着いているのは勿論のこと、並よりはタフな臨也の身体の熱も、もうすっかり引いている。
ただ、身体の重なり合っている部分だけが、どちらのものとも知れない汗に薄く濡れていることだけが、その名残だった。
寄り添う細い身体の肩から腕を、手のひらで包み込むようにしながら形を確かめることを何度も繰り返す。
そもそもが体脂肪率が十パーセントもないような痩せぎすの身体であり、触れたところで脂肪のやわらかさはこれっぽちもない。
だが、すべすべとしたなめらかな素肌の感触と、その皮膚の直下にある筋肉の瑞々しくしなやかな弾力は、どれほど触れても飽きないほどに心地良かった。
肩から腕までの綺麗な骨格と筋肉の形を確かめ終えて、次は背へと手のひらを這わせる。
くっきりと浮き出ている肩甲骨の形や脊椎のこつこつとした感触、腰のくぼみ。そんなものを一つ一つ味わいながら、他よりは幾分やわらかな丸みに辿り着いて、そこを手のひらで包み込むように撫でると、途端に文句が返った。
「人の尻を撫でないでよ、変態」
「馬鹿言え。尻があったら撫でたい、穴があったら突っ込みたいのが男だろ」
「……信じられない今すぐ死ね、って言いたいくらい最低だけど、男として理解できないこともないから否定しないでいてあげるよ。でもさ、シズちゃん。その否定しない俺が男だってことは、君のうんと小さくて筋肉でできた脳味噌は覚えてるわけ?」
「誰の脳味噌が小さくて筋肉だって?」
「君の。質問に答えてない時点で、それは明らかだろ」
「手前は一遍殺してやらなきゃ分からねぇみてえだな」
「何を分かれって? 君が馬鹿だってことは世界の誰よりも知ってるから、これ以上教えてもらわなくても結構だよ。それよりも、質問の答えは?」
「……ンなもん、当たり前だろうが。馬鹿ノミ蟲」
嫌味ったらしく尋ねてくる臨也を軽く睨んで答える。
目の前の相手を女と間違えたり、女の代わりにしたりするほど、静雄はボケてもいないし、外道でもないつもりだ。特に後者に関してはは怪力とは全く関係なく、人間としての品性の問題である。
相手が誰であれ絶対にやってはいけないことがある、というのが静雄が両親から教わった人としての良識だった。
「こんなに肉ついてねぇ上に可愛げもねえ女がいるかよ」
「……最低。死ねよ」
「だから、俺は自分が抱いてんのが手前だってちゃんと分かってるし、手前だから抱いてんだっつーの」
「……本当かな」
「こんなことで嘘ついてどうすんだよ。ついでだから物分かりの悪いノミ蟲君のために、もう一つ言ってやるけどな。手前も男なんだし、もし手前が俺に突っ込みたいっつーんなら、それはそれで頭ごなしに拒否るつもりも俺はねぇよ」
「……え?」
静雄の言葉が余程意外だったのか、臨也が顔を上げて、静雄を見つめる。
その驚きもあらわに目を丸くした表情がやけに子供っぽく見えて、静雄の口元に小さく笑みが浮かんだ。
臨也がこんな風に素の表情を見せることは、まず滅多にないことである。
なんか可愛いんじゃねえの?、と自分でも正気を疑うようなことを思いつつ、見つめていると。
「──それ、本気で……」
内容が内容なだけに、臨也は少しだけ言葉の選択を躊躇ったようだったが、埒が明かないと思ったのだろう。迷いを振り切るように端的に問うてきた。
「シズちゃんは、俺に掘られてもいいわけ?」
「即答はし辛いけどな。けど、嫌だっつったら、自分が嫌なことを手前に押し付けてんのかってことになるだろ」
それはフェアではない、というのが静雄の考え方だった。
臨也は間違いなく男で、身体的機能もプライドも、静雄と同類のものを持ち合わせている。それを一方的に蹂躙するのは、二人の関係として決して正しい形ではないと思うのである。
とはいえ、一番最初の時はさすがにそこまで考慮する冷静さがなく、雄の本能で押し倒してしまったのだが、そのことについては後から一応、反省はしたのだ。
だから、二度目の行為を匂わせる時は、もし臨也が拒絶や嫌悪の色を浮かべたら、その場を強引に進めることはやめようと心に決めていた。
もっとも、始まったばかりの新しい関係を終わらせるつもりはこれっぽっちもなかったから、その時は二人で居るために、臨也が呑める条件を模索する気満々ではあったのだが。
「で、実際のとこはどうなんだ?」
静雄の胸の上に乗り上げるようにしてこちらを見つめている臨也の頬を、静雄は左手を上げてそっと撫でる。
それほどに静雄の言葉の衝撃が強かったのか、臨也はしばらく呆然と静雄を見つめていたが、やがて、ゆるりと考えるまなざしになった。
「俺が、シズちゃんを、ねえ……」
そう呟いている様子からすると、これまで微塵もそんなことを考えたことはなかったらしい。
わずかばかりとはいえ覚悟していた身としては少しばかり拍子抜けしながら、静雄は臨也の答えを待った。
「……どう考えても、君の括約筋は凶器だよね。無事でいられる気がしない」
「SEXの時には馬鹿力は発揮しねぇっつってんだろうが」
「それは分かんないよ。俺のテクがすご過ぎて、シズちゃんがよがり狂っちゃったら何がどうなるか。そのまま抜けなくなって救急搬送なんて俺は御免だよ。ましてや、圧迫され過ぎて細胞が壊死(えし)しちゃったらどうすんのさ」
「……ちょっと悲惨だな」
テク云々の寝言はさておき、同じ男として、手前のブツなんざもげてしまえばいいとはさすがに言えず、静雄は視線を天井へと向ける。
確かに、受身で理性を失うというのは未知の領域だから、何がどうなるかは見当もつかない。臨也の言葉を否定しきるだけの材料は、まだ静雄の中にはなかった。
「だろ。俺もこの歳で去勢したくはないからね。──いいよ、別に。これでシズちゃんがDVもどきの乱暴なSEXするんだったら、話はまた違ったけど」
「そうかよ」
「うん。シズちゃんが、俺が男だってことを忘れてないのは、よく分かったしね」
「そりゃどうも」
思っていた以上に、臨也にとっては静雄が勘違いしていないかどうかが重要であったらしい。
だが、プライドの塊のような男が同じ性をもつ相手に抱かれるのである。そういうものかもな、と思いながら、静雄は臨也の頬をもう一度撫で、それから細い腰に添えていた手を下へと滑らせた。
両手のひらに収まるほどの丸みを優しく撫で、その狭間に指先を滑らせると、臨也は艶かしく眉をひそめて小さな声を上げる。
「…っ、ん……」
最中の臨也の声はとびきり甘い。もっと聞きてぇな、と思った時、臨也が探るような眼で静雄を見つめた。
「またする気……?」
「嫌か?」
今夜はもう二度、抱いている。三度目は静雄には別にきつくはないが、受身の臨也には辛いかもしれない。
そう思い、問うと、臨也は静雄の目を見つめて少し考えるそぶりをした後、「いいよ」と呟いた。
「キツくねぇ?」
「今の会話の流れで、どうしてこうなるのかは全く理解できないけどね。君に気を遣われるほどやわじゃないよ。昨日、誰かさんのおかげでたっぷり眠らせてもらったし。平気」
「ふぅん」
何かというと虚勢を張る臨也だが、昨日に比べれば表情も身のこなしもずっと溌剌としている。
これは嘘ではなさそうだなと思いながら、静雄はゆっくりと手のひらを肌に沿わせ、身体の隅々にまで滑らせた。
先程まで散々に戯れていた記憶をまだ色濃く覚えているのだろう。目を伏せて静雄の手の動きが生み出すものを受け止めていた臨也が、声を殺そうと自分の指を噛むようになるまでには、さほどの時間はかからなかった。
こういう時、静雄は声を出せとは強要しない。言っても聞かないどころか、更に意固地になるのが折原臨也という人間だからだ。
だから、そのどうしようもない意地っ張りの殻を蕩かすように、ひたすらにやわらかな愛撫をゆっくりと送り続ける。
そうすると、頑なだった蕾が美しい花を咲かせ、やがて実が甘い蜜をたっぷり含んで熟すように、身体を一つに繋ぐ頃にはこちらが蕩けてしまうような甘い声ですすり泣き、彼だけが呼ぶ渾名を何度も何度も繰り返すようになるのだ。
シズちゃん、という渾名を静雄が良いと思ったことは、これまで一度もない。
だが、全身ですがりつかれ、世界には他に誰もいないような必死さでシズちゃんシズちゃんと呼ばれるのは、どうしようもなく心が疼き、同時にこの上なく心が満たされることだった。
「臨也……」
舌に馴染んだ名前を呼び、切なげに喘ぎ続けている唇に深く口接ければ、臨也は懸命に応えてくる。
一番最初の夜も、静雄はこのベッドの上でこうして臨也を抱いていた。
床の上で始められた行為だったが、途中で臨也が背中が痛いと文句をつけたため、途中で場所を移動したのである。その頃にはもう臨也は抵抗をやめていて、この小さなベッドの上で今と同じように静雄を受け入れてくれた。
最初のうち固く強張っていた場所が、時間をかけるうちに少しずつ和らいで静雄を包み込むように変化していった。その様子をひどくいじらしいと感じたことを、まだ昨日のことのように覚えている。
あれから幾度も行為を繰り返し、今、臨也は蕩けるようなやわらかさで静雄を抱き留めてくれている。
すすり泣きと共に唇から零れる静雄の渾名は一層甘く、ほっそりとした両腕も両脚も、命の限りとばかりに静雄にすがりついて離れない。
「臨也」
理屈も何もなく、ただ愛おしかった。
腕の中の存在は魂のひとかけらまで静雄のもので、静雄もまた、魂のひとかけらまでも臨也のものだった。
「臨也、臨也……」
臨也が静雄を呼ぶのと同じくらい、何度も何度もその名を呼んで。
この世の何よりも甘くかけがえのないその存在に心と魂の全てで溺れ、やがて、この上ない幸福感を抱きしめながら、お互いだけが存在するあたたかな深淵にゆらゆらと沈んでいった。
End.
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