06 おやすみ
ずっと自分を包み込んでいてくれた心地良い温もりが離れ、ベッドを抜け出してゆく。その気配で臨也は目が覚めた。
何しろシングルサイズのベッドである。痩身とはいえ平均身長を超える二人が収まろうと思ったら、絡まり合うように寄り添うしかなく、その片割れが離れてゆけば、どれほど眠りが深かろうと気付かずにいるのは無理な話だ。
とはいえ、眠ったのは明け方のことだったから、目覚めたといっても、ひどくぼんやりした夢うつつの状態で、目を閉じたまま臨也は静雄の気配を追いかける。
狭い部屋の向こう、洗面所で顔を洗い、シェーバーを使って、それから狭いキッチンに立って。
冷蔵庫を開け閉めして、まな板と包丁を使って、フライパンか何かをガスコンロにかけて。
炒め始めたのは野菜とハムだろうか。油は意外なことにオリーブオイルらしい。少なくともバターの香りはしないし、サラダオイルの匂いでもない。独特の香ばしさが部屋に満ちる。
そういえばおなかが空いたな、と臨也はやっと目を開け、数度まばたきして静雄の姿を視界に探した。
小さなアパートを「いいな」と思うのはこういう時だ。ベッドに転がったままでも、料理をしている静雄の背中が見える。
油の匂いが移るのが嫌なのだろう。まだ着替えてはおらず、何度も洗濯を重ねてくたびれた感じの白いTシャツ姿のまま、静雄はキッチンに立っていた。
見つめる臨也の視線の先で、長い菜箸が案外器用そうに動く。
静雄が実は結構料理が好きだと知ったのは、やはり二ヶ月前の朝のことだ。
今日と同じようにベッドに転がっていた臨也の目の前で、静雄は細かく刻んだ野菜がたっぷりのスープを作り、食べるときは温め直して卵を落とせ、と言いおいて出て行った。
そうして初めて口にした静雄の手料理は不思議なくらいに優しい味で、じんわりと心身に染み渡り、その時点で臨也は、自分が料理して静雄に食べさせるという選択肢を永久に放棄することに決めたのだ。
(だって俺、料理は好きでも得意でもないし)
一人暮らしが長いため、一応、人間として必要最小限の料理を作ることはできる。炊飯器だってオーブンだって電子レンジだって、十分に使いこなせる。
だが、それで美味いものが作れるか、というと話はまた別だった。
そもそも家庭料理に縁が薄い育ちのため、舌が家庭料理の味をろくに覚えておらず、レパートリーそのものが少ないのだ。
出汁巻き卵もひじきの煮物も風呂吹き大根も、家で作ったものなど食べたことがない。ゆえに、自分で作ろうと思いつくこともなく、外食か出来合いのもので済ませるのが常だった。
(フレンチトーストとかパンケーキとかは作るけど、あんなもの御飯じゃないし)
甘党の静雄は、それでも喜ぶかもしれない。が、それをおやつとしてならともかくも、料理と称して出すのは、臨也のプライドが許さない。
それに、こうして朝を共に過ごす時は、静雄が当たり前のようにキッチンに立って何かしら作ってくれるのである。わざわざ料理が不得意であることを申告する必要もないのが実情だった。
静雄の背中を見つめながら、そんな風につらつらと考えているうち、料理が出来上がったのだろう。コンロの火を止めた静雄が、換気扇をも止めて振り返る。
すると、当然のことながら、目が合った。
「なんだ、起きたのか」
起きるよそりゃ。同じ部屋の中で換気扇回されて気付かない奴がいると思う?、と心の中で言い返しながらも、声には出さない。
それなりに目は覚めてきているが、まだ完全にではなく、気を抜くと瞼が重く落ちかかってくるような状態だ。
できれば、このまま二度寝したかったから、敢えて意識を覚醒させるような真似はせず、ただぼんやりと近付いてくる静雄を見つめた。
「まだ眠そうだな」
そんな台詞と共に、髪をくしゃりと撫でられる。
静雄はこの髪の感触がよほど好きらしい。何かというと触れてきて指に絡めたり、梳いたりと飽きる様子もなく弄ぶのが常だ。
臨也としても別に嫌な感触ではないから、好き勝手させておくのもまた、常ではあるのだが。
そうして二度、三度と髪を撫でた後、静雄の手が離れてゆく。
その感覚を無意識のうちに追い、
「……もう仕事行くの?」
そう口走ってしまったことに気付いた瞬間、ああ、まだ自分は寝ぼけているのだと臨也は思った。
そんなことは聞くまでもない事実だ。なのに、敢えて尋ねるなんて、ただ甘えているかぐずっているかのようにしか聞こえない。
だが、幸いなことに静雄はそんな微妙な機微に関心を払う気はないらしく、ああ、とあっさりとうなずいた。
「野菜炒め作ってあるから、後で食うんならあっため直せよ。もの足りなかったら卵でも足せ。冷蔵庫ン中にあるからよ。あと、食パンもな。トーストくらいは食っとけ。バターもジャムも冷蔵庫にあるから、要るんなら使えよ」
細々と食事の注意をしてくる静雄に、母親かよ、と臨也は心の中で突っ込む。
想像するに、彼の母親は、きっと家族の食事や栄養状態にきめ細やかに心を配る女性なのだろう。きちんと三度の食事を取るのは当たり前のことだと息子の頭に叩き込めるくらい、まともな家庭を維持管理しているのに違いない。
自分の生まれ育った家庭とは大違いだ、と思いながらも臨也は曖昧にうなずいた。
朝からがっつり食べる習慣はないが、自分の分まで作られた静雄の野菜炒めを食べずに帰るという選択肢もない。
二度寝から起きたら、ゆっくり食べようと思いつつ、目の前で着替えて身支度を整えてゆく静雄を見つめる。
きちんとアイロンのかかったワイシャツに袖を通し、身ごろのボタンを留めた後、袖口のボタンを留める。サラリーマンなら誰でもしている仕草であるのに、やや目を伏せた横顔と、腕を持ち上げたその形がやたらと決まっていて、胸の奥が密かに疼き、臨也は小さく眉をしかめた。
(ホント、ずるい)
そう心の中で呟く臨也の想いに気付くこともなく、着替えの終わった静雄は、こちらにまなざしを向け、俺は朝飯食うからな、と告げてキッチンへと行ってしまう。
まったくもって情緒のないことこの上ない。
ないのに、どうしても目線を逸らせず、結局、臨也は、静雄が自分の分の朝食を食べ終わり、使った皿を洗ってから歯を磨き、サングラスをかけるところまで一部始終を見守ってしまった。
「じゃあな、俺は仕事行くから。お前は好きなだけ寝とけ」
「……うん」
とっとと出ていけ、と言われないのは、静雄なりの優しさなのだろう。昨夜、無茶をしたという自覚も多少はあるのかもしれない。
だが、こんな時だからといって仕事を休む静雄ではないし、臨也もまた、こんな時に静雄を引き止める言葉を持たない。
互いが互いである以上、仕方のないことだと思っていても、少しだけ割り切れない。そんな気持ちを臨也が持て余しているうちに、もう一度、臨也の髪をさらりと撫でて静雄は部屋を出ていってしまう。
スチール製のドアが金属音を立てて閉まると、途端、室内はしんとした静寂に包まれた。
その中で臨也はころんと寝がえりを打って、枕に半分顔を埋める。
まめに洗濯されているらしく、枕カバーもシーツも洗濯用洗剤の香りが仄かに残っていたが、それ以上に静雄の匂いが濃厚にする。
安物のシャンプーの甘めの香りとアメリカンスピリッツの独特のこくのある香り、それから、アンバーを思わせる彼の肌の匂い。
それらを感じているだけで、身体の奥に疼くような感覚が込み上げてくる。
───このベッドで昨夜はずっと静雄に抱かれていた。
静雄とのSEXは嫌いではない。
そう断言するのも男としてどうかとは思うが、世界でたった一人の相手に欲しがられる充足感はそうそう他で得られるものではないし、代替の効くものでもない。
行為そのものも、最初のうちは苦痛の方がやや勝っていたが、回数を重ねた今は心地よさばかりで、昨夜も魂まで蕩けそうな感覚を何度も味わった。これもまた、抱く立場では得られにくい感覚だ。
(それに昨日はシズちゃんの気持ちも、ちょっとだけ聞けたし……)
自覚のあるゲイでない限り、男が男に抱かれてもいい、などという言葉は軽々しく言えるものではない。臨也も静雄だからこそ許しているのであり、他の男に触れられるなど想像するだけでも鳥肌が立つ。
それくらいに、本来ノーマルの男が男に、というのは心理的障壁が強いのだ。
だが、昨夜の静雄は、それをいいと言ってくれた。
まさか、そこまでの考えと覚悟を静雄が持っているとは思いもしなかったため、正直、度肝を抜かれたが、それでも嬉しかったのは事実だ。
不慮の事故に近い始まりだったこの関係だが、それでも静雄なりに臨也との関係を正面から捉え、大切にしようとしてくれていることは、あのやり取りだけでも十分に理解できた。
(といっても、シズちゃんを抱きたいなんて思ったことないけどね)
あらゆる方面に想像力逞しい臨也だが、さすがに自分が池袋自動喧嘩人形を襲い、押し倒すことを妄想したことはない。
だが、だからといって静雄の発言の価値が減じるわけではなく、彼の真っ直ぐな想いが嬉しいことには変わりなかった。
(あー、でも本当にだるい……)
濃厚なSEXを一晩に三回という回数もだが、未明まで抱き合っていたことが余計にダメージを大きくしている。失神寸前の状態で眠りに落ちたのは、三時だったか四時だったか。
勿論、そうなると分かっていた上で静雄の要求に応じたのだから、臨也自身も十分に共犯ではあるだろう。だが別段、しなければ良かったと後悔しているわけではないのだから、誰を責める話にもなり得ない。
とりあえず寝よう、寝て体力を回復しよう、と臨也は小さく身動きして寝る体勢を整える。
静雄愛用のガーゼ毛布はふんわりとやわらかく全身を包んでくれて、暑くも寒くもない。
(おやすみ、シズちゃん)
どうせなら夢の中でも、髪を撫でて、笑ってくれたらいいのに。
夢うつつに心の中でそう呟いて、たった一人の存在の匂いに包まれたまま、臨也はゆらゆらと二度目の眠りに落ちていった。
End.
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