04 温もり
カツン、と硬質な音を立てて安普請のアパートの階段を昇る。
そして、並ぶドアの一つの前で臨也は足を止めた。
通路に面した窓は暗く、中に人の気配はない。
ここに来る途中で掲示板の情報はチェックしていたから分かっていたことだが、部屋の主がいないことにほっとするような困るような、何とも言えない気分で臨也はコートのポケットから銀色の鍵を取り出した。
平べったい金属に大小幾つもの半球が削り込まれた鍵は、極々平均的な住宅の鍵だ。
臨也がこれを手に入れたのは、二ヶ月前。例の夜の翌朝のことだった。
それなりに朝の早い静雄が、前夜の衝撃が精神的に強過ぎてまだ起き上がる気になれなかった臨也に、鍵はテーブルに置いておくからな、と告げて仕事に出て行った。その時以来、この鍵はずっと臨也のコートのポケットの中にある。
否、正確には、GW明けに春用のコートから初夏用に変えたから、鍵もコートをクリーニングに出す際、ポケットからポケットに引っ越しした、というのが正しい。
ともかくも、この二ヶ月、ポケットに手を突っ込めば、小さな金属に指先が触れる状況であったのは確かで、今はどんな風にくぼみが刻まれているのかも指先は覚えてしまっている。
その鍵をじっと見つめた後、溜息と共に臨也はそれを鍵穴に差し込んだ。
「ホント、分かりにくいんだよ。シズちゃんは」
これをやる、と合鍵を渡されたのなら、おそらく臨也は自分のキーケースにそれを付けただろう。
そうやって渡された時点で、間違いなく鍵は自分のものになったわけだから、そこには迷う余地はない。
だが、静雄が告げたのは、鍵を置いておく、の一言だけだ。それはつまり、鍵をかけて出て行けということなのだろうと言葉足らずの意図を汲んで鍵をかけたら、アパートのポストがすかすかの構造である以上、臨也はこれを持ち帰らなければならなかった。
そして、そのまま返すタイミングがなく、静雄も返せと求めないために、鍵はずっとポケットに入れっぱなしになっている。つまりは、それだけのことなのである。
静雄の中ではどうなっているのか知らないが、少なくとも臨也の中では、この鍵は『ポケットに入れっぱなし』より上のものにはなっていない。
それを超えるものにはできないのだ。少なくとも、まだ。
「俺は、きちんとあげたのに」
合鍵を渡す気があるのなら、もっとそれらしい言動をしろと、敢えてこちらは分かりやすく鍵を差し出してやったのに、その真心(まごころ)は全く静雄には通じなかったらしい。
というよりも、鍵をどうしたとも尋ねて来ないということは、静雄にとっては既に合鍵は、『きちんと渡してやった』に分類されているのだろう。全く腹の立つ話だった。
「俺のもの、って主張するなら、もっと大事にしろっつーの」
きちんと手順を踏んでくれたなら、こちらもある程度はセオリー通りの行動がしやすくなるのに、静雄がそうしてくれないものだから、意味のない意地を張り続ける羽目になってしまう。
そんな逆恨みとも八つ当たりともつかない思いをぶつけつつ、鍵を回して錠を解き、室内に入る。
靴を脱ぎながら玄関の照明をつけ、そのまま明かりを付けながら狭いアパートを奥へと進んで、1DKの六畳間へと足を踏み入れた。
「……ちっとも変わってないな」
臨也がここへ来るのは、あの日以来、二ヶ月ぶりのことだった。
ここであった事が事なだけに、何となく来辛かったということもあるし、それ以上に静雄が新宿に足繁くやってくるため、ここまで来る必要がなかったということもある。
だが、二ヶ月ぶりに足を踏み入れた狭い部屋は、何も変わってはいなかった。
シングルベッドと片隅に置かれた携帯の充電器とドライヤー。小さな方形のこたつテーブルとその上の灰皿。何冊か積まれた芸能雑誌と、ドラマのタイトルが書かれたDVD。
目につくものはそれだけしかない殺風景な部屋だった。
いつもこの部屋に帰ってくるのか、と以前にも思ったことのあることを思いながら、臨也はフローリングに置いてあったクッションを引き寄せて腰を下ろす。
そして、シングルベッドを背凭れ代わりにして、ヤニで少し色づいた天井を見上げた。
こうして何もない部屋の中にいると、あの日の静雄の気持ちが少しだけ分かるような気がする。
あの日は春先とはいえ、結構冷え込んだために、臨也は遠慮なくエアコンとコタツをつけて静雄の帰宅を待っていた。
意図としては、単に静雄に嫌な顔をさせたかった、それだけのことだった。
静雄が帰宅してキレそうになったら、即座にトンズラするつもりで、その瞬間をわくわくと待っていた。
そして、一時間程も過ぎた頃だろうか。部屋はすっかり暖まり、居心地良くなって、もういっそベッドで寝てやろうかと思っていた時に、静雄が帰ってきて。
照明が付き、玄関まで暖かいとなれば、すぐにこちらの正体は知れただろう。額に青筋を立てて、この部屋の入口に現れた静雄に、「おかえり」ととびきりの笑顔で笑って見せた。
その途端、キレかけていたはずの静雄は、ひどく呆然と臨也を見つめたのだ。そして直後、例の暴挙に出たのである。
「本当に嫌がらせのつもりだったんだけど……」
おそらくあの瞬間、静雄は臨也に何かを見てしまったのだろう。それまで決して気付かなかった何かを。
そして、どこがどう回路が繋がったのか、臨也を自分のものだと確信し、自分も臨也のものだと確信した。
その結果だけ並べると、丸っきり頭がどうかしているとしか思えないが、寒い夜、暗く冷たいはずの部屋に灯されていた温かな光、おかえりという言葉、そんなキーワードが魔法を生み出したのだろうことは、今になってみれば何となく推測が付く。
「俺は一人の部屋に帰るのは慣れてるけど、シズちゃんは……」
とかく家族とは疎遠気味で、一人暮らし歴の長い臨也は、誰もいない部屋に帰ることは何とも感じない。
だが静雄は、帰宅すれば「おかえり」と言われるのが当たり前の家で育ったのだ。高校卒業以来、何年も一人暮らしをしていても、「おかえり」という言葉には絶大な威力を感じるのだろう。
「ホント、馬鹿だよね」
暖房機の作り出した人工的な暖かさと、嫌がらせのつもりだった「おかえり」の言葉。
そんなもので魔法にかかってしまうなんて、本当に単純にも程がある。
「それならそれで、魔法が解けないようにしてやるけどさ……」
呪いを解かない意地悪な魔法使いになりきるのは、別に難しいことではない。心のままに振舞えば、自然にそうなってしまうのが折原臨也という人間だ。
そして、その魔法使いがここでこんな風に待っていれば、きっと静雄は魔法にかかり続けていてくれる。
そう、この魔法の呪文を唱えれば、魔法使いがどんなに捻くれて、意地悪で、根性が捻じ曲がっていたとしても。
きっと何度でも、魔法にかかってくれるのだ。
「おかえり、シズちゃん」
照明が煌々とついた部屋の中、少しだけ意地悪げな笑みで迎えた臨也を見た瞬間、静雄は、つまりこれは食ってもいいってことだな、と判じた。
全てが始まったこの部屋で、あの夜と同じように待っていたのだ。
しかも、昨日、わざわざ新宿まで会いに行ってやったというのにである。
これはもう、頭からバリバリと食ってやらねば、むしろノミ蟲に失礼というものだろう、とほぼ三秒間のうちに結論に辿り着いた。
「おう。ただいま」
答える口元に、自然と笑みが浮かぶ。人間、予想外のプレゼントがもらえれば嬉しくなるものだ。
しかも、それが一番の大好物であれば殊更である。
感情のままに手を伸ばし、さらさらと流れる髪に指を絡ませながらキスをすれば、臨也は少しだけ考えるようなそぶりをしながらも、目を閉じてキスを受け入れた。
「──帰宅早々、盛るわけ? 本当にケダモノだね」
「そのケダモノを待ってたのは誰だよ」
「まあ、待ち伏せてたのは否定しないけど。俺がお帰りって言った時の、シズちゃんの間抜け顔をもう一度見たくってさ」
「へえ。じゃあ好きなだけ見ろよ」
ぐい、と顔を突き出してやれば、臨也は眉をしかめて頭を後ろに下げようとする。が、静雄の手が後頭部を食い止めた。
「おら、避けてんじゃねぇよ」
「避けるよ、そんな顔を突きつけられたら」
「見たいって言ったの、手前だろ」
「焦点距離ってもんがあるの。俺の視力は1.2だよ? 最低四十センチは離れてよ」
「それじゃあキスできねぇだろうが」
「しなくていい」
「嘘つけ」
ぺらぺらと嘘ばかりを吐く唇を、もう一度キスで塞ぐ。
キスなどしなくていいと言った舌の根も乾かぬうちであるのに、臨也は静雄を突き飛ばしも舌に噛み付くこともせず、しかし、だからといって積極的に舌を絡ませるのも躊躇われるのか、ただ成されるがままに静雄が甘い口腔を蹂躙するのを許した。
「──っ、ふ…、ぁ……」
貪るような長いキスに臨也が感じ入ったような吐息を零すのを甘く聞きながら、クソッ、と静雄は毒付く。
だが、仕方がないと臨也の身体から手を離して立ち上がった。
「シズちゃん?」
途端、問いかけの意味を込めて臨也が静雄を呼ぶ。見上げたその瞳に疑問と、それから微かな不安を見て取り、静雄は、そうではないと臨也の頭をくしゃりと一つ撫でた。
「シャワー浴びてくる。今日、暑かっただろ。汗でベタベタでよ。自分でも気色悪いんだ」
「──あ、そう」
だったらさっさと風呂行けば、と肩をすくめるようにして冷たく告げる臨也は、既にいつもの顔に戻っている。
憎たらしい表情だったが、ここで突き放すつもりなのかと、咎めるよりも不安の濃い表情をされるよりははるかに良かった。
「五分で戻るから、逃げるなよ」
「そう言われると、何が何でも逃げなきゃって気になるよ」
「逃げてみろ、地の果てまででも追いかけてって、その場で犯してやるからな」
「どんだけ変態だよ」
呆れ果てた口調で言った臨也だが、そんな真似しないくせに、と小さく呟いたのを常人より遥かに鋭い聴覚を持つ静雄は明瞭に聞き取っていた。
その言葉に、当たり前だ、しねぇよ、と心の中で返しながら、静雄は狭い脱衣所で手早く服を脱ぎ捨てる。
地の果てまで追いかけるのは間違いないが、その場で襲うような真似はしない。ここへ連れ帰ってきてから、じっくりと心身に言い聞かせてやるのだ。何もかも、魂のひとかけらまで静雄のものなのだと臨也が納得するまで。
(何のかんの言いながら、分かってんじゃねーか、あいつ)
理解されている。ただそれだけのことにひどく満足するのを感じながら、静雄は一日の汗を熱いシャワーで流し、バスタオルでざっと水滴を拭った後、トランクスだけを穿いて部屋の方に戻った。
「──本当に五分ってどういうこと? まともに洗ったの?」
「汗流すだけなら十分だろ。後で、どうせまた入るしよ」
先程と同じ姿勢で携帯電話をいじっていた臨也の隣り、だが、フローリングにではなくベッドの端に腰を下ろし、臨也を見下ろす。
この角度からだと、頭の天辺にある左巻きのつむじが良く見えた。
こうしてみる限り、つむじ曲がりじゃねえんだよな、へそ曲がりでもねぇし、つまり曲がってんのは根性か、根性曲がりなのか、と下らないことを思いながら、さらさらと流れる黒髪に指を差し入れる。
こちらを斜めの角度で見上げた臨也は、小さく眉をしかめたが、静雄の手を振り払いはしなかった。
「……シズちゃんって俺の髪、触るの好きだよね」
「悪ぃかよ」
「悪いとは言ってないけど。それより自分の髪を乾かしたら?」
そう言い、臨也は静雄の手を逃れて、すいと立ち上がる。どうするのかと見ていたら、部屋の隅に置いてあったドライヤーを手に戻ってきて、床を指差した。
「下に降りて。場所交代」
その言葉に、どうやら乾かしてくれるつもりがあるらしい、と気付いて静雄は心底驚く。が、臨也の機嫌を損ねては意味がないため、表情の動きは最低限にとどめて大人しくフローリングに降りた。
「どういう風の吹き回しだよ」
驚きを憎まれ口に変換すれば、臨也にとっては受け入れやすかったのだろう。「濡れた髪が肌に触るのって気持ち悪いんだよ」と気のなさそうな返事が返ってくる。
「あと昨日、買出しに付き合ってもらったからね。その借りを返したいってとこかな」
「ふぅん」
それならプリンを買ってくれただろ、とは突っ込まない。機嫌を損ねては以下同文だからだ。
だが、それならば何故なのだろうと、ドライヤーの熱い風と、髪を梳く臨也の指を感じながら目を閉じて静雄は考える。
(原因は昨日、だよな。タイミングからいって)
もしかしなくとも、昨日の逢瀬は臨也にとっては不満の残るものだったのだろうか。
疲れていたとはいえ、静雄に気遣われた形で共にいた時間の半分を眠って過ごしてしまった。常に優位に立ちたがる意地っ張りには、それが悔しかったということは十分にありえる。
(借りが返したい、っつーのは本音かな。単に会いたくて、って会いに来るほど可愛い真似する奴じゃねぇだろうし)
根性曲がりで意地っ張りの臨也の心理は、いつまで経っても静雄には、あまり正確には読めない。気分や機嫌なら読めるが、根底のところで何を思っているのかということは常に謎だった。
だが、こうして会いにきてドライヤーを使ってくれるということは、二人で過ごす時間が嫌いではないのだろうというくらいのことは推測できる。
(ちっとは、触りたいとか思っててくれりゃ嬉しいんだけどな)
このひねくれた相手にどこまで期待しても良いものやらと思いながら、やわらかく髪を梳く臨也の指の感触を追い続ける。
細い指先に髪を梳かれ、地肌を撫でられるのは、性的なものとは全く違う感覚で、この上なく気持ちよかった。
「はい、終わり」
程なく臨也はドライヤーのスイッチを切り、手櫛で乱れた静雄の髪を軽く整える。
そのいつになく優しい指先の感触に、一体どんな顔をしているのかと思い、振り返ってみれば。
「何?」
いつもの表情を装ったのだろうが、セピアの瞳には隠し切れていないやわらかな色が見え隠れしており、それを認めた途端、静雄は言葉にならない感情が湧き上がるのを感じた。
臨也、と吐息だけで名前を呼んで手を差し伸べ、首筋を引き寄せる。その動きに逆らわず、臨也は上体を屈めるようにして静雄のキスを受け止めた。
体重を支えるためだろう、剥き出しの左肩に乗せられた手のひらの重みと温もりに、更に胸の奥がぎゅっと詰まる。
ゆっくりと舌を絡ませ合い、そこから生まれる甘さを堪能してから唇を離せば、ほのかに目元を染めた臨也の何とも言えない色合いの瞳が静雄を見つめた。
「──自分はシャワーを浴びておいて、俺にはその時間はくれないわけ?」
いつもよりふっくらと赤みを増して濡れた唇が動き、言葉を形作るのがひどく艶(なまめ)かしい。
このまま貪り食いたい衝動を腹の底に押しとどめて、静雄は形のいい耳から首筋までのラインを指先でするりと撫でた。
「そこまでがっつきゃしねぇよ。行ってこい」
そう告げると、直ぐに立ち上がるかと思った臨也は静雄を見つめたまま、瞳だけで微かに笑む。
その色がひどく艶っぽく、どこか意地が悪いと思った時。
「要らない。ここに来る前にシャワーは浴びてきたから」
ひそめた声で甘く囁き、臨也は静雄の首筋にするりと腕を回す。
そして、もう一度臨也から重ねられた唇に、静雄はもう何の遠慮もすることなく、差し出された臨也の全てを心ゆくまで貪った。
End.
NEXT >>
<< PREV
<< BACK