03 雨上がり

「じゃあな」
「──うん」
 天気予報通り、夜になってから雨は上がった。
 玄関を出て行く静雄を、臨也は玄関とリビングの空間を仕切る壁に軽く背を預け、両腕を身体の前で組んだまま見送る。
 静雄との関係がどうあれ、これ以上の真似──たとえばマンション玄関まで見送りするとか──をするつもりはなかったし、これで十分だとも思っている。
 にもかかわらず、ドアが閉まり、あっという間に足音が聞こえなくなった途端、何とも言えない空虚感が湧き上がってきて、思わず臨也はひどく力のない溜息をついていた。
「───…」
 急に静けさを増したように感じられる室内をゆっくりとした足取りでリビングに戻り、応接セットの傍らに立ってローテーブルの上に置かれたままの雑誌を見やる。
 格闘技の月刊誌であるそれは、勿論、静雄が持ち込んだものだ。おそらくは、臨也が眠っていることを見越して、ここに来る前にコンビニかどこかで仕入れてきたのだろう。
 それをバッグも持っていないくせに剥き出しのまま持ち帰ろうとしたものだから、つい、もう捨てるだけなら置いてゆけば、と差し出口をしてしまったのである。
 すると、静雄は素直に、そりゃ助かる、もう全部読んだから、と置いていったのだ。
「馬鹿っぽい雑誌……ていうか、化け物が格闘技なんかに興味持ってどうすんだよ」
 屈み込んで手を伸ばし、ぺらぺらと雑誌をめくってみる。
 何のことはない、試合の特集から始まり、有名選手のインタビューや期待の新人の取材、格闘技を教える道場やジム、或いは専門店の広告が至る所に入っている、お約束の構成だ。
 興味のない臨也にしてみれば、何が面白いのか全くもって理解不能のスポーツ雑誌だった。
「こんなの読むなんて、シズちゃんも物好きだよね」
 人間を超越した肉体を持つ静雄には、格闘技など何の意味もなさない。
 だが、努力無しに超人となってしまった彼は、超人足るべく努力し続ける人間に対し、この上ない尊敬と賞賛を感じるらしいと知ったのは、いつ頃だったか。
 お互いにまだ、来神高校の制服を着ていた頃ではないか、と思い至って、臨也はまた一つ、大きな溜息をついた。
「せっかくの休日なのに、何で俺はシズちゃんのことしか考えてないんだよ……」
 静雄が押しかけてくるから悪い、と責任をなすりつけようとするのだが、愚かしいほどベクトルのはっきりした想いは、どうやっても心の一番底から湧き上がってくる。
 もはや末期なのだろうか、と思い、自分で自分が嫌になって、臨也はソファーにいささか乱暴に腰を下ろした。
 そして、改めて室内に目をやれば、慣れた空間が何故かやたらと広く見えて、また嫌になった。

 静雄は痩身ではあるが背は日本人離れして高く、金に染めた髪と相まってその存在感といったら相当なものだ。
 今日は休みの日であっただけに、いつものサングラスとバーテン服ではなく普段着だったから多少マシだったが、それでも鬱陶しいほどの存在感は簡単に薄れるものではない。
「たった半日居ただけで、居ないと違和感とかさ……」
 呟き、溜息をつけば、余計に憂鬱さが増した気がして、臨也はソファーの上に下ろしていた足を引き上げ、膝を抱えるようにして丸くなる。
 途端、静雄が見たら、猫が拗ねたみてぇ、と笑うだろうなと思いついてしまって、何だかもう死にたくなった。

 静雄との関係の変化は余りにも突然だったが、今の関係そのものについては、実は殆ど文句が無かったりするのは、静雄には一生言えない秘密だ。
 その過程については色々言ってやりたいこともあるものの、本当に嫌か、と静雄以外の誰かに問われたら多分、一瞬答えに詰まるだろうという自覚はある。
 問うた相手が静雄であれば、それはもう遠慮なく「嫌に決まってる」と答えるのだが。
 静雄の帰宅を待ち伏せていたあの日、突然キスをされて押し倒されたのには心底驚いたし、反射的に抵抗もしたが、本当に嫌だったのは、いきなり襲い掛かってきた静雄の意図が見えなかったことだけだった。
 まさかという驚愕と、レイプされかけているという本能的な恐怖に駆られて必死に抵抗したが、静雄相手にそんなものが通用するはずも無い。
 それでも、どうにかして逃れようともがいていた臨也の動きを止めたのは、静雄の一言だった。

『手前は俺のもんだ。そんで、俺も手前のもんだ』

 自分は自分であり、誰のものでもないと抗った臨也に、違うと断定した静雄の答え。
 真っ直ぐにこちらの目を見下ろして、ひどく真剣に告げられたその言葉は、臨也から全ての抵抗を奪った。
 勿論、臨也がそれをその場で信じたのかと言えば、それは違う。その時は、まだ半信半疑ですらなかった。
 ただ、もしかしたら本当に静雄が自分のものになるかもしれない、一度そう思ってしまったら、もう駄目だった。
 そして、その後は不治の中二病らしい表現をするのなら、そのまま臨也は、古(いにしえ)の荒ぶる神に捧げられた生け贄のように身を嬲られ、暴(あば)かれ、奪われた。
 だが、同時に臨也も、静雄のことを同じくらい奪ったのだと思う。或いは、与えられたと表現する方が正しいかもしれない。
 ともかくも行為の間中、静雄は何一つ出し惜しみはしなかったし、遠慮もしなかった。己の全てを与え、注ぎ、代わりに臨也の全てを味わい尽くし、攫っていった。
 それが二人の関係が変わった一番最初の夜の出来事だ。

「本当に無茶苦茶だったよね……」
 今から思い出しても、碌でもない夜だったと思う。
 そもそもからして、準備も心構えも何もなく男に襲われ、それを受け入れることからして色々と有り得ない。
 だが、無かったことにだけは絶対にできなかったし、したくもなかった。
 だから数日後、次に静雄と顔を合わせた時も、臨也は知らぬ顔はしなかった。
 身体は大丈夫かと問われて、平気だと答えもしたし、静雄がぽつりぽつりと話すのにも付き合ったし、話が途切れたところでキスを求められても拒絶しなかった。
 わざわざ新宿まで押しかけてきたくせに、力余って玄関ドアを壊した以外は暴れようともしない。青筋を立てずに話し、穏やかな声で臨也と名前を呼ぶ。
 それだけでももう十分に、彼なりの発想と行動で臨也のものであろうとしていることが伝わってきたから、臨也もそれを受け入れることにしたのだ。
 シズちゃんが努力するんなら、俺もそれに付き合って多少の妥協はしてあげてもいい。その時の心理を言葉にするのなら、そんなところだろうか。
(だって、俺はずっと──…)
 独りきりではあっても言葉には出せず、臨也は抱えた膝の上に顔を伏せる。

 それは、決して認めたくなかった感情だった。
 初対面の時点で、静雄を天敵だと直感したのは決して間違いではない。
 あの日以来、とにかく静雄が大嫌いで本気で死ねばいいと思っていたし、事実、そうなるように行動し続けた。
 出会いの瞬間に臨也の内に生まれた静雄に対する感情は、相手を無視できる類の『嫌い』ではなかったから、その感情に忠実に、静雄に対し大小の嫌がらせをし続けた。
 だが、そんな臨也の行動は傍目にはどう映っていたのか。
 新羅に、本当に嫌いなら構うのをやめたらいいのに、と幾度か言われたのが、おそらくその答えだったのだろう。
 その度に臨也は、そんな真似ができるわけがない、あの化け物はこの手で殺す、万が一殺せないのなら一生付きまとって不幸にしてやると本気で答えていたのだが、その度に呆れた顔をしていた新羅の心理も、今ならば良く分かる。
 けれど、その時はそれで精一杯だったのだ。
 こちらのことを嫌い抜いている天敵のことを『欲しい』と思っているだなんて、どうして認められるだろう。
 そのどうしようもない事実を認めざるを得なくなったのは、ここ数年のことだ。
 年月が経ち、ずっと孤独で家族以外には天敵の臨也しかいなかったような静雄の周りに、少しずつ人が集まり始めた。
 そのことが我慢ならないほどに苛立たしく、悪意を込めてあれやこれやと策を講じてみたものの、何もかもが裏目に出て、更に静雄がただ凶暴なだけの存在ではないことが知れ渡ってゆく。
 気付けば、互いに独りであったはずなのに、臨也だけが独りのまま取り残されつつある現実にどうしようもないほどの焦燥感を覚えたのは、今から何年前のことだったか。
 ───俺が何をしても、シズちゃんは俺のものにならない。
 北風と太陽のようだと思った。
 静雄の周囲の人々が彼を温かく理解しようとしている中、臨也一人が非道な嫌がらせを延々と繰り返している。
 当然ながら、静雄は温かな人々に心を開き、臨也のことは更に嫌うようになる。それは何年もかけて熟成された壊しようのない悪循環で、臨也自身でももうどうすることもできなかった。
 そんな手も足も出ない状態で、八つ当たりを込めて更なる嫌がらせに日々を費やし、何年も悶々と過ごしてきたというのに。

「今になって、俺は手前のもんだ、だなんてさ……」
 自分のものになってもいいというのならば、もっと何年も前にそう告げてしかるべきだろう。それを今更、世界の真理であるかのように言ってくるところが、本当に腹立たしい。
「どうせ、最近になって気付いたとかなんだろうけど……」
 人間よりも動物に近いところのある静雄のことだから、おそらくあの瞬間に何かが閃いたのだろう。何年も悶々と悩んだという気配は全くなかったから間違いない。
 というより、そんな風に静雄が悩んでいたのなら、臨也はきっとその気配を察することができていたはずだ。
 そうしたら、こんなに何年も苦しまずに済んだのに、と思うと尚更に恨めしい。
「ホント、シズちゃんなんて大嫌い」
 呟いて、臨也はソファーの上で膝を抱えたまま、今は他に誰もいない室内にじっと目を向ける。
 快適さと実用性、更には仕事上のはったりも含めて選びに選んだ物件だ。床面積は無駄なくらいに広いし、インテリアも洗練されている。
 けれど、何か足りない、という気持ちが抑え切れない。
 先程までは足りていたが何かが、今はここにない。
 そう思うと、どうしようもなく胸の奥が軋んだ。

「……二週間ぶり、だったんだよな」
 静雄は仕事柄、不定休気味で、臨也はそれに輪をかけた自由業だ。
 ある程度示し合わせなければ休みは合わないため、静雄は休みが決まると必ず連絡をしてくる。
 だが、先週の静雄の休みは臨也の方が都合が付かず、結局会えなかった。
 だから、今日は臨也が寝ているにもかかわらず、静雄は電話をした後、ここまで押しかけてきたのだろう。
 臨也が起きてきたら、顔を見て一緒に過ごして、そして少しばかりはいやらしいこともしよう。そんな腹だったのに違いない。
 けれど。
「押しかけてきたのなら、起こしてくれれば良かったのに……」
 静雄に合鍵を渡したのは、関係が多少変わったところで素直にうちに来いとは言えない自分の性格を、嫌というほどに分かっていたからだ。
 来たければ来ればいい。そういう意思表示だったのだから、静雄の使い方は決して間違っていない。
 だが、その先がいただけない。
「人が起きるのを四時間も待ってるなんて……」
 それだけの時間があれば、さほど活字を読むのが早くない静雄でも雑誌の一冊くらい読了してしまえるだろう。
 だが、足元まで来ておきながら、何故、寝室まで押し入ってこないのか。
 寝起きは良くない方だし、疲れ果てていたから、熟睡しているところを強引に起こされれば、ものすごく不機嫌になって、いつもよりも更にひどい悪態をついたことは間違いない。
 けれど、静雄にしてみれば、そんなことは今更のはずである。
 どれほどこちらが怒り、拗ねようと、強引に抱き締めてキスをしてくれれば、多分、それで全て許した。許せたはずだ。
「なのに、一回したらまた俺を放っておくしさ……」

 ようやく起きた臨也に早速飛びかかってきたものの、時間をかけた行為の果てに二人して迎えた絶頂の気持ち良さに、臨也は意識を飛ばしかけた。そうしたら、静雄はそのまま臨也の髪を撫でて、「寝ちまっていいぞ」と言ったのだ。
 その言葉に安心して意識を手放してしまったため、夢うつつの記憶ではあるが、おそらく幻聴ではない。
 そして最終的に、寝顔に悪戯心を起こしたらしい静雄に起こされはしたものの、時計を確認すれば、また二時間近くも寝てしまっていて愕然となった。
 静雄がここに来たのが午前の十一時で、帰っていったのが午後の十一時過ぎである。そのうちのほぼ半分を臨也は眠って過ごした計算となるのだ。
 確かに睡眠不足が積み重なって、今朝ベッドに入るまで丸一日頭痛が続いていたほどだったし、体もだるかったのは事実である。
 だが、もう少し時間の使い方があっただろうと思わずにはいられない。

「シズちゃんもシズちゃんだよ。自分勝手で横暴なくせに、妙なとこで甘いなんて馬鹿だろ」
 こちらのコンディションの悪さは、長年喧嘩をし続けていた静雄には丸分かりだったのだろう。
 口も態度もいつものように悪かったが、いつになく優しかったと思う。
 夕方に臨也が目覚めた後は、キスだけは何度も仕掛けてきたが、それよりも飯を食えとばかりに臨也にシャワーと着替えを強要し、食料品の買い出しに出かけて、一緒に料理を何品か作って食べた。
 料理は野菜のミルクスープだったり、フライパンで簡単に作ったキノコたっぷりのチキンローストだったり、どれもこれも滋養に満ちていて美味しく、満足したのだが、それで臨也が元気を取り戻した後も、静雄はもう何もしなかった。
 ただ、我が家のようにソファーで寛ぎ、臨也の淹れたカフェオレを美味いと言い、池袋のケーキショップで見かけた新作が気になる、ということを取りとめもなく話し。
 臨也を引き寄せて膝の上に載せ、前戯には至らない程度の軽いキスや指先での愛撫を飽きもせずに繰り返した。
 勿論、言葉と同様、とりとめのない淡い愛撫に臨也は何度も文句を言ったが、拒絶はしなかった。
 その意味を、あの男はどこまで理解しているのか。

「もう一回くらい、良かったのに」

 本当に丸二週間ぶりだったのだ。
 せっかく会えたのだから、もっと見ていたかったし、触れ合いたかったし、直ぐに口喧嘩に発展してしまうような会話も沢山したかった。
 互いの身体の中で一番弱くてやわらかい部分で繋がり合い、静雄が自分のものであること、自分が彼のものであることをもっと感じたかった。
 疲れていても、眠たくても、求められたら必ず応えたのに、たった一回限りで満足して帰っていった静雄はきっと馬鹿なのだろう。
 それも極めつけの鈍感だ、と臨也は心の中で断定する。
 どうしてくれようか、としばし考えて。
「シズちゃんの部屋に押し掛けてやろうかな……」
 何の約束もなかったのに押しかけてきて、四時間も待っていたような馬鹿犬に同じことをし返してやっても、文句を言われる筋合いはないだろう。
 勿論、臨也には完璧に近い情報網があるから、静雄の仕事が終わるのを四時間も待つ気はないが、それでも一時間や二時間なら帰宅を待っていてやってもいい、と思う。
 そうすれば、たとえ翌日が静雄の休みでなくとも、朝までは独占できる。携帯電話の電源を切らせるかマナーモードにさせておけば、名実ともに自分のものだけの自動喧嘩人形の出来上がりだ。
「明日も休みにして、しっかり寝て起きたらジムに行って、その後マッサージに行けば……」
 コンディションは完全に回復するだろう。もともと体力は並以上にある。
 そして、静雄のアパートに押しかける前に昼寝でもしておけば、朝まで寝かさないくらいのことはできるはずだ。
 静雄は徹夜で仕事に行く羽目になるかもしれないが、知ったことではない。第一、あのタフさなのだから一日二日の徹夜くらいではびくともしないに違いない。
「そうと決まったら、今日はもう寝ようかな」
 まだ日付が変わる前だが、疲れはまだ完全には抜けていないために、こうしてぼんやりしていると段々眠気が差してくる。
 明日のことを考えても、今夜はこれに逆らわない方が良さそうだった。
 これ以上本格的に眠くなる前に、と臨也は立ち上がって壁際の照明のスイッチに歩み寄る。
 ダウンライトを最も弱いレベルに設定して、淡い明るさの中を二階へと続く階段を上がり、そこでふと足を止めて。
 今日一日、静雄が居たソファーを少しの間見つめてから、まだほのかに煙草の残り香がするだろう寝室へとゆっくりと向かった。

End.

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