02 優しい雨

 指を伸ばして触れると、癖のない髪はさらさらと流れる。
 それを静雄はどこか不思議な心持ちで見つめた。
 そもそもが知り合ってから十年近くになろうというのに、少し前までは髪に触れたことすらなかったのだ。
 肌はといえば、拳で触れる、つまりは殴るというような接触はあったものの、触れるというやわらかな表現であらわされるべき接触は一度もなかった。
 それがあろうことか、今はこうして触れても撥ね退けられない。ナイフも向けられない。
 何とも不思議なことだと思わずにはいられなかった。
(あー、でも起きてたら違うかもな)
 今、臨也が静雄に大人しく触れられているのは眠っているからだ。すうすうと静かな寝息を立てて、心地よさそうに目を閉じている。
 この目が開いたら、どうなるかはまだ分からない、というのが正直なところだった。
 不機嫌に睨むかもしれないし、静雄の手を払いのけるかもしれない。それとも案外、不本意そうな顔をしながらも大人しくしているかもしれない。
 今はまだ、どの可能性も等分にある。そういう時期だった。


 静雄と臨也の関係が劇的に変わったのは、ほんの二ヶ月ほど前のことだ。
 高校入学式の出会いからひたすらに嫌い合い、殺し合い続けてきたものの、何かそれだけでは物足りなくなった、というのが理由だっただろうか。
 一つのきっかけとしては、心底嫌い合っていたとはいえ、二人の関係は高校を卒業しても没交渉にはならず、静雄が臨也の部屋に押し掛けたり、臨也が静雄の部屋に侵入したりということはずっと続いていた、ということが挙げられる。
 互いの住居に赴く理由は、相手を殴るためだったり嫌がらせを仕込むためだったりしたのだが、ともかく喧嘩し合いながらも空間を共有し、時にはなりゆきで一緒に食事をすることもある。そんな関係が高校卒業以来、ずっと続いていた。
 そうして家族を除けば誰よりも近い距離で二人が過ごしていたある日、静雄が仕事でへまをしてひどくしょぼくれた気分で帰宅したら、部屋の中にノミ蟲が居たのだ。
 一体いつから居たのか、春先のまだ肌寒い日だったのに、臨也がエアコンとこたつを併用していたせいで、部屋の中は上着など要らないほどに温かかった。
 そんな明るく温かな部屋の真ん中で、臨也が携帯電話片手に「おかえり」と悪戯に笑った。その瞬間に、静雄は気付いてしまったのである。
 自分にはノミ蟲が居ること。
 そして、これから先の人生にもノミ蟲が居なければならないことに。
 それがどんな天啓だったのかは未だによく分からない。
 だが、気付いた後の静雄の行動は早かった。
 不法侵入に対する静雄の怒りを予感してニヤニヤ笑っていた臨也の正面にしゃがみ込み、手を伸ばしてその頭を引き寄せ、唇を奪ったのである。
 その時のことは鮮明に覚えているが、呆然と目を瞠った臨也に「手前が俺のもんだっつー印」と告げたら、途端に臨也は眦を吊り上げて、ぎゃあぎゃあと怒鳴り出した。
 けれど、いつもは白い頬が真っ赤に染まっていたから、静雄は自分の直感が間違っていなかったことを悟って、そのままノミ蟲を全部自分のものにした。
 最初の内は抵抗していたノミ蟲も、途中からは甘くすすり泣くような声で繰り返し人の渾名を呼び、背に両腕を回してすがりついてきたのだから、やはりそれも間違いではなかったはずだと今でも思っている。


 そんなわけで約二ヶ月前、二人の関係性には『空いた時間を一緒に過ごして、時々いやらしいこともする』という項目が加わった。
 もっとも関係性が変わったとはいえ、仲良くなったかというと、それは断じて違う。
 相変わらず喧嘩は多いし、臨也が池袋に足を踏み入れると何とも嫌な感じがして苛々することは変わらない。
 だから、新しい関係が加わっただけで、親しくなったわけではないと静雄は思う。
 ただ、このどうしようもない最低最悪のノミ蟲は静雄のものだったし、静雄もまた、このノミ蟲に所有権を主張されたら否定できない。それだけは曲げようのない真実だった。
 もっとも、臨也がそれをどれだけ理解し、納得しているかは定かではなかったが。
(でもまあ、合鍵も寄越したし、触っても前より怒らなくなったし)
 少しずつ進歩しているのではないか、と静雄は考える。
 合鍵については「毎回ドアを壊されたらたまらない」という憎まれ口が付いていたし、少し強引に抱き寄せれば何かしらの罵詈雑言は降ってくるが、拒絶されている感じはない。
 だったら、やっぱりこれも正しいのだろう、というのが静雄の判断だった。
(けど、性格悪ぃし、素直じゃねぇし、ナイフはぶん回すし、ぴょんぴょん跳ねるし……。何でこいつなんだろうな?)
 艶のある黒髪は撫でても撫でても、さらさらと元に戻ってしまう。
 それが残念なような惜しいような気分で、静雄は何度も何度も触る。
 なのに臨也が起きないのは、それだけ眠りが深いからだろう。朝電話した時にひどく寝ぼけている様子だったことと、午後三時くらいまで人の来訪にも気付かずに眠っていたことを考え合わせれば、やはり疲れているのに違いない。
 そこを強引に貪ってしまったのは悪かったかな、と小さな反省が静雄の胸をかすめる。
(でも一回しかしてねぇし)
 それなりに時間をかけて楽しんだが、身体を離した時には臨也が殆ど眠りかけていたため、第2ラウンドは諦めてそのまま眠らせてやった。そのことには感謝してもらってもいいのではないか、と思う。
 加えて、臨也も十分に気持ち良さそうだった。甘くすすり泣き、細い腰をいやらしく揺らしながら何度も何度も静雄を呼んで、二度、三度と果てていたのだから、文句はないだろう、と思うのだが、一方でそれは無理だろうなとも静雄は冷めた思考で考える。
 そもそも臨也は気持ち良かったと素直に認めることなどしないし──これまで何度も肉体的な刺激に対する生理的な反射反応だと言われている──、昼間に不用意に盛ることも怒る。
 その辺を考え合わせれば、目が覚めた途端、またぎゃあぎゃあと怒り出すのは最早確定だった。
(こんな面倒な奴なのにな)
 それでも自分の人生には、このノミ蟲が必要なのだと強く思う。
 もともと静雄の世界にはあまり多くの人はいないが、折原臨也というその中心を占める人間が居なくなったら、世界は色を失うだろうという強い確信がある。
 対する臨也の方がどうであるのかは知らない。
 だが、人類ラブとかいう寝言を叫びながら、静雄だけは固有名詞を挙げて嫌いだと言うのだ。おそらくその大嫌いな相手が居なくなったら、せいせいすると言いながらもきっと寂しく物足りないだろう。
 或いは、そうあって欲しいと静雄が思っているだけかもしれなかったが。
 そんなことをとりとめもなく考えながら、眠り続ける臨也をじっと見つめているうち、その目元に落ちる睫毛の影が意外なほど濃いことに静雄は気付く。
「……こんな顔してたんだな、こいつ」
 臨也が耳にしたら今更だと怒るような台詞を小さく小さく呟いて、顎が細くとがった卵型の輪郭を指先でなぞる。
 印象的な目を閉じているせいか、時折見せる禍々しさが嘘のように眠る臨也の顔は端正で穏やかだった。
 眉は細く形が整い、鼻も目も口も綺麗な形のパーツが絶妙なバランスで配置されている。
 洗面台にあれこれとローションだの何だのを並べているだけあって、同じ男とは思えないくらい肌も綺麗で、ゆで卵のような肌というのはこういうことを言うんだろうな、と思う。
 起きていれば、特に悪巧みをしている時には男っぽい表情を見せることも多いものの、顔立ちそのものには男くささはあまりない。かといって女っぽいわけでもなく、性別を見間違えることはない辺りは、静雄の弟の幽に共通しているかもしれなかった。
 顔の輪郭を指先で何度かなぞり終え、次に眉、鼻、唇とたどってみると、穏やかに眠っていた臨也がうるさげに顔をしかめる。
(あ、なんか面白ぇ)
 ちょっとでも反応があることが楽しくなって頬をつついてみれば、臨也はむずかるように小さな声をあげて静雄の手を払った。
 それでも静雄が懲りることなく、薄くて形の良い耳の輪郭をなぞり、前髪をかき上げて白い額を全開にし、と好き勝手やっていると、不快感もあらわにもぞもぞと顔を左右に動かしていた臨也が、とうとうたまりかねたように目を開いた。
「──うるさい! なんで安眠妨害するわけ!?」
 寝起きのややぼやけて潤んだ瞳が、静雄をきつく睨んでくる。
 それに心の中で、俺がつまらないからに決まってんだろと返しながら、静雄は臨也の唇を自分の唇で塞ぎ、反射的に抵抗しようとするのを体重をかけて抑え込んで、ひどく甘く感じられる口腔をたっぷりと堪能する。
 そして唇を離し、見下ろせば、目元をうっすら染めたノミ蟲が睨み上げてきて、ひどく満足した。
「な、にすんの……っ」
 何、と問われても、キスをしたかったからだとしか答えようがない。
 臨也が眠っている間はしようと思わないのだが、目覚めて、その目で睨まれた途端、衝動が沸き起こるのだ。
 おそらくは十年近くノミ蟲と喧嘩をし続けてきたせいで、静雄の性衝動は狂ってしまったのだろう。毒を含んだニヤニヤ笑いや、怒りを含んだきついまなざしを向けられると、否も応もなくこのノミ蟲をとっ捕まえて貪り食いたくなるのである。
 だが、さすがにそれを口にしたら臨也が怒り狂うだろうことは見当が付いたから、静雄は口を閉ざして、先程も散々に触れた臨也の髪や頬をゆっくりと撫でる。
 すると臨也のつり上がっていた眉が徐々に困惑するように下がり、訳が分からないというように静雄を見つめた。
「何なのシズちゃん……」
「別に」
 困り果てたノミ蟲というのも新鮮で、静雄は小さく笑みを浮かべながら、薄い唇に触れるだけのキスをする。
 そして、至近距離で臨也の目を見つめた。
「なあ、今日、雨降ってんの知ってるか?」
「……起きてから今まで、窓の外を見る暇があったと思う?」
「いいや。それでな、俺は傘を持ってねぇんだよ。池袋を出た時は、また降ってなかったし」
「……ビニール傘なんて、近くのコンビニでも売ってるけど」
「天気予報じゃ、雨は夜には上がるって言ってた」
「……………」
 付き合っている相手の頭の回転が速いというのは便利なものだな、と静雄は思う。
 言葉の駆け引きは得意ではないが、素直ではない言い方をしてもきちんと理解をしてくれるのはとてもありがたい。それを口に出して言う気は未来永劫、なかったが。
「……俺は今日、二週間ぶりの休みなんだけど」
「だから、寝かしておいてやっただろ」
「起きたら食料品の買い出しに行こうと思ってたんだけど」
「プリンも買うなら、荷物持ちくらいしてやってもいいぜ」
「それだと俺の休日は丸々シズちゃんのせいで潰れるんだけど」
「何が不満だ?」
「全部だよ!」
 叫ぶ唇をもう一度、キスで塞ぐ。優しく口腔をなぞってやわらかく舌を絡めた後、名残を惜しむように唇をついばむだけのキスを何回かしてやると、臨也は頬を紅潮させ、随分と甘くなった表情で溜息をついた。
「……ホント、シズちゃんなんか大嫌い。最低。馬鹿。死ね」
「そっくりそのまま返してやるよ」
 聞き慣れた罵詈雑言に静雄は笑い、そしてもう一度、毒ばかりを吐く甘い唇に口接けた。

End.

NEXT >>
<< PREV
<< BACK