01 ミルクティー
うるさい、と浮上した意識が、それが携帯電話の着メロだと認識するまでには、幾らかのタイムラグが必要だった。
目を閉じたまま音がする方に腕を伸ばし、手さぐりで小さな電子機器を探し当てる。
そして、薄く片目だけを開け、相手も確認せずに通話ボタンを押した。
「──はい…」
『遅ぇよ。寝てたのか』
「あー…、うん」
まだ半分眠りに意識の裾野を囚われたまま、臨也はぼんやりと応じる。
すると、電話口の向こうの相手は、続ける言葉に悩むかのように押し黙った。
目を閉じたまま、何だろうな、と臨也は半分寝たまま思う。
仕事が忙しかったんだよ。夜が明けてからやっとベッドに入ったんだよ。
そんな言い訳じみた言葉は、幾らでも言おうと思えば言える。
けれど、言わずとも相手もそんなことは推測しているはずだ。常々、彼のことを馬鹿だと貶(けな)してはいるが、その勘が野生の獣並みに鋭く、論理的な思考も不得意ではないということは誰よりもよく知っている。
とはいえ、半ば眠ったままの思考である。物思いは浮かぶ傍から霧散してゆき、臨也はそのまま深い眠りの中に再度落ちてゆきかける。
と。
『今日はうちに居んのか』
不意に響いた低い声に、一瞬だけ意識が引き戻された。
「……ん…? んー」
『寝てるだろ、手前』
「うん……」
寝てる。それはほぼ事実だったから、臨也は目を閉じたままうなずく。
携帯電話を持つ手の力が緩み、ふわりと取り落としそうになるのを、はっと半ば無意識に掴み直すと、もう一度低い声が響いた。
『まぁいい。その様子じゃ今日は出かける予定ねぇだろ。とりあえず寝とけ』
「ん……」
ぷつりと通話が切れる。
もう殆ど意識はなかったが、寝とけ、と言われた言葉だけは仄かに耳に残り。
その言葉だけを抱いて、臨也は急速に眠りの淵に落ちた。
ほかりと意識が浮上したのは、もう午後を随分と過ぎて、世間一般にはおやつの頃合いだった。
サイドテーブルの時計を確かめ、臨也は起き上がって軽く伸びをする。
睡眠時間はどうにか足りているが、寝付いたのが朝になってからであるため、すっきりしたとは言い難い気分で、肩や首にも凝りを感じる。
明日辺りマッサージにでも行こうかなと考えながらベッドを下り、寝室を出て。
とりあえず水分とカフェインを摂取しようとメゾネット式の階段を降りかけたところで、臨也は目をみはった。
「……シズちゃん?」
「やっと起きたか」
階下のソファーで、見慣れた金髪が寛いだ姿勢で何かの雑誌を広げ、こちらを見上げている。
階段の途中で固まったまま、臨也はその姿を驚きのまなざしで見つめた。
「……何してんの」
「何にも。今日は休みでやることなかったからよ、来てみた」
「はぁ」
何それ、である。
静雄がこの部屋を訪ねてくるのは、決して珍しいことではない。以前から、何かというと臨也を殴るために来襲してきていたのは、池袋の知り合いの誰もが知る事実だ。
にもかかわらず、玄関のドアが壊れていないのは、臨也が先月、本来ならば天敵であるこの相手に合鍵を渡したからだった。
だから、多分、静雄がここに居るのはそれほど驚くことではない。
ないのだが、休日の寝起きにいきなり自分のテリトリーでその姿を発見してしまうことは、いささか心臓に悪かった。
「人が寝てる隙に入り込まないで欲しいんだけど」
「だったら、合鍵なんか渡すんじゃねぇよ」
「うんそうだね。俺が間違ってた。今すぐ返せ」
「ヤなこった」
もうこれは俺のだ、とポケットを抑えながら偉そうに言う根拠は、一体どの辺りにあるのか。
家主が返せと言っているのに、と臨也は眉をしかめながらも、とりあえず階段を下りる。そして、静雄の座るソファーの後ろに立った。
そして、あれ、と首をかしげる。
「ねえシズちゃん。もしかして、さっき電話してきた?」
「何だ、それも覚えてねぇのかよ」
「うん。夢だったのか本当のことだったのか、記憶が曖昧」
「──まあ、完全に寝ぼけてる感じだったからな。俺が電話したのは九時頃だ」
「へえ」
さほど感慨もなく臨也はうなずく。
静雄が休日にしてくる電話など、大して重要性を持つものではない。飯でも食いに行くかという誘いがせいぜいである。
二人の関係が天敵だけでなくなってから幾分経ち、そういうことを臨也の警戒心も学習してしまったのだろう。静雄用に個人設定した着メロでは、最近はもう滅多に起きないし、運よく応答できても会話の内容は殆ど記憶できない。
もし静雄以外からの着信であれば、即座に意識は仕事モードで覚醒するのだが。
「それで、何しに来たの」
「あ? 言っただろ、休みで暇だったって」
「……だからって、ここに来るなんてシズちゃん、どんだけやることないんだよ」
「ノミ蟲の顔でも見ないよりはマシかと思うくらいにだろ」
「あ、そう。じゃあ有料ね。俺の顔を一回見るごとに五百円でいいよ。ワンコインなんて破格だろ」
「手前の顔にそんな価値があるかよ、クソノミ蟲」
「その顔を見に来たんだろ」
「だからって、金払う価値なんざねぇよ。むしろ遥々電車乗って見に来てやった俺に飯奢りやがれ」
「はぁ? 誰も頼んでないだろ。勝手に部屋に入り込んできて、横暴なのもいい加減にしろよ」
「そういう俺に合鍵渡したのは手前だろ」
「だから、返せって言ってる」
「ヤなこった」
ソファーの背もたれを挟んで、二人は黒豹とライオンのように睨み合う。
が、先に放り出したのは臨也だった。
「あー、もういいよ。なんで貴重な休みにシズちゃんの相手で時間の浪費をしなきゃなんないの。馬鹿馬鹿しい」
「そっくりそのまま返してやらぁ」
お互いにつんとそっぽを向いて、臨也は何だかなぁと思いながら、キッチンに向かう。
そしてケトルにミネラルウォーターを注ぎ、コンロにかけてからシンクに軽く体重を預けて、リビング中央の静雄の後ろ姿を見つめた。
(ホント、なんでこんなことになってるんだろ)
およそ二ヶ月前を境に静雄との関係が変わったのは、間違いのない事実だ。
先程の口論は口論にとどまり、互いに獲物を手にすることはないし、臨也はと言えば、まだ部屋着のまま、寝癖すら直してない無防備な姿で静雄の前に立っている。
しかし、かといって仲良くなったかというと、それは違うだろう、と思うのだ。
互いの部屋の中では暴れないという暗黙の了解ができただけで、口喧嘩は毎回だし、路上で出会えば相変わらず派手なチェイスを繰り広げている。
根本的に相性が悪い、というのが今更ながらの臨也の正直な実感だったし、静雄もそう思っているだろう。
───けれど。
臨也は無言のまま、しゅんしゅんと沸き始めた湯の半分をティーポットに注ぎ、温める。
そして残りの湯が完全に沸騰するのを待つ間に、カップを二つ、戸棚から下ろしてティーポットの湯を移し替えた。
空になって湯気を上げるティーポットにミルクティー用の茶葉を多めに入れ、沸騰した湯を勢いよく注いで待つこと五分。
十分に濃く抽出された紅茶を温めたカップに注ぎ、冷蔵庫から取り出したミルクをキツネ色になるまで加え、砂糖を片方には少し、片方にはたっぷり入れる。
そして溜息を一つついてから、物思いを振り切って二つのカップを手に持ち、ソファーの所に戻った。
「はい、シズちゃん」
先程と同じように雑誌のページをめくっている静雄に差し出せば、特に驚いた様子もなく、おう、と静雄は受け取った。
毒物を疑う様子もなく、素直に口をつける姿を横目で見やりながら、臨也はソファーの傍らに立ったまま自分の分のカップを傾ける。
極上のアッサムと低温殺菌乳を使った淹れたてのミルクティーは、香りも高く、コクがあって抜群に美味しい。
だが、それを分けてやったからといって、断じて仲直りではない、というのが臨也の認識だった。
これは単なる一時休戦だ。
どうせすぐ続きが始まるに決まっているが、せっかくの休日を喧嘩だけで費やすのも馬鹿馬鹿しい。それだけの話なのだ。
そんな風に思いながら、熱い茶をすすっていると。
「ごっそさん。美味かった」
「──はぁ?」
ことんと音を立てて静雄がローテーブルにカップを置く。見れば、その中身は綺麗に空だった。
「ちょっと! なに一気飲みしてんのさ!? 人がせっかく淹れてやったのに!!」
「あ? 喉乾いてたからに決まってんだろ。お前が寝てる間に冷蔵庫あさるほど、俺は無神経じゃねぇよ」
「だったらペットボトルでも買ってこいよ!」
「手前がこんな時間まで寝てると思わなかったんだよ」
「だからって、なんで馬鹿正直に……!」
じっとしていたのか、と言いかけて、それは自爆だと気付き臨也は口をつぐむ。
いつから来ていたのか知らないが、臨也を起こしもせず、飲み物をあさることも買いに行くこともせず、ずっとここに居たなんて。
本当に馬鹿ではないのか、と思いながら目の前の相手を睨む。
すると、静雄は不意に眉をしかめた。
「手前なぁ、そういう顔するんじゃねぇよ」
「……そういう、って?」
「そういう顔だ」
馬鹿、という乱暴な言葉と共に、突然伸びてきた静雄の左手にカップを奪われ、右手に後頭部を引き寄せられて唇を奪われる。
驚き、反射的に逃れようと突っぱねたが、静雄の力に敵うわけがない。
存分に口腔を嬲られ、いいように舌を吸われ、とどめとばかりに下唇を甘噛みされて、やっと解放された頃には、臨也の息は完全に上がってしまっていた。
「な、にすんの……!」
肺活量には自信があるのに、静雄には到底敵わない。平然と息をしている相手が余計に悔しくて睨みつければ、静雄は呆れたような目をして、臨也の前髪をくしゃりと撫で上げた。
「だから、そういう顔すんなっつってんだよ。煽んな」
「……っ、睨まれて興奮するなんて、シズちゃんはおかしい!」
「あ? 何言ってんだ。手前のムカつく顔をわざわざ見に来ちまうくらいなんだから、当たり前だろ」
いい加減に気付け、とどこか笑いを含んだ声で告げられると同時に、再び頭を引き寄せられる。
今度は先程よりも幾分優しく、その分長く翻弄されて、徐々に臨也の身体から力が抜けていく。
すると、それを鋭く感じ取ったのだろう。後頭部に充てられていた静雄の手が離れ、臨也の腰に回される。そして、え、っと思った瞬間には、臨也の身体はソファーの背もたれを乗り越える形で、静雄の膝の上に横抱きにされるように落ちていた。
「──っ、シズっ……ん…っ」
こちらの意思をまるで無視した行動に抗議した声は、再び貪るようなキスに封じ込められる。
何度も角度を変えて唇を合わせられ、息苦しさと気持ち良さで訳が分からなくなり、もう抵抗する気も失せた頃、やっと静雄は臨也を離して至近距離から目を覗き込んだ。
「手前が起きるまで待っててやってたんだ。御褒美くらいもらってもいいだろ?」
「……なにが御褒美だよ……」
この馬鹿犬、とぐったりとしながら臨也は心の中で呟く。
誰も来いなんて言ってないし、待てとも言っていない。なのに勝手に押しかけて待った挙句、襲いかかってくるなんて駄犬も良い所ではないか。
だが、首筋に鼻を突っ込んで匂いを確かめ、がぶがぶと噛み付いてくる大型の馬鹿犬を制するだけの気力は、もう臨也には残っておらず。
「ホント、シズちゃんって最悪……」
せめてベッドまで移動してよね、と溜息交じりに要求して。
静雄の顔を両手で掴み、噛み付くようなキスをし返した。
End.
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